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2024年(立教187年)8月月次祭講話 ~喜ぶ心、満足する心~

1.感謝の心、喜ぶ心
 ただいまは8月の月次祭を賑やかにつとめさせていただきました。本当に暑いところ、なんとエアコンが1台故障してしまいました。本当にどうなるかと思いましたけれど、もう1台でも生きていたのでなんとかなっております。むしろこういう時こそ、普段のエアコンの有難さをしっかりと御礼を申しあげましょう。エアコンのお陰で涼しいということを考えたら、エアコンにも感謝ができる。そういう思いでひとつ、エアコンの故障も喜んで受けとめさせていただきましょう。

 テレビではオリンピックをやっています。私はオリンピックはまぁ別にいいや、と思っていたんですけれど、皆さんがんばってメダルを取った、入賞したということを聞きますと、さすがに心嬉しくなりまして、ついつい観てしまいます。その時に気が付いたんです。例えば金メダル・銀メダル・銅メダルを取った人たちが、なんて言っているかというと、「もう本当に人生で一番うれしい、こんなに今までうれしかったことはない」と言う。ですけれど、必ず加えて、「皆さんのお陰で今日まで来られました」と皆言うんです。両親のお陰、コーチのお陰、というようなことを皆言っている。
 聞いていてこちらも気分が良くなるのは、結局メダルを取れた人ですら、私が取ったんだ、どうだすごいだろう、という人は一人もいない。皆周りに感謝して喜んでいる。これがきっと私たちの気持ち、心を打つんだと思うんです。
 例えば宝くじで一億円当たって喜んでいる人に対して私たちは別に感動はしない。オリンピックのように喜びの中に感謝があるということ、これが皆さんを感動させるんだと思うんです。
 おそらくそれまでは、面と向かって親に対して「お父さんお母さんありがとう」なんて言ったことない選手たちが、テレビの画面で「お父さんお母さんありがとう」と言う。これがやはり、皆さんを感動させるのではないかな、と思います。
 おさしづに、喜ぶ心ということについて、こういうおさしづがあります。

「皆寄り合うて、喜ぶ心を以てすれば、神は十分守護するとさしづして置く。」
(明治三十年十一月二十日)

 「皆寄り合うて」、集まって、「喜ぶ心を以てすれば」、どんなことでも喜ぶ心をもって何かをすれば、神は十分に守護をするとさしづする、とこういう風におっしゃっています。
 だから自分だけではなくて楽しいことは皆で集まって喜び合う。それを見た神様が、それであれば、皆が喜ぶ心をもってすれば、神は十分に守護をする。そういう風に喜ぶという心が、先ほど言ったように、宝くじに当たって喜ぶというのとは違うんです。努力をして、またその努力をさせてくれた環境、ご両親ですとか、あるいは社会ですとか、あるいは学校ですとか、そういう勉強をさせてもらうということに関しての感謝があって、その感謝の心をもって喜ぶということであれば、神は守護をするとおっしゃっています。

2.満足の心
 そして喜んだ上で満足をする。その満足についてもこういうおさしづがあります。

「満足というものは、あちらでも喜ぶ、こちらでも喜ぶ。喜ぶ理は天の理に適(かな)う。適うから盛ん。」
(明治三十三年七月十四日)

 どんなことがあっても満足をする、喜んでいく。その人が今、自分の境遇を満足して喜んでいれば、あちらへ行っても喜ぶことができる、またあちらを喜ばせることができる。こちらでも皆を喜ばせることができる。喜ぶということは天の理である。天の理だから、かなう。「適うから盛ん。」とおっしゃるんです。
 喜んで満足して、皆さんを喜ばせていけば、天の理に適う。天の理に適えば盛んになるんだ、と。その人の周りは盛んになる。人が集まってくる。お店でもどんどん流行ってくる。それを文句たらたらで物を売ってたって誰も喜ばないから誰も寄ってこない。自分が心から喜んで満足する、この大元は神様から借りているというこの身体でしょう。この健康な身体を借りている。暑いからと言って汗が出る。こんな健康な身体をお借りしているという、これがまず喜ぶ心。喜んでいるから、それ以外のことがあっても、こんな元気な身体を貸していただいていているんだから、自分は不足しない。満足です。エアコンの一台くらい壊れたって私は汗が出てくるのが満足です、ありがたい。
 こういう風に天の理に適えば、これは盛んになるんだ、と納得をするから神様は助けてくださる。こういうことでどんなことにでも喜んで、満足する。これをぜひ今月の一つの生活の指針として暮らしていただきたいと思います。

3.出版について
 ところで私は本を出版しました。今日皆さんに一冊ずつ差しあげます。「元の理とみかぐらうた」という本です。これ本当に天理教のことばかりなんですが、最初の「はじめに」というところと後ろの「あとがきに代えて」という、ぜひそこを読んで欲しいんですが、なぜこの本を書いたか、ということが書いてあります。
 しかもこの本は普通の出版社から出したんです。天理教の道友社ではなく、普通の出版社から出しました。その出版社の編集者がこの本を読んで、天理教ってすごい教えですね、とおっしゃっていました。それで天理へ帰りたいと言うので来月おぢばを案内しますけれど、まったくの未信者でもこれ、天理教のみかぐらうたと元の理が書いてありますけれど、これを読んで本当にすごい教えですね、と。また、何よりもおだやかな、非常に押しつけがましくない教えですね、ということを言っておりました。
 今日のみかぐらうたにもありましたけれど、「むりにこいとハいはんでな いづれだん/\つきくるで」というお言葉もあります。来ない人に、来たくない人に無理に来いなんて言わない。ただ段々についてくるようになるから、とそういう教えであるとあります。私はあとがきのところで、「本書はある程度天理教を信仰している方でないと理解が難しい内容である。しかし、元の理を世界中の人に伝えたいと考え、未熟をかえりみず、あえて出版することとした。」と書きました。つまり元の理というのは天理教の道友社に行かないと買えないけど、この元の理というのは人類普遍の真理ですから、一般の出版社で出すことに意味があるんだ、ということで出しました。
 それで早速色々あちこちから注文が来ております。そして来月の陽気にも宣伝が出ることになりました。そんなことで私が常々思っていた、この教えは元の理という、元始まりの元の理の、この世はどろ海であったというところから始まる、そこから人間を創り世界を創り、宇宙を創ってきた。というその壮大な創世記で、今日踊っていたみかぐらうたに全部入っているんです。だからそのみかぐらうたをしっかり理解すれば、元の理がわかるという意味で書かせてもらいました。
 従来の天理教の先生方の立派な本もいっぱい出ていますけれど、どうも何となく私は納得できなかったので、今回あえて出させてもらいました。天理教の中枢の方々にもお送りしてありますけれど、また来月、どんな批評が出てくるか楽しみにしております。まず日帝分教会の信者さんに差しあげる、これが第一号です。まだどなたにも差しあげていません。この教会の方々にまず真っ先に読んでいただきたいと思います。表現難しいようですけれど、やさしく書いたつもりです。

4.おつとめの意味
 「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」というのは21回あるんです。私はあの「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」というのは本当に嫌だった。自分が悪しきを払ってどうか神様私を助けてください、というような思いだった。
 ところがある時、気が付いた。先ほど諭達にもありましたけど、人助けたら我が身助かるというのがこの教えなんですね天理教は。助かるためには人を助けなければだめだ。その人を助けると神様が上から見ていて、自分を助けてくれる。人を助けたら我が身助かるという。そうすると「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」というのは自分を助けてくださいではなくて、誰か今病んでいる人、今苦しんでいる人を頭に浮かべて、どうか神様あの人の悪しきを払って助けてあげてくださいとして21回拝む。親であれば子どものために祈る。子であれば親のために祈る。夫であれば妻のために祈る。妻であれば夫のために祈る。つまり人のため、兄弟のため、他人のことを21回神様にお願いする。ああそうか、と初めて納得ができて今は「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」が抵抗なくできるようになった。
 常に今病んでいる人、苦しんでいる人を頭に浮かべて、神様どうかあの人を助けてあげてくださいと。特に人のために祈るとおつとめがしやすいんです。それを実は分からなくてついつい自分のことばかり祈っていた。というそんなシンプルなことも私たちは分かっていなかったということが中に書いてあります。これはどういう意味なのか、ということが。

5.信仰というもの
 ということでこれをしっかり読んでいただいて、普段しているおつとめがどれだけありがたいことなのか、どれだけ自分のためになるのか、どれだけ世のためになるのかということをおわかりいただきたい。
 未熟な者が書いた本なので、この本をたたき台にして、読者の皆さんが「これ違うよ」と言って次の新しい解釈をする。これこそが実は信仰というものなんです。言われたことだけをしていてはだめ。教理を自分の心でしっかりと捉えて、神様はこういう時にどうされるんだろう、どう思うんだろうということを自分で考えた上で神様にお願いをする。これが信仰です。人に言われたとおりにやったって信仰じゃない。自分自身が自らの思いで神様と向かい合って、「神様、こういう時にどうすればいいんですか」と聞くと必ず神様は答えてくれます。本気で神様にお願いすれば。
 今まで、何となく十二下り長くて早く終わらないかなあと思うこともあったと思いますが、この本をしっかりと読んでいただければ、今まで流していたおうたの一つひとつを自分の心でしっかりと捉えられるようになります。そうかこれはこういうことなのかと、人のためにおつとめをしているんだということが分かります。皆さん、いくら年を取ったって、足腰が立たなくなったって、祈りはできます。おつとめはできるから、どうか人のために祈ってください。そうするとそれを見て神様が、まだお前は世の中に必要だということで生かしてくれます。

 本当に暑くて私もまったく出るのが嫌で、旅行から帰ってきてから十日くらいまったく外に出ないので、さっき久しぶりにひげをそりました。家を出るのが嫌になるくらいの暑さですけれど、そんな中、今日は新しい方もお出でになっているので、直会楽しく過ごしていただきたいと思います。暑いですけれど一か月またがんばってください。

 どうもありがとうございました。

2024年09月23日

2024年(立教187年)7月中元祭講話 ~八つのほこりと心の理~

1.八つのほこり
 今日は、天理教の中で、日常的に生活する際に一番大切なものとして、「八つのほこり」というものがありますので、これについてお話しましょう。
 我々は毎日毎日、八つのほこりを積んでしまうので、それを毎日はらいましょう、毎日はらっていれば心は常に明るくて陽気に暮らせるんだけれど、それがついついほこりが溜まってしまうと「悪しき」ということになって、病とか色々な事情を見せられることになる。皆さんご承知かと思いますがもう一度思い出してください。

「をしい、ほしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」

 「をしい」というのは、神様から与えられたものを大事にするのは良いんですけれど、人に出し惜しみをする、出さなきゃいけないことを出し惜しみする。あるいは働かなければいけないのに身惜しみをする。これが「をしい」という心。
 次に「ほしい」という心。自分に持っていないのに、自分にあたわっていないのに人の持っているものを欲しいと思う心。
「かわい」。人様のお子さんをかわいいというのは良いですけれど、自分の子だけかわいい、あるいは自分だけかわいい、これがだめです。人のことをかわいがるのは良いけれど、自分の家族や自分だけかわいがるのはいけない。
 それから「にくい」。にくいというのは心の中で誰かを憎んでしまう。憎む心というのはだめです。
 「うらみ」というのは、心の中にずっと沈んでいきます。自分がもしかしたら悪いのに、あの人のせいで私はこうなった。それが「うらみ」。
 次に「はらだち」。「はらだち」というのは、まだ心の中に恨みがあったものが張り出したように外に出てきてしまいます。口で言ったり行動で不愉快なことをやること、これが「はらだち」。これは周りの人を不快にします。
 「よく」というのはすべての、自分にあたわった神様からの御守護以上のものを欲しいと思う、それがすべて「よく」です。人にああしてもらいたい、こうしてもらいたいという欲。
 そして、そういう「ほこり」を持つのをやめましょうね、と言われている時に、「私はそんなもの持っていない」と堂々と言い切る、これが「こうまん」です。人間は常にそういう心を持っているから、心を磨かせてもらうという。
 そういうことで「をしい、ほしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」、なかなか覚えにくいんですが簡単なんです。
 「をしい、ほしい」とは物なんです。物の出し惜しみは他人と関係ないから、まだこれは軽い。
 ところが人の物を欲しがるようになると「をしい、ほしい」でちょっと重くなります。
 そして今度は対象が人間になる、「かわい」。そしてかわいいから「にくい」になる。
 それから今度心の中に入ってきて、「うらみ、はらだち」。そしてすべてのものに対してああしてもらいたい、こうしてもらいたい、「よく」。そして私はそんな人間ではありませんという「こうまん」。
 順番から言うと、最後の「こうまん」というのが一番いけない。「をしい、ほしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」。この八つのほこりを毎日朝晩はらいましょう。ああ今日は人の物を欲しがってしまったなあ、もし欲しければ一所懸命働いて、それで自分のお金で買う、自分の努力で買うのは良い。あるいは、100点が欲しいなあと思っても勉強もしないで100点が欲しいというのは、これは「よく」ですね。そういう風に自分が努力をした結果でいただくもの。これが八つのほこり。そういうことを私たちは神様から教えてもらった。

2.聞き分ける
 それをしっかりと毎日毎日はらっていきたいんですが、おさしづにこういうおさしづがあります。

「日々八つ/\のほこりを諭して居る。八つ諭すだけでは襖に描いた絵のようなもの。何遍見ても美し描いたるなあと言うだけではならん。めん/\聞き分けて、心に理を治めにゃならん。」
(明治三十二年七月二十三日)

 毎日神様は八つのほこりを諭してきた。「をしい、ほしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」というのは、はらいなさいよ、と諭してきた。そしてそれを諭すだけではふすまに描いた絵のようなもの。何べん見てもきれいに描いたなあと言うだけではならん。「そういうのなるほどありますよねえ、良いお話ですよねえ」と言っているだけではならん。「めん/\聞き分けて、心に理を治めにゃならん。」面々がきちんと今のお話を聞き分けて、心に治めなければならん。
 面々、きちんと心に治めて、「八つのほこり」を毎日はらっていく。これが実は毎日の「あしきをはろうて」の意味なんです。ついつい知らないうちに、自分の欲って出ちゃうんですね。
 例えば、そこのテーブルにお菓子が置いてあっても、3人の中で2つしかない。そうすると自分は食べたいんだけど我慢していると2人が持っていってしまう。「ああ、私にくれなくて!」。「をしい」のがあって「ほしい」のがあって、そして最後に持っていかれちゃって「うらみ」が立ちます。さらに腹が立ってくる。
 そうではなくて、自分が食べられなくても、皆さんに喜んでいただければ結構、皆さんに食べてもらったら結構、場合によっては私は糖尿だから食べなくて良かった、神様のお陰で私に来なかった、ありがたい。と、喜びに変えることだってできる。そういうことで、毎日毎日しっかりとそういう心の持ち方で暮らしていただきたいと思います。

3.初席
 一昨日、Sさんに別席を運んでいただきました。初席です。初めておぢばに帰って、非常に感動されていました。天理という所に行くのが当たり前になっている我々、私なんか月に2~3回常に帰っているわけですけれど、Sさんが感動したような思いというのはやはり薄れてきている。この感動こそが「元一日」ということなんです。
 皆さん、この教えに人生で初めて深く感動した日があるはず。その日をもう一回思い出してみましょう。私は改めて、Sさんをおぢばにご案内した時に、Sさんが本当に感動し興奮している姿を見て、そうだ私も初めて帰らせてもらった時、それは18歳の時でしたけれど、本当に興奮しました。あの思いで信仰をまた新たにしなければいけない。
そしてちょうど、時あたかも三年千日、教祖140年祭の2年目です。あと1年半しかない。前回もお話をしましたけれど、教祖はひながた50年を通られた。50年も口に言えん道を通った。その内の20年も30年も通れと言うのやない。その内10年通れと言うのでもない。その内の3年だ、と。教祖はたった3年間、教祖の真似をして通ってくれれば、50年通ったように受けとってやろうとおっしゃっている。そしてその3年通ったら、えらいことになるのやで、と教祖はおっしゃっている。
 えらいことになるというのは、どんなに皆さんが、とても無理だろうということもすべて神様がご守護をくださる。このことを信じてあと1年半、お互いにしっかりとつとめさせていただきたいと思います。

 また7月でこんな暑いですけれど、いつも申しあげるように、暑くて汗をかくのも生きていればこそ。死んじゃったら汗なんか出ません。だから汗かいたらありがたい、暑さを感じてありがたい、そしてまたクーラーのある部屋に入れてありがたい。そういう風に、常にどんなことにも感謝して、このまた1か月をお暮しをいただきたいと思います。

 これからまたゆっくりと直会でお話をさせていただきましょう。今月はどうもありがとうございました。

2024年08月03日

2024年(立教187年)6月月次祭講話 ~たった一つの心よりどんな理も出る~

 ただ今は6月の月次祭、思わず暑いので7月と言いそうになりましたけれど、6月の月次祭を無事賑やかにおつとめいただきました。
 少ない人数の中でも、一人ひとりが勇んで、鳴り物なんか特にしっかりと皆で合わせると、おつとめ、手をどりをしている方たちの心を勇ませることができます。自分も勇めば周りも勇むということで、ぜひ人数に関わりなく一人ひとりがつとめを果たして教祖年祭に向かって行っていただきたいと思います。

1.かしものかりもの
 先日、私が弁護した男性が刑務所に行って満期で出てきたので挨拶に来ました。刑務所は非常に健康に良い所で、15㎏も痩せたと言って喜んでおりました。そういう一つひとつ、どんな時でもどんな所でも喜ぶ、ということが神様が喜んでくれる道だと思います。
 そんな中でそのお母さんから電話をいただきました。もう80歳過ぎの方でしたけれど、腰の骨にひびが入って痛くてしょうがない。辛い思いをしているということをおっしゃったので、「痛いというのは生きていればこそですよ。死んじゃえば痛くもなんともないけれど、死んだ方が良い?」と言ったら「いや生きている方が良い」と言う。「だったら痛いのは生きている証拠だと喜んだらどうですか?」と言ったら、こんな話は初めて聞きました、ということだったので、実は私は天理教を信仰していて、この身体は神様からお借りしているものだ、という話をしました。特にあなたの場合は、息子さんが社会に出てきたのだから、激励して正しい道をまたちゃんと歩んでもらえるような、そういうお仕事がありますよ、という話をしたら、本当に喜んでこんな話は初めて聞きましたということでした。身体を神様から借りているとか、痛いというのは神様から何かの手紙、メッセージを下さっているんだということについて、知らない方が多いです。
 私どもは「かしものかりもの」というのは当たり前に思っているけれど、それは神様から身体をお借りしている、あるいは神様からすれば私たちに貸しものだということをお話をくださっているわけですけれど、今日はその「かしものかりもの」ということについて、神様が「ちょっとお前たち違うぞ」ということをお話しくださっているおさしづのことをお話したいと思います。

2.かりものの理
 私たちは、身体は神様からお借りしているもの、魂だけは生き通し、そして心は自由に使ってよろしい。この神様は、神様に反対してもよろしい。しかし親としてお前たちを見捨てないぞ、と。反対するのもかわいいわが子と言ってちゃんと助けてくださる。そんな神様から身体を借りているということに関して当たり前に思っていたけれど、こういうおさしづがあります。

「めん/\かりもの承知。

 みんな借りものだということは承知しているだろう。

「めん/\かりもの承知。かりもの分かっても、かりものの理自由分からねば何もならん。」明治二十年十月十二日(陰暦八月二十六日)

 とおっしゃるんですね。私たちは身体を借りていることは分かっている。しかしかりもの分かっても、かりものの理自由、ということが分からねば何もならん、ということなんですね。
 じゃあ自由ってなんだ、と言うと、おさしづがあります。

「人間というものは、皆神のかしもの。いかなる理も聞かすから、聞き分け。心の誠、自由自在と。自由自在何処にもあらせん、誠の心にあるのや。」 (明治二十一年二月十五日)
 
 どういうことかと言うと、人間は皆、神の「かしものかりもの」だけれど、その「かしものかりもの」という理は心の誠をいう。その心の誠で身体が自由自在になるのだとおっしゃる。「いかなる理も聞かすから、聞き分け。心の誠、自由自在と。」心の誠があればこその自由自在で、身体を借りていても、これが自由にならない人がいっぱいいます。なぜかと言うと、心の誠を使っていないから。

3.たった一つの心
 もう一つ分かりやすいおさしづがあります。

「人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る。(明治二十二年二月十四日)

 人間の身体は借りもので、心一つがお前たちの、自分のものだ。ただ、たった一つの心からどんな理も出てくる。そのたった一つの理というのが誠の心なんです。ですから私たちは身体を借りて感謝はしているけれど、この身体が自由に動くようになるには、誠の心を持たねばいかんよ、と言っているわけです。誠の心だけが自由自在になるもとだ。誠の心というのは簡単です、人を助ける心。人に喜んでもらう心。その心を持てばこの借りている身体は自由になる。
 皆さん身体を神様から借りているから、私も朝晩神様ありがとうございます、神様の言うことを聞きますから長く貸してください、とお願いをしているけれど、しかしそれはお願いしているだけであって、神様はこの身体が自由自在に使えるのはお前たちの心次第だぞ、とおっしゃる。お前たちが心の誠を使えば、それが自由自在になるのだ、と。そういう風に、身体は借りていても、この心の誠でこそ自由自在になるんだという、これが分からねばどうにもならん。改めておさしづを読ませていただいて、いつも神様に身体をありがとうございますと言ってはいるけれど、もっと自由に使わせていただくためには誠の心を使う。誠の心というのは神様が喜ぶ、人のために使う心、人に助かってもらう心、人に喜んでもらう心。
 人というのは、自分以外は全部人(他人)ですよ。いつも言うけれど、妻も人、夫も人、子どもも人、おじいさんおばあさんも人、孫も人。これを何とか自分が喜ばせてあげようという心の誠を持つことによって、自分の身体が自由に使えるんだよ、ということを教えていただいています。
 あそこに140年祭の目標が貼ってありますが、真ん中に「かしものかりものの教えを伝えよう」というのがある。「かしものかりもの」という、単に身体を借りているだけではなくて、この借りている身体が自由自在に使えるには、誠の心一つだ、と。これを皆さんに伝えていきましょう。だから皆さん、互いに立て合いましょう、互いに助け合いましょう。これがこの教えの神髄なんです。天理教の基本の教理が「かしものかりもの」です。親である神様から借りている。ただそれは「かしものかりもの」だけれど、その借りている身体を自由に使うためにはお前たちの心一つだぞ、と言われている。ここを今月改めてしっかりと心に刻み、心一つ、心の誠、誠の心を使っていきましょう。

4.誠の心
 そして、そこにある額、あれ「誠」と書いてあるんです。二代真柱様の字で。つまり神様に喜んでいただくという心遣い、誠の心です。皆さんようぼくになるといただけるおかきさげにありますね。

「誠の心と言えば、一寸には弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものは無い。誠一つが天の理。」

 誠といえばちょっとにはみんな弱いもののように思うだろう、しかし誠より堅き長きものは無い。誠一つが天の理。つまり誠の心が神様の心に添う心だと、こういうおかきさげです。ようぼくの方は皆さんちゃんともらっているのですが、忘れているだけ。改めて今月は誠の心を使わせてもらって、身体を自由に使わせてもらうということと、今病んでいる人や身体が痛い痛いと言っている人に対して、自由自在になるには誠の心、人を助ける心を少し使ってください、とお伝えしていきましょう。これがお助けになります。

 これからさらに暑くなりますけれど、皆さん身体に気を付けて大事に、しかし毎日陽気に明るい心を持ってこの一か月お過ごしいただきたいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2024年08月03日

2024年(立教187年)5月月次祭講話 ~今、世界で「借りもの」の思想~

1.おつとめ
 ただいまは5月の月次祭、賑やかにおつとめいただきました。誠にありがとうございました。
 このおつとめは、世界をおさめる道、世界たすけるつとめと言いまして、このおつとめで世界のおさまりを願う、あるいは人々の健康を願うという非常に大切なおつとめです。教祖は、「大切なつとめやで」「一つ手の振り方間違うても、宜敷ない。」とおっしゃっています。今日いくつも間違えましたけれど、これを間違えないようにやらせていただく。そうすると心の中から本当に喜びが湧いてくる。これがおつとめの意味です。
 そしてまたおつとめは、この一つひとつがすべて神様の、人間に伝えたいという思いがこもった歌ですので、それをしっかりと歌いながら、踊りながら身に付けていくことによって、神様の思いが身に付くということです。ぜひおつとめをしっかりとお互いつとめさせていただきたいと思います。

2.レンタルの思想
 最近ある本を読みました。「所有論」という厚い本で、哲学者の鷲田清一さんという方が書かれた本です。思わず最後まで読み切ってしまいました。実は聞いたことがあるような話ばかりが出てくるわけです。どういうことかと言いますと、所有論というのは、その人は哲学者ですけれど、自分のものというのは一体なんなんだ、ということなんです。
 自分のものというのは、自由に処分ができるとか、あるいは人に売れるとか、ようするに自分が自由にできるというのが自分のものというものだろうと。そうすると例えば財産、お金だとか物だとかの財産も、これは果たして自分のものだと言えるのかという深いお話をされるわけです。
 たまたま財産があってもこれを処分したくても、例えば自分が死んでしまったらこの財産は自分のものではなくなってしまう。そうするとそれをもらった人がまた自分のものだと思う。しかしその品物そのものは誰も結局、持っている人が代わるだけで処分できていないじゃないか、というところから始まりまして、自分のものというのは、じゃあこの身体というのは一体自分のものなのか、という話につながるわけです。
 自分のものというのは自由に処分ができる、しかし長生きすることもできない、あるいは早く死ぬこともできない。中には自分で命を絶とうとする方もいますけれど、百発百中で亡くなるかというと果たしてそれも分からない。そうすると自分のものといっても、自分の身体さえも処分できないじゃないかという風に言うわけです。そうするとこれは誰かから借りているものという風に考えるしかないじゃないか、と、その哲学者は言うわけです。つまりこの身体すら自分のものではなくて、誰かからの借りものなんだというのがその本の結論なんです。
 あと一つ、これは東京大学の宇宙物理学者の松井孝典さんという先生なんですが、この先生は天理に来たことがある。その先生が最近亡くなりました。最後に書かれた本が、「レンタルの思想」、つまり借りものの思想というわけですね。
 なぜこの地球がこんなおかしくなったかというと、人間が地面に埋まっている石油だの石炭だのを取り出して、地球を暖かくして温暖化してしまって、そのために南極・北極の氷が溶けて、氷河がもう何千年も前から凍っていたものが全部溶けだして、千年前二千年前に閉じ込めたメタンガスが今吹き出ている。これではまたまた地球が暖かくなってしまう、というようなことを松井先生がおっしゃっている。
 これは、それぞれの国や人間が掘ったものは、俺が掘ったんだから俺のものだという風に思っているからじゃないか。これは決して自分のものではなくて、地球からお借りしていると考えたらどうなんだ。借りたならばどこかで返さなくてはいけない。そうすることでバランスがとれるんだ。このレンタルの思想、借りものの思想というものを持たない限り、この地球はもう永続しないんだということをおっしゃった。

3.かしものかりもの
 その話を聞いて、先ほど申しあげたように私はスラスラ読めた。それは当たり前です。187年も前から教祖は、この地球やこの人間の身体は神の貸しものでお前たちは神の借りものだということを教えられていた。「かしものかりものの教え」というのは天理教の基本教理です。身体が自分のものだったら自分で自由に処分できるはずだけれど、自分で処分できないじゃないか、長生きしたくてもできないじゃないか。こんなことで私たちは「かしものかりもの」ということをいつもしっかりと聞いていました。
 その「かしものかりもの」ということをしっかりと聞いていたけれど、なんとなくうわの空だった。書いてあっても、「かしものかりものの教え」って別に珍しいとも思わない。ところが天理教を知らない人がこの地球やこの人間がおかしくなっているのをただすにはどうしたらいいか、と考え、これはすべて何かから、彼らは哲学者ですから神様からとは言わない、何かから借りていると言うしかないんじゃないか。地球から借りていると言うしかないんじゃないか。あるいは何かからこの身体は借りているという、この身体すら私たちは預かりものとして考えなければいけないんじゃないかということを、今頃になって哲学者が言っている。
 しかし、教祖や私たち天理教の人間は常に、身体もそうですけれど、自分の家内や自分の亭主も借りもの、自分の子どもも借りもの、場合によっては自分の周りに出てくる人間、嫁舅も含めて隣の人も全部神様がお前にふさわしい人間だとして貸してくださったと考えたならば、例えば自分の周りに嫌な人、変な人が来た時には、「ああ自分もああいう心遣いをしているんだな」と。これは「みなせかいのむねのうちかがみのごとくうつるなり」とみかぐらうたにありましたね。あれはどういうことかと言いますと、自分の身の周り、自分が見ているのは自分の鏡だと。自分が映っているんだ、という意味なんです。だから嫌な人がいるというのは自分が嫌な人なんです。私の周りは良い人ばかりという時は、自分が良い人になっている。そういう風に考える。これは自分の周囲は全部「かしものかりもの」という意味。それを今、哲学者が人間の身体も借りものと考えるべきだ、地球の色々な資源も全部借りものと考えるべきだ、そうしないとこの地球が、人間が持たないということを言っている。

4.私たちの責任
 今頃世界でそのことに気が付いている人たちがいる一方、私たちはもっと早くからこの教えの一番最初、別席のお話を聞いた時からこの基本教理は「かしものかりもの」という風に聞いています。だとしたら、それをしっかりと私たちがおさめていないから、この地球がおかしくなっている。人間関係がおかしくなっていると思えたなら、それは神様の話を聞いた私たちがまず最初に実践してくれ、と神様がおっしゃっているんだ、ということがわかるわけです。私たちはそういうように身体を借りているんだから大切に使わせてもらう。そしてその身体というのは人のために使わせてもらう。人を喜ばせるために使わせてもらう。こういう思いになったら、陽気ぐらしになるとすでに神様は教えてくださっている。それを遅まきながら今、哲学者が言うとその本が売れる。私も買ってしまいました。それは神様の話を、哲学者がどんな風に言うのかなあと思って買ったわけですけれど、この神様の「かしものかりものの教え」を超えてはいません。
 私たちは、本当に真理として神様から身体を借りていることを知っているから、毎日夜寝る時はこの身体を一日貸していただいてありがとうございました、そして自分の身の周りの人たちもこんな良い人たちを貸してくれてありがとうございました、と感謝していけば、周りが悪くなるはずがないんです。こんな嫌な奴がきてどうのこうのと思っていると、その心が見事に向こうに映ります。それは当然向こうにとっても私は嫌な人になっている。それは陽気ぐらしにはならない。あの人は良い人だなあ、あの人の言っていることは楽しいなあ、あの人のそばに居たいなあ。お互いがそう思った時に陽気ぐらしの世界になるわけです。
 そんなことから、今、世界で声高に言われている、この世界や人間をなんとかしようということの解決策が「かりもの」という思想にあるのだ。これがしっかりと心におさまったなら、私たち人間は幸せになれるんだ、というこういうことを改めて外の人たちから教えられました。本当に、180年前から聞いている私たちは一体何をやっていたんだろうという思いがしております。そんなことからしっかり皆さん、自らの「かしものかりもの」という教え、この天理教の基本教理を、しっかりと改めて身に付けて暮らして幸せになっていただきたいと思います。

5.大人の役目
 先日をびや許しをいただきました方に女の子が産まれました。非常に安産だったということで、写真をみせてもらいました。そういう風に一人ひとりをびや許しをいただきながら健康に育って、だんだん大人になっていく。子どもが大人になれば、親である大人はだんだんその分だけ年取っていくんですけれど、年を取っても親である大人の役目はあります。それは子どもが親孝行をする対象になること。子どもに親孝行してもらうためには、親である大人に長生きしてもらうしかない。いいですか、親がいればこそ子どもは親孝行できる。
 ちょっと身近な話ですけれど、私は旅行に行くとうちの母親が何が好きだろうかと考えて必ずお土産を買ってきました。それを母親は喜んでくれる。その母親が出直してしまったら、持って行ったって喜んでくれる人がいないからしばらく買うのをやめました。今では家内や娘が買っていくと喜んでくれるのでまた買って行こうと思える。喜んでくれる人がいるから買ってきています。つまり、親が生きているだけでも子どもは親孝行ができるんです。ですからもう年だとかなんとか言わないで、しっかりと長生きをして子どもに親孝行してもらえる親になっていただきたいと思います。

 本日はどうもありがとうございました。

2024年08月03日

「お道の家族観」YouTube配信(2024/6/1@深川大教会)

 6月1日深川大教会で開催のようぼく一斉活動日(葛飾支部)にて、会長がプレゼンターとして「お道の家族観 ~親子・夫婦間、LGBT、宗教二世問題等~」というテーマでお話をさせていただきました。
 その模様をYouTubeにて配信していますので、ぜひご覧ください

https://youtu.be/jWuTA_eKmnE

!YouTube視聴上の注意!
 スマホなどで動画視聴をする際は、Wi-Fiを使っての視聴を強くお勧めします。
 通常の通信環境(4GLTEや5G)ですと、多くのデータ通信量が必要となり、契約形態によっては料金が高額となるおそれがありますので、くれぐれもご注意ください。

2024年07月10日

2024年(立教187年)4月教祖誕生祭講話 ~天保9年までの教祖~

1.神がかりになるまでの教祖
 本日は4月12日、先ほど祭文にもお読みしましたけれども、寛政10年(1789年)4月18日、空に五彩の雲たなびく中、教祖中山みき様が前川家にお生まれになりました。その教祖が生まれた日を祝って、今日は誕生祭ということで、いつもと違って教祖にケーキをお供えしてあります。後でおさがりをいただきたいと思います。
 教祖は41歳、天保9年から90歳までの50年間にわたってご苦労をいただいたわけですが、その神がかりになるまでの40年間のお話をさせていただきたいと思います。
 皆さんご承知のとおり、教祖は父を前川半七正信さんとして、三昧田の前川家にお生まれになりました。そして小さい頃から近所の子どもに遊んであげたり、あるいは自分の持っているものを子どもにあげたりということで、本当に近所からも珍しい優しい子だと言われていたわけです。そのうち教祖のその心と働きを感心した方から紹介されて、中山家の善兵衛様の所に嫁がれたわけです。善兵衛様とは27、8歳の歳の差がありますけども、教祖は13歳の時に中山家にお嫁入されました。
 そしてその後は、まだ13歳ですけれども、舅、姑さんによく仕えて、舅さんの髭なんかも剃ってあげたそうです。その他に男のやる荒田起こしまでやったり、色々なことをすべて一人の身で任せられており、16歳、わずか3年後には善兵衛様、舅、姑から家の家計を全部任された。まさに主婦になったわけです。その教祖が16歳で主婦になってからは、中山家は庄屋さんですから作男もいっぱいいる。そして使っているお女中さんもいっぱいいる。そんな中でうまく皆さんの気持ちを立てながら中山家を仕切っておりました。
 そんな中で教祖が神がかりになる前に三つの大きなエピソードがあります。一つは、米泥棒が入った。米泥棒というのは本当に重罪でして、その米泥棒が捕まって皆の前へ引きずり出された時に、教祖はそこの家の御新造さんですから、「貧しいからといってその盗む心が気の毒や」と、盗んだのがけしからんというのではなくて、盗んだ心が気の毒だと言ってその泥棒を許してあげたという逸話があります。
 そしてまた、近所の足達家の長男照之丞さんを預かったときの話です。足達家は何人も子どもが生まれるんだけれども育たない。その足達家の子どもを預かって、中山家で教祖にお育ていただいた。そうしたある時、照之丞さんが病気にかかりました。黒疱瘡といって大変な天然痘です。当時黒疱瘡というのは、かかった人のほとんどが亡くなってしまう。そんな中で教祖は、近所の三島神社に参って一所懸命祈った。そして、預かった子どもをどうしても亡くすわけにはいかないということで、うちの子どもを差しあげるから、それでも足らなければ私の命を差しあげます、と言ってお願いをした結果、照之丞さんは見事に回復なされました。預かり子を自分の子どもや自分の命を捧げてまで助かってもらいたいというその思い、これはまだ神がかりになる前です。その足達家が今の足達神具店です。
 そして三番目は、庄屋さんですから物もらい、今でいう乞食の、赤ん坊を背負った女乞食が、門口に立った。そして気の毒だからその女性に食べ物をあげた。そして帰る時に教祖がちょっと待ちなされや、と言って止めて、あんたにはあげたけれど背中の子どもには何もあげていない、と言って、真っ黒で汚かったと思いますけど、子どもを背中から降ろして教祖自ら自分の乳房を含ませて子どもにお腹いっぱい飲ませてあげたという逸話があります。
 これは皆さん、教祖が神がかりになってからとお思いでしょうけれど、そうじゃないんです。40歳以前の話でして、それほどまでにして人のため、人を救うという、あるいは人に対する思いやりが本当に深い。そしてあと一つ、中山家の作男で働かない作男がいた。いつも怠けている。皆が色々言っても全然怠けて動かない。ところが教祖がその作男に対していつもいつも会うとご苦労さん、ご苦労さんやなあという声をずっと優しくかけておった。そうしたらその作男はある時突然目覚めたかのように働くようになった。全然働かないでいつもいつも朝寝ばかりしている作男に教祖は優しく声をかけてその人間をまっとうな人間にしたという、こういう話もあります。

2.神がかりになった後の教祖
 そんな中で、教祖は元々、元始まりの話で言うといざなみのみこと様の魂をお持ちの方だけれども、ご本人はもちろんそんなことは知らない。そしてそんな中で親神様がそういった人間としての素晴らしい心を見込んで教祖に天保9年10月26日に月日のやしろとして神様が下がったわけです。そういうように教祖は神がかりになる前からも今こうやって皆が聞いてもなるほどなあ、すごいなあと思うような逸話がいくつもあります。そしていよいよ今度はこんな素晴らしい御新造さんが、神がかりになられてからは、突然貧に落ち切れ、立派な家があったり高塀があったり蔵があったりしたのでは難儀する者の気持ちが分からない、貧に落ち切れということで41歳、神がかりになってからどんどんどんどん中山家は落ちぶれていきます。
 そして20年経った時にはほとんどすべてがなくなった。田んぼ、畑までも年切質に出し、何もなくなってしまった。そして来る人も誰もいない。そして神様が天保9年10月26日に、中山家の人たちに対し、今は分からないだろうけれど、20年30年経ったらばなるほどと思う日が来る、ということをおっしゃられた。そこから25年目くらいの時に米4合を持ってお礼に来られた信者さんが一人いた。全部施しつくして、貧に落ち切って、人に笑われそしられて、親類縁者からも縁を切られて、そしてその25年目くらいにようやく4合のお米を持って信者さんが一人来た。しかしその後でも続くわけではありません。まさに神様がおっしゃったように、30年経ってから教祖の話を聞く人間が出てきたわけです。
 そうすると、先ほど申しあげた教祖が神がかりになる前の本当に優しい教祖が、神がかりになってからはとんでもないことになった。教祖伝にもありますけれど、前川家に嫁に来た人間に全部財産を取り払われてしまうなんてことは到底認められないと、親族が集まって怒るわけですが、それも親神様は聞かずに教祖に凛として返事をさせる。それによって親類縁者とはまったく縁が切れてしまいました。中山家の親類というのは、庄屋さんですからいっぱいいたはずです。残っているのは前川家一軒だけ。他の人は全部親戚ではなくなってしまった。縁を切られてしまった。

3.案じることはいらない
 その神がかりになる前の教祖であれば、本来ならばこんなことをしたら皆が困るだろうというところを、神一条のこころで神様の言われるがままにすべての財産を取り払ってしまう。そしてそれも世界、人助けのために取り払ってしまう。そしてそれから50年間のご苦労が始まりましたね。それが50年のひながたということになるんですが、先ほど申しあげたお話は実は神がかりになる前の話でひながたではないんです。そしてその教祖が50年間のひながたの道を通られて、明治20年陰暦1月26日に身を隠された20年後に、こういうおさしづがあります。

「さあ/\皆よう思やんをして掛かれば危ない事は無い。影は見えぬけど、働きの理が見えてある。これは誰の言葉と思うやない。二十年以前にかくれた者やで。なれど、日々働いて居る。案じる事要らんで。勇んで掛かれば十分働く。心配掛けるのやない程に/\。さあ/\もう十分の道がある程に/\。」(明治四十年五月十七日)

 教祖、20年前に身を隠したものだけれど、「なれど、日々働いて居る。案じる事要らんで。勇んで掛かれば十分働く。」とこうおっしゃっているんですね。教祖は姿は見えないけれど、案じることはいらない。そして大事なことは「勇んで掛かれば十分働く。」とおっしゃっているんです。ですからどんなことでも勇んで、喜んで、神様に対して喜んでなんでもやらせていただきます、という思いで何かいただいたら勇んで喜ばせていただく。そして勇んで動けば、十分に働くとおっしゃってくださっています。
 この教祖の40年、神がかりになるまでの優しい素晴らしいお嫁さんが、神がかりになったらむしろこの嫁のお陰で財産がなくなった、ということになるわけですね。そしてその50年経った後に、それだけのことを伏せ込んだから、今度は姿は見えないけれども皆のために十分働いているぞということをおっしゃってくださっている。こんなに心強いことはないと思います。

 神がかりになる前には人間の誰の目から見ても非の打ちどころのない素晴らしい方であったのに、後ではこんなに親類縁者や世間からつらく当たられるようなことをしたという、その教祖のお心に思いを馳せてください。それはひとえに世界を助けるためだったのだということを、どうかこの4月の誕生祭の機会にしっかりと理解してください。
 教祖という方は、最初から最後まで人知を超えたとんでもない存在だった、ということでは決してないんです。少なくとも神がかりになる前の教祖は、間違いなく立派な方ではあったけれど、人間の目から見て理解ができた方なんです。そんな方が、神がかりになった後は、人知を超えてここまで徹底的におやりになったという、この落差の大きさを、私たちはあらためて理解すべきです。
 世界を助けるため、教祖はここまでなされたんだ、しかも監獄に18回も行かれたという、そういう教祖のご苦労のお陰で私たちは今、楽しく明るく生活することができているということ。この4月の誕生祭の時に、改めてそのことに思いを馳せ、そして十分勇んで喜んで、私たちの身の回りを取り巻くすべてのことにかかっていただきたいと思います。

 ようやく暖かくなってきました。体調を壊さないよう、どうかまた1か月お暮しをいただきたいと思います。今月はどうもありがとうございました。

2024年06月23日

2024年(立教187年)3月月次祭神殿講話 ~今の時代の難儀とは~

1.おぢばがえりをしよう
 ただ今は3月の月次祭、平日ということもあって人出も少なかったですが、鳴り物も勇んで陽気におつとめをしていただきました。誠にありがとうございました。
 今、私は大教会の役員として、各教会に巡教させていただいております。その理由は、先ほどの諭達にもありますし、そこに書いてあるように教祖140年祭の活動目標を知って頂くためです。その1つに、三年千日で一千名のおぢばがえり、と書かれています。
 ただ中根は、今25か所くらいになっていまして、実働は20か所くらいですから、そうすると20分の1をやらせてもらう。そうすると一千名の20分の1というと50人ですね、そうすると3年の間に50人というと実はまったく難しくない。毎月1人で行っても48人になるわけなので、それじゃあ神様に申し訳ないということで、私はその倍の100人をやらせてもらおうと思って、一所懸命おぢばがえりをすすめて、私もさせてもらっています。

2.年祭をつとめる意義
 そんな中で年祭をつとめる意義というのは何か、ということですけれど、年祭をつとめるということは、実はご守護をいただく旬であるという意味なんですね。
 それでなんでこれが三年千日なのか、ということで以前何度もお話しておりますけれども、例えば、我々東京の人間ならご存知かと思いますが、7月20日頃に行われるほおずき市というものがあります。ほおずき市というのは、別名四万六千日というんです。なんのことかというと、そのほおずき市に1日行けば、観音様、神社その他にですね、四万六千日参ったのと同じご利益をあげるという意味です。まあ三年千日は別にそのご利益といったことではありませんけれど、ただ三年千日というのは教祖のひながたを通る。その50年間ではなくて3年間だけでも通ってくれということなんですが、こういうおさしづがあります。

「五十年の間の道を、まあ五十年三十年も通れと言えばいこまい。二十年も十年も通れと言うのやない。まあ十年の中の三つや。三日の間の道を通ればよいのや。僅か千日の道を通れと言うのや。」
(明治二十二年十一月七日午後十時四十分刻限御話)

 その千日の道を通るとどうなるのかということについては、

「まあ三年の間や。三年経てば、偉い事に成るのやで。三年の道は直きや。」

とこうおっしゃる。その「偉い事」とはなにか。こういうおさしづがあります。

「三年の道通れば、不自由しようにも、難儀しようにもしられやせん。たった三日の間や。」

 いいですか、3年の道を通れば、「不自由しようにも、難儀しようにもしられやせん。たった三日の間や。」とおっしゃられる。3年の間、教祖のひながたを通って歩けば、不自由しようにも難儀しようにもそんなことは決してできないということなんです。

3.ひながたの道とは何か
 そうすると、ひながたの道というのはなにか。ひながたの道の一番最初は、善兵衛様が出直された嘉永6年です。教祖が立教してわずか10年ぐらいの間に母屋をとりこぼち、田地田畑を全部施した。まさに教祖は貧に落ち切ったんですね。そうするとつい天理教の人は、教祖のひながたというと貧乏にならなきゃいけないのか、とか、全部自分の物を売り払って施さなきゃならないのかと思うんですけれど、そんなことじゃないんです。
 なぜかというと教祖は、難儀しなければ、「貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん。」とこうおっしゃるわけです。つまり教祖は、表が、門構え、蔵があるような家では、貧しい人の気持ちが分からない、とおっしゃった。というのも、当時、教祖がご在世中の江戸の末期から明治にかけては、難儀といえば何かといったらお金、物が無いことだったんですね。食べるお米が無いとか、着る物が無いとか、住む家が無いとか、つまり当時の教祖の時代の難儀というのは、実は貧乏だった。だから教祖は全部財産を取り払って、それで自分が率先して貧乏になって、そうして初めて難儀する者の心が分かる、とこれをひながたとして教えてくださった。
 その時代は、今言ったように貧乏が一番悲しかった。辛かった。ところが今は、貧乏といったって飢え死にする人はいません。この日本では。そうすると、日本で何がみんな悩んで苦しんでいるかというと、それは身体の病と心の病なんですよね。本当もうこれだけどんどんどんどん新しい薬が出てきていますから、薬で治る。しかし薬で治ったとしても、病んでいるという辛さは分からない。
 実は今日、ご近所のご主人が出直されたというご挨拶がきました。私はたまたま町内の役をやっているので、その訃報をどうしましょうかと奥様が相談に来られた。つい最近までお元気で、朝なんかも挨拶していたり、駅まで一緒に行ったような方がですね、聞いてみたら実は腎臓のガンで腎臓が片方なかったという。あと色々な所でリンパから含めて身体中に転移して、今月に入ってからは意識がなかったとのことでした。もし私がご主人の生前にそんなことを聞いていれば、何か手助けをさせてもらった、おさづけもさせてもらおうということになったと思いますけれど、何もおっしゃらない。それで出直しました。
 そんなことを一つ見ても、やっぱり病を持っているということは辛いことで、そう簡単に人に言える話ではない。ご自身もどうしようかと思い悩んでおられていたはずなんですね。あるいは仕事が辛い、会社が辛いということで鬱になって勤めに行けないという方もいる。

4.今の時代の難儀
 つまり今の難儀は病、身体の病、心の病だと思います。その難儀に対して教祖は、難儀せねば難儀する者の気持ちが分からん、というわけですから、私たちは風邪を一つひいても、どこか足の先をひっかいても、捻挫しても、もっと病んでいる人がいるということで人を助けるような、人の辛い思いに一緒になるような、これを3年間やってくれとおっしゃっているだけなんです。
 今色々な所で、世界中で、あるいは自分の身近な所でも辛く悩んでいる人がいるだろう、その人たちの同じ気持ちになって、その人たちの気持ちで助けてあげてくれ、この気持ちで3年間通ってくれというだけなんです。貧乏になれなんていうことはおっしゃっていない。難儀する者の心になってくれ、そしてその人を助けてあげてくれ、という、これを3年間続けること、それが3年のひながたの道といことなんですね。
 毎年毎日そう考えていなければ本当はいけないのだけれど、教祖は許してくれまして、50年の内30年20年通れと言うんじゃない、10年でもない、たった3年だけ、その三年千日の間だけ通ってくれと。わずか千日の間や、ということをおっしゃっている。つまり千日、困っている人の気持ちになって、その人たちの心を助けたい、という思いになって3年間通ってくるだけで、「三年の道通れば、不自由しようにも、難儀しようにもしられやせん。たった三日の間や。」という風におっしゃってくださっている。

5.人をたすける心で3年間通る
 もう1年過ぎちゃいました。あと2年間、自分の身の回りや世界で苦しんでいる、悩んでいる人の思いに自分の思いをつなげて、何か自分にできることはないかということを一つでも考えさせてもらう。こういう思いでこの3年間を通れ、と。これが実はひながたの道を通るということなんですね。
 50年通れと言うんじゃない、たった3年でいいよと教祖が許してくれている。この3年間、人を助ける気持ちになって3年間通ってくれという。せめてこの3年間だけは強欲を出さない、人とけんかをしない、何か言われても決して怒らない。何か言ってくる人はきっと何か辛いことがあるんだろうなあという風に相手の気持ちを慮る。この心を3年間使ってくれということ。もうあと2年しかありませんので、どうかそういう思いになって、残りの2年間をお過ごしいただきたいと思います。

 今日はちょっと寒いですけれども、これから暖かくなって身体も行動しやすくなる。年を取れば身体が動かなくなるのは当たり前です。しかし心と気持ちだけは絶対に年を取らない。心は良いことをしただけどんどん心に徳がたまります。そして言葉だけは優しい言葉をどんどん出していけばどんどん言葉が出るようになります。身体が動かなくても、心と言葉でどうか周りの人を明るく陽気にさせるようにお互い努力をしたいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2024年04月20日

2024年(立教187年)1月春季大祭神殿講話 ~ひながたの心で通る~

 改めて皆さん明けましておめでとうございます。
 日帝分教会の昨年には大変お力添えいただきまして本当にありがとうございました。また今年も一年、三年千日の二年目としてお互い励まし合いながら、協力し合いながら進んでいきたいと思います。

1.災害、事故の発生
 諭達に、「頻発する自然災害や疫病の世界的流行も、すべては私たちに心の入れ替えを促される子供可愛い親心の現れであり、てびきである。」とあります。
 皆さんご承知のとおり、1月1日夕方、能登半島で大変な地震が起きました。どれだけの方が亡くなったのか、どういう状態にあるのかがもう2週間になろうとしている今ですらまだ分からない。本当に大変なことです。そしてまたその翌日には飛行機同士がぶつかるという大変な事故。不幸中の幸いで、旅客機の方は亡くなった方はいませんでしたが、ぶつかられた小さな飛行機の方は5人の方が亡くなられたという、本当にお正月早々、天災地変、人間の事故、大変なことを見せていただいております。
 そんな中、私が心強く思ったことがあります。先日7日に葛飾支部の新年初例会がありました。そこで支部長さんが、「皆さん能登には今行ってももう通行止めで行けません。」ということをお話しされてました。これをちゃんと言わないとどんどん行ってしまうから、とも言っていました。「えっ」と思いましたらさらに聞きましたら、葛飾支部から既に2台の車が出発して被災地に色々な救援物資を届けているとのこと。いつも野菜を届ける本導分教会さんからも大根や白菜を預かって、避難場所に届けてそこでの炊き出しに新鮮な野菜を使わせてもらい非常に喜ばれ、その他にインスタントラーメンとか色々なものを持ってですね、もう既に2台行っている。その他にも待機している車があるのですが、ちょっと今行かれると困るから待ってくれ、ということで止められている状態です。
 我が葛飾支部をはじめとして、天理教としても既に色々な団体が現地に入って救援物資を届けている。そういうお話を聞いて、このお道を信じている方たちにとって、本当にこれは他人事ではなく、自分のことなんだと考えて、救援に行っているというその心を聞かせてもらいました。本当に感心するとともに、自分も何かさせてもらわなければいかんな、ということを思いまして、せめて義援金くらいは、ということでやらせてもらいましたが、皆さんもお一人お一人の中でも、そういうお気持ちをなんとか被災者の方に伝えていただければと思っています。

2.被災地のお年寄りの苦労
 たまたま羽咋と七尾という所に、私の知人が住んでいたんですね。どうだったかなと思って調べましたら、羽咋の方はもうすでに東京に出てきてしまっていて、両親は出直していらっしゃらないので羽咋の家は処分をしたと。七尾の方も自分は東京に出てきて両親はいないので今売りに出している最中だというようなことで、身体が無事で家が無くなっただけということでした。
 そんな中で今回の被災者を見ても分かりますけれど、お年寄りばっかりですね。若い人は皆東京に出てきて、被害に遭ったのはたまたまお正月で里帰りしていた方ですけれど、里帰りしない時は年寄りばかり。現にその年寄りが、大変多くの方が亡くなっておられます。
 私の知人が2軒とも家を売って出た、というのを見ても、これからお年寄りがそういった家を再建できるかというとまずおそらく無理だと思います。子どもは住んでいないし、お年寄りは家を建て直す資力も持っていない。建て直したところでそこにまた子どもが戻ってきて住んでくれるわけではないということを考えると、二重三重に胸が痛みます。
 高齢になって家族を失ったばかりではなく、家を失い、その家を再建することも将来的にはおそらく無いだろうということを考えますと、本当に大変なご苦労、つらい中にいらっしゃるんだろうなということを思います。そういう風に、被災者にせめて心だけでも寄り添っていっていただきたいと思います。
 おそらく教内で助け合いの募金依頼が来ると思いますけれど、どうかその時にはお気持ちだけでもご協力をいただきたいと思います。そしてまた一日も早く、被害に遭った方たちが何とか心穏やかに過ごせるような日になってもらいたい。私も日夜神様にお願いしています。ですが、神様の思いというのは、いつ私たちのところに来るかも分からない。

3.神様の期待
 神様の話にこういう話があるんです。「なんで私の所はこんなにつらいことばかり起きるんだろう」、あるいは「こんな大変な人を私のそばになんでよこすんだろうか」、「私の親が変になった」など、いろいろありますが、なんで私にばかりこんなことが起きるんだろうと思った時に、神様はあなただからこそこの人を助けられるんだと、あなただからこそこういう人をあなたのそばに置いたんですよ、だから一所懸命やらせてもらってください、という話を聞いたことがあります。
 つまり、見るもいんねん、聞くもいんねんというのはそういうことで、自分の周りに大変な方がいたときには、これは大変だなあと思うだけではなくて、その人を見た人が助けるよう、神様が期待してその人に見せているんだという風に思っていただきたい。そうすれば、先ほどお話しした支部の人たちのように、被災地にすぐに飛んで行っちゃったという、ああいう行動力が出てくるのかなと思います。

4.春季大祭の意義
 さて、1月がなぜ春季大祭かというお話です。
 教祖が50年のひながたの道をのこされて、扉開いてろっくの地にする、とおっしゃられた。教祖のお姿があったのでは、警察に捕まったりしてその心配で子どもたち、側近の人たちがおつとめもできない。教祖が世界を助けるには一番大切なのはおつとめだと。だからおつとめをしなさいと教祖ご自身がおっしゃるんだけれども、そのおつとめをすると、高齢の教祖が監獄へ入れられてご苦労されてしまうから人間心ではそれが到底できない。
 そんな中で教祖がつとめをせよ、つとめをせよ、と言って明治20年の陰暦正月26日、今で言うと2月18日ですが、その2月の一番寒い時ですね、その時に身上がにわかに悪くなられた。そして教祖に元気になってもらうにはどうしたらいいかとお聞きすると、つとめをせよとおっしゃる。つとめをしたら人間から見たら病気の教祖が監獄に連れていかれてしまう。それでできなかったんですけれど、そうこうしているうちに教祖はどんどん悪くなる。
 そしていよいよ陰暦正月26日の午後1時、命どうなっても、と思う者のみつとめをせよ、という覚悟を決められた初代真柱様に言われまして、それで私の命はどうなってもいい、おつとめ最中に捕まるかもしれないということで、着物を何枚にも着て、足袋も何枚も重ねて、捕まっても寒くないように、それで陰暦正月26日の午後1時からおつとめにかかりました。
 そして1時間後のちょうど十二下りが終わって、十二下りの最後、「このたびいちれつに だいくのにんもそろひきた」というところで教祖が息をすうっと引き取られた。
 皆大変驚いて、おつとめをすれば助かると思っていたのに、なんで息を引き取ってしまうんだ、ということで本席の飯降伊蔵先生を通して教祖から理由をお聞きしたところが、扉を開いてこれからろっくの地にして世に出るんだと。扉を開いてと言うたやないか、とおっしゃる。
 皆、扉を開くとはもっと景気のいい話だと思っていたのが、扉開いてとは、教祖からすると、この身体があったのでは扉を開いて世界中へ行けない。だからこの身体を脱いで、そして教祖のお心が世界中に飛んで歩くという、これが扉を開くという意味で身を隠したのだと。そして「今までとこれから先としっかり見て居よ。」とおっしゃられました。教祖のお姿がある明治20年1月26日までの「今まで」と、それ以降の「これから」をしっかり見ていよとおっしゃられた。庄屋敷村という奈良県の小さな村で発祥したこの教えでしたけれど、教祖が身を隠されてから、現在のここまで世界中に広まったお道の姿。これが「しっかり見て居よ」ということだったんです。
 お道は教祖お一人から始まり、その教祖が身を隠されたのが1月26日。これが春の大祭の意味です。ですからこの1月26日、2年後の1月26日がちょうど140年祭にあたります。身を隠された明治20年1月26日からちょうど140年目が2年後の1月26日ということです。

5.ひながたの心で通る
 そして教祖はこの年祭までの三年千日、この三年千日をしっかり教祖のお心で通れば、教祖が50年通られたひながたの道を通ったことにしてあげよう、と。50年も私たちは人間だから通れません。でもこの年祭前の3年間、一所懸命ひながた通りに、ひながたの心通りに通る。ひながたの心とは「人をたすける」という心です。そうすれば50年のひながたを通ったことにしてやろう、ということは、なんでもお前たちの思ったとおりにしてやろうという意味です。
 ですからせめてみなさんあと2年、自分の身の回りになんとか助かってもらいたいという人がいるかもしれません。また世界でなんとか助かってもらいたいということもあります。あちこちで戦争が起きています。本当に毎日毎日多くの人、大人だけでなく子どもまで亡くなっています。そういう人たちに対して、この三年千日の間にともかく助かっていただきたいというその教祖の思いを、三年千日毎日使っていただく。そして、病んでる人にはおさづけを取り次ぐ。事情に悩んでいる人には寄り添う。諭達に書いてありましたね。これを3年間やってくれとおっしゃるんです。やってくれたなら50年分通ったとして受けとってくださるとおっしゃっているわけです。
 普段私もなかなか人助けと口では言っていますけれど、本当に助ける、また本気で祈るということもなかなかできない。ところがいよいよ3年で区切られた、さらにあと2年です。たった2年、2年間、誰か悩んでいる人、苦しんでいる人のために本当に祈りましょう。そして本当におさづけを取り次いで助かってもらうようにしましょう。これはもう自分の身の回りの人、近所の人、世界の人、全部同じです。教祖の心になってあと2年間しっかりとお互い暮らしていきたいと思います。
 そして、神様にこの正月早々から大きな事情を見せられたということは、お前たちゆるんでいないか?と問われているのかもしれません。その困っている人たち含めて、いつ自分たちにそれが来るかもしれない。いつも教祖がおっしゃっているのは、我が事として考えてくれ、自分の事として考えてくれということです。地震も飛行機事故の話も全部そうです。
 もし自分が乗っていたら、もし自分が輪島にいたならば。場合によっては皆さんもっと若くてお金があったなら、元日は和倉温泉の加賀屋さんに泊まっていたかもしれない。その加賀屋さんにいた人たちが大変な被害を受けている。そういうことを考えると決して他人事ではありません。そういう思いでぜひあと2年、教祖の年祭まであと2年、そして2年後には必ず御守護いただく。そしてお礼を教祖に申しあげに行く。
 1月26日、必ず私もおぢばに行きます。2年後の140年祭には必ず行きますから、その時までに御守護いただけるように、神様にお礼を申しあげることができるように、この2年間しっかりと心を世界助けのため、人助けのために使っていただきたいと思います。

 寒い中大変ですけれども、また1か月頑張っていただきたいと思います。
 来月の月次祭には、中根大教会の役員さんの巡教があります。私も役員の一人ですので、福島県や群馬県にある教会を巡教するのですが、2月12日には、大教会役員でもある行理山分教会の橋本先生が、この日帝に巡教に来ていただけることになりましたので、一人でも多くの方にご参拝いただき、おつとめを賑やかにつとめられるようにお願いしたいと思います。来月12日は日曜日です。大教会巡教ということも心に留めていただいて、ぜひご参拝いただきたいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。寒いですからどうかお気を付けてお暮しください。

2024年04月20日

2023年(立教186年)12月月次祭神殿講話 ~年限というもの~

1.今日一日元気でいられたこと
 今日は12月の月次祭。12か月があっという間に過ぎてしまいました。まさに今年の1月から教祖140年祭に向けての三年千日が始まったわけですが、昨年10月に真柱様から諭達第四号をお示しいただきまして、それからあっという間に1年が経ってしまいました。
 あっという間と言いますけれど、つい先日私の親友が出直しました。中学から60年以上にわたって付き合ってきた彼が出直しをされました。患ってはおらず、1か月前にも一緒に温泉に旅行に行って、また来年も来ようなあ、ということで別れたんですが・・・
 私たちは、来年とか再来年とか、当たり前に来るように思っています。私なんかも今、一番先の予定が、2年後の10月に熊本での講演です。講演を頼むと言われて「はいはい」と簡単に受けたんですが、考えたら2年後に熊本まで行ける身体をお貸しいただいているかどうか、そもそも命があるかどうかも分からない。
 そんなわけで、親友が今まで当たり前のように生きてきたけれど、ある日突然命というのは途切れるものです。そうすると「あっという間に」とか「ぼうっとしている間に」という言葉で簡単に過ごしていますけれど、このあっという間とかぼうっというのがどれだけありがたいことか。一日一日の積み重ねで今日12月12日を迎えられた。この日帝でも、残念ながら、先月責任役員さんがお出直しをされました。教会の百周年に間に合わずにお出直しをされました。皆、ついつい来年の今頃も何かできる、約束も来年の春の約束、夏の約束、皆簡単にするけれども、神様から丈夫な身体をお貸しいただいてこその話。ということであれば、今日一日元気でいられた、そしてまた来年旅行に行けた、どれだけありがたい御守護かということが分かってくるわけです。
 ところが、残念ながら私もそんなこと分かりだしたのはこの年齢になってからです。今までは生きているのが当たり前、一日一日何もしなくたって時間は過ぎていくということでおりましたけれど、神様のお言葉の中に「年限」という言葉があります。年限区切って御守護をいただこうという、その私たちにとって一番の年限は今、三年千日を一所懸命やらせてもらう。そしてこの一所懸命やらせていただくことによって、三年千日の再来年1月26日にはものすごい御守護をいただく、ということが私どもの「年限」の意味なんですね。今拝読した諭達にもありましたように、「人救けたら我が身救かる」、毎日毎日誰かどなたかを助けさせていただく。身体が動かなかったら心で、言葉で助けさせてもらう。ということでその一日一日の年限というのがいかに大事かというおさしづがあります。

2.年限でできるようになる
「出けん者言うた処が出けん。なれど、年限で出けるようになる。今日種を蒔いて今日に出けん。旬を見て生える。又実が出ける。これ聞き分け。」(明治31年5月3月28日 おさしづ)

 できない者に、お前できないなあと言ったところでできないだろう、と。なれど、年限でできるようになる。今日種をまいたって今日にはできないだろうと。旬を見て生えるんだ、と。旬というのは季節。しかし種をまいてその旬、草花で言えば暑い時、寒い時を過ぎて旬になって初めて実がなる。大事なことはまず種をまくこと。種をまいてから年限をかけること。それではじめてできてくるということなんですね。

「堅きでも年限移りて来れば柔りこうという。年限の道伝うて来れば柔りこう成り、気にしてはならん。」(明治24年6月6日 おさしづ)

 また、堅いものでも年限が移ってくれば柔らかくなるよ、と。年限の道、しっかりと神様の話が伝わってくれば柔らかくなる。堅いから今できないだろうとしても気にしてはならん、というおさしづがあるんです。一人ひとりの一日一日が命ですけれども、これをしっかりと通っておれば、神様に祈っておれば、年限の道が伝わってくれば、神様のことが一所懸命伝わってくれば、必ず柔らかくなる。今堅いからといって、今うまくいかないからといって気にしてはならんというお言葉です。ありがたいですね。何かしなきゃ楽にならないとか、いつまでたってもだめだなんて言わない。年限の道をじっくり年限をかけてくれば、「堅きでも年限移りて来れば柔りこうという。」というお言葉をいただいています。
 私なんかは特に教会に生まれさせてもらって教会で育っていますから、朝晩嫌でも、嫌でもと言ったら叱られてしまいますけれども、嫌でも朝づとめ夕づとめはする。しかし神様はその年限がしっかりしてくれば堅いものでも柔らかくなるんだ、あと旬を見て生えるんだ。だから毎日毎日皆さん誰かのために祈る。誰かのために手伝いをする。誰かのために神様にお願いをする。こういうことで毎日毎日年限を積んでいれば、必ず旬を見て生えるし、年限が移ってくれば柔らかくなる、というお言葉をいただいています。
 だから私たちはぼうっと生きているようだけれども、そのぼうっというのも神様はきちんと意味のある日にちとして私たちに与えてくれているんです。本当にぼうっとして何も考えず、誰のためにもならず悪口を言い、不足を言い、で通っていれば神様はこの年限を与える必要がなくなってしまいます。今日は何でもなかったといっても喜ぶ。何か一つ良いことがあったら喜ぶ。誰かが幸せになったと言ったら喜ぶ。この心の動きが年限を伝わってくるということだと思います。

3.いんねんを悟る
 そんなことで今年一年、私ぼうっとしたつもりではいましたけど、お陰様で朝晩皆さんの、信者さんのことや世界のことをお祈りができる。それをやってきただけで神様は365日年限、ちゃんと一日一日しっかりやってきたなあということで、同じ年齢でも出直すものもいれば病んでるものもいる。そんな中で元気にこういうおつとめをさせていただける。こうしたご守護を考えますと、本当に一日一日を感謝して通らせていただきたいと思います。
 先月皆様にもお配りした、日帝分教会百周年記念の本を知り合いに配らせてもらいました。皆すごい壮絶な中通ってきたんだなあとか、よく書いたなあとか言われました。私は別に恥と思って書いてません、神様のことですから。でも外から見るとそういうことで全部しっかりと我が家のいんねんを書かせてもらった。やっぱりこういういんねんというのはしっかりと悟って隠すことなく、そのおかげで自分たちの今があるんだということを考えて、あの百年史というのを作らせてもらったんです。あの百年のあの方たちの支えがあったからこその今なんです。
 皆さんの家もそれぞれそうです、親があって今日の日がある。親がどんな苦労をして通ってくれたか分からない、親は子どもに苦労のことを言いません。そんな中でも毎日毎日親に対して感謝をする。他の人に感謝をする。親であれば子どもに感謝する。子どもがどんなに悪口を言おうと何をしようと手一つ差し伸べてくれる。お皿一枚持ってきてくれる、これだけだってありがたいことですからね。どんなことでも喜んで通らせていただくということを、今年一年の締めくくりに改めて確認するとともに、お互い感謝の気持ちを忘れずに喜べる日々を通っていきたいと思います。

 本当にこの一年届かぬものでありながら皆さんのお陰でつとめも果たすことができました。また来年もどうぞよろしくお願いいたします。ありがとうございました。

2024年03月03日

2023年(立教186年)11月月次祭神殿講話 ~100年続き、また次の100年へ~

 本日は、月次祭を兼ねまして、日帝分教会の100周年記念祭をつとめさせていただきました。
 中根大教会長様もおいでいただきまして、何より皆さんに多く来ていただいて、おつとめは一応全部の鳴り物が揃って先ほどできました。前半も後半も同じように全部揃ってつとめたいのですが、この鳴り物はできるけど他のはできない、という方がいらっしゃるものですから、難しかったところがあります。ですけれども、今日のために練習に何度も来てもらった少年会の人たち、本当にありがとうございました。またそれを出してくださった親御さんたちにも本当に感謝しています。ありがとうございました。
 先ほどの祭文にも書かせていただきましたが、日帝分教会の100年史というものを作りました。今日お帰りの際に差しあげますけれど、初代が高宮乃婦(のぶ)先生、二代が亀田儀八先生、三代が先代羽成芳枝先生ということになるわけですけれども、今申しあげたように、初代も二代も三代も全部名字が違う。要するに、本来であればなかなかつながらない教会のはずなんだけれども、それが今日までつながって100周年を迎えられたということは、大きな意味があるんじゃないかなと。普通、100年つながる教会というのは、歴代会長全員名字同じですよ。じゃあ名字はともかく血のつながりがあるかというと、この日帝分教会で言えば、初代髙宮先生と二代亀田先生はまったく血のつながりはありません。そしてまた二代亀田先生が出直した後、後継者が誰もいなかったので、それから私の母、三代羽成芳枝会長が教会を継ぐために一から天理教を学ぶために修養科に行かれた。そういうご苦労を想いますと、そうした中で今日まで100年つながったというのは本当に奇跡的な話だと思います。
 大教会でもいくつかの教会が、後継者がいないので本部にお返ししたという所もかなりの数がある中で、今日100周年を迎えられたことは本当に嬉しい限りです。ただし、正直言いますと、この100周年ということを、今年6月まで会長である私はまったく知りませんでした。たまたま子どもから「今年で日帝100年じゃないの?」と言われて「そうか?」と言ってあわてて記録を調べたら、本当に100年前の4月24日にお許しを得たということが初めてわかりました。100年という時間は、そういう誰もわからないような時代になりかかっているともいえるかと思います。
 そんな中、今回作った100年史で、三代の会長さんの生きてこられた、特に天理教になった理由をまとめさせていただきました。これが本当に嬉しい限りで、子どもたちも資料を色々調べて、正確に、あとまた関係の方にも読んでもらったりして正確なものとして作ることができました。初代髙宮先生の伝記というのは、前会長が鉛筆で書いたものがあっただけでしたので、それをまとめなおしながら、足らないところは資料を調べて補足していきました。二代会長の話も同様で、結婚した時、我孫子で料亭をやった時、あるいは根津で自動車屋さん、ハイヤー会社をやった時、あるいは塩問屋をやった時というのは私はうっすら覚えで聞いてはおりましたけれど、今回きちんと時間を追って全部わかりました。
 この機会にそういう過去のことをさかのぼらせていただいて、しかも読んでみて本当にこう胸が熱くなるような、本当に大変な中を歴代会長がお通りいただいて今日がある。こうやって皆さん、皆さんと月次祭に顔を合わせるのが本当に楽しみで、何の障害も無く月次祭ができるということも、今までのその三代会長さんの話を聞いていると奇跡に近いような、本当によく今日まで続いたなあという思いがしております。
 そんなことで次の100年です。次の100年なんて生きていないよ、と皆さん言うかもしれませんが、100年後は生まれ変わっています。今ここでしっかり伏せ込んでおいて、そして次の100年経った時にまたこの日帝分教会で生まれ変わって別の身体を借りておつとめをする。その間に三回くらい生まれ変わってこられたら・・・ こんな楽しいことないじゃないですか。ということで考えてみれば、100年前というのは決して遠い昔ではなくて、生まれ変わりで、100年前教会につながっておられた方々が、100年後の今、ここに集っている。だから皆さん、ご縁があってここにいる方ばかりです。
 池田晶子さんという哲学者がいますが、池田さんは、なぜ人間が生まれ変わるということを信じないのか。私は自分が生まれ変わった時にこの世の中が変なことになっていないよう、今日一つ良いことをするのだと、書いています。正にそのとおり。
 私たちは、世の中のためでもあるし、何よりも自分が生まれ変わって幸せになるために、あるいは自分の身の周りの人ともまた幸せに巡り会えるためにも、今日一つ良いことをする。これがこの道のかしものかりものの教え、これが天理教の根本教理です。どうかしっかりと改めてこの機会にお考えいただきたいと思います。
 教祖100年祭の諭達に、「百という字の意は、白紙に戻り一より始めるを謂う。」というお言葉がありました。今こうふと思い浮かべまして、まったくそのとおりだな、と。100年続いたので本当にありがたいけれども、いったんこれで白紙に戻す。そしてまた一から始める。今日の記念品のタンブラーに「NEXT 100 YEARS」、次の100年と書かせていただきました。
 また皆さんご覧のように、教会はすべて椅子にしました。おつとめも何もかも全部椅子にしました。そしてまた親神様の御社も代えさせていただきました。これはすべて皆さんのお力添えあってのことですけれど、そんな中で、この100年を機に、見た目だけはちょっと変えましたので、今後はそれぞれが一人ひとりが中身も変わったといえる信仰をしていただきたいと思います。
この後記念写真を撮っていただいて、直会にさせていただきますので、最後までごゆっくりとくつろいでいただきたいと思います。

 本日は誠にありがとうございました。

2024年02月03日

2023年(立教186年)10月秋季大祭神殿講話 ~お供えの意味~

1.秋季大祭
 今日は10月26日大祭です。大祭というのは皆さんご承知でしょうが、天保9年、1838年、今から186年前の10月26日に天理教が始まったという日です。10月23日から教祖に神様が降りられまして、そして中山みき様を神の社にもらい受けたいという仰せでした。家の者、親戚の者、本当に困り果てて、神様にどうか戻っていただきたい、お帰りいただきたいと言ったんですけれど、神は頑として退かない、みきを神の社にもらい受けぬ限りはここを退かないということで、三日三晩家の者、親戚の者とのやり取りがあり、10月26日朝8時、みきを神の社に差しあげますということで中山みき様が神様の社になりました。
 そしてその後50年、明治20年に至るまで教祖は、この教えどおりに道を通られました。中山家の家を、母屋を全てとりこぼち、そして持っていた田畑を全部質に出し、そしてそれで入ったお金を自分たちが使ったのではなく全部人に施された。ある時は門口で赤ん坊を背負った女性の物もらいがいたので、その人にはお米をあげた。ところがその背中にいる子どもにはなにもやっていない、と言ってその子どもを下ろさせて教祖は自らの乳房を含ませておっぱいを与えた。そういう50年にわたる教祖のひながたがあって、この天理教の私たちはひながたの道を通る。

「ひながたの道を通らねばひながた要らん。(中略)ひながたの道より道が無いで。」(明治二十ニ年十一月七日)

 教祖と50年間同じ道を通れ、同じことをやれということではなくて、神様の心をもって人様を助ける道、人様に喜んでもらう道、というのをひながたの道と言います。そしてその50年分通らなくても、このわずか3年間、年祭までの、今年の1月26日から3年後の1月26日までの3年間を一所懸命、教祖の心を胸におさめて、それを通ってくれれば50年分に受け取ってくれる、という風におっしゃっています。
 これまでも皆さん、そういう風に生活されてきたと思いますけれど、特にこの3年間、人のために自分の時間や身体を使う。そして言葉も使う、ということをぜひやっていただきたいと思います。人のためというのは世界のためということです。人のためというのは、自分の親であっても自分の子であっても自分の嫁さんであっても、何か一つ喜ばせることをしてあげるということ、これが非常に大切なことで、それを3年間意識してやってみようということです。天理教はまさに教祖一人から始まりました。それが今百何十万人もの信者さんがいて、年祭の都度世界中に広がっています。それを見ても教祖一人から広まったこの道の年祭が3年後に来る、ということでどうかこの3年間、一所懸命心を使って身体を使って、ぜひとも御守護いただけるようにしていただきたいと思います。

2.旧統一教会の解散命令
 一方、世間では、明日か明後日に、旧統一教会の解散命令というものが裁判所に請求されるとのことです。宗教の解散命令というのは、実はオウム真理教に限らず、天理教も受けました。内務省の秘密訓令で、教祖が身を隠された明治20年以降、大正・昭和になっても、天理教がどんどんどんどん広がっていく。天理教は人は皆平等だと言っている。天皇も何もかも全部神の子で平等だと言っている。これは時の政府にとっては非常に都合の悪いこと。そして天理教を潰してしまおうという秘密訓令というものが、今のように表立ってではなく密かに訓令が出て、そのために天理教は、みかぐらうたの歌も全部変えられました。「一ッ ひのもとしよやしきの つとめのばしよハよのもとや」。「ひのもと」、日本の「つとめのばしよ」、つまり日本のおぢばはこの世の元である、世界の中心であるということがみかぐらうたにありますけれど、これが時の政府にとっては非常に都合が悪いということで、それを全部歌ってはならない、ということになりました。12下りの内で、歌えるのはわずかに1下りか2下りしかないというような時代の中を通り抜けてきて、そして昭和20年8月15日の終戦以後、そういった過去のものが廃止されまして、今の憲法によって信教の自由、信仰の自由というのが認められてようやく元に戻ったんです。それを復元といいます。元に戻ったということ。
 ですから、昔の先輩方は、今日のようなおつとめも自由にできないし、神様の言われたとおりのお歌も歌えなかった。それが今当たり前になっている。(私も今日間違えてしまいましたが)当たり前なのにそれを間違っている。昔の方は歌いたくて歌いたくて必死に覚えたんです。本は没収されて全部無いわけですから。自分の頭の中だけでみかぐらうたを歌い、密かにおつとめをしていたという話も聞いています。そして復元になって正々堂々とできるというので本当に皆さん神様のお陰ということで喜ばれた。もっとも復元というのは昭和20年8月15日以降ですからね、その頃に生まれている方もここにはいらっしゃいますけれど、天理教がこういう風におつとめができるようになったのはわずか終戦後の昭和になってからの話だということを、この機会に理解していただきたいと思います。
 そんな中で旧統一教会と天理教がどこが違うか。天理教は政府から、みんな神の子で平等だ、一列兄弟で高い低いがない、これが時の政府に都合が悪いということで教えが潰される。ところが、旧統一教会のやっていることに対しては、旧統一教会の被害者のための救済新法というのができました。法律に、目に見えない超能力をもとに、これを信じないと、これを行わないと、指示に従わないと不幸になるということを言って集める寄付は許されないということが書かれました。つまり、人間というのはついつい心が弱いですから、困った時に何かにすがる。そんな時にたまたま旧統一教会に呼ばれた、あるいは今は解散されましたけれどオウム真理教というのもあった。そうするとそこではお金を出さないと、あるいは出家してここにこないと不幸になるという教えなんですね。だからお金を出さないと不幸になる、とんでもない災いが起きるというから、みんな怖いから、人によっては何億円も巻き上げられたというようなことがあって、それを理由に、今回宗教としてふさわしくないということで解散請求されるということになりました。

3.お供え
 でも天理教もお供えさせるじゃないか、と言う人が中にはいます。しかし、天理教のお供えというのは、あげないと不幸になるというお供えではありません。そしてまたいくらあげなさい、ということも天理教では言いません。神様からありがたく身体を貸してもらっている。天理教の基本教理はかしものかりものですから、神様から身体をお借りしている。お借りしているその身体で、本当に楽しく美味しく食べられたり旅行に行ったり遊んだり歌ったりできる。そしてまた友達もできる。そんな健康な身体を貸してもらったことに対して神様にどういうお礼をいたしましょうか、と教祖にたずねた時、教祖は、自分が助かったことを困っている人に話してあげなさい、というだけであって、お供えしろなんていうことを一言も言っていません。
 自分の身体を神様のために使うというのは、これはひのきしんです。ひのきしんというのは、神様に対するお礼として自分の身体を使う。ですから、自分の健康な身体をつかって何かひのきしんをさせてもらう。ひのきしんというのは人様を助けることもそうです。ところが、仕事などで忙しくてひのきしんする時間がない人は、ひのきしんできなかった分だけ、その分だけの働いて得たお金をひのきしんの代わりにお供えをするということで、これはお金が目的ではありません。人のために働くということを目的にした行為が、天理教でいう「お供え」ということになります。だから「つくし・はこび」と言いますね。
 「つくし」というのは、なにもお金を尽くすことだけじゃありません。お金を尽くす。身体を尽くす。心を尽くす。すべて「つくし」です。そして、教会やおぢばに運ぶ、この身体を運ぶ。これが大事。お金は生きている時間を働いた対価として得られるものです。すなわち、命に代わるものです。運べない方は、他の所で働いた分で得られた、命に代わるお金ををお供えし、「はこび」とする。こういうことであって、お供えをしないから不幸になるなんていうことは絶対にありません。ただ、私たちは幸せになるためにお供えをさせてもらう。そのお供えを受けた教会や本部は、それを人だすけのために使う。今、私たちがこんなに幸せなのは神様のお陰です、ということでお礼としてお供えをさせてもらう。そこが違うところなんです。
 ですから、天理教は秘密訓令が新しい憲法によりなくなった瞬間、もとにきちんと戻りました。しかし、旧統一教会は戻ることはありません。解散させられそうです。解散というのはどういうことかと言うと、国から宗教法人として扱ってもらえないということです。宗教法人というのは、税金なんかが非常に軽減されています。そういう宗教法人としての優遇が一切無くなるということです。解散になっても、個人個人が旧統一教会の教えを信じて行動することは、信教の自由があるので可能ですが、税金面などでの優遇が一切なくなります。これまで旧統一教会として活動してきた人たちにとっては、布教等の面で非常に困難な状況に陥ります。
 そもそも、なぜ宗教法人が優遇されているかというと、宗教は世のため人のためにあるものだから。この教会は、人を助けるためのところだから、ここには税金がかからない。なので人を助けないで自分ひとりだけでただで住んでいて良い家なんていうのは、教会ではありません。人のために一所懸命おつとめをし、人のために集まってもらって人のために教会を使っていただく、これが宗教の、教会の意味です。
 そういうことで今回旧統一教会が解散命令というのを出されますけれど、これは昔の天理教の教理が、時の政府にとって都合が悪いからというのと違って、宗教団体としてそもそも憲法で信教の自由があるのに、にもかかわらずそれが認められないほどひどいことをやっている、ということに対する解散命令です。天理教が一時抑えられたのとまったく意味が違う。
 そんなことで、そういうことを理解していただき、ぜひこの10月の立教の日に、教祖に親神様が降りられ、世界助けるために天下った、という風におっしゃっていることの意味を改めて考えてください。今、世界を見るとまた戦争が始まっている。そしてどんどん人が死んでいる。これについて我々は無力のようだけれど、やはり祈る力が一番強いと思います。なんとか皆さん、一刻も早く戦争が終わり、世界の人たちが戦争の苦しみから解放され、心穏やかに過ごせるよう。また、病んでいる人が一刻も早く助かるよう、ぜひここで祈っていただきたいと思います。

4.100周年記念祭
 来月11月12日に、日帝分教会の100周年記念祭をさせていただくことになりました。今、色々と準備を重ねておりますが、そんなこともあって今月の月次祭で初めて椅子で祭典をさせていただくことになりました。脚が悪くて座れない、正座できないという方でもおつとめができるようになりましたので、どうか皆さん、11月12日には全員でおつとめができるようにしていただきたいと思います。
 この天理教日帝分教会、初代の髙宮先生から始められて、今日まで100年間続いてきました。100年という時間は大変なことだと思います。そんなことでぜひ楽しみにしながら、来月12日には皆さん揃ってお出でいただきたいと思います。

 本日はありがとうございました

2024年02月03日

「なぜ天理教なのか?」YouTube配信(2023/10/29@深川大教会)

 10月29日深川大教会で開催のようぼく一斉活動日(葛飾支部)にて、会長がプレゼンターとして「なぜ天理教なのか?」というテーマでお話をさせていただきました。
 その模様をYouTubeにて配信していますので、ぜひご覧ください

https://youtu.be/KcrdIRNhbOI

!YouTube視聴上の注意!
 スマホなどで動画視聴をする際は、Wi-Fiを使っての視聴を強くお勧めします。
 通常の通信環境(4GLTEや5G)ですと、多くのデータ通信量が必要となり、契約形態によっては料金が高額となるおそれがありますので、くれぐれもご注意ください。

2023年11月19日

2023年(立教186年)9月月次祭神殿講話 ~神様の理を立てる~

1.命を貸していただけることへの感謝
 ただいまは人数が少ない中でも陽気におつとめをいただきました。
 つい一昨日、うちのすぐ隣のお宅の奥様がお出直しなされました。朝、急に呼吸と心臓が止まってしまったということで、苦しまずに逝ってよかったということを遺されたご主人がおっしゃっていましたけれど、私たちはいつ何時神様が命をお引き取りくださるかわからない。逆に言えば、この健康な身体は神様から一日一日お貸しいただいている。ということであれば、今日一日無事に過ごせたということを本当に神様に感謝ができると思うんです。
 そうすると私なんかは自分の力で生きているという風に思いがちですが、自分が生きたいときに生きられない、私どもは神様から身体を借りている間だけこうやって元気でいられるということを考えたら、一日一日がどれだけありがたいか、どれだけ感謝しなければならないか、息を引き取られた方とその周囲の方の悲しみを見せていただくと、本当に胸が痛くなるような思いがします。
 このことに対して、私じゃなくてよかった、などということではなくて、自分たちもいつ神様からそういう形で引き取られるかわからない。そういうことを考えたら一日一日を感謝し、そしてそのお借りしている感謝の気持ちを他の人の為に使う。これが「ひのきしん」だということをいつもお話しますけれど、神様から健康な身体を借りている、今日おつとめに来られた、そしてまたこれから皆さんと楽しい直会ができる、こういうことも生きていれば、歩ければこそ。そしてご飯が口から入ればこその話です。
 であるならば、常に神様に感謝を毎日毎日していく、神様とすれば、そんなに喜んでいるのなら明日また貸してやろう、ということでまたお貸しいただけるかもしれない。そしてまた喜んだ感謝の気持ちをひのきしんという形で他の人たちの為に自分の身体や時間を使わせていただく。これがどれだけ神様の目にかなって長生きさせていただけるか、ということを改めて人様の命が亡くなった時に感じるわけです。今日一日生かしていただいてありがたかったということを感謝して、神様また明日もどうぞよろしくお願いします。と、このように過ごせていけたらと思います。


2.道の理、神様の理
 例えば今日の月次祭でも、世間の考え方で他に忙しいことがあるとそこに行かなきゃならないので教会にはいけない。神様はいつでもいるんだからまた後でいい、という風なことをついつい思ってしまいます。つまり人間の方の理由だとか道理を優先してしまって、神様の方をついついおろそかにしてしまう。おろそかというよりも甘えてしまう、と私なんかはそんなことが時々ありますけれど、そういったことに対して神様はきちんとおさしづを残されています。

 「人間の理を立てるから、だん/\道の理が薄くなる。人間の力で通れるか。道の理が無けねば守護は無い。」
 (明治三十二年六月二十七日 昨日増野正兵衞身上のおさしづより一同協議の上願)

 人間の理を立てるからだんだん神様からの御守護が薄くなってくる。人間の力でこの世の中を通れると思うか?と。神様の理がなければ、守護は無いよ、ということを神様がおっしゃっている。神様は直接ものをおっしゃらない。嫌な顔もされない。人間の方は嫌な顔もされるし、何かをすれば喜んでくれる。神様の御用と人間の用があった時についつい人間の理を立ててしまう。人間の理を立てるから、神様の理が薄くなってしまう。理が薄くなれば守護は無いぞ、と神様から言われているわけです。皆さんはしっかりと神様の理を立てていただいていると思いますけれど、私なんか自分で仕事を持っていることもあって、ついつい人間の道理の方を立てたくなるようなことがあります。
 そこで自分の経験ですけれど、以前宮内庁から園遊会に招待されました。あれは実は事前に電話が来て、その日行けます、と答えた人にしか通知が来ない。ご招待状が来ない。それで事前確認の電話がかかってきました。忘れもしません、5月12日園遊会ですがいらっしゃいますか?という。12日と聞いた瞬間に、うちの月次祭だからだめだ、ということで、その日はだめですとすぐに断ったんです。そうしたら電話をしてきた宮内庁の方が「天皇陛下のご招待ですが・・・」と言うんです。こちらとすれば天皇陛下であろうとどうしても先約があるからだめです、としかいえない。先方とすれば、天皇陛下より大事な先約があるのか?というような雰囲気でしたけれども、ともかく「5月12日はだめです」と即座に断りました。そうしましたら、それでは来年にしましょうか、ということを言われました。
 これは後で聞いて驚いたことなのですが、一度招待を断った方は、二度と呼ばれないそうです。普通、断る方というのはこういう断り方をするわけです。5月12日はいかがですか?と言われた時に、例えば私だったら、「(月次祭だなあ、月次祭休むわけにはいかんかなあ・・・)じゃあ皆と相談してから返事をしよう、ちょっと時間をください。」と言って時間を置いて、それで皆さんと相談をして翌日やはり申し訳ないですがダメです、と断るわけですね。そうするともう二度と招待されないそうです。私の場合「どうですか?」と言われた瞬間に「あっ、その日はだめです」とポンと断った。そうしたら先方もそんな勢いよく断られるものですから、じゃあ次に、秋にしましょうということでそれで改めて秋に招待状をいただきました。これも12日だったら断るつもりでしたけれど、12日じゃなかった。そんなことでささいなことですけれど、天皇陛下の園遊会、一生に一回行けるかどうか、というのが来ても、我が日帝分教会の月次祭の日にあたってはだめだということで即座に断った。即座に断ったのでまたじゃあ秋に回そうと向こうもその勢いで負けたのか知りませんけれども、改めて次の園遊会に招待されて行ったことがあります。
 同じように、実は勲章もそうでした。叙勲の式が12日で、それで70歳になった時にくれるんですけれど、「いやちょっと今年はご遠慮します」と。今年は遠慮しますということで、来年是非、というような話でお断りした。やはり勲章も、考えて断ると二度とくれないそうですが、それもやはり即座にお断りをした。そうしましたら翌年、また改めて勲章をあげるということで、翌年は行って、家内共々天皇陛下から勲章をいただくということができました。
 この二つに共通するのは、最初にどうですかと言われた時に、人間の理とすると天皇陛下の勲章や園遊会に行きたい。しかし神様の理、月次祭の理を見たらば、月次祭の理を立てることで即座にそちらを断った。そのお陰で、と言いましょうか、二回断って二回とも次にくれたというのは他の人から非常に珍しがられましたけれども、私からすると、人間の理よりも神様の理、道の理を立てたという思いがあります。


3.人をたすける心
 そこで、その神様の理とはなんなのかということです。私はたまたま月次祭をつとめるということでしたけれども、じゃあ皆さん、例えばなにか月次祭以外で神様の理と人間の理とをどう立て合うかといった時に、興味深いおふでさきがあるんです。神様はおふでさきの中で、「情けない」という言葉を使われているのが一つある。

「なさけないとのよにしやんしたとても 人をたすける心ないので」(十二号90)

 つまり神様からすると、人間は色々なことを皆考えているだろうけれど、神様からすると情けない。お前たち色々なことを考えているけれど、お前たちは人を助けようという心が無いじゃないかと言うんです。これがまさに神の理ということなんです。自分が例えば、どこかに映画に行きたい、旅行に誘われた、何々をしたい、と思った時に、自分の理、人間の理を立てるのか。誰かここに困っている人がいる、この困っている人の為に何ができるかという時に、この人の為にこれをして差しあげようと心を定めたのであれば、これが人間の理としてどんな良い話が来たとしても、人を助ける心を定めた以上は人を助けることを優先をすること。これが神の理ということなんです。
 一つも難しいことはない。人間の理というのは自分の都合。神の理というのは人様の都合。人様の為になる都合。という風に考えると、たまたま私の本当にささやかな、比較にもならないような話ですけれども、わずかながら月次祭を立てようと、神様を立てようと思ったことによって、結果的に人間の理も立ってきた。その人間の理というと常に皆さん、私もそうですけれど常に日常生活しているとぶつかります。自分の都合と、誰かの為になることとぶつかってくる。その時に、自分の都合を立てるのではなく、誰かの為になることの方を立てる。これが、神の理を立てる。そうすると、神の理を立てれば御守護があるというんですね。神の理が薄ければ守護は無いとまでさきほどのおさしづにあるように、逆に言えば神の理を立てれば守護がある。
 つまり、この道は、先ほど読んだ諭達にもありますけども、「人救けたら我が身救かる」という教えなんです。自分が助かりたければ人様を助けなさい。その人様を助けるというのが神の理なんです。自分の都合ではなくて、人様を助けるという神の理を立てる。こうすることで、神様がその後にもっとすばらしい御守護をくださるということを私自身もささやかながら体験をしたわけです。そんなことで日常、自分の都合と人様を助ける都合がぶつかることがままあると思いますけれど、その時に一つでも自分の都合を抑えて、人様の為に都合を使うということを考えて、またこの一か月お暮しをいただきたいと思います。

 まだまだ9月と言いながら本当に暑い中ですけれど、どうか借りている身体を大事に使いながら、一か月をお過ごしいただきたいと思います。

 先ほど、椅子で祭儀式をやってみました。10月末までには椅子でおつとめや祭儀式ができるように、円座をやめ、鳴り物もすべて椅子の高さに合わせてかさ上げをしておつとめをするようになります。そうした時にどんな祭儀式になるかということで予行演習をしてみたんですがなかなかうまくいきません。そういうことも含めて、11月12日の日帝分教会の100周年の為に皆さんおつとめの手をそろえるということを勉強する機会を作りたいと思いますので、どうかその節にはご参加いただきたいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2023年10月21日

2023年(立教186年)8月月次祭神殿講話 ~怒りを抑えて相手を許す心~

1.日帝分教会百周年
 今日は8月のお暑い中、本当に暑い中こんなに皆さんお集まりいただきまして本当にありがとうございます。
 先月申しあげましたが、大教会長さんとご相談し、11月12日(日)にこの日帝分教会の百周年記念祭をしようとお話をし、了解をしていただきました。それで11月12日は大教会長様もおいでいただけるということです。
 日帝分教会が創立したのが大正12年。初代さんが髙宮のぶ先生という方で、女性一人で単独布教に出られて日帝分教会を作られました。その方は独身であったために出直された時に次を継ぐ方がいない。その時に信者さんの中から亀田儀八さんという方にやってもらおうということで亀田儀八さんが教会を引き受けた。その亀田儀八さんが出直した時に亀田儀八さんの一人娘が羽成に嫁いでいたために、今度はその一人娘にまた頼んでやってもらおうということで、それが私の母です。
 そんなことで羽成の方で知っているのは二代さん以降なんです。初代さんのことはまったく知らない。そんなことで今、初代さんがどういう方であったかということを、初代さんの出身地である千葉県の勝浦という所の方にお話を聞いていたところだったのですが、今年に入って子ども達が調べたところ、「今年、日帝分教会の創立百年だよ」ということを言われました。
 百年というのが三年千日の始まりであるし、こういう皆さんが集まる場所を、またこの教えをつなげてきてくれた一番最初の方が作られたという、その「元」に思いを寄せるというのは大切なことですね。ということでなんとか百周年をやらせていただこうと思っています。そんなおおげさにはできませんけれども、今日、おつとめをつとめる中で、百周年には皆で全部の鳴り物で鳴らしておつとめをしたいなあ、と思いました。
 今月中に皆さんにはご通知するつもりですが、11月の12日、これ日曜日ですのでなんとか空けていただけるようにお願いをし、そしてまた当日には日帝分教会としてしっかりとしたおつとめができるよう、記念祭までの間でちょっと練習の日なども入れることを今考えています。
 そんなことでぜひ皆さん、そういう記念の年が今年だということをしっかりと心に刻んでですね、記念の時に巡り会えるというのは本当に良いことなんです。その百周年が終わってからこられる方もいるでしょうけれど、ちょうどその百周年に立ち会える、何かの節目に立ち会えるということは本当に素晴らしいこと。立ち会いたくても命が無ければ立ち会えない。あとまた縁がなければここに立ち会えない。そんなことを考えますと、せっかく日帝分教会というところに皆さんつながってきて、その一番最初に始まった時からちょうど百周年というその大きな意味を私は感じております。何よりも神様に喜んでいただく。この教会百年続いてきたということです。このお目標(めどう)様、日帝分教会としてご本部からお許しいただいた。それから色々な方がずうっとここに寄って出たり出直したりということで、それで今日の皆さんがある。我々が突然作ったわけじゃなくて、先人がいたから今日があるという、こういうことを考えますと、何とか皆さんで改めて日帝分教会の元一日を思い出して進めていきたいと思っております。どうかご協力をお願いいたします。


2.最近の事件、災害について
 今月は何をお話させていただこうかなあと思っていましたら、最近の人の心というものに思いあたりました。今、死刑になりたいから人を殺したい、誰でも良いから殺したいとか、個人のレベルで言えば、殺人をして首をとって持っていってしまったりとか、凄惨な事件が非常に多い。本当に人の心がなんでこんなにすさんでしまったのかなあという思いがします。そして世界を見れば、自分になんの関係も無い隣の国に自分の主義主張に合わないからといっていまだにプーチンのロシアが戦争を続けている。中国でも少数民族に対してひどい弾圧を加えている。その他ミャンマーでもそうですし、その他あちこちで本当に戦争ばかり起きている。北朝鮮ももちろん。あとまたこのものすごい暑さ、日本だけじゃなく世界中が暑い。ハワイなんか島の半分が燃えちゃっているぐらい、大変な災害が起きています。
 私たちの信仰では、これらの出来事はすべて神様からのメッセージだという風に受け止めているんですね。神様はなんでこんな苦しいことを、皆に試練を与えるんだろうか、あるいは人間の心がなんでこんなにすさんでしまっていることに、神様はなんでこんなことを世界に見せるんだろうかということをずっと考えておりました。そしておさしづを一所懸命に読んでいきました。おさしづというのは神様の言葉が記録になったものですが、その中に私なりにこれだなあと思ったのがあるんですね。
 私どもの信仰というのは、心通りの守護ということを教えられています。その人間の心通りに神様が御守護くださる。悪い心を使うとその悪い心に対してのメッセージをくださる。これがおそらく病気であるとか色々なつらい事情が起きてくるということでしょう。あるいは、本当に優しい心、人のためになるような心を使っているとその心通りに神様が本当その人に幸せをくださる。身体は神様からの借り物、心は人間が自由に使ってよい。その自由な心を神様の思いである陽気ぐらしの為に使う、これが神一条ということです。その神一条の心を基準として、心づかい通りの守護を下さる。これが心通りの守護と言うんですね。ところがあちこちの神社では、願い通りの守護というのを求めています。お願いして家内安全、無病息災、商売繫盛、それでお札を買ってお金を出してお願いしてなんとか助けてください。そうするとお金がない人お札もない人は助からないことになっちゃう。この親神様の教えとまったく違う。
 つまり、普通の社会では願い通りです。お願い通りに助けてください、というのが神様だと思っている。だから試験に受ける時は神様に試験に受けさせてください、合格させてください、くじを買う時には宝くじ神社なんてあるそうですけれども、神社へ行って宝くじに当たるようにお願いする。これは願い通り、思い通りの守護。神様はそんな都合よくしてくれないんです。心というものの使い方を皆ちょっと間違えているんだなあ、と思います。神様にこういう言葉があります。
 「神様ってあるんですか?」とある人が教祖に質問した。そうしたら教祖がその人に対して「在るといえばある。無いといえばない。願う心の誠から、見える利益が神の姿やで。」(正文遺韻)とおっしゃった。
 神様ってあるんですかと聞いた人に、まあ在るといえばあるよ、無いといえばないよ、その人がお願いする心の誠に見えてくる利益、ご利益が神の姿だとおっしゃった。願う心に見えてくる利益が神の姿とおっしゃったんじゃない、願う心の誠に対して神が見せてくれた、利益が神の姿やとおっしゃっている。これどういうことかというと、自分が「神様助けてください」という風にお願いした時には、神様はそんなものは受け取ってくれない。自分のことではなくて、「神様どうかあの人に助かってもらいたいんです」という風に人のために願う心の誠、この「誠」というのは「人のため」ということです。
 いつも言うように、人を助けるということが誠。だから誰かを助けてください、あの方を助けてください、神様お願いします、と言うと、これは神様にしてみたらばその人に誠があります。他人のために祈っているという。そうすると、その他人にご利益が出てくる。神様はその人を助けてくれることになる。これが神の姿だよ、という風に神様はおっしゃるんですね。一つも難しいことじゃありません。


3.堪忍(かんにん)の心
 自分のことをお願いするな、先ほど諭達にもありました、「人救けたら我が身救かる」と書いてある。天理教の助かり方は、お願いすることじゃないんです。天理教の助かり方は、人を助けたら自分が助かる、だから自分が助かりたければ人様の役の立つことを、人様を助けることをしなさい。これは言葉でもいい、笑顔でもいい。何でもいいから、人が喜ぶことをしなさい。そうすればその人が助かるし、それをやっている人間に対して神様が「ああ、お前人のために祈っておったなあ、人のために手伝ったなあ」と言って助けてくれる。これが天理教の助かり方なんです。「人救けたら我が身救かる」、いくら神様を拝んだって、人を突き飛ばしたってそんなもの絶対助かりません。「人救けたら我が身救かる」、これが、この神様の実は一番の大事な所。これを元に、先ほどの人殺しをしたり、戦争をしたりしているのは何が足らないのかなあ、と。そしてそういう人たちに対して私たちはどうしたらいいのかなあと思った時に、こういうおさしづがありました。

「堪忍(かんにん)というは誠一つの理、天の理と諭し置く。堪忍という理を定めるなら、広く大きい理である。(中略)心に堪忍戴いて通れば晴天同様、一つ道と諭し置こう。」
(明治二十六年七月十二日 夜 前のおさしづに付願)

 堪忍というのは、これは辞書を引きますと、「自分の怒りを抑えて人の過ちを許すこと」だそうです。自分の怒りを抑えて、人の間違っていることを許すこと。これが堪忍。神様はその心を使いなさいと。つまり「堪忍というは誠一つの理、天の理と諭し置く。」、神様の心なんだよと。「堪忍という理を定めるなら」、私はこれからずっと堪忍します、という理を定めるなら、「広く大きい理である。」、そして「心に堪忍戴いて通れば晴天同様」、晴れた日同様、「一つ道と諭し置こう」。つまりね、あいつにやられたからやり返す、これは堪忍じゃありません。やられたとしてもその人を許して、自分の怒りを抑えてその人を許す、という心を持っていれば、誠一つで天の理と諭し置いて晴天同様、もう晴れ晴れとした心になるんだと言うんですよ。
 だから何か悪いことをした人に対しても常にその心を持って堪忍する心、そしてその堪忍する心というのはその人のためになる心。もっと大きく言うとですね、その人を助ける心です。自分に悪いことをしている人に対して、その人を怒らず、その人を許すということはその人を助けることになります。その人を殴ったり殺したり鉄砲撃ったりということではなくて、ということを考えますと、今この世の中で足らないのは、国家の指導者も、我々一人ひとりも含めて堪忍する心ではないかと。
 「堪忍」というのは非常にシンプルではありますけれど、つい忘れていたんじゃないかな、と。まず怒りを抑える。今怒りはどんどん出ちゃいますね。怒りを抑える。これは皆さん隣の人に対してもそうですよ。親が子に対してもそうですよ。子どもが悪いことをしたらば、親は怒りを持つけれどもその怒りを抑える。そしてその悪いことをしたことを許す。その心は実は親の心です。悪いことをしている子どもは分からない。悪いことをしている人間も分からない。そういう人に対して全部許す心、これは親の心ですね。


4.人を信じる心
 結局神様が求めているのは、我々に対して親である神様が、人間の親である神様が私たちに対して持ってくれている親心を皆で持ってくれよ、という意味なんですね。これを持つことによって、おそらく今すさんでいる世界もおさまって来るような気がします。私はたまたま弁護士という職も持っていますから、犯罪者に接することが多いです。その時に、昔の私だったら、何も教えを持っていなかったらば、「お前なんでこんなことをしたんだ」というところから入ってくる。ところがまず自分の怒りを抑えて相手の罪を許すというところから入っていくと、相手も本当に心を許して話してくれるようになります。
 これ自分の話ですが一つ面白い話をします。ある時、鉄砲を持っていたので銃刀法違反で捕まったということで国選弁護が私に来ました。それで本人に聞いたら、「いや先生、俺あれ警察にだまされたんだ」と言うわけですね。「どうして?」と聞いたら、銃刀法の検挙月間というのがあって、ピストルを集めている犯罪者の逮捕を強化する月間があった。元々前科者で警察官と仲がよかった(と本人は思っているわけですけれど)ので、ある警官から頼まれて、どこどこの家の軒の下にピストルが置いてあるから、それをお前拾ってくれよと頼まれた。自分はそれを言われたままに拾ったところで捕まった。だから私が元々持っていたんじゃありません。と言うわけです。本人がそう言うので、私は弁護士ですからそのまま信じて、法廷でそれを話しました。そうしたら向こう側にいた検察官がふんぞり返ってね、弁護人の私に対して「あんたそんなバカな話を本当に信じているのか」とこう言うんですよ。私は「大の大人がまじめに喋っているんだから黙って聞け!」と言い返したら裁判官が怒って、「直接二人でけんかするな」と叱られました。
 検察官にバカにされながらも、本人を信じて検察官とケンカをしながらその裁判を終え、本人に面会に行きました。そしたら本人が急に「先生悪かった」と言うわけ。「なにが?」と聞いたら、「先生に恥をかかせた」という。なんの恥だと言ったら、「あんなばかばかしい話を先生が信じるから」と。自分のことを信じてくれている弁護士が、自分のつまらないウソのせいで検察官にバカにされたので、「先生がバカにされて本当に申しわけなかった、あの話は全部ウソだ」と言うつもりになった。えっ、嘘かと思いましたが、私は本人にじゃあその通り話をしろ、と言って、次の裁判で本人が実はあれは嘘でしたと証言した。
 なんで話す気になったのかと聞いたら「俺のことを信じてくれている弁護士さんがバカにされたから辛くなって本当のことを話す気になった」と言いました。これを裁判官から見れば、まさにこの人は真人間になったわけですよ。本当に悪かった、人のために、俺のために信じてくれる人に恥をかかせた、ここで本気で真人間になったということが裁判官に伝わりまして、それでピストル所持だけでしたから執行猶予という刑をもらったことがあります。
 その時に私思ったんです。人を疑うというのは簡単です。何よりもだましている人が一番分かっているわけだから、こいつだましているということが分かっている。それでもこの人を信じていくということはやっぱり相手の心を変えるんだなあ、と。お前本当か?と思ってこちらが疑いながらやっていたら、おそらく彼は嘘を通し続けたと思うんです。ところが荒唐無稽な話を本気になって信じて、本気で弁論していたために、恥をかかせたと言って本人が心を入れ替えてくれた。
 そんな自分の仕事のことで恐縮ですけれども、やはり人を信じるということは相手の、犯罪者ですら自分の犯罪を素直に話すような気持になってくれるということです。そんなことを考えますと、先ほどの話に戻りますけれど、やっぱり自分の怒りを抑えて相手を許すというこの心を、やっぱり神様は一番大事だ、天の理である、と。これは誠であって天の理であるとまでおっしゃってくれている。ああ、やはり自分のやってきたことは間違いがなかったなと後で再確認をしたわけです。そういう心が今やっぱり足らなくなっているんだろうなあと。
 相手がやったことを許せないから殺してしまう。また相手の考えている、相手の国を許せないからミサイルを撃ち込んでしまう。ということを考えると自分の怒りを抑えて、まず、怒りを抑えて相手を許す気持ちになるようにせめて努力だけはしてみたら少し世の中は変わると思います。もっと言えば家庭が変わると思います。お互いがお互いを信じて相手の悪い所をこう決してつつかないで、そういうことが神様もそういうことをしなさいとおっしゃっている。であるならば、ひとつずつでも身近な所でもこういうことをやっていきたいなと思っております。
 そんなことでちょっとあまりにも世の中がすさんでいるように私は感じましたので、神様は何をおっしゃっているのかなあと調べたらそんなお言葉が出てきました。皆さん、自分の怒りを抑える、そして相手を許すという心をどこかで持ちながら、またこの一か月お暮しをいただきたいと思います。

 本当に暑い、災害級の暑さだと言われておりますけれど、それでもこうやって元気に来られるという、暑さよりもその暑さに耐えられて汗が出る身体をお借りしていることを感謝して、どんなことでも一つ喜んで暮らす。嫌なことを一つでも喜ぶということでお暮しいただきたいと思います。


 暑い中本当にありがとうございました。また来月どうぞよろしくお願いします。

2023年09月18日

2023年(立教186年)7月中元祭神殿講話 ~男女のへだてはない~

 今日は7月の中元祭をつとめさせていただきました。少人数ではありましたけれども、非常に陽気に、そして勇んでおつとめをさせていただくことができました。誠にありがとうございました。

1.はじめに
 中元というのは元日から始まって最後の大晦日の間までの半分が中元の日ということです。祭文にも書かせていただきましたけれども、三年千日が今年の1月から始まりました。1月から諭達も読ませてもらっていて、何度も読んだなあという気がしますがまだわずか6回。6か月ですから6回しか読んでいない。そしてこの諭達も三年千日、36回読ませていただくことになるわけですけど、この内のもう6回が、半年が過ぎてしまったということですね。三年千日と言いながら、実はあと2年と半分しかない。時の流れというのは本当に早いです。一日ぼーっとしても一日、一所懸命神様のことを考えながら、人様のことを考えながら暮らすのも一日。であれば、心を豊かにさせてもらうために、一日一日を喜んで、そして今苦しんでいる方たちのために祈りを捧げるという、こういう一日になっていただきたいなと思います。
 山陰地方は大変な大雨で、雨がやんでも土砂崩れが始まっているというような中、関東地方は猛烈な猛暑。命を落とされる方もいらっしゃいますけれど、せっかく神様がこの色々な節を見せていただいている中で、暑い中は暑い中で結構、喜ばしてもらう。河原町大教会の初代である深谷源次郎先生は、何でもどんな時も結構、結構とおっしゃるもんだから、京都で毎日雨が降っている時に、誰かが「会長さん、こんなに毎日雨が降っていても結構ですか?」と聞いたら、「いや結構だ。これがいっぺんに降ったら大変なことや」ということで、毎日雨に降られても結構と喜んでおられる。そうなると今、土砂降りの雨の中でどうやって喜ぶか、私は分かりませんけれども、そんな中でも喜びを探していくということ、それが私たちが信仰をしているという意味だろうと思います。


2.性同一性障害者に対する裁判
 最近非常に面白い裁判例がありましたので、今日はそれを元に教祖だったらどうされるかということを考えてみましょう。事件というのは性同一性障害の問題です。
 自分の身体的特徴は男なんだけれども、心は女性という方がいます。この人は好きでそうなっているわけではなくて、心が女性なのになんで男の道具(男性器)が付いているんだろうか、ということに本当に苦しんで、女性として生活をしていくことになった。そして着るものも全部女性の形をして、つとめ先の国の役所にも届けて女性として扱ってもらうということで暮らしていました。ところが、その役所が女性のトイレを使ってはならない、男性のトイレに行けという。本人がそれはとても無理だと言ったら、フロアが2つも違う所の一番端っこのトイレを使いなさい、普通の女性用トイレを使ってはならないと役所が命じました。それに対して、女性用トイレを使わせないのは不当だ、という裁判を起こしました。
 一審の東京地方裁判所は国が悪い、もうこの人は完全に女性の格好をして女性になっているんだから、女性トイレを使わせなさい、という判決を出したんですが、それを国が控訴しました。控訴審の東京高等裁判所は、一審とは逆に、国の処置は正しい、遠い所のトイレへ行かせることは悪いことではないという判決を出しました。その方が最高裁判所に上告をして、昨日判決がでました。最高裁判所は、小法廷5人の裁判官全員一致で、女性トイレを使わせないのは違法である、女性トイレを使わせなさい、ということで国が負けたんです。
 性同一性障害と言いますけれど、身体が男で女の心を持っている人、あるいは身体が女で男の心を持っている人。これも実は全部親神様が創られたんです。その人その人の徳分として与えられたものなんです。その立場にある人が世の中に今9%いるということです。約1割いるというんですね。そういう方々が1割いるということは今日この場に10人いらして、その中のおひとりが性同一性障害でもおかしくないということです。
 それに対して、世の中で社会的に女とみられるんだったら女として生きろ、男だったら男として生きろ、ということを強いられ、自分の本当の心を殺しながら生きていかざるを得ないということに対して、裁判所もそれはおかしいと認めてくれた。だとしたらそういう身体で、そういう心で生ませてくれた親神様に想いをいたせば、その方たちでなければできないことがあるはずなんだ、ということなんです。そういう方たちが裁判を起こしてくれたお陰で、これまで不当に扱われていた1割の人たちが、自分の本当の心のままに普通に生きていける、ということになるわけです。ですから、そういう方たちは神様がそれをお与えくださっているんだから、その徳分の中でどうか世の中を堂々と生きていっていただきたい。そして私たちはそういう方たちと一緒に暮らしていく。
 男だからといって粗いことばかりするわけじゃない、男だって細かいことをする人はいます。女だからと言って細かいことばかりじゃなく、粗いことをする人もいます。それは男だから、女だから、ということではなくて、その人がやりたいことをやったらいいんだよ、ということがこの教えです。そういう風に考えていただいて、親神様がそういう身体の方を創った。それは決して苦しむことではなくて、親神様がお与えくださったのだから、その身体の中で、その心の持ち方の中で世の中を生きていく。世の中には色々な人がいるということを認めさせるための大きな役割を担っていると思います。

 日本は日本人だけで構成されていると思っている人がいます。日本は単一民族だ、なんてばかなことを言っている無知な政治家もいます。日本は単一民族ではありません。縄文人から分かれたアイヌの方もいるし琉球の方もいるし、南方から本土に入った本土日本人いるし、そういう人が全部集まって、今の日本があります。そこに将来、さらに外国から来て、肌の色の黒い人も黄色い人も白い人も全部日本に集まってきて、その人たちが日本人として暮らす時に、あの人たちは外人だと言って分ける必要はまったくないです。日本人だって今、あの人は茨城県人だから、栃木県人だからと差を付けないでしょう。それと同じことを教祖は一列兄弟でやりなさいと言っているんですね。
 ですから人間として生まれた以上、その人達がどんな特質を持っていても、「男女の隔て無」いとおさしづで教祖ははっきりおっしゃっています。男だとか女だとかの隔てがないから、ましてや性同一性障害の隔てもないんです。それがこのおさしづの意味であろうと私は思いますので、そういう特質を持った方は一つも恥じることなく、そしてまたその人達を私達は決して差別・区別することなく、もっと言えば男が女を差別することなく、あるいは自分の女房を低く見ることなく、奥さんも自分の亭主のことを全く平等として兄弟として暮らしてもらいたい。親子の関係もそう。親は子を自分のものだと思っていたら大間違いです。親も子も徳分の中で生まれているわけで、人間関係においては親子でも、人間としての価値は全く平等です。


3.見えない世界の話
 ただし、親子でも全く平等なんですが、そこは実は教祖のおさしづの中に、

 「親というものはどれだけ鈍な者でも、親がありて子や。子は何ぼ賢うても親を立てるは一つの理や。」
(明治二十二年十月十四日(陰暦九月二十日)刻限御話)

というお言葉がある。これは簡単な話で、親と子というのは全く別なんだけれども、そして親があほだという風に子どもが親のことをちゃんと見抜きなさいよ、と。そして鈍なあほな親であってもその上でやっぱり親を立てる。これが一つの理。これが信仰なんだとおっしゃるんですよ。無条件に親に従えとおっしゃってない。そういうことでみんな知った上で、それでも平等ということ。あるいは知った上で親を立てる。これが信仰だと言うんですね。
 信仰というのは見えない世界の話。私達の言っている平等というのは見える世界の話。平等という話を理解していながらも、そんな中でも私は自分の意志で親を立てます。これが信仰ということなんです。皆さんの親が出直していたとしても、神様がいるしご先祖様がいるでしょう。うちの先祖はあほだったなあ、うちの親はばかだったなあとしても、その親のお陰で今の私がある。今のこの幸せがある。それを理解してご先祖・親を立てるということ。これこそがこの信仰の神髄なんです。親だから無条件に従いなさい、女だから男の言うことを聞きなさいなんてことを神様はおっしゃってません。そのことをしっかりと理解したうえで、実は亭主を立てている、女房を立てている。これが信仰なんです。お互い平等で相手を尊重しながら立てていくということ。信仰している以上、このことをぜひご理解いただきたいと思います。

 差別の話でもう一つ。日本では女性差別が深刻ですが、女性が男性から差別されるとどういうことが起きるかということを、国際的なチームで研究しているそうです。日本からは京都大学が参加しているそうですが、つい最近そのチームが大変なことを発見した。男女格差が激しい、強い所、つまり男が女は引っ込んでいろと言うような所では、女性の大脳の発達が弱いそうです。脳に障害が起きるそうです。つまり女性にとって不平等な環境は、女性の脳に悪影響を及ぼしている可能性が高いということがわかりました。女は引っ込んでいろ、控えめにしておれというようなことをしている国は、その女性の大脳の発達が遅いというんですね。そしてまた情けないことに、日本はどれくらい男女が平等かというと、世界中146か国ある中でなんと日本は125位だそうです。やはり日本ではそれだけ男と女の差別が激しい。神様がせっかく人間を創って下さったのに、その人間が環境の中で大脳が発達しないなんていうのはこれはとんでもないこと。これは男の責任でもあるわけですけれども、そういうことを男と女の差別なく、隔てなく、区別なく、皆一列兄弟、子どもとして人間としてこのおたすけの道を進めていかなくてはいけない。


4.男女の隔てなく
 そういったニュースを見て、教祖ならどうおっしゃるかなと。きっと「女性は控えめに」とか「しとやかに」といったことを教祖がおっしゃっているんじゃないかなと皆さん思われるんじゃないかなと思いますが、実はさきほどの話にも出た、すごいおさしづがあります。

「男女の隔て無く、一時に心澄み切りて通れば、男女の区別は無い。何名何人、こらどうもならん。道具に譬(たと)えて話する。粗い事するものもあれば、細かい事するものもある。又中程するものもある。この道理わからねばどうもならん。」
(明治31年3月26日 前日増野いとのおさしづより云々願)

 意味はですね、男女の隔てなんかは心を澄み切ればまったくないんだ、と。男女の区別はない。男が何名、女が何名なんて言っていることではどうもならん、それを道具に例えて話する。女は細かいこと、男は大きいことをするなんて言っているけれど、そうではなくて男でも女でも粗いこと、大きなことをする者もあれば、細かいことする者もある。また中間のことをするものもある。これは男女の性別ではないのだ、と。人間によって細かいことをする人もあれば粗いことをする人もある。男女は関係ないんだと。この道理わからねばどうもならん、とおっしゃるんですね。江戸時代、明治時代の男女差別が厳しい時に、我々の教祖は、こういう風に男女の差別はないと明確におっしゃっておられるんです。このお道においては、男と女というのはそれぞれ、神様が与えてくれた徳分だと言うんです。男にはない女の徳分、男はそれを尊重する。また女にはない男の徳分、これは女が尊重する。細かいことする男もあれば、粗いことする女だっている。その中間のものもいる。つまりこれは男とか女とか関係ないんだよ、ということをおっしゃってくださっているんです。
 私たちは今でこそ、男女差別は悪という価値観が主流である世の中で生きています。何より、私たちは教祖が女性であるということを特別視していません。教祖が男性だったらよかったのにな、とか、そうは思いませんよね。しかし教祖は、女性としての身体と心をお持ちであるところ、我々は教祖を人間の親として感じている。このように、皆さんにはそれぞれの徳分があるんだから、その徳分は尊重するけれども、それを差別にしてはならない。男女の隔てはならん、ということを教祖はおっしゃっている。さらにびっくりしたのは、心を澄み切っていれば男女の区別はないとまでおっしゃるんです。
 差別する人たちはよく、差別はしないけれど区別はします、なんて言います。いかにももったいぶって。教祖はその区別もいかんとおっしゃっている。私たちはこういう教えを信じているんですから、しっかりと教えを学びながら、この世の中でおかしいことはきちんと神様のおっしゃっていることを元にして、これを基準にして正していく。おかしいところはおかしいと言っていく。これが私たち信仰者の姿だろうと思います。


5.先進的な教え
 教祖140年祭の大教会の活動目標で考えるなら、「かしものかりものの教えを、報恩感謝の陽気ぐらしを」というのが私たちの教えなんです。誰かに我慢をさせたり辛い思いをさせたりすることなんかなにもない。どんなことでも喜んでいける陽気ぐらしというのを伝えていきましょうという、これがこの教えの神髄ですので、どうかどんなことがあっても男女の差別はもちろん、人間の差別も、年齢の差別ももちろん、要するに差別・区別は一切しない。年寄りも子どもも皆平等に。これが本当の一列兄弟という意味だろうと私は思います。改めてわかっておきたいことが、男だの女だの、教祖はなにもおっしゃってないということ。人間として皆の徳分を活かしてお互いを尊重しながら暮らしていきたいと思います。
 この国はまだまだ遅れています。教祖が身を隠されてから140年、立教してから186年も前からの教えを今頃この国ではようやく裁判所が認めるということになっています。これだけこの教えがいかに進んでいる、先進的な教えなのかということを改めて皆さん学んだ上で、しっかりとこの教えを身に着けるようにしていただきたいと思います。


6.100周年記念祭
 今月の祭文にも書かせてもらいましたけれども、今年の11月12日に百周年記念祭を日帝分教会としてやらせていただきたいと思います。まずこれは私の希望ですけれども、百周年の時にはやはりきちんと全員がおつとめ着でお道具全てが鳴るような数の御守護をいただきたいと思いますので、これから一人ひとり皆さんにお声を掛けさせていただきますけれども、どうか百周年の当日はお道具は全部鳴るようにしたいと思っておりますので、そういう努力をぜひ皆さんしていただきたいと思います。そしてまた細かいことについては皆さんでお決めいただくようにしたいと思います。
 これは日帝分教会からすれば実は感謝、私は教会の代表からすると100年間も続いてこられたのは皆さんの、信者さんのお陰で今日がある。また一方信者さんの立場からするとやはり日帝分教会があるからこそこういう皆で集まって楽しいお話ができるという場にもなっているという喜びと考えますと、この100年を一つの機会に、また改めてこれから先末代の道が続いていくような一日にしたいと思っておりますので、どうかよろしくお願いいたします。


 今月はどうもありがとうございました。暑い中本当に気をつけてください。

2023年09月18日

2023年(立教186年)6月月次祭神殿講話 ~喜びの種を探そう~

 今日6月の月次祭、普段はまだ梅雨に入っているかどうか分かりませんけれど、今年は全体に早くて、梅雨に入ってしまいました。今日は珍しい方も参拝にいらしてくださって、本当に嬉しい限りです。
 
1.豪雨で新幹線が止まった
 日々喜んで通る、大教会の三年千日の活動目標の一番最初に、「成ってくる天の理を素直に喜んで、日々陽気ぐらしをさせていただこう。」というのがあります。
 少し長くなりますが、今月私が体験したことをお聞きください。
 6月2日におぢばの憩の家病院の理事会がありました。朝は晴れており、お昼過ぎまで理事会をやりました。しかし理事会の最中に天理市に警戒警報が出ましたとか、出席者のスマホがあちこちでチャリンチャリン鳴ってるんです。何のことだと思っていたら、大雨が降って天理ダムの近くはもう山崩れの恐れがある、ということもあって、理事会も早く切り上げていただきました。そしていつものお弁当の他にお茶菓子も出て、普段はそのお茶菓子は食べずに置いてくるんですが、その時はなんとなくお茶菓子、バームクーヘン1個を鞄に入れて、近鉄に乗りました。
 そしてニュースを見たら、豪雨で西の方はもう電車が動いていない。京都駅で早い新幹線に乗り換えてグリーン車に乗せていただきました。新幹線が走っているので大丈夫と思って安心して乗っていました。京都から名古屋まですいすい走り、名古屋を出たあたりで「この先で雨が非常に多いので、徐行で走ります。」と放送があり、名古屋の次はこだまが停まる三河安城という駅があるんですが、そこの手前で電車が止まってしまいました。アナウンスで「今、川の規制値が上がっているから走れない。」、ちょうどそれが昼間の3時半頃。
 しかし、4時半になっても動かない。5時半になったら、「この先は大雨で走れないので、いったん豊橋まで行って、豊橋から名古屋まで戻ります。戻ってそこで運休になります、皆さん降りていただきます。」と放送された。慌てて名古屋のホテルに電話したんですけれども、全て、全部満室。ホテルに全く入れない。まあしょうがない、名古屋で降ろされたら降ろされたで仕方ないし、このまま動かなくなっちゃっても構わないしと思って、ゆったりしていたんです。
 そうしたら新幹線は各駅停車の駅の三河安城駅に入りホームに停まりました。でもこれは停車駅じゃないからドア開けない。ところがもう3時間も4時間も止まっていますから、突然車掌さんから放送が入りまして、「ただ今からホーム側のドアを開けます。開けますが、皆さんここから出ても新幹線も走っていませんし、在来線も走っていませんので、どこへも行けません。」という放送が流れ、思わず新幹線の中は爆笑でした。翌日は土曜日ということもあって、みなさん少し余裕があったのかもしれません。
 そんなわけでホームへ降りて、何かあるかと思ったら、小さな駅で売店も無いんです。それで仕方なくホームのジュースを一本買って、そこではっと気が付いた。先ほどのバームクーヘン1個持っている。きっと今日も明日もごはん食べられないだろうからとこれ大事に食べようと思って、夜中の12時くらいにバームクーヘン1個とジュースをゆっくり食べました。いつも言われるんですけど、ゆっくり食べるとおなかいっぱいになるというのでバームクーヘンを30分くらいかけて一口ずつ食べました。ジュースも飲んだら案の定お腹いっぱいになりました。ふだんいかに私が早く食べているかと自分で改めて感じましたけれど、そんなことをしながら家族にLINEを打っていました。そうしたら電池が無くなってきちゃった。これは大変だと思って、鞄変えたばっかりでね、いつもは携帯用の電池が入っているんですけれどみつからない。失敗したなと思って電源を切りました。念のためにと思ってもう少し鞄をごそごそ探してみたら、なんと入っていました。バッテリーが。大変に喜べました。
 そんなことをしている内に豊橋行く予定が、豊橋が大雨になってしまったために行けなくなったので、今日はこのまま動きません、と。ということは新幹線の中で寝るという意味です。ちょうどその日はグリーン車でしたからゆったりと休んで、ジュース1本とバームクーヘンを食べていたら「水を配ります。」というので水をいただきました。そうしたら「グリーン車の一番前と後ろでカロリーメイトを配ります。」たまたまグリーン車の前でしたからすぐいただきまして、そんなことで食事の心配もせずに一晩そこで泊まれました。3時半から翌日の朝7時半ごろまでまったく動かない。そこから東京へ行けるのかなと思ったらもう豊橋も箱根もダメだから行けません。それでやはり名古屋へ戻り、そのまま新大阪まで戻ります、という話になりました。皆、東京帰りたい人ばかりですから、もうイライラはしているんですけれど、それでふと、こんな中でも喜べることがあるかなあと思ったんです。

2.喜びの種をさがす
 あらためて考えてみれば、私が京都まで来て新幹線に乗れなかった可能性もあるんです。新幹線に乗れなかったら京都駅のホームでも大騒ぎでどこにも動けない。近鉄も止まっていますから天理にも行けない。そうすると新幹線に乗れたというのがすごくありがたいなあ。そして、その日に限ってグリーン車に乗っていたのも本当にありがたいなあ。バームクーヘンを持って帰って本当にありがたかったなあ。また、乗客の皆さんがエコノミー症候群になるといけないというので、ドア開けてホームで歩いていいと言われたわけです。そのお陰で自動販売機でジュースが一本買えて、これは本当にありがたかったなあ。また、鉄道の好きな孫からLINEが入ってきて、「おじいちゃん今新幹線でものすごい珍しいことが起きている」と言うんです。新幹線が三河安城でみんな停まってしまいました。上下線と追い越し線の上に4両がきれいに並びましてね。そして4両の間で行き来をするために開けたドアにはしごをかけた。これが「めざし」と言いまして、鉄道ファンにとってはもう垂涎ものの光景だそうです。孫から送って来たLINEでこの電車、おじいちゃんが乗ってる電車だ、こうなってるよと、そんな珍しいことを見せてもらいました。
 また、翌日は豊橋から名古屋へ戻るということで上り線を走りながら名古屋へ下って戻るという珍しい体験をしました。名古屋で、「皆さん東京へ向かう人はここで降りてください、降りてそこからの方が早いです」という放送があったんですが、降りようと思ったら隣の人が全然降りる気配がない。あれ、なんだろうなこの人と不思議に思っていたら、ふと気づきました。そうか、名古屋で降りたって新幹線は大阪や京都から来るんだからと思って、そのまま降りずに京都まで戻ったんです、乗りっぱなしで。京都で降りて、駅員に「この電車降ろされちゃったけど」と話をしたら、東京まで行けずに京都に戻ってきたわけですから、運賃が全額返ってきました。グリーン車代も、特急券代ももちろん返ってきました。もし私が名古屋で降りていたなら、運賃は一切返ってきません。名古屋で降りないで京都に戻ったことが、これまた大変な御守護。鉄道ファンから言わせれば、「新幹線ホテル」にタダで泊まって、名古屋まで行ってタダで帰ってきたということになるわけですね。
 そんなこんなで、さあ京都で喫茶店でも入ろうかと思ったら喫茶店が長蛇の列。全員降りているわけですから。しょうがないと思って新幹線の切符を買おうと思ったら最終便まで全部だめ。困ったな、どうしようかなと思って、本当に一瞬東京に歩いて帰ろうかと思ったぐらいでした。そうしたら「そうだ、伊丹に空港がある」と思いつきました。京都から伊丹行きというバスがあったんです。予約をしたら20時の航空券が取れたんです。それでバスに乗って伊丹へ行き、20時前の便が取れないか、キャンセル待ちをしました。すると幸運にも順番が繰り上がり、3時間も前の17時の飛行機に乗れました。家には19時ちょっと前には帰れました。
 今考えても、新幹線でまず京都に戻ったことが良かった。降りて全部お金を返していただきました。さらにそのお金にちょっと足すだけで飛行機に乗れました。そして飛行機も早い飛行機に乗れた。そして新幹線もすごい珍しい列車の「めざし」なんていうのを自分の列車で体験できた。つまりこういう話のタネになることができた。
 考え方によれば、今回の出来事すべて不足だらけにもなります。新幹線で帰れるはずが帰れない。新幹線で寝かせられた。さらに新幹線で戻らされた。その次の新幹線もいっぱいで帰れない。しかし名古屋でもし降りていたら、皆さんテレビのニュースなどでもご承知かと思いますが、名古屋は駅の前まで人があふれて、とても切符が買える状況になかったそうです。名古屋で降りていたらもっと大変だった。空港に行くこともできない。東京へ飛んでいる飛行機もない。そうやって一つひとつ見ていくと、全部が実はありがたくてうれしいことだったなあという風に思えるんですね。また、おぢばの憩の家の理事会に行ったら「こんな(台風の迫っている大変な)日に東京から来たんですか」と非常に感謝され喜ばれました。そんな中でも、一つひとつでどんなひどい状況の中でも喜びの種というのはあるんだなあと感じたわけです。

3.成ってくる天の理を素直に喜ぶ
 今日参拝に来られた方で交通事故に遭われた方もいるし、手術もされて色々な身上をいただいている方もいるけれども、そんな中でも喜ぶ種というのはいっぱいある。そうしたら苦しいもの、つらいものをつらいだけでついてなかったと言って不足するか、こんな中でも喜びの種を探すか。
 先日、交通事故(追突事故)に遭った方がおっしゃっていましたが、もしおふくろがあの車に乗っていたら、後ろの座席に乗っていたおふくろは死んでいただろう、そうすると事故には遭って、自分もかなりの怪我を負わされてしまったけれども、母親が死ななかっただけでとても喜べる。そもそも自分だって死んでいたかもしれないところ、それが大難が小難で済んだ、ということを一つひとつ喜ぶことができます。
 ちなみに、こういうことは、つらい時に人に言われるとかえって頭に来るものですから、喜ぶというのは、つらい時に自分で考える。自分で一つひとつ、喜びの種を探していくと、どんなことでも喜べるようになる。これが「成ってくる天の理を素直に喜んで、日々陽気ぐらしをさせていただこう。」という意味なんですね。この神様は三年千日しっかりやれば御守護をやると、10年分の御守護をやるとおっしゃってくださっています。ぜひ皆さん、喜びの種を探して、教祖に感謝をして、そして一人ひとりが人間として心を大きく成長させていけるよう、この3年間お暮らしていただけたらと思います。ぜひお願いしたいと思います。

4.日帝分教会の創立100周年
 それとあと一つ。とんでもないことに最近気付きました。なんと今年は日帝分教会の創立百周年なんです。日帝分教会は大正13年4月24日のお運びで教会設立が許された。そのお運びからちょうど丸百年。そうすると今年一年がこの日帝分教会の百周年ということです。昨日それを子どもに言われて初めて気が付きました。
 皆さんご承知のとおり、初代が高宮のぶ先生、二代が亀田儀八先生、三代が私の母の羽成芳枝先生ですが、私どもは初代さんを存じあげない。そんなことからついつい日帝分教会の創立ということは、ちょっと頭の横にあった。しかし今、我々にはこういう風にして毎月神様のお話を聞く機会が、こういうおつとめをさせていただく場所ができている。これらは全部初代さんあってのこと。その初代さんからなんと百年目というめでたい年が今年なら、何か記念になる百年目にしたいなと思いました。カレンダーを見ましたら11月12日が日曜日なんですね。今は私の胸だけで考えていることですが、その11月12日に百周年をやらせていただこうかなと。ただし、これは一人でできるものではありませんから、ぜひ皆さんと気持ちを合わせて、どういう百周年にしようかということを考えていただきたい。私たちが今つながっている日帝分教会の百周年を、なんとか実のあるものにしたいと思っております。
 そんなことで教祖140年祭の三年千日の一年目が我が分教会の百周年です。こんなおめでたいことはないので、ここからも心勇んで喜んで、一つひとつやらせていただきたいと思っております。皆さんのご意見を聞きながら、実のある百周年にしていきたいという風に思っておりますので、どうかよろしくお願いいたします。

 本日は足元の悪い中皆さんお集まりいただきまして、本当にありがとうございました。またこの一か月、喜んで喜んで、一つひとつ喜びの種を探してお暮しいただきたいと思います。

 本日はどうもありがとうございました。

2023年08月19日

2023年(立教186年)5月月次祭神殿講話 ~嬉しさ、喜びを子どもに伝える~

1.3年ぶりの自由
 ただいまは5月の月次祭を賑やかにおつとめいただきました。誠にありがとうございました。
 今日おいでの方は、全員4月29日おいでになりましたけれども、全教一斉のひのきしんデー、3年ぶりに開催されました。
 今年の1月26日から、教祖140年祭の三年千日が始まったのですが、考えてみると今月の5月8日です、4日前にコロナの特別の対応もなくなりまして、普通のインフルエンザと同じになった。これ、ちょうど3年ぶりですね。
 この3年間、皆さんも色々と生活が変わったと思いますけれど、私も自分を振り返りますと、この3年で本当に変わった。3年前のコロナが始まる前までは、例えば私は弁護士という仕事もしていますけれど、仕事があれば平日は夜9時でも10時でも11時でも12時でも仕事をやって、それから食事をして帰ってくる。そんなことでしたから、一日がものすごく長かった。その代わり、仕事の疲れってあまりなかったんです。
 ところがコロナになりまして、事務所を夕方5時に何が何でも出る、帰ってくる。外食できませんでしたから、夕飯は家で食べるということになりますと、5時には事務所を出なくてはいけない。そうすると、今まで際限なくやっていた仕事が、何はともあれ5時までには終わらせなければならない。同じ仕事量で5時に終わらせるためには、ものすごい時間がきつくなるわけです。今までは倍の時間でやっていたのを半分で終わらせる。そうすると頭はフル回転します。本当に久しぶりに、ものすごく疲れました。でも頭を猛烈に使ったということでむしろ気分としてはさわやか。そして夕づとめにも間に合う。それまで、夕づとめを自分でつとめるなんてことは考えてもみませんでしたけれど、5時に帰ってくれば、今は6時の夕づとめに間に合うわけです。
 この3年間、お酒も外で飲まない。家での夕飯であれば、ビールをご飯の時に缶一ついただくくらいのもの。そうしましたらこの3年で、本当にありがたいことに、身体がとても良くなりました。無駄なアルコールを飲まなくなった、ということでそれまで肝臓が脂肪肝といって、アルコールで肝臓に脂肪がいっぱいついていたんですけれど、その脂肪肝までもが消えてしまう。私は昨年後期高齢者になったんですけれど、後期高齢者で普通の人ならばリタイアしてじっくりのんびりというところが、そんなコロナのせいで、今まで以上にものすごい頭を使わせてもらう。そして早く帰ってくる、夕飯は家で食べる、お酒もそんな飲まない、ということでこの3年間本当に私にとってはありがたいといいますか、神様が与えてくれた一つの良い機会であったなあと思っています。
 おぢばの参拝も、今までは定められた人たちだけが神殿に上げていただく。ネクタイをしてワイシャツを着て、はっぴを着て1枚の畳に2人ずつという非常に厳格でした。おぢばに行っても月次祭は神殿に上がれませんでした。それが今はもう自由に上がれるようになりまして、参拝もできるようになった。
 神様は、ちょうどこの3年間不自由な生活を教えてくださって、ちょうど140年祭の三年千日が始まってから自由に動いてよろしい、自由に人と集まってよろしい、自由に人と話してもよろしい、ということにしていただいた。この3年間の不自由が元に戻っただけのことなんですけれど、本当にこれは気分が良いし、楽しいし旅行にも行けるし、夜も飲み屋さんにも行ける。コロナの終わったこの現在の状況が今まで当たり前のことだった。その当たり前のことを、親神様はどれだけ当たり前がありがたいことかということを教えてくださったんだろうな、と考えます。そしてまたその当たり前になった日から3年間、140年祭の三年千日が始まったと考えますと、やはり神様は我々に目を覚ませるようにしっかりと3年つとめるようにということをお教えくださっていると思います。

2.3年間の辛抱
 そして毎月読ませてもらっているこの諭達第4号にしてもですね、本当は毎日毎月、我々はしっかりと信仰させてもらわなければいけないんだけれども、教祖は毎日毎日はできないだろう、と。教祖が通られた50年の内のたった3年で良い。3年間せめて教祖が通られたひな形の道を通れ、しかし3年でも私たち人間には教祖のような通り方はできません。だとすれば、せめて心だけでも教祖の心に沿って3年間暮らしてみたらどうだろうかと私は思うんです。教祖はどういう風に通られていたんだろうかと、いつも教祖の心を考えながら3年通る。たったそれだけのことで、実は大変な御守護をやるぞということを教祖がおっしゃってくださっているんですね。

おさしづに、こういうおさしづがあります。

「三日の辛抱したら、今の三つが、三日経てば何ぼに成るやら分かりゃせんで。一日々々の日が近寄る、何処から見ても出るも、ほんに見るも、ほんになあと言う日は、まあ三年の間や。三年経てば、偉い事に成るのやで。三年の道は直きや。」(明治二十二年十一月七日 午後十時四十分 刻限御話)

 一日一日3日の辛抱したら、すなわち、3年の辛抱したならば「何ぼに成るやら分かりゃせんで。」とおっしゃってくださっている。そして3年の辛抱は「三年経てば、偉い事に成るのやで。三年の道は直きや。」つまり人間が考えているような本当に大変だなあつらいなあ困ったなあということがこの3年間、私たちが丁寧にしっかりと3年間辛抱して教祖のお考え、教祖が通られた道を、3年間通ろうということをしただけで「偉い事に成るのやで。」しかも「三年の道は直きや。」とおっしゃる。確かに三年千日が始まって1月からもう今日で4か月経ってしまいました。そうするとあっという間にこれは1年経って2年経ってということになります。だとすれば、その3年間しっかりと教祖のお心を旨として、それをしっかりと通らせていただければ、3年経ったら「偉い事」になる。
 「偉い事」というのは、今やっている戦争もすっかり消えるでしょう。私たちもコロナが3年でぴしゃっと終わると思わなかった。教祖は3年間だけ大変なことを見せて、さあいよいよこれから三年千日という時にぴたっとコロナを収めてくださった。我々は自由になったんだから、しっかりと教祖の思いで行動することができるはずですね。そんな風に考えますと、このコロナの3年で私たちに日常がどれだけありがたいかを教えてくださった。そしてさあ自由にしていいぞと言われたら、その自由になったものをただ遊びに回すんではなくて、教祖だったらどういう風にお過ごしになるだろう、お暮しになるだろうということを考えながらの3年、その3年間それを考えるだけでも大変な事になる、「偉い事」になる。しかもそれは3年は「直き」(すぐ)だぞ、とおっしゃってくださっている。それをしっかりと私どもも心に納めまして、三年千日、改めてしっかりと通る気持ちでいたいと思います。

3.親のお陰で今の私たちがある
 この諭達も、去年の10月秋季大祭に出された日にこれを読んだ時にはやっぱり感激しました。しかし今読んでみてもだんだんだんだん当たり前になってきている。これがだめなんだとおっしゃるんですね、神様は。そのいつもいつもその初めて神様の話を聞いた時に感動したその思い出を、改めて毎日毎日しっかりと思い返して通るようにしろ。人間がついだれてしまうところを、3年間だけだれずにかんばりましょうということを教えてくださっている。この親心に私たちもしっかりとお応えして、この3年を通らせてもらいましょう。そうすれば、世界中がまず平和になる。また、一人ひとりが持っている悩みもきっときれいになくなる。そして何よりも、何を見ても喜べるような自分の心が作れることになるかと思います。きっとそうやって、私たちの先人、親たちはこの三年千日を喜んで通られたんだと思います。だったら私たちも、親がどれだけ3年間頑張ってどれだけ喜んできたか、そしてその親のお陰で今の私たちがあるということを考えていくと、この嬉しさ喜びを子どもに伝えていかなきゃいけません。そういう三年千日にしたいと思っております。

 これからはまた暑くなる時期で、体調も崩しやすくなると思いますけれど、心に喜びがあれば体調は崩れないそうですから、ぜひ心に喜びを持って、この一月間お暮しいただきたいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2023年07月04日

2023年(立教186年)4月教祖誕生祭神殿講話 ~真の心からの互いたすけ合い~

1.教祖御誕生祭
 今月4月18日は、祭文でも読ませていただきましたけれども、ご存命の教祖の225回目のお誕生日です。教祖は身を隠されたけれども「存命のままでいるのやで」とおっしゃられて、この4月18日に本部でもお祝いをさせていただきます。 当教会からも私と娘で行かせてもらいますけれど、この4月の誕生祭というのは本当に明るくて、月次祭が終わった後中庭に集まって天理小学校の子どもたちが教祖におめでとうのお祝いの言葉を述べて、それから皆さんで、教祖のお誕生日の歌を歌うという非常に明るい楽しい誕生祭です。
 この楽しい誕生祭というのは、教祖がお生まれになった日ですけれども、我々はその教祖から教えをいただきました。そしてその教祖に対してのこの御守護をいただいている、丈夫な身体をお貸ししていただく、あと何不自由なく暮らしていけるというこの御守護に対してお礼をさせていただきたい。それがひのきしんというものです。
 ひのきしんというのは何のためにするかというと、神様に対する御礼ですから、誰かを助けるのもひのきしんだけれども、その方に御礼を言ってもらうのが目的じゃない。自分が教祖に対する御礼をさせてもらう形がひのきしんですから、どんなことでも親切にさせていただく。「やってあげる」ではなくて「させていただく」という思いでお助けをしていただきたいと思います。

2.真の心からの互いたすけ合い
 そして、今月の29日は、3年ぶりに皆集まってのひのきしんデーが復活します。当教会でもいつもどおり水元公園でひのきしんをさせていただいて、その後楽しく飲んで食べていただいてということで、一日ゆっくりと、健康な身体をお貸しいただいている喜びと共にひのきしんをさせていただきます。
 ひのきしんは、今、私たちが健康な身体をお貸しいただいていることに対して、神様に御礼を申しあげる。その御礼の申しあげ方が、お互いがひのきしんをさせていただくこと、これが互い立て合い扶け合いという意味なんです。
おさしづに、こういうものがあります。

「互い/\の扶け合いの心、人を救けるから、誠の処分かる。」(明治二十年植田長三郎四十三才願(十市郡下村講元)
 
 互い互いが扶け合いの心で人を扶けるからこそ、誠だということが分かるんだ、と。そして、

「互い扶け合いやと、口で言うばかりなら、扶け合いとは言えようまい。真の心からの互い扶け合いは一度に受け取る。」(明治二十七年二月十四日(陰暦正月九日)夜刻限

 「互い扶け合いやと、口で言うばかりなら、」これは「扶け合いとは言えようまい。」こんなに扶けて偉いだろう、ということではいけない。「真の心からの互い扶け合いは一度に受け取る。」と神様がおっしゃっている。真の心から出たお互いの扶け合いは、神様が一度に受け取って全部御守護をやるぞとおっしゃってくれている。お互いが身近にいる人に対しての扶け合い、一所懸命に扶けさせてもらうだけで、こちらを扶けてくれという見返りを求めない。
 先程言ったように扶け合いは神様に対する御礼ですから、それで神様への御礼として扶けさせてもらう、そしてそちらの方も神様の御礼として扶けさせてもらう。これが互い扶け合い。これが真の心からの扶け合い。これをすれば神様は一度に受け取ってやると、全部まとめてお前たちの心を受け取ってやると。神様が受け取ってくれるということはまた大変な御守護をくださるということですね。

 ですから、この真の心を持った互い扶け合いということで、この一か月間お過ごしをいただきたいと思います。

2023年05月29日

2023年(立教186年)3月月次祭神殿講話 ~三年千日の目標~

 今日はあそこに皆さん貼ってあるのを読んでいただいていますか?

 教祖140年祭の活動目標。これは今日おいでいただいた中根大教会長 日高彰先生の直筆です。本当にきれいな字ですが、しかしみなさん、字ではなく中身をちゃんと読んで下さいね。

① 成ってくる天の理を素直に喜んで、日々陽気ぐらしをさせていただこう。
② 貸し物借り物の教えを、報恩感謝の陽気ぐらしを伝えさせていただこう。
③ 三年千日で一千名のおぢばがえり、二百名の別席者の御守護をいただこう。

 これは日高先生が、三年千日における中根大教会としての目標を作るということでお定めになったことです。特に最後の「三年千日で一千名のおぢばがえり、二百名の別席者の御守護をいただこう」というところが大切です。
 中根大教会の部内教会をこの数で割りますと、概算で毎月日帝分教会では2人のおぢばがえり、そして別席者二百名、これは中席の方も含めてだそうですので、別席を運んでいただくのは、一年間で6人ですね。その数を行っていただければ目標達成できる。
 今日これから日高先生にお話いただきますけれど、それをしっかりお聞きいただいて、どうか皆さん、おぢばがえりしましょう。私は毎月帰っておりますし、先月も4名、私を入れて合計5名、今月もすでに5名で帰らせていただくことになっております。そんなことで、ぜひあの目標を超えるような成果を日帝分教会として出したいと思っております。
 別席者で席札調べましたら、七席まで来ている方が何人かいらっしゃいます。あと二つで満席です。今日来ている中にもいらっしゃいます。真柱様からおたすけ人のお許しをいただくということも含めて、ぜひこの三年千日の間に日帝分教会として実績をしっかりと積ませていただきたいと思います。

 どうぞよろしくお願いいたします。

2023年05月29日

2023年(立教186年)2月月次祭神殿講話 ~宗教2世について~

 ただ今は2月の月次祭を陽気におつとめいただきました。
 
 おつとめ12下り前半は新小学6年生のA君ですね。後半は新中学1年生のS君がおつとめいただきました。彼らの勘の良さも素晴らしく、感心をしますけれども、何よりもおつとめをしてくれたという気持ちが本当に嬉しくて、神様にもお喜びいただいていると思います。

1.被害者救済法について
 そこで今日は、旧統一教会で信者さんの子どもたち、あるいは信者さん自身もですけれども、非常に被害を被って、被害者救済法(法人等による寄附の不当な勧誘の防止等に関する法律)という法律ができました。このことについてお話をしたいと思います。
 「宗教2世」という言葉がよく出てきます。宗教2世というのは、親が信仰していて、その子どもが親の信仰の犠牲になっているという意味ですが、宗教2世という言葉で言いますと、実は私たちは全部宗教2世です。
 簡単に言えば、例えば天理高校に行っている子は全員宗教2世です。自分自身の意思だけで天理教の信仰に入った子は、一人もいないでしょう。同じように創価高校もそうでしょうし、あるいは立正佼成会の佼成学園もそうでしょう。場合によってはクリスチャンの学校もそうかもしれない。そうやって考えてみると、宗教2世とは言うけれども、私たち自身は全部2世。例えば皆さんはお墓は天理教式でやってますから教会につながっているということですけれど、例えば仏教の方ですと全部檀家さんとして○○寺にいる。親が亡くなればその○○寺でその法事をしてもらう。あるいは葬儀もそのお寺でやってもらう。というようなことを考えると、それは全部親が決めたことであって、子どもが決めたわけではない。
 また、皆さんのそれぞれの家の親の教えというものがありますよね。他の家はどうか知らないけれど我が家ではこういう風にやるんだ、と。例えば食事は必ず全員揃ってから、いただきますと言ってから食事をいただく。あと皆が終わるまでは勝手に立ってはいけない、とか。お風呂は歳の順におじいちゃんおばあちゃん、それからお父さんお母さんに入ってもらう。これは別に封建的でもなんでもなくて、家のしきたりとしてそういうことをやってる家はあると思うんですね。ところがそれは全部親から押し付けられたダメだ、というわけではないですね。学校だって親が「ここが良いよ」と言って子どものためにその学校を勧めてそこに行く。
 そうすると、単に親が何かを信仰しているからその信仰を押し付けられるということがダメだと、そういうことを言っているのでは実はないんですね、この被害者救済法というのは。信仰、信教の自由というのは憲法にもありますし、それは子どもにも皆、お父さんにもお母さんにもある。問題なのは、その親がしている信仰が、子どもの人生にマイナスの影響を与えるような、例えば学校に行きたいのに親が全部財産を寄付してしまって、献金をしてしまって子どもの学校が続けられない、ということなんです。
 例えば昨年、元総理大臣の安倍さんを銃撃して殺害した犯人とされている人も、自分が学校生活、大学生活を続けられない、これは親がこの信仰をしているからだということで、その信仰をいわば保護し、あるいはその信仰を利用してきた人であるということで安倍元総理を銃撃したということが言われています。つまり、今問題になっている宗教2世というのは、親の信仰を、実は親も被害者なんですが、その信仰によって子どもの生活が全く成り立っていかない、そんな信仰はダメだということで宗教2世という言葉が使われているんですね。
 しかし、その親もどうかというと、親も実は被害者。今回の被害者救済法の中にありますけれど、ありもしない霊感的な怖い話をする。あるいはこれを信じないとひどいことになるといった脅迫的な言葉を使って信仰させてはいけない、また過大な献金、寄付をさせてはいけないということがありますけれど、それはあくまでも騙して、他の宗教に行ったら地獄に落ちるとかそういう霊感的な話をして寄付をさせるというようなことはいけないと言っているわけで、そういう被害者である親の子どもも本当に被害者になってしまうわけです。そのために子どもを助けるんではなくて、その子どもを守っていた親が、そういう違法な、いわば犯罪的な集団が宗教の名前を被ってやっているわけですけれど、そういう所の被害者にならないように、それで親がしてきたことを取り消しができるようにしようというのが被害者救済法なんです。
 ところが、世の中で不信心な方、宗教をあまりしっかりと理解していない方、あるいは親と子の関係が希薄な方からすると、この被害者救済法を、親が何はともあれどこかに寄付をするということ、お寺に寄付をしたり教会に寄付したりすること自体をとらえて、そういうこと一切について、子どもであれば全部返してもらえるんだという風に誤解している人がいます。この法律はそういう法律ではなくて、この法律は「この教えを信じないと地獄に落ちますよ」とか「これを買わないと一家が悲惨なことになりますよ」といったありもしないことで脅迫をして、あるいは相手を不安に陥れて献金をさせてはならないということが書いてあるわけです。弁護士の立場から言うと、普通の法律でも人を騙してお金を取るのは全部犯罪ですし、返してもらえるわけですから、殊更に法律を作らなくても十分に対応できるわけです。ただ、安倍さんの一件もあって、旧統一教会の被害者を救済するための法律でも作らないと到底世論が収まらないということで、時の政権与党が急ごしらえでとりあえず分かりやすい法律を作った、というのがこの被害者救済法なんですね。

2.宗教2世について
 そうすると、先ほど申しあげた宗教2世というのは、宗教そのものが悪いんではなくて、親が騙されて被害者になったためにその親の財産を全部、いわば教団に奪い取られて、そのために子どもがまともな生活ができない、こういうことを防ごうということなんです。ところが今までの旧来の家の信仰、それぞれ家のお寺も檀家もそうですけれども、これは親自身も代々、あるいは親自身が納得してその信者さんになったり檀家になったりしたわけですけれども、そういう親については、その子どものためにと親がお墓を買う、あるいは葬儀をする、あるいは法事をする、年祭をするといったようなことについて、子どもは別に被害者でも何でもない。ですから普通の信仰については今回の宗教2世という言葉は全く関係がないんです。ところがついつい信仰をしていない、親子の縁が薄い方にとっては、親がどこかに寄付した、あるいはどこかの教会にお供えした、どこかのお寺にお供えしたものについてこれを全部取り返すことができるという誤解をしている向きが結構あります。テレビなんか見ていると思いますが、この法律はそういうものではありません。
 私で言うと、私は宗教2世です。2世というか3世か4世か分かりませんけれど、親代々の信仰です。何となく疑いを持ちながら、でも親を見ていると親が本当に幸せそうだし、この親は神様のお陰で今日があると非常に喜んでいる。子どもながらにそれを見てああこれはきっと良い神様なんだろうなあということで、親に言われたから最初は仕方なくやる。今日だって、もしかしたら仕方なくおつとめを手伝ってくれた人もあるかもしれない。それはあくまでも2世。ところが、その人たち、私も含めて、その親から譲り受けた信仰をしっかりと勉強し学んでお話を聞いて、私は心を作るために、心の成人をするために、人間として一回り大きくなるために、そして自由にならない身体を神様から自由にしてもらうように、自分の信仰として本当に信じていこうとなった時には、実はその人はその時点で初めて宗教1世になるんです。自分自身が信仰したことになるんです。人の信仰、親からもらった信仰だけではなくて、こういう教会に来ておつとめに参加をして、その中でこの教えはどういう教えなんだろうと学んでいって、「なるほどこの教えを信じよう」と思った時に、初めてそういう自分こそが宗教1世になるんです。

3.宗教1世になる
 私もそういうことがいっぱいありました。長いお話になりますので今日は簡単に申しあげますけれども、まず私も最初は天理教をそれほど信じていなかった。ただ親がやっているから信仰することになった。しかし教えが素晴らしい。本当にすごい教えだなあと大学時代にいろいろな先生たち、天理大学の先生も含めて皆さんから習ってきた。でも今一つなるほどとピンとこない。そういうピンとこない私に、神様が教えてくれました。
 例えば長男が生まれた時、長男が泣いても涙が出ない。涙管がふさがっていたのです。それで出産した病院では「お母さんは退院してもいいけれど子どもは残していけ。涙が出るまで入院させる」と言われて私と家内で教会に帰ったら、会長である母親にこっぴどく怒られて、「涙が出るまでただ置いておくだけなら、子どもをすぐ連れて戻してこい」と言う。「いや、先生がこう言ってるから退院できないんだけど」と言っても「ダメだ」と。それで子どもを仕方なく病院から連れてきて、母親、会長がおさづけをしてくださった。途端に長男がわーっと泣き出したら涙がポロポロ出るようになった。「すごいなあ、おさづけは効くんだなあ」と思いました。
 そして次男出産の時には、私の家内が育児ノイローゼになりました。静養のために弘前に帰して、弘前の病院で入院し通院していた。その時に私が弁護士として独立をするために貯めていた資金を、母親、会長が「それをお供えしたらどうか」と言うんです。これが強制ならまさに旧統一教会の寄付と同じですよ。私は、お供えしないで後悔するのも嫌だからと思ってそれを全部お供えをした。大教会に持って行った。その大教会の帰りに、本心ではお供えすることに納得できていない私は、せっかく一生懸命貯めていた独立資金を出さなきゃいけないんだろうと思ってムカムカして帰ってきた。そうしたら家に電話があって、大教会にお供えしたちょうどその時間にですね、家内が突然ゲラゲラ笑い出したというんです。次男を産んで鬱になって以降、笑うなんてことは全く無かった家内が笑ったのです。産後の鬱(ウツ)ですから、鬱の人間が笑うというのは治った証拠なんですね。ゲラゲラ笑い出したということで、お供えをしたその時間に見事に御守護いただいて治ったんですね。その時、これは神様いるんだなあ、と思いました。
 最後は三番目の娘の時。出産後、大学病院の教授が「お父さんちょっとこの聴診器聞いてごらんなさい」と言うので生まれたばっかりの娘の心臓の音を聞いた。そうすると「ドーン、シャーッ、ドーン、シャーッ」と、「ドーン」はまさに太鼓の音ですね。だから子どもはお母さんのお腹にいる時にこの音、心臓の音を聞いていたから、おつとめの時に太鼓が鳴っても全然起きない。なるほどお母さんの心臓の音は太鼓の音なんだと思いました。ところがその「ドーン」の後の「シャーッ」がいけない。なぜかというと心臓の壁に穴が空いている。心臓が「ドーン」と言うと、その時に血液が「シャーッ」っと出ちゃう。心臓の壁に穴が空いている。心室中隔欠損症というんだそうです。小学校の6年くらいになったら心臓の手術が必要だ、とこう言われました。それでその時にまた会長である母に言いました。次男の時にはお供えをしていますし、長女の時には何を言われるのかと思ったら、「お前、都合をお供えしろ」とこう言われましてね。都合のお供えってなんだと思った。都合のお供えはタダですから。気安く「はい」、と受けた。そうしましたら、私が仕事へ行こうとすると、母が信者さん宅へ行くのに車で送りなさいと言うわけ。ここで、「ちょっと都合が、」と言おうと思ったら都合をお供えしちゃったので言えなくなりましてね。やむなく仕事の方をキャンセルして車で何度か行きました。そうしたら本当に1か月くらいですね。また大学病院へ連れて行ったら先生が首をかしげていた。ああいけない、もっと悪くなったかなと思ったら、「聞いてごらんなさい」と。すると、「ドーン」というだけで「シャーッ」が無いんですね。先生が「治りました」と言ったんですよ。「まれにこういうこともあります。」と言っていました。私は親に言われた都合というのをお供えしただけで、子どもの心臓を手術しないで済んだと神様にお礼を申しあげました。
 それで、私みたいに天理教の信仰は素晴らしいと頭で理解していた人間が、見事におさづけは素晴らしい、お供えすると本当に御守護いただける、そして親の言うことを素直に聞けば心臓の穴もふさいでくれる、ということを体験したんです。そこで初めて私は神様はいるんだと思って本気で信じるようになったんです。それまでの信じ方はいわば嘘っぱち。形の信仰。そうすると私はその時に実は宗教1世になったんです。親の信仰ではなくて、自分の信仰ということで宗教1世になったと、こう思うんです。

4.親になるということ
 家が天理教をやっていたから仕方なくやる、中には嫁いできた夫の実家が天理教だったから仕方なく天理教やっている方ももちろんいらっしゃる。これは、今言われている宗教2世ではないけれど、それはあくまで押し付けられた2世。その中でも神様は「そうか神様はいるんだ」ということを必ず見せてくださいます。そうして初めて「ああ神様はいるんだな」と思って掴んだ時に、これは宗教1世になる。そういう風に神様は教えてくださっているんじゃないかなと私自身の体験で思うんです。ですから、今テレビで言っている宗教2世というのは、もちろん皆さん何も関係ありませんけれども、ただ落ち着いて考えれば全部○○家の2世なんです、私たちは。その○○家のしきたりを全部受け継いでいる。それを今度自分が子どもに教える時になって、「このしきたりは良かったなあ、このしきたりは伝えたいなあ」とつないでいったら、これはもう皆さん2世じゃない。皆さん1世になっているんだと。これが親になるということだろうと私思うんですね。
 ですので、いろんな環境、事情から押し付けられ、やらざるを得なくなったものであっても、それが自分自身、本当に嫌だったらきっぱりとやめましょう。ただ、自分が本当に納得して宗教1世になったならば、どこまでも人格が高まってくるわけですから、こんなに良いことはない。そういう風に考えましてね、今月は宗教2世という言葉が氾濫していて、言葉の意味が間違っているので、そのお話をさせてもらいました。ぜひ皆さん1世になって、自分が親になって他の人を助ける側に回っていただけるよう、ぜひこの教えをしっかりと掴んで、学んでいただきたいと思います。

5.神様からのご褒美
 今日来てくれたS君も見事私立中学の受験に合格しました。おめでとうございます(拍手)。受験前、彼には、神様に無理なことをお願いしても神様は受け取ってくれない。ただ一所懸命に勉強した全力を出させてください、とお願いするんだよと伝えました。彼はそのとおりお願いして試験を受けさせてもらったら、全力を出し切ることができ、念願の中学に合格できました、ということを聞いて本当に嬉しい思いがしました。この神様は、できないことをやってくれとお願いしても、決してそんなご褒美はくれません。一所懸命にやったならば、それに対してのご褒美は必ずくれる。いつも申しあげているように、自分以外の世界や人、女房も亭主も子どももお父さんもお母さんも全て「世界」です。この人たちのために尽くしていく。他人に喜んでもらえるような、他人の役に立つようなことをしていくことが「世界だすけ」です。そしてそれを喜ぶ神様がきっと皆さんにとんでもない御守護をくださいます。ぜひ信じてやってみてください。

6.大教会長様ご巡教
 そして来月3月12日の月次祭は、大教会長様がご巡教にわざわざ日帝分教会に来てくださいます。日曜でもありますし、一人でも多くの方に大教会長様のお話を聞いていただけるよう、ぜひ皆さんに来ていただきたいと思います。

 寒い日が続きますから、またしっかりと健康に気をつけていただいて、3月また元気にお会いしましょう。

 今月はどうもありがとうございました。

2023年02月19日

2023年(立教186年)1月春季大祭神殿講話 ~明治20年陰暦正月26日のこと~

 令和5年、立教185年の春が明けました。皆様明けましておめでとうございます。昨年中は本当に日帝分教会の上にご尽力いただきまして、御礼を申しあげます。

1.三年千日のはじまり
 今年はいよいよ教祖140年祭までの三年千日が始まりました。三年千日というのは、諭達第四号にもありましたけれども、教祖が50年のひな形を通られた、そのひな形を通らねば教祖がひな形を通った意味がない、それが

 ひながたの道を通らねばひながた要らん。

というおさしづなんです。しかしその50年を歩けと言うのではない。3年だけでも歩け、ということで、その3年の三年千日を年祭のために頑張ろうと、諭達に、「この教祖の親心にお応えすべく、よふぼく一人ひとりが教祖の道具衆としての自覚を高め、仕切って成人の歩みを進めることが、教祖年祭を勤める意義である。」と書いてあります。
 成人の歩みを進めるということは、人間一人ひとりの心が大人になってくる。今までは誰かにやってもらおう、誰かに助けてもらおう、誰かに守ってもらおう、というこれは実は子供の心。これを親の心として誰かを助けさせてもらおう、誰かを守らせてもらおう、誰かを育てさせてもらおう、この思いが大人の心です。そういう思いになってくれというのが、改めて三年千日を通る意味なんだということを教えていただいています。

2.明治20年陰暦正月26日のこと
 そして改めて、この1月というのは、明治20年陰暦正月26日に教祖が御身を隠されました。その御身を隠された時の正月26日のやりとり、皆さんもうご承知でしょうけれども改めて教祖伝を読ませていただきたいと思います。
 陰暦の正月、教祖はお風呂を上がられてよろめかれたりしました。その時にお身体が弱ったかと思ったら、「これは、世界の動くしるしや。」とおっしゃられた。それから24日、25日とずっと床に臥せておられたんですが、別に病気で臥せていたわけではない、そのつど教祖から色々お言葉をいただきました。そしてその陰暦26日のその朝に、教祖がつとめをせい、つとめをせい、おつとめをしろとおっしゃっているんだけれども、皆がもしこんなところへ警察に入って来られたら、人間の目から見たらこの病んでいる教祖が大変なことになるということで、皆おつとめができなかった。
 その時に最後の最後に、人がどんどん集まってくる。教祖伝では、「近郷近在からは多数の参拝人が詰めかけて居る。しかも、官憲の目は厳しく、一つ間違えば、お身上中の教祖をも拘引しかねない剣幕である。人々はこの板挟みの中に立って、思案に暮れた。そこで、思召を伺うと、」教祖の言葉ですが、

 さあ/\いかなるも、よう聞き分けよ/\/\。さあ/\いかなるもどうも、さあ今一時、前々より毎夜々々々々伝える処、今一つのこの事情早うから、今からと言うたなあ。さあ、今という処諭してある。今から今掛かるという事を、前々に諭してある処、さあ今の今、早くの処急ぐ。さあという処、応分という処あろう。待つという処あろう。さあ/\一つの処、律が、律が怖わいか、神が怖わいか、律が怖わいか。この先どうでもこうでも成る事なら、仕方があるまい。前々より知らしてある。今という刻限、今の諭しじゃない。どういう処の道じゃな、尋ぬる道じゃない。これ一つで分かろう

という風におっしゃられた。
 意味は、「これは前々から繰り返し繰り返し諭したとおりである。もっと早くから言っている。さあ今と言うたら今、すぐにかかれ。さあ早く急いで取り掛かれ、手続きをするからそれまで待ってくれ、というような悠長なことを言っている場合ではない。いったいお前たちは法律が怖いのか、親の話が尊いのか、どちらに重きを置いて信心しているのか。この点をよく考えなければいけない。親神の思いがどこにあるかということは、前々から十分諭してある。説いてある。今の時刻、今の刻限はもう尋ねている時ではない。これだけ言うたら分かるであろう。」というお言葉です。
 つまり、おつとめをしろ、おつとめをしろと言っているのは、もう今の今やれ、と。これを聞いていよいよ一同心を定めてかかるんですけれども、その時に、初代真柱の真之亮さんから、「おつとめの時、若し警察よりいかなる干渉あっても、命捨てゝもという心の者のみ、おつとめせよ。と、言い渡した。」。今日のようなおつとめをしている時に警察が来るかもしれない。そうなれば警察に捕まるかもしれない。そういうことも考えて「命捨てゝもという心の者のみ、おつとめせよ。と、言い渡した。」そして「一同意を決し、下着を重ね足袋を重ねて、」つまり下着を何枚も重ねて、警察の監獄に連れていかれてしまいますから、下着を何枚も重ねて足袋も何枚も重ねて、「拘引を覚悟の上、午後一時頃から鳴物も入れて堂堂とつとめに取り掛った。」

3.扉開いて
 そして皆さんがおつとめにかかって最後の時に、「陽気な鳴物の音を満足気に聞いて居られた教祖は、丁度、「だいくのにんもそろひきた」という十二下りの最後のお歌の了る頃、一寸変ったそぶりをなさったので、お側に居たひさが、お水ですか。と、伺うた処、微かに、「ウ-ン」と、仰せられた。そこで水を差上げた処、三口召し上った。つゞいて、おばあ様。と、お呼び申したが、もう何ともお返事がない。北枕で西向のまゝ、片手をひさの胸にあて、片手を自分の胸にのせ、スヤ/\と眠って居られるような様子であった。」と、ここで身を隠されたんです。そして人間の目から見ると死んでしまった。教祖は115歳まで生きるとおっしゃたのに、いったいどうしたことかということで、皆あわてました。「教祖は、午後二時頃つとめの了ると共に、眠るが如く現身をおかくしになった。時に、御年九十歳。」人々は大変な思いで、大地が裂けて、日月、太陽や月の光が消えて、「この世が真っ暗になったように感じた。」皆さんそうでしょうね。そこで本席の飯降伊蔵先生に教祖にお伺いを立てました。
 そうすると、教祖からこういうおさしづをいただきました。

 さあ/\ろっくの地にする。皆々揃うたか/\。よう聞き分け。これまでに言うた事、実の箱へ入れて置いたが、神が扉開いて出たから、子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。しっかり見て居よ。今までとこれから先としっかり見て居よ。扉開いてろっくの地にしようか、扉閉めてろっくの地に。扉開いて、ろっくの地にしてくれ、と、言うたやないか。思うようにしてやった。さあ、これまで子供にやりたいものもあった。なれども、ようやらなんだ。又々これから先だん/\に理が渡そう。

と言って教祖は扉を開いて今までとこれからも変わらないぞ、と。お前たちを助けるために、お前たちにさづけをやるために身を隠したんだというお話があって、さらにその後、「さあ/\これまで住んで居る。何処へも行てはせんで、何処へも行てはせんで、日々の道を見て思やんしてくれねばならん。」という、どこにも行かないぞ、ここにいるぞという、これからお前たちの日々動いていく所にちゃんと守護をするから、日々見ていよ、ということをお話になって、皆さん、さあ身を隠された教祖ご存命で頑張ってくださるんだということが初めて分かったんです。

4.助かる旬、季節
 つまり教祖のこの正月の26日、春の大祭というのは、教祖が身を隠された、人間としては非常に悲しい感じの日ですが、そうではなくて、身体が在ったならば皆が教祖を心配してちゃんとおつとめができないだろうということで、身を隠すけれども、この存命でいる。今までとこれからとまったく変わらない、しっかり見ていよという、こういうお話をくださいました。
 そしてその140年目の年祭がいよいよ3年後に来ます。教祖は人間の世界を幸福にするために50年もご苦労くだされてひな形を通られた。その内の教祖の通られたたった3年間、その3年というのは人助け、人を助けるという心を持ち続けて、3年間働いてくれよと。そういう意味で今までも皆助けていたんだろうけれど、親の年祭の来るこの三年千日の間、特に心引き締めて人助けに心を遣ってくれということを言われています。
 つまりこの3年間しっかりとやらせてもらうことによって、どんなことでも守護をしてやる、という風に教祖はおっしゃっているので、これが助かる旬といつも申しあげています。助かる季節なんだということをしっかりと理解をしましてですね、このいよいよ三年千日が始まったというこの春の大祭、皆さんしっかりとつとめていただきました。これを教会から3年間しっかりとつとめて、3年後のこの春の大祭の時には、お陰でこんなに御守護をいただけました、と親神様、教祖に言えるような御守護をいただけるという、仕切って、3年という期限を仕切って御守護いただける時期でございますので、今までも皆さんしっかりやってこられたと思うけれども、改めてこの三年千日、心を尽くして神様から御褒美をいただけるような3年間にしたいと思います。お互い頑張っていきたいと思います。どんなことでも助かります。しっかりと3年間つとめさせてもらいましょう。

 今月はどうもありがとうございました。

2023年02月11日

新年のご挨拶 ~2023年(立教186年)元旦~

ホームページをご覧の皆様

 明けましておめでとうございます。

 昨年中は、日帝分教会のためにお力をいただき、ありがたく御礼申しあげます。

 さて、いよいよ、教祖140年祭までの三年千日が始まりました。

 この3年間をしっかり勤めると、大きなご守護がいただけます。

 いま、神様からなんらかのメッセージ、手引きをいただいている方はもちろん、さらに人間としての器を大きくして、なんでも喜べるような心をつくりたい方、がんばりましょう。

 お互いに、神様にどんなご守護をいただきたいかをしっかりと決めて、そのために、どんな小さなことでもよいので、人様に喜んでもらえるような心を定めましょう。

 小さなことでも3年続けたらどれほど大きくなるかしれません。

 神様が、必ず助けてやる、とおっしゃっているのですから、ここは頑張るしかないですね。

 今年もよろしくお願い申しあげます。

2023年01月01日

2022年(立教185年)11月月次祭神殿講話 ~諭達第四号~

 ただ今は11月の月次祭を陽気におつとめいただきました。本当にありがとうございました。一言お話をさせていただきたいと思います。しばらくの間お付き合いいただきますようよろしくお願いします。

1.諭達第四号のご発布
 先月10月26日は秋季大祭、立教の元一日ということで参拝させてもらいました。当教会からも信者さん2名がご参加されまして、非常に多くの中で、お天気も素晴らしい中でお話をいただきました。そしてこの10月26日には、正確に言うと3年と2か月後に迫った教祖140年祭の諭達第四号が発布されました。
 諭達第四号というのは、真柱様が年祭のために私どもに年祭のその三年千日の間どういう心構えで行ったら良いかという一つの目標をお示しくださるものです。倒れられてから初めて、真柱様が神殿講話に立たれました。「身上をいただいて中々声もでづらく、声もかすれてお聞きづらいかと思いますけれども、どうか聞いてください」ということで諭達第四号を真柱様自ら読み上げてくださいました。たしかに声は多少はかすれていましたけれど、本当に力のこもった、思いのこもったお言葉で、私なんかは胸いっぱいになっていました。その後の天理時報の記事を見ても色々な大教会の会長さん方も思わず涙がこぼれたというような感動的なことで、本当に一所懸命やらしてもらおうという思いが湧き出るような諭達でございました。
 来月からはこれを皆さんで一緒に読ませてもらいますけれども、今日は私が拝読をしますので、どうかお聞きいただきたいと思います。


諭達 第四号

 立教百八十九年、教祖百四十年祭を迎えるにあたり、思うところを述べて、全教の心を一つにしたい。
 親神様は、旬刻限の到来とともに、教祖をやしろとして表にお現れになり、世界一れつをたすけるため、陽気ぐらしへのたすけ一条の道を創められた。
 以来、教祖は、月日のやしろとして、親神様の思召をお説き下され、つとめを教えられるとともに、御自ら、ひながたの道をお示し下された。
 そして、明治二十年陰暦正月二十六日、子供の成人を急き込まれ、定命を縮めて現身をかくされたが、今も存命のまま元のやしきに留まり、世界たすけの先頭に立ってお働き下され、私たちをお導き下されている。
この教祖の親心にお応えすべく、よふぼく一人ひとりが教祖の道具衆としての自覚を高め、仕切って成人の歩みを進めることが、教祖年祭を勤める意義である。
 おさしづに、
  ひながたの道を通らねばひながた要らん。(略)ひながたの道より道が無いで。(明治二十ニ年十一月七日)
と仰せられている。教祖年祭への三年千日は、ひながたを目標に教えを実践し、たすけ一条の歩みを活発に推し進めるときである。
 教祖はひながたの道を、まず貧に落ちきるところから始められ、どのような困難な道中も、親神様のお心のままに、心明るくお通り下された。
 あるときは、
 「水を飲めば水の味がする」
と、どんな中でも親神様の大いなる御守護に感謝して通ることを教えられ、また、あるときは、
 「ふしから芽が出る」
と成ってくる姿はすべて人々を成人へとお導き下さる親神様のお計らいであると諭され、周囲の人々を励まされた。
 さらには、
 「人救けたら我が身救かる」
と、ひたすらたすけ一条に歩む中に、いつしか心は澄み、明るく陽気に救われていくとお教え下された。ぢばを慕い親神様の思召に添いきる中に、必ず成程という日をお見せ頂ける。この五十年にわたるひながたこそ、陽気ぐらしへと進むただ一条の道である。
 今日、世の中には、他者への思いやりを欠いた自己主張や刹那的行動があふれ、人々は、己が力を過信し、我が身思案に流れ、心の闇路をさまよっている。
 親神様は、こうした人間の心得違いを知らせようと、身上や事情にしるしを見せられる。頻発する自然災害や疫病の世界的流行も、すべては私たちに心の入れ替えを促される子供可愛い親心の現れであり、てびきである。一れつ兄弟姉妹の自覚に基づき、人々が互いに立て合いたすけ合う、陽気ぐらしの生き方が今こそ求められている。
 よふぼくは、進んで教会に足を運び、日頃からひのきしんに励み、家庭や職場など身近なところから、にをいがけを心掛けよう。身上事情で悩む人々には、親身に寄り添い、おつとめで治まりを願い、病む者にはおさづけを取り次ぎ、真にたすかる道があることを伝えよう。親神様は真実の心を受け取って、自由の御守護をお見せ下される。
 教祖お一人から始まったこの道を、先人はひながたを心の頼りとして懸命に通り、私たちへとつないで下さった。その信仰を受け継ぎ、親から子、子から孫へと引き継いでいく一歩一歩の積み重ねが、末代へと続く道となるのである。
 この道にお引き寄せ頂く道の子一同が、教祖の年祭を成人の節目として、世界たすけの歩みを一手一つに力強く推し進め、御存命でお働き下さる教祖にご安心頂き、お喜び頂きたい。

立教百八十五年十月二十六日  真柱 中山善司


2.三年千日
 ゆっくりまた読ませてもらいますけれど、「この道にお引き寄せ頂く道の子一同が、教祖の年祭を成人の節目として、世界たすけの歩みを一手一つに力強く推し進め、御存命でお働き下さる教祖にご安心頂き、お喜び頂きたい。」。つまりこれが年祭の意味で、教祖の年祭は成人の節目とする。三年千日、来年の一月から3年後に教祖の年祭が来ますけれども、これを成人の節目として年祭をつとめさせていただこうという非常に力強くて分かりやすいこの諭達をいただきました。それも真柱様自らお読みいただきました。
 普段から日常一日一日のおつとめというのは大切です。先ほどもちょっと話していたんですが、私に対して来年6月と11月に弁護士として講演を頼みたいという依頼がありました。まだ来年の手帳も来ていないですけれど、大丈夫ですよと受けました。考えてみたら、これは神様から来年の6月まで、11月まで生かしていただかないと講演ができない。ついつい当たり前に11月まで生きているだろうということで勝手に私はお受けしているんですけれども、生きていればできるけれども、命が無ければできない、ということは来年の11月までしっかりと命をお貸しいただけるように、この借りものをお返ししないで済むように、そのためには何が必要かというと、ひのきしんをしなさいと神様おっしゃってくださっている。
 この神様から借りている身体の御礼についてはひのきしん。ひのきしんというのは人様に喜んでもらう、しかも陰になって隠れて。「私これだけやってやったよ」、これはひのきしんじゃない。人様に隠れて、背中の方から、裏からひたすら人様に喜んでもらう、役に立つことをさせてもらう。身近でできますよね、お年寄りがいたらお年寄りが階段を降りやすいように支えてあげる、あるいは子供であったら孫がけがをしないように陰から見守ってあげる。家内や夫が不自由していたらばそれを陰から手助けをしてあげる。これがひのきしんだと。だから簡単なことです。しかし簡単なことができないからわざわざ人間の親である神様は子供にひのきしんをしなさい、そうすればしっかりと命を貸してあげる、そして三年千日の目標をこの3年間一所懸命につとめさせてもらって、何か自分で一つ心を定めてつとめさせてもらえれば、三年千日の今度の年祭を迎える時にはしっかりと御守護をいただいて、人間として成人をさせてもらえる。こういう方向をこの諭達第四号からお教えいただきました。

3.御守護いただこう
 そんなことから毎日毎日皆さんしっかりやっておられますけれども、改めてさあこれから三年千日、しっかりがんばろうという心を作るだけで、神様が特別な御守護をくださるそうですので、どうか一人ひとりこれから3年間何を目標に、何をさせていただこうか、そして何を御守護いただきたいだろうかということをしっかりと心に定めて改めて神様と向き合ってこの三年千日をお過ごしいただきたいと思います。
 いよいよ3年後には教祖140年祭が来る、という本当に嬉しい大きな目標をお与えいただきましたので、これを何もしないでぼーっと過ごすのはもったいない。他の人がぼーっとしていても私どもはこの3年間で人間として成長しよう。人間として素晴らしい御守護をいただこう。これを定めて、仕切って御守護いただけるようにしたいと思います。どうかしっかりとお互い頑張らせていただきたいと思います。
 あっという間に年賀状も売り出し、あとふた月足らずでまた年を越すことになりますけれど、ぼーっとしていたなあという思いの一方で、ぼーっとしても元気で過ごせたなあという感謝をしましょう。そして無事に1年過ごせるように、またこの1か月間しっかりと皆さんを喜ばせる、自分の身の回りの方に喜んでいただけるような行動や言葉を出していただきたいと思います。またコロナもはやってきたようですので、不足せずに喜んで心を豊かにして、コロナにかからないように頑張らせていただきましょう。

 今月はどうもありがとうございました。

2022年12月30日

2022年(立教185年)12月月次祭神殿講話 ~これからの3年間の心の持ち方~

1.諭達をおたすけの材料に
 ただ今、諭達第四号を読ませていただきました。諭達というのは、年祭の三年千日、3年後の1月26日に教祖140年祭になります。教祖は、これからの三年千日を、20年も10年も通れというのやない、10年の中の3つの3年でいい、僅か千日を一所懸命つとめれば御守護いただけるとおっしゃる。諭達というのはその三年千日の通り方を教えてくれるものです。これをただ読んで真柱様のお言葉として読み飛ばしてしまわないようにしてください。真柱様が10月26日にこの諭達第四号を本部の神殿でお読みいただいた時にですね、こういうお言葉を出されています。
 「年祭を勤める意味は変わりません。」三年千日、成人して教祖に御守護いただこうというその意義は変わりません、ということです。
 「しかし、時の流れとともに、年祭を勤めるたびに、勤める人の顔ぶれは多少なりとも変わっていくのであります。その中には当然のことながら、年祭の意味や、どういう気持ちで勤めるのか分からない人もいるのであります。全教が心をそろえるためにも、知らない人は年祭の意味を知り、そして、をやの思いに沿わせてもらおうと積極的に歩む、そういう気持ちになってもらう。そのための材料として、この諭達を利用してもらえればいいかと思います。」
 ということで真柱様自らですね、この諭達を材料としてをやの思いに沿えるような気持ちになってもらいたいとおっしゃった。つまり、これはありがたくいただいておくだけではなく、皆が成人するための材料として使ってくれ、とおっしゃられました。

2.3つの節目
 特に今回の諭達は非常に分かりやすいんですが、真ん中あたりにですね、教祖伝から3つの節目を教えてくださっています。
 一つは「水を飲めば水の味がする」と、どんな中でも親神様の大いなる御守護に感謝して通ることを教えられた。
 「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある。」(「稿本天理教教祖伝」第三章「みちすがら」40頁)
 つまり水もとれない、確かに最近コロナで皆さん苦しんでおられる方は水も喉を通らないそうです。それで水が入らないから注射で、点滴で打つ。そんなわけで「水を飲めば水の味がする」というのは、水が飲めて、水の味が味わえるようなことも実はありがたいことなんだ。
 そして「ふしから芽が出る」「成ってくる姿はすべて人々を成人へとお導き下さる親神様のお計らいである」「ふしから芽が出る」。どんなつらいこと、自分にとってつらいと思われることであっても、必ずそれは神様が成人に導いてくれるものだ。
 そして最後に「人救けたら我が身救かる」。人を助けていく中にですね、いつしか心が澄んで明るく陽気に救われていくんだということを教えてくださった。
 この3つ、「水を飲めば水の味がする」「ふしから芽が出る」「人救けたら我が身救かる」。この3つの親神様の思いを、教祖の思いをしっかりと心におさめて、これを三年千日通ってくれよ、と。そうすればこれが必ず陽気ぐらしの世界へつながっていくんだということを分かりやすくお教えいただきました。

3.これからの3年間の心の持ち方
 ぜひ皆さん、この諭達でお示しいただいたこの3つの「水を飲めば水の味がする」「ふしから芽が出る」そして「人救けたら我が身救かる」。これをこの3年間の自分の心の持ち方としてしっかりお暮しいただきたいと思います。そして「今日、世の中には、他者への思いやりを欠いた自己主張」、戦争がまさにそうですね。「刹那的行動」、今だけよければという行動があふれて、また人々が自分の力を過信して、「我が身思案に流れ、心の闇路をさまよっている。」。俺が俺が、私が私が、と思っているから喜べない。そんな中で、心の闇路に入っちゃっているんだよ、と。どんなこと、どんなつらいことが目の前に来てもですね、神様がこういう風にこちらを成人させるために神様がしてくださっているんだということで喜ばさせてもらう。
 いつも申しあげておりますけれど、まず何が起きても喜ばせてもらう、じゃあこんなつらいことに喜ぶことがあるか、と思っても探してみれば、必ずあるものです。そうしたら最後の最後は教祖の水を飲んだら水が喉を通る、今、コロナに罹ると水も喉を通らない。そしてその水の味が味わえたら、こんなにありがたいことはない。水一杯めるだけでも喜べるというのが、この神様に日々身体を貸していただいている感謝なんです。身の周りに起きたこと、自分の身の周りに見せられたことを決して不足しないで喜んで、神様は私にこれを与えて私に何をせよと、成人しろとおっしゃっているのだろうかということをしっかりと考えてお暮しをいただきたいと思います。
 今月からこの諭達を読み始めましたけれど、3年間しっかりと読んで、そしてまた日常でも今のようなこの分かりやすく教えてくださった3つのことをしっかりと心におさめて生活をしていただきたいと思います。

4.1年間ありがとうございました。
 またこの1年間、日帝分教会の上に本当に皆さん方からお心寄せをいただきましてありがとうございました。日帝分教会一所懸命やらせてもらっているので、大教会長さんからも日帝の信者さんによろしくというお話がございました。
 そしてありがたいことにですね、この諭達が出ましたので大教会から巡教に来られます。私も役員の端くれですのでいくつかの教会を回らせてもらうんですけれど、日帝分教会には大教会長さんが3月12日、日曜日なんですがご巡教いただけることになりました。大教会長さん自ら日帝分教会に来てくださるということになりましたので、3月までには気候も良くなるでしょうしコロナもおさまってくると思いますけれども、どうか皆さんまた勇んで大教会長さんのお話が聞けるように、また教会に来られるだけの元気な身体をお貸しいただけるようにしていただきたいと思います。
 本当にこの1年間ありがとうございました。

2022年12月30日

2022年(立教185年)10月秋季大祭神殿講話 ~教祖140年祭を目指して~

 ただ今は立教の秋の大祭を賑やかにおつとめいただきました。一言お話をさせていただきますので、ご清聴をどうかよろしくお願いいたします。

1.立教の日のこと
 皆さんご承知のとおり、この10月26日、秋季大祭というのは、天理教が始まった日の祭典です。皆さんご承知でしょうけれども、今から155年前の天保9年(1838年)10月23日の夜にですね、中山家の皆さん色々身体が悪くて、教祖は腰、善兵衛様は眼、秀司様は足が痛みました。それを寄加持といって神様に平癒のお願いをする。当時はまだ天理教の神様なんて誰も知りませんから、それでいつも御幣を持って神様が降りてくる勾田村のおそよさんという巫女さんがいるんですけれど、ちょうどその日に限っておそよさんがいなかった。では代わりに女性ならば、ということで中山みき様、後の教祖に、あなたが加持台になって、ということでそれで御幣を持って据えられた。そこで近隣からお願いした修験者の市兵衛さんに神様に降りてもらうようにお願いをした。するとにわかに教祖の手がぶるぶると震えて、「我は元の神、実の神である。この屋敷に因縁あり。世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。」という聞いたこともないとんでもない神様が降りてきた。それから皆さんびっくりして、それからなんとか戻ってもらいたいとお願いをしたんですが、まったく戻らない。23日の夜から24日になっても25日になってもそのまま夜も寝ずにずっと教祖は御幣を持ったまま座っておられる。食事もとりませんし寝もしませんから皆心配になって一族郎党、親戚が全部集まって、どうか上がっていただきたい、中山家にはまだ小さい子供もいますし、とてもとてもそういう役は務まりません、と言ったならば、「我は天理王命である。」と聞いたこともない神様の名前を言ってですね、このみきを神のやしろにもらい受けたい、神のやしろにみきを差し出してくれたならば、世界一列をたすけさそう、と。世界一列を助ける。もしみきを差し出さなかったならば、この屋敷粉も無いようにする、というように言われた。親戚は皆逃げて、もうにっちもさっちもいかなくなった。そして25日の夜も更けて26日の朝、ついに見るに見かねて耐えに耐えかねて、夫善兵衛さまが、みきを神のやしろに差し上げます、と言った。これが天保9年10月26日の朝8時です。そしてその、みきを神のやしろに差し上げますと言ったその時に天理教が始まった。ということで、天保9年10月26日、これを天理教の立教の日ということでおつとめをさせていただいてるわけです。
 そして皆さん知ってのとおり、10月26日の3か月後、50年のひながたを通られた明治20年1月26日に教祖が身を隠された。身を隠されるまでの50年間に教祖が教えてくださったこのお話こそ、我々が今天理教として、教理として学んでいるところです。
 今日皆さんが歌ったみかぐらうたも教祖が全部直々に筆をとられ、そして教祖が手ぶりを教えてくださった。こういう教えは世界中どこ探してもありません。全部教祖がきちんと残してくれた。それも単なる歌や和歌ではなくて、しっかり教えの神髄が、これさえ歌っていれば、これさえ理解すれば天理教の教えがすべて分かるということを教えてくださった。これが教祖の50年にわたる我々に対する教えのひな型ということになるわけです。

2.諭達が出される
 天理教が始まった10月26日は本部では朝8時からおつとめをされます。非常に早いです。26日は、大祭で私も行かせてもらいますけれども、今年は特に特別な大祭になります。というのは、3年後、正確に言うと3年と1か月後の1月26日に、教祖140年祭が来ます。そしてその140年祭の年祭というのを目指して、真柱様が神様の名代として諭達を出してくださる。その諭達第四号を今度の10月26日にご発表いただくということになりました。
 先ほど祭文でも読ませていただきましたけれど、「心待ちにしております」という諭達第四号、神様が私たちに三年千日のこの140年祭に向けてどういう心構えでいったらよいかということを教えてくださる、ひとつの目印になることを教えてくださる。来月から皆さん一緒に諭達を読むことにしたいと思いますけれど、この三年千日という意味を考えてもらいたいと思うんです。

3.三年千日
 先月も申し上げましたけれど、年祭というのは教祖が身を隠されたからといって法事をやるわけではない。教祖はなぜ身を隠されたか、春の大祭の意味は皆さんご承知かと思いますけれど、世界助けたいためのこのおつとめをやると警察に捕まる。教祖の体があるから捕まる。これでは世界助けができない、皆が自由におつとめができるようにしたい、それには扉を開いて私は身を隠して、世界中助けに回る。ということで教祖は扉を開いて自らの身を隠して、「今までとこれから先としっかり見て居よ。」「何処へも行てはせんで。」今までと同じだ、教祖はご存命のまま身を隠されて、世界中を助けてくださっています。
 その教祖の年祭が3年後にあるわけですけれど、その年祭に対してですね、年祭というのは今言ったように、助かる旬なんです。助かる季節なんです。この教祖は毎日毎日助けてくださっているけれども、特にこの10年に一度の旬というのは何か本当のお願いをする旬なんです。だから助かる旬というのをわざわざ10年にいっぺんずつ神様が設定してくださる。

「五十年の間の道を、まあ五十年三十年も通れと言えばいこまい。二十年も十年も通れと言うのやない。まあ十年の中の三つや。三日の間の道を通ればよいのや。僅か千日の道を通れと言うのや。」(明治22年11月7日

 「50年と言ってもお前ら通れないだろう、10年も無理だろう、その中の3つ、3年通れば助けてやる」という風におっしゃっている。というわけでこの10月26日に、真柱様から140年祭を実行することが発表されます。その140年祭のためのこの3年間、皆の心がしっかりと働くことによって、それで助けてくださるという助かりの旬なんです。色々な事情を持っておられる方、あるいは色々な身上を持っておられる方、これを三年千日までに必ず御守護いただけるようにとお願いしましょう。どんなことでも御守護くださる。

4.助かり方
 ただ、この助かり方というのは天理教には実は二つ助かり方がある。助かるには二つの絶対条件がある。一つはですね、人を助けて我が身助かるというのがあります。いくら拝んでもお供えしても、何やってもそれでは助からない。助かるというのは人を助けて我が身が助かる。人を助けるというのはいつも申し上げているように、自分の身の回りの人誰でもいいんです。もう一歩外に家を出た、電車の中でも人がいるだろう、そんな人を助けるのも大事ですけれど、まず家の中の自分以外の人に喜んでもらう。助かってもらう。この心を使うことだけでまず助かる。これがまず人を助けて我が身助かるという意味なんです。天理教の助かり方は人を助ける、それを神様が上から見ていて本人を助けてくださる。それが一つ。
 それとですね、助かり方。この神様というのはお願いをしなきゃだめ。神様に助けてくださいとお願いをするんだけれども、ただぼんやりと助けてくださいじゃダメなんです。どういう助かり方かというと、仕切らなきゃいけない。ここにおられる方は実はをびや許しで産まれた方ばっかり。をびや許しをいただいた方は分かると思いますけれど、をびや許しは3つ御供(ごく)さんをくれる。1つはまずすぐにいただく。これは「身持ちなりの御供」。今の身体でしっかりと赤ちゃんが収まって身が持つようにというご守護。次は陣痛が来た時に飲む。これが「早めの御供」。早めのをびやのお許し。そして産まれたらば最後に「治め、清めの御供」という身体をきれいに清めてもらうための御供さん。つまりをびや許しというのは本当に楽にすんなりと産ませてもらうんだけれども、そこには仕切って「いついつまでに産ませてください」というお願いをしなさいというのが2服目の御供さんなんです。この神様はぼんやりお願いするんじゃない。「いついつまでに助けてください。」、これが助かり方の二つ目の条件。
 つまり「人を助けて我が身助かる」ということと、「仕切って助けてもらう」ということなんです。そのために三年千日のこの年祭までにどうか御守護をくださいという、これが助かる旬なんです。今までの10月とは違って、三年千日後の140年祭には必ず参拝させてもらうから、その時までに御守護をくださいと仕切ってお願いをする。これが大事なんです。
 仕切るということに関して、教祖にこういうお言葉があります。

「日々一つどちら事情、所も同じ事情、仕切って心を定める。日々事情身上治まれば皆治まり来る。」(明治22年3月26日)

という言葉があります。あるいは
 
「仕切ってすれば、思わくの道がだん/\延びる、早い/\。」(明治25年6月30日)

 仕切ってすれば、思わく、自分が考えている、お願いしている道、「仕切ってすれば、思わくの道がだん/\延びる、早い/\。」。そして皆さんよく知っていると思いますけれど、

「どうでも一つ、仕切り根性、仕切り力、仕切り智慧、仕切りの道、どうでもこうでも踏まさにゃならん。」(明治40年5月8日

 元気が出ますよね。ぼんやりお願いしますじゃなくて、三年千日の年祭までに御守護をください、これがこの神様にお願いする助かり方なんです。人を助けて我が身が助かるということと、仕切って心を定める。これがちょうど三年千日のこの諭達第四号でお出しいただく季節なんですね。

5.喜びの旬
 そういうことで来月は諭達第四号を読ませていただくのを楽しみにしておりますけれども、特に今年の10月の大祭は140年祭に向けての三年千日の始まりだという、つまりこの三年千日通れば教祖が歩かれた50年分の守護をやるとおっしゃっているということなので、ぜひ三年千日を仕切って三年千日の間にご守護いただくように仕切って、その代わり我々も心を尽くし人様に喜んでいただく行動、行いをしていきたいと思います。
 いつも申し上げますけど、人を助けるとか人に喜んでもらうというのは世界の見知らぬ人を喜ばせるのももちろん大事、しかし何よりも自分がいつも見ている人、自分のそばにいる人、この人たちに喜んでもらう。この人たちを喜ばせる。これがまず教祖、親神様の一番望んでいることですので、どうかそういう意味でこの特に今年の10月の大祭は非常に嬉しい、喜びの旬であるということをですね、しっかり心におさめてこの10月の立教の意味をお互い考えていきたいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2022年12月13日

2022年(立教185年)9月月次祭神殿講話 ~誠の心とは~

 ただ今は9月の月次祭、賑やかに陽気におつとめいただきました。
 まだまだコロナが収束しない中でのおつとめでございましたけれども、明るく陽気につとめさせていただき、本当にありがとうございました。
 一言お話をさせていただきます。どうかしばらくの間お付き合いいただきますようよろしくお願いします。

1.家族ぐるみのおぢばがえり
 9月20日は「ファミリーホリデー in 中根」という会をやらせていただきまして、100人ほどの方にお集まりいただきました。
 松尾真理子先生に来ていただきましたけれど、果たして何人お出でになるのか心配しておりました。松尾先生には「元気がない大教会ですから人数少なくても勘弁してくださいね」という話をしましたら、「いいのいいの、私は元々そういう教会から来たんだから」というお話をいただきました。
 皆さん、素晴らしいお話をゆっくりと聞いていただいたと思いますけれど、中根につながる人たくさんの人が来たのをみられた松尾先生からは、「中根すごいじゃないの」と言われました。普通の大教会から比べたら少ない人数かもしれませんが、ああいう形で色々な方が大勢来ていただいたことを考えますと、まだまだ中根大教会も頑張ればまだ何とかなる、という思いがした訳でございます。
 そんな中で昨年もやらせていただきましたけれど、おぢばにつながろう、ということで、「家族ぐるみのおぢばがえり」を開催します。11月27日午前11時半に本部神殿にて大教会としておつとめをさせていただきます。みなさまにはぜひご参加いただきたいと思います。というのは、10月大祭で140年祭に対する三年千日の諭達が真柱様から発表されます。それを受けての最初の11月の本部月次祭というとで、まあ偶然なんですけれど、こちらが先に決めていましたわけです。皆が本当に心勇んでおぢばがえりをさせていただくにはちょうどぴったりの日にちになりました。
 おぢばもかなり混むかと思いますが、賑やかなおぢばを見るのことでまた我々の心も勇んでいきますので、ぜひ一人でも多くの方にご参拝いただきたいと思います。詳しいことは来月お話いたしますけれど、11月27日の午前11時半から本部神殿で、拍子木を入れておつとめさせていただきますので、ぜひご参加をいただきたいと思います。

2.三年千日のはじまり
 それと今申しあげましたけれど、来月10月26日の大祭で、真柱様からいよいよ三年後に迫った教祖140年祭のお打ち出しがあります。その諭達も出していただけるそうですので、また改めて年祭の意義というものを思い返して頑張ってみたいと思います。年祭というのは、10年に一度必ずやってくるものですけれど、10年に一度のその節、これを「旬」と言うんですけれど、「旬」の時に何をやらせてもらおうかということです。
 教祖のお言葉にもこうあります。教祖は50年のひながたを通られた訳ですけれど、50年通れと言うのやない、20年30年通れと言うのでもない。10年でもない。その内の三つや、3年でいい。3年間しっかりと教祖の思いを受け止めて、教祖が身を隠された思いをしっかりと受け止めて、3年間頑張ろう、と。それが三年千日という意味なんですね。
 ですから、年祭のつど、我々人間は三年千日の意義をしっかりと理解して、人間として成人、つまり心を成人させることのできる「旬」という機会を与えていただけるわけなので、頑張っていきたいと思います。

3.年祭というもの
 思い返しますと、本当に私も「旬」というものを見せていただいているなと思います。私の最初の「旬」は80年祭の3月。80年祭の年祭期間中でしたけれど、大学に合格したその御礼参りに参拝させてもらったのがちょうど80年祭でした。それから90年祭になって、もう弁護士になって子どもも産まれ、100年祭で隣の教職舎を建てさせてもらって、110年祭で教会長にならせてもらって、そうやって考えていくと、もう私27年なるんですね、教会長になってから。中々ぼーっとしていてあの時何があったかとすぐには思い浮かばないんですけれど、そういう風に10年ごと、ちょうどこの年祭の「旬」に色々なことが起きているなあと。やっぱりそのつど成長させてもらっているなと思います。そんな風に考えますと、年祭というのを自分自身が人間として成長する、成人をする機会としてとらえる、これが年祭の意義だろうと思います。
 他の宗教では、千年紀だとか色々なことを言ってます。しかし、教祖はご存命です。出直されていなくなった訳でもないし、親の命日でもなんでもない。人間がちょうど教祖を思い出して、思い浮かべて教祖の教えを改めて身に着けていこうという時の「旬」という風に教えていただいてますので、ぜひ140年祭に向けて頑張らせてもらう一つの目標として、教会でも140年祭にはまた皆で団参を組んでおぢばがえりしたいと思っておりますので、そういう意味でも常に目標を作って、しっかりと一日一日を大切に過していきたいと思います。

4.天理教は「誠」の宗教
 今、80年祭の話をしましたけれど、80年祭では私は大学に入学し、その年の夏に学生生徒修養会という所に行かせてもらって、初めてこの天理教の教えを聞かせてもらいました。本当にすごい教えだなあということで、私は初めてそこでこの教えを信じ始めました。それが明確に分かるんです。
 翌年3月、東京学生会の春の集いというのがありました。まだ一年生でしたが、その時に面白い出来事がありました。今思い返しますと、旧統一教会が日本で布教を許されたばかりの年でした。私どもは当時の東中央大教会の詰所で合宿をしていました。といっても参拝だけで、別に勉強するわけでもないんですが、そんな時にですね、キリスト教の原理運動をしているという人たちが何とか話をしたいと来ているけどどうする?という話がありました。私はまだ1年生で、学生会の中ではぺーぺーですから、私がどうのいう話ではなかったのですが、先輩方が「入れるけどいいか」という話になったので、キリスト教の話を聞くことになりました。そうしたらば、4~5人来ましたでしょうか。そして我々が4、50人座っている所に来ました。キリスト教はいかにすばらしいかという演説をぶちだした。そしてその中で「キリスト教は愛の宗教だ」という。
 今になってみると、旧統一教会というのはキリスト教ではないというのが分かっています。現に本当のキリスト教であるバチカンからも、あれはキリスト教ではないと言われているんですが、当時はキリスト教の原理運動ということで、「世界基督教統一神霊教会」という名称でしたから、本当のキリスト教の話だと思って聞いていました。話としてはキリスト教なんですけども、「キリスト教は愛の宗教だ、天理教にそういうのはあるか」という風にいきなりけんかをふっかけてくる。
 私は先ほど申しあげたように当時はぺーぺーということもあり、その他大勢で黙って聞いていたけれど、皆何も言わないんで、これはだめだと思って、一番下っ端でしたけれど、私が前に出て行ってですね、「皆さんは愛の宗教だと言うけれども、天理教は誠の宗教です」ということで「誠」という話をしました。誠というものは愛も含んだもっと大きなものであるとか、キリスト教は「父なる神」というが天理教は母も含めた「親なる神」であるといったことを彼らと議論をして撃退をしたということがあります。
 その当時、学生会には教会本部の人たちも多く来ていたので、それから何かと私が本部に呼ばれるようになった一つのきっかけであるんですけれど、そういうこともあり、「誠の心」というのはそれ以後も私の信仰をする中で、ずっと意識し続ける言葉でした。

5.誠の心とは
 昨日、ふと「誠の心」って何だろうかと思ったんです。「誠の心」というのは誠実な心とか、色々に解釈できるのだろうけれど、「誠一つが天の理」とまでおっしゃる。何々は真の誠とか言うんだけれど、その誠について実は調べたことが無かったので、昨日一所懸命、「誠」というのをおさしづで引いてみたんです。そうしたら出てきました、いっぱい。ちょっとご紹介します。

■「内々睦ましいは誠、誠は天の理である。」(補遺明治20.12.14)
■「真実誠天の理」(明治23.5.26)
■「育てば育つ、育ては誠、誠は修理、修理は肥やし。」(明治23.6.24)
→これは子供のことです。「育てば育つ、育ては誠」、育てることは誠だと。「誠は修理」、修理というのは手入れをすること。育てた後に、その子供をちゃんと手入れをして、さらにいつも修理をしていく。
■「真の誠はたんのう。」(明治31.12.31)
■「堪忍というは誠一つの理」(明治26.7.12)
■「言葉添えは真の誠。」(明治31.12.31)
→この明治31年のおさしづに、満足させる言葉を添えるのは真の誠と書いてある。
■「仲好くはこれ誠。誠無けねば治まらん。」(明治32.10.8)

「内々睦ましいは誠」、「真実誠」、「育ては誠」、「誠は修理」、「真の誠はたんのう」、「堪忍というは誠一つの理」、「言葉添えは真の誠」、「仲好くはこれ誠」、ということでこれらをまとめていくと、

・家の中では相手を思って、真実の心で、どんなこともたんのうして、仲良く暮らす
・外では相手を育てて、許して、さらに言葉で満足させる

 つまりこういうことが「誠」なんだ、ということがおさしづに書いてありました。
 皆さん、今の生活の中でも堪忍する、というのもこれも「誠」。だから家の中で、家族・夫婦が仲良く暮らす、教祖は、これも「誠」だっておっしゃるんです。それで何かあっても堪忍してあげるというのもこれも「誠」だ。言葉で相手を満足させるのもこれも「誠」だ。あと育てるのも「誠」だ。そして修理も「誠」である。「仲好くはこれ誠」と書いてある。これだったら難しくないですね。「誠」というのは、すべて相手を喜ばせる。内々を仲良くする。不穏なことがあっても喜ぶ。相手のことを許す。そういうこと全部が「誠」なんだと一つひとつ詳しく説明がありました。
 私たちは「誠」というものを抽象的に考えがちですが、今この瞬間、夫婦仲、あるいは親子の仲が断絶していたら、もうこれは「誠」じゃないと教祖はおっしゃる。あと、子供が何をしても堪忍するがこれが「誠」という。隣の人がどんな不愉快なことをしてもこれを堪忍するのが「誠」という。そしてたんのうですね、どんなことが来ても喜ぶ、受け止める。これが「誠」という。「言葉添えは真の誠」、「仲好くはこれ誠」、これだったら難しくありません。みんなと仲良くしていく、どんな人がいても、目の前のこの人と仲良くしていこう、そういう心の持ち方全部が「誠」だとおっしゃる。

6.優しい教え
 そういう風に考えると、この教えは一つも難しくありません。しかし、私たちはこんなやさしいことをやっていないんです。私もそう。ついつい言葉で相手を責めてしまうし、好きな人とはいいけれども、嫌いな人とはちょっと遠ざかる。自分が癪に障れば喜べないこともある。「育ては誠」だけれども、育てるだけ育てたらもう責任は無いと思ってしまう。しかし「誠は修理」とおっしゃっている。育てるだけ育ててもう私には責任は無い、と言うんじゃなくて、育て終わっても、それをちょっとおかしい所があったら修理をしてあげる、直してあげるのがこれも「誠」だ、と。そういう風に考えたらば、当たり前の親子、きょうだい、さらにもっと大きく言えば一列きょうだいは仲良くしなければいけない。そして間違っていることは修理する。これをすることが「誠」だということを教えてくださっている。
 であれば、先ほどの話で、キリスト教が愛の宗教だとありましたが、愛というよりもさらにもっと大きな、どんなことがあってもたんのうする、喜ぶ、言葉を添える、こういうことが「誠」だというのであれば、この教えは本当に優しい教えだなと。優しいからこそついつい私たちはおろそかにしてしまう。ということを、今月改めておさしづを読ませていただいて感じました。
 こんなこと、皆さんできますよね。「今日はちょっと不愉快だから黙っていよう」じゃなくて、そんな時でもあえて機嫌よく言葉をかけさせてもらう。それがたんのうです。それを神様は、たんのうは誠と言って受け取ってくださる訳ですから。どんなことでも人様に喜んでもらう。自分が納得をし、どんなことでも喜ばせてもらう。これだけで神様は「誠一つが天の理。」として受け止めてくださるそうです。
 今さらこんなことに気付くのでは、私も不勉強だったなとつくづく思いますけれど、改めてそういう抽象的な「誠」という言葉を感じているだけではなく、今のように分解して教祖が教えてくださっているということを知る。であれば、今日これからでも「誠」は尽くせることになる訳です。その「誠」を尽くせば、それは天の理であって、「天の理なれば、直ぐと受け取る直ぐと返すが一つの理。」とまで神様はおっしゃってくださっている。
 そんな風に仲良く、睦まじく、楽しく、喜んで今月は通る、ということをひとつモットーとしていただいて、来月の大祭には皆さん元気でお会いできるようにしたいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2022年10月12日

2022年(立教185年)8月月次祭神殿講話 ~宗教は怖いか~

 ただいまは8月の月次祭を賑やかにおつとめいただきました。ありがとうございました。
 教会で新型コロナの陽性者が出てしまったために、皆さんには今日は自宅からご参拝いただくということでお願いいたしました。まことに申し訳ありません。
 暑さとコロナと、東北の方では大雨が全然降りやまないということで、社会で色々なことを見せられておりますけれど、こんな中から私たちは何を考えたらいいかということをちょっとお話させていただきたいと思います。しばらくの間お付き合いをお願いいたします。

1.カルトについて
 最近、いわゆる旧統一教会のことが盛んに話題になっています。私も旧統一教会の被害者の弁護をしたことがありまして、ほんのつまらない壺を二千万円で買わされたとか、色々なことがあります。最近テレビなどで気になっていることがあり、私がカルトについてあちこちで講演させてもらっていることもありますので、その中から信仰につながるお話をさせていただきたいと思います。
 よくカルトとかオカルトということを言いますけれど、カルトというのはいわば狂信的な集団のことです。特にそこに精神的なもの、神様とかあるいは色々な心のメンタルの問題、要するに人間の目では見えない、科学では説明できないことを真理として信じ込ませ、それを前提として反社会的な行動を指示、命令していく集団、これがカルトと言うんです。
 色々なカルトの定義がありますけれど、私は皆さんに一番分かりやすいカルトの定義として、2点をお話しています。


カルトとは(1と2を両方みたすもの)
1.その集団以外である(集団の外にある)「社会」には、正義も真実も無いということを教え込むもの
2.「何々をしないと不幸になる」ということを教え込むもの



 一つは、その集団の中にしか正義とか真実が無いんだと、つまりその集団以外である「社会」ですね、社会には正義も真実も無いということを教え込む。これがカルトの一つの特徴です。
 あと一つは、「何々をしないと不幸になる」ということを教え込むのがカルトの特徴です。この二つについて、ちょっとお話をしたいと思います。
 まず自分のグループ、集団の中にしか正義とか真実は無い、という人たちにとってみると、自分たちの外の「社会」にはもう正義や真実は無いわけですから、自分たちのことをどんなに批判されても、自分たちがどんなに叩かれても、それは周りが悪い、間違っているので自分たちは間違っていない、ということで、どんどんどんどん信仰心が強くなります。そうした中で誤った正義や真実を教えられてしまうと、外からの意見について一切耳を貸さなくなる。むしろその外からの批判に対して、どんどん自分たちの結束が固まっていくという、こういう特徴があるんです。
 それと「何々をしないと不幸になる」、例えばこれを信仰しないと不幸になる、あるいはこの壺を買わないと不幸になる、あるいはお金を献金しないと不幸になる。これがカルトの、いわば経済的に結びついた一番大きな特徴と言ってもよいと思います。
 それによって先日、元総理大臣が狙撃されて亡くなった犯人とされている人も、母親が旧統一教会から献金を求められて財産が全部無くなって破産をして、それによって自分の人生が変わってしまったということから、旧統一教会を日本に導入してきた、あるいは日本で運動を支えてきた政治家だということで恨みが募って殺したということを言っています。つまり「何々をしないと不幸になる」というカルトの特徴によって、献金をして家が破産するなど困窮してしまったのが原因と言っています。このように、自分の集団にしか正義は無い、真実は無い、また信仰しないと不幸になる、献金しないと不幸になる、といういわば脅迫的な言葉で自分たちのグループに引き込もうとする。私は、この二つがあればカルトだとお話をしているんです。一方だけ、たとえば「その集団の中にしか正義とか真実は無い。」だけであれば、単なる狂信的集団ですし、また「何々をしないと不幸になる。」として献金などだけをさせれば詐欺や脅迫行為となるわけで、これらの二つが備わって、カルトということになると考えています。

2.宗教は怖いか?
 そんな中で、最近宗教って怖いよね、あるいは信仰って怖いよねということを言う人がいっぱいいます。私が信仰を持っていることを知っている人が、私に対してすら、信仰って怖い、宗教って怖いということを言ってきます。この人たちに対して、その誤り、間違いを今日皆さんと一緒に考えてみたいと思うんです。
 まず、その人たちにとって宗教というのはどういうことかということを聞いてみるんです。すると、宗教というのは怖い、何とか教とか何とか宗ということで、それは怖いということを言うんです。宗教は怖い、なぜ怖いかというと、宗教に入ってしまうと自分の意思が無くなってしまう。もっと単純に言うと、宗教には昔からの良い宗教もあるし、悪い宗教もあるという言い方をするんです。
 しかし、社会でそういう宗教という名を借りて違法な行為、犯罪行為を行っている集団は、宗教でも何でもない、単なる「犯罪集団」というだけの話であって、決して宗教が悪いことをしているわけではない、宗教の名を借りた犯罪集団が悪さをしているだけ、という風に考えれば、宗教が悪いということには決してなりません。
 ところが、本当の信仰を持っていない人が宗教に対して何を言うかというと、「良い宗教ならいいけれど、悪い宗教はだめよね」という話になるわけです。良い宗教と悪い宗教という判断は誰がするかというと、実は自分がしてしまう。そうするとその判断を間違えると、宗教に名を借りた犯罪集団が「良い宗教」となってしまう。
 実は、そのような犯罪集団は、さきほどお話しましたように、自分たちだけが正しい宗教だからということで、そしてまた非常にごまかした人の集め方をします。彼らは、勧誘のスタート地点においては、決して自分たちが宗教団体であるとは言いません。オウムにしてもヨガ教室というところから入ってきた。旧統一教会も家庭の幸せ、家庭の幸福ということから入ってきた。ということで、決して自分たちが宗教団体だということは最初は言わない。そこをだまされると、自分がたまたま引きずり込まれた集団を良い宗教だと思ってしまう。これがまさにカルトに入ってしまうということなんですね。
 つまり宗教には良い宗教も悪い宗教も無いんです。のちほど申しあげますけれど、信仰や宗教というのはどういうものか突き詰めて考えれば、良い宗教・悪い宗教というものは無いです。これ、全部自分で考えて決めるしかない。宗教は怖いとか、私は宗教はしないんだという人に限って、実は今のように良い宗教ならしてもいいけれど、悪い宗教はダメだと勝手に思っているから、その基準を間違えて、そこに付け入れられて、悪い宗教に入ってしまうと、これこそが正しい宗教だというカルトの考え方になってしまう。ということで、宗教には良い宗教・悪い宗教というのはありません。そこをまずしっかりと理解してもらいたいんです。

3.信仰とは
 そして信仰についてですけれど、信仰は何かを頼るもの、信仰をするというのは何か自分が困っている時に助けてもらうものという風に考えている人が世の中多いです。ですから、受験に合格させてもらうために湯島天神に行ってお守りを買ってくるくらいならまだ罪がありません。特に罰が当たるわけでもなんでもないから。しかし、心に苦しみがある時に、この集団に入ればその苦しみは助かるというようなことで、信仰というのは何かに頼って助けてもらうんだ、ということだけを考えていると、これはまた間違いのもとになってしまいます。
 つまり、信仰とは何か、ということをしっかりと考えないと、すぐにカルトにかかってしまう。皆さん、オウム真理教だとか旧統一教会のことをテレビがこれだけ報じているのに、いまだに信者が増えているんです。これはどうしてかというと、彼らの教えがすばらしいんじゃなくて、彼らの勧誘の仕方がまことに巧妙だからなんです。彼らは、何かに頼らないと、何々しないと不幸になるよ、これを信仰すれば幸せになれる、あるいはこれを買えば幸せになれる、そう言うんです。そこで、信仰というのは単純に幸せになるためのものだと思っていると、そこに行けばじゃあ幸せになれるんだと思って引っかかってしまう。こういうのは本当の信仰ではないということを、しっかりと理解をしてもらいたいんです。
 じゃあ正しい信仰とは何か。これは非常に簡単です。


正しい信仰とは(1と2を両方みたすもの)
1.感謝する心というのを知るというもの
2.人を助ける心を持つもの



 一つ目は、感謝する心というのを知るという信仰です。二つ目は、人を助ける心を持つという信仰です。これが本来の正しい宗教であり、信仰なんです。
 つまり、人間は誰しも幸せなとき、たとえば、オリンピックで金メダル取った人、あるいはとんでもなく難しい試験に受かった人、そういう人たちの口から出てくる言葉は何かというと、全部「感謝」なんです。「皆さんのお陰で今日が迎えられた」「皆さんのお陰で金メダルが取れた」「皆さんのお陰でこんな難しい試験に受かった」という風にです。「俺が頑張ったから金メダル取ったんだ」という人は、テレビや新聞等で知る限りですが、誰もいない。ということは、やはり人間の本当の心というのは、皆さんに助けられているんだなあということを感じること。これが人間として最も正しい、すばらしい心だろうと思うんです。
 感謝の心を持つようになる。だから子供、特に小さい子供に対して最初に教えることはなにかというと、いただきますという手を合わせる。誰に手を合わせているのといったら、神様のお陰。神様がこういう食べ物をちゃんと作ってくれて、食べられるようにしてくれた。そしてまた両親が自分を産んでくれた。そしてこんなおいしいものを食べられる身体を神様が貸してくれている。こういうことを教えるのが、まずいただきますという、そこから始まる。そういうことの積み重ねの中で、自然と感謝の心を持つようになる。こういうことが本来の正しい「信仰心」なんですね。

4.誤った信仰心
 信仰心について、自分だけ幸せになればいいというのでは、これは信仰ではありません。例えばオウムにしても、アルマゲドンというとんでもない神からの罰が下る。だからそれを避けるためにはこの信仰をして、そのアルマゲドンを起こしそうな人間を全部殺してしまう。この信仰をしている人間だけが助かるということでサリンを撒きました。それは自分が幸せになろうという心しか持っていないから。
 また旧統一教会もそうです。この壺さえ買えば幸せになれるけども、あるいはこの献金をすれば幸せになれるけども、献金しなければ不幸になります。壺を買わなければ不幸になります。自分の全財産を売り払って壺を買う。そして自分の全財産を教会にお供えをする。このお供えは別に嬉しくて、喜んでするわけではなくて、これをしなかったならば、地獄に落ちる、悪魔に自分の命を取られてしまうというその怖い教えの中から仕方なくしているんですね。
 つまり人を助けようという心ではなくて、自分だけが助かればいいという心なんです。これはやっぱり信仰ではないんですね。信仰のように見えるけれど、信仰とはまったく無縁のものです。

5.天理教の信仰
 そこで我々天理教を信仰している人間は、オウムだとか旧統一教会だとかの話が出てきた時にどういうことが言えるかというと、これは極めて簡単です。
 教祖に、自分が神様に助けてもらったお礼をどうしたらよろしいですかと尋ねたとしたら、お供えをしなさいなんておっしゃらない。

「金や物でないで。救けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、救けてほしいと願う人を救けに行く事が、一番の御恩返しやから、しっかりおたすけするように。」(教祖伝逸話篇七十二)

 自分が助かった喜びをもって、自分と同じ苦しんでいる人を助けてあげなさい、とおっしゃる。そして神様が身体を貸している、神様から身体を借りているんだから、これに対する感謝、「かしもの かりもの」への感謝だけは欠かさずにする。その感謝は何かというと、これが「ひのきしん」です。
 ひのきしんは、神様に対してどうこうしなさいではありません。神様に対するお礼として、自分の周りの人たちに喜んでもらえるようなことをするという、まさに感謝の心を持つということと、人を助ける心を持つということを、この天理教の教えは根本にしているんです。
 自分だけ助かればいいというのは信仰ではない。人が不幸になっても自分は幸せになるというのは、そんなもの宗教でも信仰でも何でもありません。真の教えは、神様に対する感謝の心を持つこと、この立派な丈夫な身体を貸していただいていること、また自分の周りにすばらしい人たちを貸していただいていること、自分にとって嫌な人であってもこの人は自分を磨いてくれる人なんだと言って、貸してくれた神様に感謝をすること。またその人に感謝をする。その感謝を持つ心。そうして自分が助かったならば、さらに困っている人を助けさせてもらうという、この天理教の教えの神髄、皆さん分かっていますね。
 天理教はどうやったら助かるんでしょうかというと、お供えしたら助かるとは教えていない。「人を助けて我が身助かる」と教えてくださる。この天理教の助かり方は、人を助けると自分が助かる。人を助けている姿を神様が見て、人間きょうだい仲良くやっているなということで、助けている方を神様が助けてくださる。これがまさに信仰の一番正しい姿だと思うんですね。

6.温かい心を万人に
 そして【教祖より聞きし話第四巻】に書いてあるんですが、教祖は、「温かい心を万人に使うのやで」とおっしゃったとあるんです。温かい心を万人、すべての人に使うのやでとおっしゃった。万人というのは自分に反対する人、自分に意地悪する人、自分から考えて自分の支障になる人、こういう人に対しても「温かい心を万人に使うのやで」という風に私たちの教祖は教えてくださっています。
 この教えを信じているということは、他の、今世の中でとやかく言われているような宗教や教え(本来そう呼べないものですが)とはまったく違います。我々天理教を信じる人間は、宗教は怖いとか信仰は怖いという人に対して「そんなことはない」ということを自信を持って伝えましょう。
 そしてそういう風に宗教は怖い、信仰は怖いと思っている人は、これは心が救われていない、場合によっては辛い状況に置かれている人かもしれない。だとしたらそういう人に温かい心を持って、幸せになってもらうように心を使わせてもらう。これが私たちの信じているこの天理教、教祖の教えなんです。
 ぜひこの機会に、世の中でとやかく言われている「宗教」とか「信仰」とかいう用語に惑わされず、宗教は怖い信仰は怖いと言っている人に対して「そんなことはない」と毅然と伝えましょう。
 繰り返しますが、今テレビなどで報道されている信仰や宗教というのは、これは全部宗教に名を借りた違法な団体です。私のような法律家から言うと、あれは宗教団体でもなんでもない、単なる「犯罪集団」であるとして皆さんに説明をしています。そういうことから、決して心を濁さず、こういう時だからこそ、私たちの教祖の教えに素直についていきたいと思います。

 本当に東京は暑いですけれど、私の家内の実家の弘前は大雨で大変のようです。自分の所だけではなくて、常に周りで苦しんでいる人、大変な思いをしている人に対して、一日も早く穏やかな日が来るようにということを神様にお願いをするということも、信仰をしている一つの意味です。どうか困っている人たちのために、苦しんでいる人たちのためにまた祈りを捧げる一か月であって欲しいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2022年08月26日

2022年(立教185年)7月中元祭神殿講話 ~喜びの種を探す~

 ただいまは7月の中元祭を賑やかに、陽気におつとめいただきました。誠にありがとうございました。
 中元祭というのはちょうど一年の半分、もうあっという間に半年過ぎたわけでございまして、さきほど年賀状の古いのが出てきたと思ったら、くじに当たった年賀状だったんです。当たりの年賀状の交換期限は来週までなので後で行ってこようと思いますが、それぐらい、年賀状も交換しないうちに半年過ぎてしまいました。ついついうっかり過ごしている我々ですけれども、うっかりでも今日まで無事にお連れ通りいただいたという感謝で今月もおつとめいただきました。しばらくお付き合いいただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

1.喜びの種を探す
 先月、立ちづとめ、おてふりが立っていられないぐらい足が痛くて、本当にしんどいなあと思っている矢先に松尾真理子先生から喜べとメールを頂き、ああそうか、ここで喜ばないでどうすると思って喜びの種を一所懸命探しておりました。探すと喜びの種はあるものでして、何年も同じような状況だったのに五年間も痛みも出ないで過ごさせてもらったということや、また座っていればなんでもないということで日常生活にも支障がない、というようなことを一つずつ探してみると本当に喜べる種というのはあるものです。それを喜ばせていただいているうちに、すっかり痛みがなくなりました。手術をするための予定日も決まっていたんですが、お医者さんが「その(元々の診断の)病名では痛みなんか止まらないはずだ」と。「もしかしたら違う(原因)かもしれない」と言うので、また改めて検査をした結果、違う原因がわかり、手術もしないでいい、静かにしていれば良いと言われました。本当に御守護ですね。
 そうか、こんなしんどい中で喜ばなければいかんのだなあと喜びの種を探してみたら結構探せる、探して神様に本当に感謝を申しあげたら、神様から、わかったか、ということでそれでもう手術をしないで済むという大変な御守護をいただきました。

2.神の手引き
 ついつい我々うっかりと生活しているわけですけれど、そのうっかりの中を神様が「手引き」で教えてくださる。新型コロナもそうですね。私も4回目のワクチンを打ちました。お陰様で新型コロナにもかからず、当たり前だと思ってついつい緩んでいたところ、また神様から見せていただいて、ついに第7波到来だそうです。今日も祭文で読ませていただきましたけれど、新型コロナが始まったころはみんな緊張して反省して心を作らせてもらってなにか一つでも役に立つことをやらせてもらおうと考えた。

「なさけない とのよにしやんしたとても 人をたすける心ないので」(十二号90)

という昔のコレラの時に出されたおふでさきですが、なるほど新型コロナも人を助ける心が無いから、神様が情けないということで出してくださったんだということでちょっと心を引き締めて、自分なりに朝晩のおつとめを一所懸命みなさんのために祈らせてもらう。ところがコロナが収まってきた。もう大丈夫かと思うと次は第2波。またちょっといけないと思って反省するとまた第3波。そんなことでついにもういよいよ終わりだなあ、と。夏は遊びに行こうと予定を作っておりましたらなんと第7波で、つまり7回にもわたって神様は、おまえたち、まだ分かっていないのか、ということをおっしゃってくださっているんだと思います。
 そんなことでこの手引きをいただくということは、我々がうっかり過ごしている、あっという間の六か月の間に出直された方もいるということです。大変な病気になった方もいる。そしてあっという間だと言いながら生まれた子供は六か月経てばもうハイハイするようになる。そんな大変な時間を私たちは「うっかり」という言葉で当たり前に過ごさせていただいた。これを喜ばなきゃ神様に申し訳ないなあと思います。お正月に元旦祭をやった後に中元祭、もう六か月も経って病気も痛い所もなにも無くて、今日という日を喜んで迎えられたことにはしっかりと感謝をしていかないと、神様がいつ「お前もうそんなに喜んでいないんなら出直すか」ということになるかもしれない。なんにも気が付かないでぼんやりと過ごせたこの六か月というのが、実は本当にありがたく幸せなんだということを考えないと、神様に対する感謝を忘れてしまっているということになると思います。

3.思うようにならんが借り物
 いつも申しあげていますけれど、この教えの基本は、「かしもの かりもの」なんですね。この身体は神様からお借りしている。あと連れ合いも子供も孫もすべて、あるいはご近所の人もすべて神様からお借りしているものだという、その「かしもの かりもの」ということが分からないと何もわからんとおっしゃいます。こういうおさしづがありました。

「かりものめん/\ものなら、思うようになる。思うようにならんがかりもの。」(明治32年4月2日)

 かりもの、自分の身体、借りている物、「かりものめん/\ものなら」、お前たちの物なら、「思うようになる。思うようにならんがかりもの。」、お前たちの思うようにならないなあ、と。膝も痛い、腰も痛い、あそこも痛い腰も痛いなにも痛い、自分の借り物が、自分の物だったら自分の思うようになるだろう、しかし思うようにならない、これが「かりもの」という意味なんだよと教えてくださっている。また、

 「人間は、かりもの分からんから。かりもの分かれば、扶け合いの心浮かむ/\。この理諭したら、救けの道理、この理一つである。」(河合藤太郎三十八才身上願・明治33年3月22日

 人間は「かりもの」が分からない、「かりもの」が分かれば扶け合いの心浮かぶとおっしゃる。この身体は神様から借りているということの「かりものの理」が分かれば、「扶け合いの心浮かむ/\。」。扶け合いというのは人間どうし。人間どうしの「扶け合いの心浮かむ/\。この理諭したら、救けの道理、この理一つ」。みんなその「かりもの」をありがたいなあと思っている、神様からこんな丈夫な身体をお借りした。結構な一か月間を過ごさせてもらった、ということだけではダメで、まだ分かったとは言えない。「かりもの分かれば、扶け合いの心浮かむ/\。」とおっしゃるんですね。つまりこの身体は神様からお借りしているんだから、神様に対してのお礼はどうしたらいいかというと、人を助けなさいと神様はおっしゃる。つまり自分の身体は借りているんだということが分かれば、助け合いの心が浮かんでくるんだ、というおさしづなんですね。私たちが扶け合いの心、あっちで困っているこっちで困っている人たちを何とか助けて差しあげようという心が浮かばないのは、実は「かりものの理」がおさまっていないからだということなんです。

4.借りていることへの感謝

「にんけんハみな/\神のかしものや なんとをもふてつこているやら」(おふでさき 3号41)

ということを神様がおっしゃっているのはそういうことなんです。自分の身体だと思っているかどうかを一歩越えて、神様からお借りしているんであれば、そのお借りしている身体に対する感謝の思い、お礼、そのありがたい、嬉しいという神様に対する御恩、御恩返し、感謝の気持ちをどうか周りの困っている人、あるいは世界のあちこちで困っている人のために祈りを捧げましょう。それが人間の扶け合いということです。直接行って手を差し伸べることができない人に対しても、「神様どうかあの人を助けてあげてください」とお願いすることだけでも神様はそれを受け取ってくださるとおっしゃっています。
 そんなことから今月は中元祭で六か月無事に、私なんかはぼーっと過ごさせてもらった。このぼーっと過ごさせてもらったというのが実は神様からの御利益なんだと思って、その御利益に対する感謝として人を助ける。いつも申しあげているように、自分の身の回りはすべて世界。「世界たすけ」とは、身近でいつも喋っている人、お話をしている人であっても、その人の何を一つやってあげたらその人が軽くなるだろうか、助かるだろうかということを思いながらお互いが助け合っていくこと、これが陽気ぐらしの世界です。ということでこの六か月間の感謝を込めてですね、改めて無事に次の六か月を迎えられるように、それぞれがそれぞれの立場で感謝をして周りの人を扶け合いできるような生活をしていただきたいと思います。

 今日はまるで8月の天気のような暑さです。7月からこんなに暑い。場合によっては9月まで猛暑が続くかもしれませんが、感謝をしながら心に喜びをもって過ごしていくと、身体の調子もどんどん良くなります。冒頭お話しましたように、いまさらながら喜べということで喜びの種を探してみたら、神様からあっという間に御守護をいただきました。ぜひ皆さんにも、あっという間の御守護を感じていただけるような喜びの心を持ってお過ごしいただきたいと思います。

 本当に今月はどうもありがとうございました。

2022年08月04日

2022年(立教185年)6月月次祭神殿講話 ~心が変われば全部変わる~

 ただ今は6月の月次祭を賑やかにおつとめいただきました。ありがとうございました。どうぞしばらくの間お付き合いいただきたいと思います。

1.どこでも勉強はできる
 本日の月次祭では、久しぶりに、太鼓をやらせてもらいました。教会ではまずやることはないです。大教会では時々おつとめの役に当たるんですが、やってみて本当に何年振りかで叩いてみてはっと気が付いたんです。最初のうちに「音がなんかおかしいな、なんかおかしいな」と思っていたら、太鼓の叩き方を忘れていた。皆さん、太鼓というのは叩けば音が出ますけれど、いい音を出さなきゃだめなんですね。いい音を出すというのは、叩く所は表面だけれども、いい音を出すには裏の皮を鳴らすようにするんです。だからポンポンと打っているだけでは裏は揺れないので、しっかりと手首を使ってドンと打つ、強くなくていいんです、ドンと打つと後ろがビリビリっとなる。これがいい音というんです。
 鳴り物は全部そうです。拍子木も打てば簡単に出ると思うけれど、やっぱり拍子木全部を共鳴させて鳴らす。決して強くという意味ではないですよ。ちゃんぽんもそう。本当にきれいに当たった瞬間にちょっと離す。ということで鳴り物というのは、簡単そうに見えれば見えるほど実は難しいということが分かるんですね。ですからどんな所でも勉強ができるということだろうと思います。

2.裏で勇ませる
 皆さんそれぞれ仕事でも、「あの人はものすごい難しい仕事をしている、でも、私はこんな簡単な仕事をしている」ということを思わずに、簡単に思える仕事であっても、誰にも真似できないくらい完璧にさせてもらうにはどうしたらよいかということを真剣に考えて取り組むと、 太鼓一つでも鳴らし方で全然違ってくる。それを自分の役割を果たそうとする人が 叩くと、それを聞いている周りの人が勇んでくる。家庭でも社会 でもみんなそうです。どんな目立たないように見えたとしても、必ず相手を勇ませる。
 いつも申しあげておりますが、ちゃんぽんてありますよね。ちゃんぽんというのは実は裏拍子って言うんですね。拍子木は前で叩く、つまり「(えー)あ(しきを)」で拍子木を打つけれども、ちゃんぽんは「(あし)き(をはろう)て」と裏拍子で入ってくる。 すりがねはちゃんと裏と表とチャンチャンと入ってくる。つまり裏がしっかり入っていると、皆が勇むんです。なんでもそうだけれど家庭でも社会でも、旗振って頑張っていこうという人ばっかりだったら実は勇まない。陰で裏に回ってくれて、鳴り物でも裏のちゃんぽんがあるから勇んでくる。すりがねがきちんと入ってくると、裏拍子があると本当に勇んできますね。あとうちは人数の都合で普段は鳴りませんけれど、鼓がそうです。鼓は太鼓の間に全部裏拍子で入ってくる。聞いているだけで本当に気持ちがいいです。

3.一手一つ
 つまり、神様のおつとめというのは世の中のことを教えてくださっているわけで、必ず表と裏、陽と陰という、これは「ふたつひとつ」というんですね。陽ばっかりだったならば、これは一見賑やかに見えるけれども、実は真の陽気がでてこない。裏ばっかりだったらやっぱり真の陽気にならない。ちゃんと裏と表がしっかりと、家庭の中でもそうです。表に出る人、裏で支える人、これ両方あってこそ。また裏があるから表が目立つ、また表があるから裏も目立つという、こういう役割があるんだ、ということ。これを神様は「一手一つ」という言葉で教えてくれているんです。一手一つとはなにかといったら、それぞれは全部違うけれども、全部の手が違うけれども、それが一つの心になって、一つの目標に向かっていくということなんです。表も裏も、大きい音も小さい音も、あと皮の音も木の拍子木の音も、金属の音も、三曲の糸の音も全部ばらばらだけれども、それが一つの心で心を一つにしていくと、一手一つということでみんなが陽気になるんですね。これが実はおつとめの極意なんです。
 みんな必ず一緒に揃ってやらなきゃいけないのはおてふりだけ。おてふりはきちんと両脇見ながら自分は出っ張らない、引っ込まない、ちゃんと横に合わせながら手の拍子も真ん中の人に合わせながら手を振っていく。自分はいくら早くやりたくたって、やっぱり全員揃える。これが大事なこと。

4.SDGs
 だからといって個性がないわけではないんですよ。みんなそれぞれ背の高い人低い人もいる。太っている人痩せている人がいる。手ぶりも違う、身体の幅も違う人がいるけれども、その中でみんなと合わせてやっていこうという、これがおてふりの極意。鳴り物は全部が違う特徴を持っているけれども、それが一つの心になって合わせていく。これが今の時代の言葉で言うとSDGsと言うんですよ。日本語では「持続可能な開発目標」といいます。
 みんなSDGsって聞いたことあるでしょう。あれは縁のないことだと思うかもしれません。しかし、SDGsの基本は、一人ひとりは皆ちがうけれど、それをお互いに認めて、尊重してゆこうということです。色々な人がいる、元気な人もいる元気じゃない人もいる。障害のある人もいる障害のない人もいる。男もいる女もいる。あるいは男でも女でもない人もいる。そういう人たちが全部一つの目標に向かってみんな仲良くやっていきましょう、ということなんです。だから今天理教を信じている我々からすると、何で今頃SDGsなんだと思うわけです。神様はそれを一手一つという言葉で教えてくれています。家庭の中にじいさんもいるばあさんもいる。父親もいる母親もいる。孫もいる。全部違う。考え方も世代も格好も食べ方も全部違う。全部違うけれども、みんながお互いのことを思いやって、それぞれの個性を出し合って一つの雰囲気を作っていく。これを一手一つという言葉で教えていただいています。
 そんなことでおつとめをしながら、私はたまたま会長という職を預かっているので教会で拍子木しかやっていませんけれど、色々な鳴り物をやらせてもらうことでこういうことを気が付かせてもらったなと思って、改めておつとめのありがたさというのを再発見しました。

5.松尾真理子先生からのメール
 それといつも喜びましょうと申しあげていますよね。足が痛い腰が痛い、痛くてもそれを喜びましょうということで、自分は普段言っているくせに実は、椎間板がだいぶこう潰れてきて、右足が立っているとものすごく痛くなりました。それで診断を受けに行ったらですね、脊柱がこう潰れて神経を圧迫していると。先生、病名はなんと言うんですか、と言ったらこれは脊柱管狭窄症というんだと言われました。それで薬を飲んだりちょっとした治療をしてもらって、日常生活不自由なくなったんです。
 ところで8月20日に中根大教会に加古大教会の前奥さんの松尾真理子先生、非常に明るくて悟り方が本当に素晴らしい先生に来ていただくことにしました。私がたまたま知り合いなので私がお願いをするということで先月26日におぢばでごあいさつをするはずだったんですが、そういうわけで私が歩けなくなってしまいまして、おぢばに行けなくなったので申し訳ありませんと彼女にメールを打ちました。そのメールの中で、約束を守れず本当に申し訳ない、普段の心がけが悪いからということでちょっと反省をしておりますとメールを送ったんです。すると松尾真理子先生からすぐメールが返ってきた。「反省ならサルでもできる」と書いてある。
 「反省ならサルでもできる、何で喜ばないんだ」と言われました。私が言っていることがそっくり返ってきました。以前は自分がまだまだ健康だったから、皆さん辛い思いをしている方に喜べ喜べと。考えたらあれも私は何も知らない無責任に言っていたことになるわけです。自分がいざそうなってみたらそれどころじゃなくて、歩けないししんどいし痛いし辛いなあと思っているだけだった。そうしたら松尾真理子先生から、喜べと言われた。なるほど、病院に行きましたら私、毎年人間ドックをやっていますから、医師が、もう10年前からの写真を出してくれた。もう10年前から椎間が結構へこんでいるよね 、去年と今年変わっていないよと言われたんです。ということはずっと本来いつ出てもよかったんですけど、去年まで出てこなかったということですよね。ところが何でもない時に感謝をしないで、痛くなって写真見て数年前と変わってないよと。ということは数年前から痛くてもよかったはず。そこで初めて、ああそうかこれが喜ぶということなんだと感じました。つまり、今までいつ出てもよかったようなものを、神様がこの数年間そういう痛みを出さずになんの不自由もなく生活をさせていただいていたということについての感謝をしないといけない、喜ばないといけない。それでさっそく喜ばせてもらいました。

6.痛みに感謝する
 本当に今まで何不自由なく暮らさせてもらって、それに対する感謝がないから、神様がお前ちょっと恩を忘れていないか、とちょっと痛めてくれたんだと思うんです。そうするとこの痛みをいただいたことについてやっぱり喜べる。感謝ができる。これを普段から、実は何でもない時から喜ぶというのが自分自身ができませんでした。人様の辛い人にはこんなことを言っているくせに、自分が辛くなかったからあんなこと言えたんで、自分がいざ辛くなってみたらば、初めて、しかも他の人から言われてみて反省ならサルでもできる、喜べと言われて、なるほどこういうことなんだということで、喜ばせてもらったらば、痛みも軽くなりまして、今日こうやって皆さんとお話ができるところまで戻ってきました。
 そんなことでも神様は「そうか気が付いたか」と御守護くださるんですね。自分のことは本当に自分は見えない。よく言うように、この目というのは何でも見えているようだけれど、この目が唯一見えないのが自分の顔なんです。私は生まれてから自分の生の顔を見たことがない。目というのは外を見るためにあって、自分を見るためじゃないんですね。だからこそ見せられたものについて喜ばなければ損しちゃう。自分の目の前にあるもの、目で見えたものについて喜ばないで、目に見えないものに不足していたら、これもったいないですね。そんな風に考えて、わが身に起こってきたこと、神様はそうやって色々な身体の道具を貸してくださっていて、その身体について感謝がない、喜びがないと、ちょっとお前喜びが足りないんじゃないかといって教えてくださる。それがありがたい、嬉しいといって喜ぶと、わかったかと言ってすぐ、そんな痛み、辛さをまたすぐとってくださる。これが御守護だと思うんです。
 つまり、心が変われば全部変わってくるということを、自分の身をもって今回は感じさせてもらいました。皆さんには喜べ喜べと口で言っていたくせに、自分がそうなったらすっかり吹っ飛んでしまいまして、人に言われないとわからないという愚かしさが初めてわかったわけです。これからどんなことでも、私自身は喜んでこれから通らせてもらおうと思っています。

 今月はどうもありがとうございました。

2022年07月16日

2022年(立教185年)5月月次祭神殿講話 ~親の声を素直に聞く~

 ただ今は5月の月次祭を賑やかにおつとめいただきました。

 今月からは皆さんに月次祭に来ていただけるかなと思っておりましたけれども、連休のせいでまたコロナの感染者が増えてきています。本部でもまだ今月26日は制限参拝で、1大教会あたり何人ということで、一般の信者さんは神殿に上がれないというようなことです。

 今日は教会でも無理をされないように、ということで、参拝できる方だけにおいでいただきました。少人数ですけれど、非常に賑やかに明るく陽気におつとめをさせていただきました。本当にありがとうございました。

1.ある布教師のはなし
 先月は、2人の布教師さんのにをいがけのお話をさせてもらいました。今日もにをいがけということについて、1人の布教師さんのお話をさせていただきたいと思います。場所は、今の韓国のソウルですけれど、まだ韓国、朝鮮を日本が併合して日本の領土としていた時です。ソウルに布教師がいっぱい行きまして、そこで京城大教会という大教会もできたわけであります。そこの布教師の一人、上本しの先生という方がいらっしゃいました。この先生は女性一人で単独布教に出られた方です。たまたまソウルで大変に羽振りの良い材木の問屋さんが、跡取り、男の子が生まれるんだけれども、次から次へと亡くなってしまう、出直してしまう。

 ということで天理教の布教師の上本しの先生がその家に行った時にですね、また生まれたばかりの子供がいるんだれどやっぱり具合が悪い。そこの御主人から助けてくれるかと聞かれ、助けると言って、にをいがけにかかったそうです。その当時は天理教の布教師というのは身なりも汚いし、片方は大金持ち、それでも次から次へと子供が死んじゃう、まさに藁にも縋る思いで助けてくれれば誰でもいいからといって、まあ天理教の汚いばあさんと言っていたそうですけれど、そのばあさんにともかく助けてくれればなんでもするよということで、上本しの先生は、おさづけをさせてもらうということで数日間通ったそうです。数日間通ったんだけれど一向に良くならない。相変わらず熱が出て、いつ息を引き取るかわからないというような状態で、良くならない。そこの御主人が「ばあさんこれ一つも良くならないじゃないか。助かるというのは嘘か」と言ったらば、その時上本しの先生は「でも死にませんね」と言ったそうです。

 普通ならもうとっくに死んでもいいはずなのに、死にませんね、と。それが神様の御守護だということを伝えたのだと思います。そこの御主人もそういうことをピンと感じて、どうしたらいいんだという話をしたそうです。その時にその上本しの先生は、「あんたこの子供が病気が治って元気になったとしてもね、朝鮮にいるわけだからきっと日本の大学にやるんだろう」と。それはそうだと言ったら、この子供が死んじゃったらそれは役に立たなくなっちゃう。ということでその大きくなって日本の大学にやるだけの費用を今お供えしろと言ったそうです。そうしたらその御主人は、今にすると2,000万円位だそうですけれど、そんなお金をばばあに騙されて持っていかれちゃたまらないし、しかし一方でそれをやってやらなかったことで、もし死んでしまったら、というのもあって思い切って、「じゃあやることにする」と。騙されてもいいということで自分が後悔しないようにお供えをしたそうです。そのお供えをしまして、上本先生は相変わらず通って行っておたすけをさせていただいたら、ついにすっかり御守護をいただいて、そしてその御主人は天理教ってすごい、俺も天理教をやると言って、なかなか切り替えのすごい方で、だからそんな一代で大きな材木問屋にまでなったんでしょうけれど、それでその材木問屋をすっぱりやめてですね、天理教の布教師になったそうです。これがあの柏木庫治先生です。その子供で死にかかっていた子供というのが柏木大安先生。私もお会いしたことがありますけれど、大安先生はその後、東京大学へ行かれました。

 その後柏木先生は東中央大教会という大教会を作られた。原宿に大きな立派な教会がありますけれど、その大元というのは上本しの先生に助けてもらうために決断をして、自分の子供にかけるようなものを全部お供えするということで、思い切ってお供えしたことによって神様がその人の(神様はお金で助けるわけじゃありませんから)心根をもって助けてくださったんだと思います。そしてそれを感じた柏木先生はすっぱりと仕事をやめてですね、天理教の布教師になって一代で50か所の教会を作って大教会長になられた。さらにその後、一代で本部員にまでなられたという、本当に素晴らしい方ですけれど、その方の元一日はその一布教師さんのおっしゃったことを疑いながらも、後悔するのは嫌だとそれを尽くしたということ、これが神様の目にかなったんだと思います。

2.にをいがけ
 そんなことでここには二つ我々が考えなければいけないことがあるんじゃないかと思うんです。一つは、私たちは「にをいがけしろ、にをいがけしろ」と言われています。ところがにをいがけはそんな簡単にできるものじゃない。ところが上本しの先生は、生涯色々な信者さんを作ったはずなんですけれど、伝わってくるのは柏木先生一人を助けたという話だけ。私はその話しか聞いていないんです。そうするとその布教師さんは柏木先生一人を助けたことによって、柏木先生が大教会を作るほど何千人何万人という人を結果的に助けたことになる。ということでにをいがけというのはいっぺんに何十人何百人におたすけするというんじゃなくて、この人を、という人に対してしっかりとおたすけをさせてもらう。今目の前にいる困っている方に対して、その人に対して誠心誠意神様に祈ってお願いをして助かってもらうということ、これがおそらくこのお話の中から悟れる一つだろうと私は思います。にをいがけは広く浅くやるよりも、この人だけを何が何でも助ける、その人によって広がっていくということがあるんだろう、ということが一つ。

3.親の声を聞く
 あと一つは、助けられた柏木先生の考えなんですね。ここでやらなければ後悔する、もしかしたら騙されるかもしれない。そんな何千万円もお供えしたのに子供にぽっくり死なれてしまった日には、損をする。これは世俗の考え方。しかしおそらく信仰をしていれば、それだけお供えしていても、そのお供えによって出直されたとしても、きっとその後に何か神様から御守護をいただけるはず、これが御守護なんだと感じることがきっとできる人だと思うんですけれど、その後の話は別にして、やっぱり信仰の上で神様からこういう風にしなさい、あるいはこういう風にしようということ、これがつまり本部からの打ち出しということになります。本部からこうしよう、あるいは我々の日帝分教会は、上級というのが直接中根大教会、大教会からこうしようと言われた時に、素直にそれを受けていく。それが結局親の声を聞いて素直にやる。疑いはあったとしても、しかしやろう。後でやらなかったことによって後悔するのは嫌だからといって、柏木先生は、もし子供が死んでもこれやらないで死んだら自分が後悔するから、という思いであったにしてもですね、今普通の人の頭の考えでは、こんな大金をこんな助かるか助からないか分からないばあさんに託すことはできないという風に思うでしょう。しかし自分の立場に立った時に、これをやらないことによる後悔というのをしたくないからと言って、やった。

 これはつまり助ける側にしたら、何が何でもこの人に助かってもらいたいという思い。助かる側からしたら、どうせやるならば後で後悔しないようにやろうという思い。この二つが見事に上本しの先生と柏木庫治先生とでぴたっと合ったことによって、これだけ大きな道の上での花が咲いたんだと思うんです。

4.三年千日のお打ち出し
 そうすると我々は今、本部からはなかなかコロナのこともあってお打ち出しはまだありません。ただ10月には、真柱様から140年祭の三年千日のお打ち出しがあるはずです。それで今140年祭のお打ち出しを受けるための心構えを作ろうというお話をしていますけれど、実際、私はちょうど80年祭の時に大学1年になっておぢば帰りをさせていただきました。それからもう50年、60年になろうとしているんですね。その間に年祭が5回あったわけですけれど、その年祭のたびに、その年祭の3年前、三年千日、一所懸命につとめさせてもらおう、教祖の年祭を喜びの心で迎えさせてもらおう、といつも三年千日でお打ち出しがあります。そしてまたその諭達というのも三年千日を期して出されることになっています。

 そんなことから本部からこういう風に年祭を迎えさせてもらおうというお打ち出しがあった時に、それを信仰する者としては一人ひとりがそれを素直に受けとめていく。今、中根大教会からは新大教会長さんになって、ここに書いてある(神殿前の垂れ幕を指す)「かしもの・かりものの教えを、報恩感謝の陽気ぐらしを伝えさせて頂こう」という、これが中根大教会からのお打ち出し、声です。そうしたら私たちはこの声を素直に聞いて、かしもの・かりものということを喜んで人に伝えさせてもらう。これは別に知らない人にじゃなくていいんです。自分の子供でも孫でも奥さんでも、誰でもいい。

 そしてその上で陽気ぐらしを、陽気ぐらしというのは

めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。(【おさしづ】明治30年12月11日)

 めんめんの陽気ぐらしは真の陽気ぐらしではない、皆を楽しませてこそ真の陽気と言う、という教祖のお言葉です。皆さんはきっと、一生懸命に信仰されて心ができているから、明るくて嬉しくて楽しい毎日を過ごせているでしょう。しかしそれだけでは独りよがりで、真の陽気とは言えん、と神様はおっしゃる。皆を喜ばせ、楽しませてこそ、真の陽気と言うというお言葉があります。つまり陽気ぐらしをするということは、自分だけではなくて、皆に喜んでもらうことをするという、これが陽気ぐらし。そういうことを一つ親から、我々の親は大教会であり、ご本部であるわけですから、その親からの教えを素直に聞いて、一つでもやらせてもらう。そこにその柏木先生のような親の言ったことを素直に聞く、疑ってもやらせてもらう。このやらせてもらうという行為そのもので神様は御守護をくださる。できれば喜んでやったらもっと良いんですけれど、神様は不足を持ちながらでもやったらやった分だけの御守護はくださるとおっしゃっています。ぜひそういうことで素直に親の声、親というのは我々には大教会、あるいは本部、そこから打ち出された声には素直に一人ひとりが受けとめてやっていくようにしていきたいと思います。

 にをいがけするにも、多数の人にやるのではなくて、自分の身近な、この人にはどうしても助かってもらいたいという人にしっかりとにをいがけ、おたすけをさせてもらう。そして自分たちは親からの声を素直に一つでも受けとめてそれを実践していく。こういうことを今月の一つの目標にしてこの一か月は、なんだか梅雨が始まってきたようなことで、大変な天気になりそうですけれど、決して心倒さず、常に明るく楽しくお暮しいただきたいと思います。

5.平和を祈ろう
 そしてあと一つ、実は「すきっと」が間もなく出ます。2か月前が原稿締め切りで、「すきっと」に送ったんです。そして今回は、ウクライナの戦争のことを書きました。そうしましたら編集部から、「なるほど原稿としては素晴らしい原稿なんだけれど、2か月もたたない内に戦争が終わっちゃうんじゃないでしょうか。」と。それで終わったら文章をちょっと変えさせていただきたいという申し入れがありました。私は、それはもちろん終わってしまえば結構だけれども、ただ戦争はそんな簡単に終わらないと思いますよ、とだけ答えておったんです。そうしたら先日電話がありまして、「先生のおっしゃる通り戦争が終わりませんので、このままの原稿で出させてもらいます」と。

 これは決して良いことではなくて、ウクライナの人は2か月も3か月もの間、あのひどい状況の中で命の危険を感じているわけです。だとしたら我々いちれつきょうだい、攻めてる方もきょうだいだし、攻められている方もきょうだい。だとしたら、やっぱりきょうだいが仲良くということを我々はもう祈るしかない。そしてまた祈ることが強いということも以前申しあげたと思いますけれど、ぜひ、ウクライナ以外でもこの世界中で苦しんでいる人に対して、「世界が平和でありますように」という言葉を、朝晩の神様にお願いを、お礼を申しあげる時に、その言葉を一つ付け加えて世界の平和をお互い祈っていきたいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2022年05月21日

2022年(立教185年)4月教祖誕生祭神殿講話 ~喜んでいたなあ~

 ただ今は4月の誕生祭、陽気につとめていただきました。まことにありがとうございます。一言お誕生祭に関してお話させていただきます。しばらくの間お付き合いください。

1.教祖お誕生
 祭文でも書かせていただきましたけれど、教祖は寛政10年陰暦4月18日、今から224年前の4月18日にお生まれになりました。前川家にお生まれになりまして、それから中山家に嫁いでこられました。その教祖のお誕生を祝って、誕生祭をさせていただきました。いつものとおりケーキもお供えしてありますけれど、224回目の誕生日ってなんのことだと思うかもしれません。お分かりの方もいるかと思いますが、一言お話をさせていただきたいと思います。

 教祖は40歳の時に神がかりになられました。天理王命様が教祖の身体に入られて、教祖の口を通して、この教えを教えていただきました。その教えだけではなくて、50年もの間、この教えというのはこのようにするのだ、ということを身をもって教えていただき、そしてまた人間が苦労しないでいいように、人間の苦労を50年にわたってお通りいただきました。教祖自身は何も悪いことをされておられないのに、監獄に18回も入られました。この教えを広めることが時の政府にとって具合が悪かった、ということなんです。そのようにして教祖は50年の間、人間の苦しみ全部を通っていただいたので、私たちはもうそんな苦労はしないでいいということが言われております。これがひな形の意味です。

 明治20年陰暦1月26日に、御身を隠される時に、教祖は、私がいたのでは、監獄に入れられては皆心配でおつとめができないだろうということで身を隠されました。しかし、魂はそのまま存命のままや、今までとこれからと一つも変わらん、しっかり見ていよ、というお言葉をいただきました。それからは教祖の姿は見えないけれども、生きていらっしゃる。これを「存命の理」と言いますけれども、ご存命いただいているということで私たちは、いつも親しく教祖に「ありがとうございます」「教祖助けてください」というお願いをしているわけです。その教祖が4月18日にお誕生になられて、その後身を隠されて以降も存命でお元気なままでいらっしゃるということから、224回目のお誕生おめでとうございます、と申しあげているわけです。

2.教祖誕生祭
 毎年4月18日には、本部で教祖誕生祭が行われます。本当に明るくて楽しくて、中庭に集まって全員で歌を歌うんですね。色々な歌があります。「ハッピーバースデーおやさま」というのもあったり、「おやさま おうまれ」「4月のうた」とかですね、色々楽しい歌を天理のオーケストラが演奏して、皆で歌って最後に「教祖御生誕祝歌」という「空に五彩の 雲たなびきし 寛政十年 この月 この日」という歌を皆で歌って、それで小学生が「おやさまお誕生おめでとうございます」と言う、本当に明るいお誕生祭です。いつもの月次祭は9時から始まるんですが、誕生祭は10時からなので、始発で行っても楽々間に合うので、今年も18日の朝に行って、教祖にお祝い申しあげて、皆さんと一緒に歌を歌ってそれでその日の内に帰ってくるということをします。もしご希望の方がいらっしゃいましたら、一緒に行きたいと思います。

 そういう教祖のお誕生ということで、4月は本当に明るいんですが、皆様ご承知のとおり、教祖は本当に貧のどん底に落ち切られた。庄屋さんの家に嫁いでこられたのに、神がかりになられてからは、庄屋さんの家も土地も全部人に施して質に入れてしまいました。「高山にいては人を助けられん」、つまり、谷底まで行かないと人は助けられない、というお言葉にあるようなひな形を教祖が通られたというのは皆さんご承知のとおりです。そのひな形を通られる道の中で、教えも教祖の口を通して教えていただきました。

3.2人の女性布教師
 ここで私が非常に感銘を受けたお話があります。2人の女性のことです。両方とも私が存じあげている、一人の方とは生きている時にお会いしました。一人の女性は当時、昭和の初期、明治生まれの方ですけれど、大学を出ておられました。その当時、女性で大学を出るというのは非常に珍しいことだったのですけれど、天理教に触れ、天理教の教えは素晴らしいと言って、単独布教に出られた。あと一人の方はごくごく普通の女性で、もちろん大学も出ないし、高等学校も出ていない。その二人がこの神様に助けられ、教えに感動しておたすけに出るということになりました。

 一人をAさんとしましょう。大学を出たインテリジェンスのあるAさんは、この教えはこんなに素晴らしいということで、私は教理でにをいがけをするということでした。一方、もう一人はBさんとしましょう。このBさんは、Aさんと違って高等学問が無く、教理のことはあまりよく分からないので、教祖のひな形だけの話をして布教をするということでした。こうして二人は、それぞれ「教理でにをいがけをする」と「教祖のひな形だけを伝えていく」ということで布教に出ました。

 Aさんは熱心な方ですし、お話も上手だったんでしょう。特に私はAさんの晩年を存じあげておりますが、本当に優しいし頭の切れる方でした。そしてそのAさんは10か所の教会を作りました。一つの教会を作ることでも大変なことであるのに、一人で10か所の教会を作るというのはまさに偉業です。ではBさんはどうだったか。教祖のひな形だけの話しかしない、できないという方のにをいがけの結果は一体どうであたったか。答えは、一人で50か所の教会を作られ、大教会になりました。それが都賀大教会です。

 何を申しあげたいかと言いますと、私たちはこの素晴らしい教えももちろん教祖のお陰でしっかりと学んでいますけれど、さらに教祖が50年間通られた苦しいこと、楽しいこと、それを一つ残らずひな形として伝える中で、こんなに素晴らしい人(教祖)がいる、この人のようにしていれば必ず助かるというにをいがけをしたことによって、50か所の教会を作るほどの信者さんが集まったという、こういう話なんですね。

 教祖のお誕生祭というのは、教祖が50年間通られたひな形の道を、私たちがあらためてそれを見直す、考え直すということの日であろうかと思います。教祖がもし生まれなければ、教祖がもしいらっしゃらなければどうだったでしょう。まず、天理教が始まらなかった。天理教が始まらないということは、天理と名の付く天理大学、天理高校、あるいは天理教の名の付く教会全部無いんですね。つまり、教祖お一人が4月18日にお生まれになったことによって、これだけ世界中の人が助かっているということを考えていただきますと、教祖がどれだけのご苦労を通られたか。しかし、一方で教祖がすごい所は、「すごい所」と言うのは神様に対して失礼な言い方になるかもしれませんけれど、教祖を人間として見た時に、教祖は常に「喜んでいるか?」ということをおっしゃっていました。

4.喜んでいたなあ
 以前お話しましたが、ある日、ひどい雪の中、一人の女性が途中の橋で川に落ちそうになりながらも、這いつくばるようにしておぢばへ帰って来た。増井りん先生です。教祖は、「よう来たなあ」と言ったその後に、「こんな大変な中でも喜んでいたなあ」というお言葉をかけられた。教祖は、どんなことが起きても常に喜んで通られていました。これが、教祖50年間のひな形の一番大切な所だと思います。50年間、仙人のような修行をして苦労をされた方は、きっと世の中にはいるだろうと思います。また、千日修行といって比叡山で3年間も大変なご苦労をされている方もいる。50年に比べれば3年ということで短いけれども、それでも人間としては大変なことです。だからそこを終わった人は、阿闍梨さんという偉いお坊さんの地位をもらうわけです。しかし教祖は、どんな苦労の難儀の中でも、最後の一点は「喜んで通っていたなあ」ということなんです。

 私たちには辛いこともあります。また幸せな時にはより幸せを楽しみましょう。幸せを喜んで喜んで喜び抜かないと、やっぱりありがたさが分からない。幸せな時は徹底的に感謝しましょう。そしてこの幸せはなぜあるのかと考えると、これはやはり神様が守ってくれているんだなあ、ということで神様に感謝ができる。自分がおいしいものを食べたり嬉しいものを見たりした時には、徹底的に喜んで感謝をする。そしてそれを与えていただいた神様に感謝をする。そしてまたどんなに辛いなあと思った時でもその中から喜んで通らせてもらう。そういう思いを心に持っていたならば、これは通れると思うんですね。

 今、ウクライナでは本当に悲惨なことが起きています。今日のテレビで、立派な高層マンションがミサイルで破壊された映像が流れていました。よっぽど多くの方が亡くなってしまったのかなと思ったら、どうやらミサイル攻撃がある前に、危ないからというので地下壕にみなさん入っておられたので、亡くなられたわけではなかった。しかし涙を浮かべながら「住む家も探さなくてはならないし、これからどうしていこうか」と涙をいっぱいためておられる。しかし最後に一言、「でも命がある」とおっしゃっていました。あの方たちの言葉の重さというのは、私たちが「まだ生きている」と言うのともっと違うと思います。そこにいたならばミサイルが当たって死んでいたかもしれないという命の危険にさらされた。家も全部無くなってしまった。しかしその方は「まだ命がある」といって、これからまた生きていくのだとおっしゃっていました。

 これが教祖のおっしゃる「その中でも喜んでいたなあ」ということだと思うんですね。だからどんなに辛いことがあっても、自分が辛いこと、身内に辛いことがあったとしても、その中でも何かひとつ喜びを探す。そういう辛いことが無い人で、幸せなことばっかりある人は徹底的に喜んだうえで神様に感謝をする。ということをこの4月の誕生祭に際して、教祖の通られた道を思い出しながら、あらためて喜んで通る、感謝して通るということでお暮しをいただきたいと思います。

 今日は非常に暑い。ですが数日経つとまた寒くなるそうです。けれど、この寒暖差の激しい中でも喜びながら通らせていただきましょう。喜んでいれば風邪も決してひきません、体調も壊しません。暑かったら暑かったで結構、寒かったら寒かったで結構、という心を持って、毎日を感謝をして通る生活をしていただきたいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2022年04月23日

2022年(立教185年)3月月次祭神殿講話 ~祈ろう~

 ただ今は3月の月次祭を陽気につとめさせていただきました。今日までまだコロナのまん延防止期間に東京都が入っておりますので、皆さんに教会に無理にお出でしていただかないようにということでお話ししましたけれども、その中でも何人かの方々に来ていただきました。今日、実はCDでみかぐらうたをやらせていただこうかと思っていたんですけれども、幸い皆さんのお陰で賑やかにおつとめをつとめさせていただきました。私も後半おてふりに立たせていただきましたけれど、本当に心が勇んで、やはりおつとめは素晴らしいなあと思いました。少し時間をいただいてお話させていただきますので、お付き合いをお願いいたします。

1.世界中が戦争をしている
 皆さんご承知のとおり、毎日毎日ロシアがウクライナに侵攻したというニュースで大変です。私どもも、生まれた時からベトナム戦争というのがありましたし、ともかくあちこちで常に戦争が起きていました。今回のように今日から戦争が始まる、2月24日から戦争が始まると、今まできれいな街だったのが一瞬にして爆弾の攻撃を受けて廃墟と化してしまうという初めての経験をしました。本当にショックを受けておりますけれども、もちろん私どものようにテレビを観てショックを受けている方と、実際に国を追われた200万人以上の方々のことを考えますと、本当に気の毒で、やっている方は愚かで、本当に悲しい思いがします。そして、これを自分の生活に当てはめてみますと、すぐ分かることがあります。

 私どもは今日もおつとめをさせていただいた。皆さんとお話ができた。お茶を飲めた。そして子供とか孫とかわいい顔でいつも接していることができた。それが当たり前と思っていたのが、今日から突然それが無くなるという、ウクライナの方々は本当にそういう思いをされているわけです。しかしちょっと落ち着いて考えてみましたら、実はアジアではミャンマーという国がそういう状況にあります。また大分前から続いているのがシリアという国です。それからアフガニスタンという国も大混乱の中にあります。そうすると、世界中で本当に穏やかで今日の生活が明日も保証されているような、自由に食べて、また自由に人と会うことができている、明日も間違いなくそれが続くであろうということが保証されている国というのは実は本当に少ないんだな、ということが分かります。

 私なんか「来年の何月の学会に来てください」とか「何月に講演してください」ともう来年の講演依頼を受けています。まあ冗談めかして「生きていれば」なんてことを言ってお受けするんですけれど、当然それまでは当たり前のように生きているだろうという前提でそういう来年のスケジュールも考える。しかし、世界の多くの人たちは、実は来年どころか明日のこと、今日の夜のことすら分からない方たちがいるということを、私たちは考えなくてはいけない。「戦争が終わったから良かったね」や「日本でなくてよかったね」で終わってしまっては、これはこの神様の話を聞いている者としてはいけないと思います。

2.親の思い
 私たちはいちれつきょうだい、神様が親で、その人間は全部きょうだいと教えられています。そのきょうだいがきょうだい同士で喧嘩をしたり、またあるきょうだいが別のきょうだいから一方的にやられてしまったり、あるいはきょうだい同士で何をやっているか分からない状態で、もうぐちゃぐちゃになってしまって生活はおろか命の保証まで無いという、こういうことが今、世界で起きている。これを私は人間の親と子の関係でちょっと考えてみたんですね。

 皆さん、それぞれお子さんがいらっしゃるけれども、子供たちがきょうだいげんかをしたらどうしますか?まず親だったら、よく話し合って、どっちが悪いの?ちゃんと話し合って悪い方が謝ってやめなさい、と言います。普通はそうであればなるほどということで、子供同士で話をしてやめるでしょう。ところが、そのきょうだいの一方がナイフなんか持ち出すようであれば、親としては何が何でもナイフを叩き落としますよね。あるいはその子を置いて他のきょうだいを連れて外へ逃げる。親だったらそういう風にすると思います。これを今、神様の子である人間同士がこういう愚かな戦いをしているのを見て、親である神様はどう思っているかということを、その親の気持ちから考えてみたんですね。もう、ともかく親からしたらひたすら悲しいです。子供が辛い思いをしている、あるいは一方が一方をいじめている。場合によっては命まで奪っている。そんなことは生んだ親から見ればとてもとても悲しくて見ていられない。そうすると親からしたらどうするかというと、もう喧嘩ができないように片方を縛り上げる。また片方が口で答えたら口をおさえる。ということをしてでも、親はその子供たちが戦えないように、喧嘩ができないようにすると思うんですね。これが今のコロナのまん延であるとか、あるいは大きな震災だとか大噴火、そういうものが神様の怒りではないかという風にふと思いました。

 そのように考えると、親からすると子供が喧嘩できないようにするのは簡単です。子供を二人おさえつけてしまえばいいんだから。しかしおさえつけられた子からすると、なぜ自分たちがおさえつけられているのか分からない。そうすると親に対して文句ばかり言う。おそらく今の世界はそんな風になっているかもしれません。なんで神様はいつまでもこんなコロナを流行らせておくのか?と。実際、今日もいつも来ている信者さんが、昨日から奥さん熱が出ており、もしかしたらコロナかもしれないというので行くのを控えます、ということでお出でにならない。そんな風に考えるとですね、皆コロナで自由な生活ができなくなっているのは、もしかしたら身勝手に喧嘩している人間の喧嘩をやめさせるために、神様がされているのかもしれない。あるいは子供や孫が周りもろくに見ずに道路に飛び出ていきそうになると、親はそれを止めますね。いつ車が来るかわからないという危なさを親は分かっているから。ところがおさえられる子供からすれば、なんで自分が行こうとするのを親はおさえるのか、と不足、不満ばかり出てくる。しかし親とすれば、この子はこのままにしておいたら車にひかれてしまうだろうということがわかるからおさえる。

3.誠の心
 ということで、私たちは今、色々なことを見せられています。気候も異常気象、今日なんかは5月の上旬くらいの気候だそうです。しかし先月まではもう例年にない寒さの中、雪が降っていました。これらも実は、人間がこの神様の身体である地球を痛めているから、壊しているから、お前たち壊したらどうなるかということで神様が教えてくださっているのかもしれない。そういう風に考えると、自分たちが今テレビで見ているウクライナの人たちは間違いなくかわいそうです、しかし、もはやテレビで映らないほど戦争が当たり前になっているような、シリアだとかアフガニスタンという国の方々はもっと気の毒かもしれません。そのように考えると、我々のきょうだいが皆世界中で本当に苦しんでいる。であれば、私たちはその人たちを助けなければいけない。しかしアフガニスタンまで行く、ウクライナまで行くことはできません。何ができるかというと、これは毎日朝晩、あの方たちに早く平和が訪れますように、辛い生活をしないで済みますように、ということをお祈りするしかないんですね。

 教会のサイトでそういうことを書きましたところ、お祈りだけというのは非常に無力な気持ちがします、というご意見を頂きました。そのとおりですね。こんな祈りなんか通じるのか。しかし私どもは、おかきさげというのをようぼくになった時に神様からいただきました。その中にこういうお言葉があります。

「誠の心と言えば、一寸には弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものは無い。誠一つが天の理。天の理なれば、直ぐと受け取る直ぐと返すが一つの理。」(おかきさげ)

 誠の心と言えばちょっとには皆弱いように思うだろう。しかし誠ほど堅き、長きものは無い、誠一つが天の理である、と。誠は天に通じる理である。天に通じる理であれば、すぐに受け取る、そしてすぐに返す、これが一つの理である、とおっしゃっている。どういうことかというと、私たちが今、困っている人たちのことを本当に心から神様にお願いした時、つまり子供の一人が、自分のお父さんお母さんに対し、「あの妹が、弟が、隣の子が、本当に悲しんでいる、苦しんでいるから、なんとか助けてあげてくれない?」と真剣に頼んできた時に、その願いをすぐに受け取ってすぐに返してやる、すぐに守護を与えてあげる。そんなに困っている子がいるなら助けてやろう、ということになる。そういう親の力、神様の守護は、その子を助けてくださいと願う子供の誠の心があるから働くのだ、ということを神様は教えてくださっているんです。

 ということは、今日この世界で苦しんでいる人が増えているというのは、実は私たちの誠の心が少ないんじゃないかと私は思うんですね。平和でいることはありがたい、嬉しい、子供が健康で試験に合格したとか、次は進学するとか、あるいは孫が歩き出したとか、孫が喋りだしたとか、こんなに嬉しいことは無いです。しかし、世の中にはその嬉しさを受けられない人たちがいる。だとしたらせめて、その人たちに一日も早く平和が訪れるように神様にどうかお願いします、ということを朝晩しっかりとお願いしてみませんか。そのお願い、人のために祈るというのは「誠」なんです。「誠の心と言えば、一寸には弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものは無い。」とおっしゃってくれている。だとすれば人のために、自分たちが幸せで感謝するということを神様にお礼申しあげると共に、世の中で苦しんでいる人をどうか楽になるように神様お願いしますと、人のためにちょっと祈る時間を朝晩作ってみませんか。それだけで神様は受け取ってくださるとおっしゃっている。結局最後は、そういう子供の祈りに対し、神様がよくお前は人のたすかりを願えたな、と言って神様の御守護がいただけるんです。そういうことを考えると、決して祈りというのは、願いというのは弱いものではありません。

4.祈ろう
 私も朝晩のおつとめの時に、特に今は強くお願いをしています。ところがはっと気が付いた。あぁ、ウクライナだけじゃないんだ、アフガニスタンもシリアもミャンマーも皆苦しんでいる。もっと苦しんでいる所もあるかもしれない。もしかすると、今日、日本というのは世界で一番幸せかもしれない。その幸せな日本に生まれさせてもらった。しかし、日本もわずか70年前はロシアと同じことをやっていました。それが70年過ぎて、本当に戦争の無いこの日本に生まれ育って、毎日安心して暮らすことができています。このありがたさに対し、ただラッキーだった、運が良かった、で済ませてしまっては、信仰している意味が無いと思います。

 そんなことで、今日はぜひ困っている人、辛い思いをしている人、悲しんでいる人が目に入ったならば、その人たちのためにどうか朝晩祈ってみませんか。この祈ろう、ということを私は「すきっと」にも書かせていただきましたけれど、「祈り」という形のことではなく、「皆で祈ろう」、ということを今月一か月、毎日祈るだけでいいです、それを今月一つの目標としまして、来月には神様がどういう御守護をくださるか。平和な日が一日でも早く来るよう、世界の人たちのために祈りを捧げていただきたいと思います。

 そういうことで、今月は苦しんでいる人のために祈ろう、ということを一つの目標としてお暮しをいただきたいと思います。

 どうもありがとうございました。

2022年04月23日

2022年(立教185年)2月月次祭神殿講話 ~どんなことでも喜ぶ~

 ただ今は2月の月次祭を無事つとめさせていただきました。教会内の者だけでしたけれども、神殿に御供えさせていただいておつとめをさせていただき、一か月の御礼と、またこれから一か月を無事に過ごせるようにというお願いを申しあげる、この節目がやはり大事なことで、いわば私どもの生活のアクセントになっていると思います。そういう節目節目を自分でつけて生活をしていくことが、元気に感謝して過ごしていくためには必要なことであろうと思います。

1.心の自由(じゅうよう)
 今、冬のオリンピックが報道されていますけれど、その報道の陰には、メダルを予想されていた人がメダルを取れなくなる、あるいはコロナにかかって優勝候補がオリンピックに参加すること自体できなくなる、ということもあります。オリンピックに関係ないことでも、子供が虐待されて命を落とす、お医者さんまでもが亡くなった患者さんの弔問に行ってそこで息子に猟銃で撃たれて出直す、というような非常に辛い、悲しい残念なことがいっぱい起きています。また今、新型コロナでも新たな変異種が出てきた。まん延防止措置で不要不急な用事は見送って外にはあまり出ないでくれ、というようなことで行動も制限されています。このように行動が制限されたり、あるいは辛い、悲しい残念なことがあったり、普段思ってもみなかったようなことが起きてくる。これは不自由です。自分の思いどおりにならないということに尽きます。

 神様の話としては、大和言葉ですから、自由という字を「じゅうよう」と読みます。「自由(じゅうよう)の御守護」なんて言いますけれど、これは「心が自由になる」ということなんですね。つまり心が固まっていると、自分の持っている心と違うものが来た時にそれを喜べない。また自分が決めてしまった固い心を持っていると、その心に合わないものは全部不自由になってしまいます。そんなことから心のじゅうよう、心の自由が一番大事だと教えられています。

 これはあらためて考えてみると非常に先進的な考え方、教えでして、例えばある宗教では、すべての心は神様のためだけに使う。神様の言ったこと以外は一切しない。神様に背くことはしない。それも一つの生き方でそれを選ばれた方は結構だと思うんですけれども、私どものこの親神様の教えというのは、身体は神のかしものかりもの、心一つが自由ということで、心の使い方は人間一人ひとりの自由に任されています。これは神様が、私ども人間を信じてくれているからだと私は思います。

 天理教が立教する前、約200年前ですが、この頃の人間がまだ心の成人の段階が低い時は、神様はその神様の言うとおりにやらせる。これは人間も同じです。例えば1歳2歳の小さな子供に自由にさせたら、危なくて恐らく場合によっては命を落とすかもしれない。そうしたら成長できない。せっかくいろいろ考えることのできる脳みそをいただいているんだけれど、その脳みそをきちんと使うこともできなくなる。ですので、義務教育という言葉がありますけれど、義務教育の間は人間の親の責任できちんと子供を教え導くということと同じように、この教えのこの親神様は、その時代の人間の心の成長に従っていろいろな教えを説いてくださいました。天保9年までに出されたいろいろな教えは、全部親神様が出した教えだとおっしゃるんですね。

2.神の手引き
 ところが天保9年、1838年以降に私たちが教えていただいた親神様の教えというのも、いわば義務教育を終えた大人に対して、もうそろそろ分かるだろう、といって教えてくださった教えなんです。

 皆さん、天理教というと、何も知らない人は音をどんちゃん鳴らして踊っていて低級なと思うかもしれませんが、それはまったく違いまして、人間の心の自由というとても高度なことを教えているものなのです。心は自由に使ってよろしい、神は命令しないという風におっしゃる。ただし、その心の使い方を間違えた時には神がちょっとずつ手引きをするぞ、というこういう教えなんです。ですから心は自由に使ってよろしい、では自由というのはどういうものかというと、これは神様が人間をつくってくださった目的、つまり陽気ぐらしをするという目的を神様から言われているから、陽気ぐらしのための使い方をしないと神様から手引きをいただくことになります。それが分からないと、なにか手引きをいただいた際に、これは不自由だ、非常に辛い、という思いになってしまう。しかしいつも申しあげていますけれど、神様は人間に苦行を与えません。子供が変な道に行かないように、あるいはさらにひどい道に行かないように、と、ちょっと顔を向けさせる、横に向ける。そうすると人間の方からすれば、自分はこっちに行きたいのに神様がそっちはダメだと言っている。こっちに行けと言われていると心で思ってしまえば、なんだか嫌な感じにしかなりません。

 そんなことで自由というのは心の自由。心を自由に使うということは、非常に難しいです。おかきさげの中に「自由という理は何処にあるとは思うなよ。ただめん/\精神一つの理にある。」というものがあります。自由か自由でないか、つまり心が自由に使えているか使えていないかということは、人間の精神一つにかかっている、ということです。例えば「ああ、私にこんな不自由があるのは、神様が変な道に行かないように向けさせているんだな」と思うと、それはかえって喜びになって、つまり不自由ではなくなる。

3.心一つ
 そういうことで、精神一つの理というのは、この教えの根本なんです。そしてこの教えの一番大事なところは、この大教会から示された今年の目標(神殿に掛けられた垂れ幕を指し示す)にもありますとおり、「かしもの・かりものの教えを、そして陽気ぐらしを教会で伝えていこう。これを教会の仕事として世の中にお伝えさせていただこう」ということです。我々の身体は神様から借りている。そして神様はなぜ人間に身体を貸しているかというと、陽気ぐらしをするために貸してくださっている。その陽気ぐらしをするため、嬉しいな、楽しいなと思うことは何かというと、それは心一つだ、と。では心一つとは何か。いつも申しあげていますけれど、どんなことが起きても喜ぶ。その起きて喜ぶというのはただむやみになんでもかんでも喜ぶのではなくて、神様が私に何をしろとおっしゃっているのかということ、神様からのメッセージを分からせてもらったうえで喜ぶ。これが一番大事なこと、これが精神一つの理にある、ということなんです。

 そんなことでどうか皆さん、コロナで外出も不自由、他にもいろいろなことで世の中動かなくなっていて皆うっぷんがたまっている。電車に乗ってもちょっとしたことですぐに喧嘩になる。それはなぜかというと心に自由がもうなくなっているから。つまりどんなことが来ても喜べる心というのを持っていないから。ということで、心一つを自由にして陽気ぐらしをさせてもらう、ということを今月は是非心掛けていただきたいと思います。

4.何でも喜ぶ
 今、増えているオミクロン株というのは、感染力が強いけれども、それほど重症化しないで良くなるというようなことも言われています。80人に1人が罹っていると昨日のテレビで言っていました。その80人に1人になった人は、神様からのメッセージですので、メッセージをいただいたことを喜ぶ。そして80人に1人にならなかった人はそれもまた喜ぶ。なっても喜ぶ、ならなくても喜ぶ、これが心一つが自由ということの意味なんです。

 今、世の中では受験シーズンを迎えています。小中高大、いろいろなところで入学試験をやっています。試験に受かるのも結構、落ちるのも結構。神様が良いようにしてくださっている、ということをまずは心に置き、どんなことが起こっても決して泣いたり嘆いたり恨んだりしないで、その状況の中から、じゃあ神様は自分に何をしろとおっしゃっているのか、ということを一生懸命考え、理解し、得心する。これが心が自由になる一番の秘訣です。

 皆さん、目の前に起きたことは常に喜んでください。喜べない時は、こんな風にさせる神様の心はどこにあるんだろう、と考えてしっかりと突き詰めていく。それでも分からず迷った時にはぜひ教会にいらしてください。そういうことで心の自由というものをしっかり持っていただきたい。この教えは、心を自由に持ちなさいという教えなんだということをひとつ理解していただいて、今月おつとめいただきたいと思います。

 大変な中ですが、参拝に来ていただいた方も、YouTubeで見ていただいている方も、どうか神様に、教会に心をつないで一か月お過ごしいただきたいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2022年04月23日

2022年(立教185年)1月春季大祭神殿講話 ~明治20年陰暦正月26日の事~

 皆様あけましておめでとうございます。昨年中は日帝分教会の活動の上に大変にご尽力いただきました。ありがとうございました。今年もどうか一年、神様に健康な体をお借りしている御恩返しとして、皆さん方にはお心づくしをお願いいたしたいと思います。

1.世界の動くしるし
 明治20年陰暦正月26日に教祖が身を隠されました。皆さんご承知だとは思いますけれど、教祖伝にある正月から二十日にかけてのことを読ませていただきます。第十章の「扉ひらいて」というところです。
 
 このように、内外多事のうちに、道は尚も弘まってゆくばかりであったが、明治十九年も暮れ、明けて二十年一月一日の夕方に、教祖は、風呂場からお出ましの時、ふとよろめかれた。その時、伺うと、
「これは、世界の動くしるしや。」
と、仰せられた。その日はさしたる事もなかったが、翌日は御氣分宜しからず、一同心配したが、この時は、程なく持ち直された。
 が、一月四日、急にお身上が迫って來た。そこで、御休息所の、教祖のお居間の次の間で飯降伊蔵を通して、思召の程を伺うた處、

 さあ/\もう十分詰み切った。これまで何よの事も聞かせ置いたが、すっきり分からん。何程言うても分かる者は無い。これが残念。疑うて暮らし居るがよく思案せよ。さあ神が言う事嘘なら、四十九年前より今までこの道續きはせまい。今までに言うた事見えてある。これで思やんせよ。さあ、もうこのまゝ退いて了うか、納まって了うか。

とのお言葉があった。(稿本 天理教教祖伝)

 ということで、1月1日によろめかれて1月4日まで、どんどん教祖の身体の様子が悪くなってくる。そして思召しを伺ったところ、何を言ってもお前たちは分からん、ということでしっかり思案しろ、このまま退いてしまうか納まってしまうか、というお言葉をいただいた。つまり、このまま親である教祖がいなくなってしまってもよいのか、ということを言われた。これはおつとめをしろというのにおつとめをしないから。おつとめをするとすぐに、こんな教えを広めて怪しからん、ということですぐに警察が捕まえに来る。御年90歳の教祖は、なんと18回も捕まって拘留されたんですね。周りの人はそれをとてもじゃないが見ていられないから、教祖はおつとめをせよと仰るけれども、おつとめをすると教祖が捕まっちゃう、ということで皆おつとめをしなかった。人間としてはなかなかできなかった。それを見て教祖は、今まで言ってきたけれど皆聞かないじゃないか、ということで厳しく言われたんですね。

 さあ/\年取って弱ったか、病で難しいと思うか。病でもない、弱ったでもないで。だん/\説き盡してあるで。よう思やんせよ。(稿本 天理教教祖伝)

と言って、病気でもない年でもない、なんで弱っているかということがまだ周りの人は分からない。それで教祖はおつとめをせよおつとめをせよ、ということをずっと言われていました。

2.明治20年のおさしづ
 そうすると教祖に対してですね、私どもはおつとめをしたいけれど、おつとめをすれば教祖が捕まってしまう、人間は法律に逆らうことはかないません、と申しあげたら、そこで有名なおさしづが出されました。

人間は法律にさからう事はかないません。
と、申し上げたところ、

 さあ/\月日がありてこの世界あり、世界ありてそれ/\あり、それ/\ありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで。

と、噛んで含めるようにやさしく教えられた。(稿本 天理教教祖伝)

 そして眞之亮様、初代真柱さまから、

 我々身の内は承知仕りましたが、教祖の御身の上を心配仕ります。さあという時は、いかなる御利やくも下されましようか、とて、根本の順序の理はよく分かりましたが、今日の教祖のお身上が心配でなりません。さあという差迫った時には、我々の心通り確りと踏ん張って下さいましようか。(稿本 天理教教祖伝)

と教祖に念を押したんですね。するとそれに対して教祖は、

 さあ/\實(じつ)があれば實があるで。實と言えば知ろまい。眞實というは火、水、風。(稿本 天理教教祖伝)

 お前たち人間に真実の心があれば、親神から真実の守護をしてやる。実というのは何か、実というものをみんな知らないだろう、「眞實というは火、水、風」。つまり親神様の心のまにまに動くんだ、ということをおっしゃられました。そしてさらに1月24日、陰暦正月元旦になっても教祖の身体が全然良くならない。

 さあ/\十分練った/\。このやしき始まってから、十分練った。十分受け取ってあるで。(稿本 天理教教祖伝)

という風におっしゃられた。神様はだんだんお前たちの気持ちは分かってきた、ということなんだけれども、もうともかく教祖の身体が心配で心配でならない。そしていよいよ最後の最後にですね、教祖に本当に最後のご相談をしました。その時に、

 成る立てやい、どういう立てやい。いずれ/\/\引き寄せ、どういう事も引き寄せ、何でも彼でも引き寄せる中、一列扉を開く/\/\/\。ころりと變わるで。(稿本 天理教教祖伝)

ということで、扉を開けばもうころりと変わるんだ、ということをおっしゃる。それでもまだ皆さんは納得できない。これ、分かりますでしょうか。我々が後から見ればなんてことはない、神様の言うことだけ信じてやればいいじゃないか、と言いたくなるけれども、その当時は教祖という御年90歳の身体が見えている。その見えている御年90歳の教祖が、おつとめをすると監獄に入れられる。そんなわけで周りの人の決心はなかなかつかないんですね。そうすると

 さあ/\一つの處、律が、律が怖わいか、神が怖わいか、律が怖わいか。この先どうでもこうでも成る事なら、仕方があるまい。前々より知らしてある。今という刻限、今の諭じゃない。(稿本 天理教教祖伝)

 今、今と言っているけれど、これは今日言っている話じゃない、諭しじゃない。昔から言っているだろう?と言うことで、ここでいよいよ一度皆が一同心を定め、おつとめにかかることになりました。

3.命捨てても
 その日の正午頃から、教祖のお身上がいよ/\迫って来たので、一同全く心定まり、眞之亮から、おつとめの時、若し警察よりいかなる干渉あっても、命捨てゝもという心の者のみ、おつとめをせよ。と、言い渡した。(稿本 天理教教祖伝)

 教祖のとんでもない姿を見て、ついに眞之亮様が、「若し警察よりいかなる干渉あっても、命捨てゝもという心の者のみ、おつとめをせよ。」とおっしゃった。つまりおつとめをするのに命を捨てる思いの人間だけがおつとめをしようということで、いよいよ、全員が揃っていよいよおつとめにかかりました。おつとめはかんろだいを挟んで行われた。そしてその間、

 とう/\巡査は一人も来なかった。かくて、つとめは無事に了った。人々にとっては、これこそ驚くべき奇蹟であった。(稿本 天理教教祖伝)

 今まではちょっと拍子木を鳴らしても飛んでくる。それがおつとめから十二下り全部をする間に神様の御守護で警官が誰も来なかった。そしておつとめが無事に終わった。

 しかし、これと立て合うて、陽気な鳴物の音を満足気に聞いて居られた教祖は、丁度、「だいくのにんもそろひきた」という十二下りの最後のお歌の了る頃、一寸變ったそぶりをなさったので、お側に居たひさが、お水ですか、と伺うた處、微かに、
 「ウーン」
と、仰せられた。そこで水を差上げた處、三口召し上った。つゞいて、おばあ様。と、お呼び申したが、もう何ともお返事がない。北枕で西向のまゝ、片手をひさの胸にあて、片手を自分の胸にのせ、スヤ/\と眠って居られるかのような様子であった。
 教祖は、午後二時頃つとめの了ると共に、眠るが如く現身をおかくしになった。時に、御年九十歳。(稿本 天理教教祖伝)



というこれが、明治20年1月26日午後2時の話です。その日を記念して、本部の1月大祭はちょうど2時におつとめが終わるように、祭典が昼の11時過ぎ頃から始まるんですね。

4.扉開いて
 そしてその教祖が身を隠されて、みんなこれで終わってしまうのかという時に、飯降伊蔵先生を通してですね、なぜこうなったのかと教祖にお聞きをしました。その時に教祖から下されたおさしづですが、

 さあ/\ろっくの地にする。皆々揃うたか/\。よう聞き分け。これまでに言うた事、實の箱へ入れて置いたが、神が扉開いて出たから、子供可愛い故、をやの命を二十五年縮めて、今からたすけするのやで。しっかり見て居よ。今までとこれから先としっかり見て居よ。扉開いてろっくの地にしようか、扉閉めてろっくの地に。扉開いて、ろっくの地にしてくれ、と、言うたやないか。思うようにしてやった。さあ、これまで子供にやりたいものもあった。なれども、ようやらなんだ。又々これから先だん/\に理が渡そう。よう聞いて置け。

と、お言葉があった。(稿本 天理教教祖伝)

 これからろっくの地にして、子供にやりたいものもあったけれど、今までできなかった。これから先だんだんその理を渡す。これがおさづけの理なんです。9回の席を運ぶと、教祖殿で教祖から直接おさづけをいただけますが、これがこの実の箱、子供たちにやろうという理なんですね。そんなわけで私たちが9回の別席を運ぶ、そしてそれからおさづけをいただく、おさづけというのは教祖が25年先の命を縮めて子供にくださる尊い理であるということを改めてこの機会に思い起こしてもらいたいと思います。

 この正月の春季大祭というのは、教祖が身を隠された、人間の世界では悲しい日ではありますけれど、実は人間の姿が居たらば「お前たちはちゃんとしたおつとめができないだろう」ということで教祖が身を隠されて存命のまま屋敷にとどまってくださる、という日がこの1月26日なんです。その理をいただいて、ただいま日帝分教会でも春の大祭をさせていただきました。そういうことで、改めて私たちがおさづけをいただいているという意味をもう少ししっかりと考えて、本当に困っている方のために少しでもこのおさづけを取り次げるように、そして困っている人に一言でも優しい言葉をかけられるように考えるのがこの月であろうと思います。
 今年一年改めて心を新たにして、困っている人を助けさせてもらう。また世の中は今コロナで大変ですけれども、人が罹っているのであって私には関係ない、ということではなく、人間の慢心した心を改めて気付けるように親神様が教えてくださっているんだという風に考え、病んだ人に対しては改めて早く助かるよう祈るし、自分たちもそういう神様からの手引きをいただかないよう、しっかりと人助けをさせてもらう。周りの人たちの手助けになるようなことを小さい所からやらせてもらう。こういう一年にしていただきたいと思います。

 今月から皆さん揃っておつとめに来ていただこうと思いましたけれども、神様の何の思し召しか、今月もおいでになれる方のみ、ということになりました。来月までに何とか御守護いただけるようにしたいと思いますけれども、御守護いただくにはただぼんやりとしているのではダメ。一人ひとりが周りの人を助けるように。いつも申しあげていますが「助ける」というのは別に何か特別なことをしなくていいんです、優しい言葉をかけ、相手の気持ちを穏やかにしてあげることでも助けることになります。どうかこれからそういう気持ちで、なんとか来月は皆さんが集まれるような御守護をいただけるような一か月としてお暮しいただきたいと思います。この一年またどうぞよろしくお願いいたします。

 本日はどうもありがとうございました。

2022年04月19日

2021年(立教184年)12月月次祭神殿講話 ~どんな所にも幸せの種はある~

1.「病み損」ということ
 ただ今は12月の納めの月次祭、賑やかにおつとめをさせていただきました。誠にありがとうございました。少しの間お時間いただいてお話させていただきたいと思います。お付き合いをお願いいたします。
 ちょうど十二下りが終わって、ありがとうございました、と頭を下げた時に地震がグラグラっと来ましたね。地震、大波、山崩れなどは全部神からの手引きであるという風に教えていただいておりますので、今ちょうどぴったり十二下りが終わって拝をしている最中の地震で、これは神様がこの一年よくやったねと言ってくださっているのか、まだ足らんと言っておられるのか、どちらかは分かりませんが、神様のお手引きというのはそういう風に受け止めるんですね。地震があれば、一体神様は何を私どもに伝えてくださっているんだろうなあという風に思うわけです。
 同じように、何か足が痛い、手が痛い、腰が痛い、あるいは気分が悪い、というような病気についても、全部神様の手引きという風に教えていただいております。そのお手引きというもの、自分たちに現れた一つのことをどのようにして受け止めるかというのが、実は信仰する意味なんです。一つ楽しいことがあっても、楽しいことがあって良かったね、と言ったならばそれでおしまい。あるいは辛いこと悲しいことがあったとしても、辛いのも悲しいのももう二度とこんな目にあうのは嫌だ、といってそれで忘れ去ってしまおうと思うのも、やはり神様のお手引きの意味が分からないことになる。
 以前、天理医療大学で講演をさせてもらいました。その時に私が前会長、つまり私の母から教えてもらった話をさせてもらったんです。母からは、「病気をして、薬を飲んで、医者へ行って、治った治ったと喜んでいただけなら、お前病み損だぞ」と言われました。病んで損しただけだと言われたんです。信仰をしていない人だって、お前と同じように病気になる人もいればならない人もいる。いったん病気になってしまい、薬を買いに行けばお金がかかる。病院に行って注射をすれば痛い、辛い思いもする。一方で、病気をしない人もいる。その人と比べたとき、病気になって治ったことだけを喜んでいたとしたら、治ったとしても、薬を買っただけお金は無くなったわけだし、病院の注射で痛い、辛い思いをしただけということになる。これでは単に損をしたことになるんだぞ、と。
 損だの得だのといった言葉だとなかなかぴったりこないでしょうけれど、病んだとき、ケガをしたとき、辛いことがあったときに、それを受け止めて、神様は自分に対して何を伝えてくださっているんだろうかなあ、という風に考えてみると、「ああそうか。神様は私に何か足らない所を自分で考えて改善しなさい、改良しなさいとおっしゃっているのか」ということが分かるようになる。あるいは、素晴らしい、嬉しい楽しいことがあったときには、「これはご褒美としてくださったんだ。さらにもっと楽しいことが来るように、もっと頑張れとおっしゃっているのかもしれない」ということが分かる。自分の身に起こる一つひとつのことをそういう風に受け止めることで、人柄が、人格がまた一つグレードアップする。また一つ他の人よりも人間を磨くことができる。こういうことが信仰をする意味なんだということを教えてもらいました。だから病気になって薬を飲んで、病院へ行って注射打って治ったので良かった、というレベルで止めてしまったら、病気になっていない人に比べて損をしただけ、病み損だぞ、ということなんです。

2.病んで得する
 じゃあ得するためにはどうすればよいのかですが、病んだことによって、神様が自分にどのように、自分の悪い点、欠点を直せとおっしゃっているんだろうか、ということを考えて、「ああそうか、こういうことがあったから、こういう風に神様からお手引き、手紙、メッセージをもらったんだ」という風に考えればいいだけのことです。とはいえ、一つひとつの出来事がどういうメッセージなのかというのはそう簡単には分からない。ところが、この信仰では全部きっちりと教えてくださっています。これはしっかり原点を勉強しないとなかなか難しいので そういうことは先輩のようぼくに尋ねてみて下さい。神様はこの身体に十全の守護といって、見える、聞こえる、食べられる、あと温み、水気、体温が36度5分でおさまっている、こういうことをすべて御守護くださっています。こういうことを考えますと、どこか悪いということは、神様がその人間の機能に障りをつけて、心を直させようと思っているということです。神様からすると、我々はみんな子供です。親が子供の悪い所を直してあげようと思って教えてくれているんだと考える。それが病んだことによって得をするということです。薬を飲んで病院へ行って治したということであっても、お金をかけた、痛い辛い思いをした以上に、自分の人格を一つ高めていくこと。これが信仰の意味だろうと思うんです。日常に起こるどんなことからでも、自分の人格を高めることができるのです。

3.「自由」ということ
 そしてもう一つ。ぜひ皆さんに覚えてほしいのが、自由(じゅうよう)ということ。「自由」と書いて関西では「じゅうよう」と言うらしいですが、

「自由という理は何処にあるとは思うなよ。ただめん/\精神一つの理にある。」

と神様は教えてくださっています。例えばお金が欲しい、健康が欲しい、あるいはもっとあちこち歩いてみたい、あるいはいい子供を授けて欲しい、あるいは子供が授かったならば良い子になって欲しい、いい成績をとって欲しい、そういう思いは全部自分の心の自由ということなんですけど、それは

「何処にあるとは思うなよ。ただめん/\精神一つの理にある」

とおっしゃっている。つまり、自由というのは外から与えられるものではなくて、自分自身で喜べるかどうか、ということ。これがこの教えの神髄なんです。だからどんなことがあってもまず喜ぶ。これが大切です。
 以前お話させてもらいましたけれど、新型コロナの感染拡大という、世界中が困っている中で、これをどうやったら喜べるんだろうかと考える。これも一つの信仰している意味なんです。こんなもの嫌だ、こんなもの辛いだけ、死ぬ方もいる、大変な後遺症が残る方もいる、けれども、それを神様は何のためにこういう辛い病を私たちの前に出してくださったんだろうかと考える。
 あるいは、どんなに嬉しいことであっても、これはただ自分がやったからこれだけのものができた、分かりやすく話をすれば、例えば自分が一所懸命に朝から晩まで仕事をした、それで会社から評価されて出世をした、給料も上がった。これは全部俺の力によるものなんだという風に考えるか、あるいは健康な身体を貸していただいて、無事に働きたいだけ働けた。また家庭に何事もなく、家庭を気にせず働きたいだけ働けた。もしかしたら奥さんが蔭で支えてくれているかもしれない。あるいは親が支えてくれているかもしれない。あるいは子供が心の中で「お父さんお母さん頑張れ」と言ってくれているかもしれない。そのように考えると、自分が出世したこと、この喜びは自分の力ではなくて、周りの人の力だということが分かる。そうすると、自分の力で勝ち得たもののように見えたものであっても、皆に感謝できる。これが信仰をしている意味です。最近は、何十億ものお金を払って宇宙へ行ってきた人がいますが、私は、ああいうことで自分が幸せだとは全く思わない。幸せというのはお金があろうとなかろうと、宇宙へ行けても行けなくても、海外へ行けても行けなくても、そんなことは関係なく、自分の身の回りにある小さな幸せを探していく。小さな幸せに気づくことができ、感謝で心を満たすことができる。これが

「自由という理は何処にあるとは思うなよ。ただめん/\精神一つの理にある。」

という意味です。

4.どんな所にも幸せの種はある
 そういうことで、先ほどの地震の例一つとってみても、神様は何を私たちに伝えたいのか。私たちに何を求めているのか。何をしたら神様は喜んでくれるんだろうか。先ほどの地震が、場所によってはもっと大きな地震であったりして、恐ろしい、辛い思いをした方がいるかもしれない。そうした方たちに対して祈るだけでも、そういうことがないように、辛いことがないように、あるいは大きな被害がないようにと祈ることだけでも、それが信仰しているということの意味なんです。「おお地震があった、揺れた、家が壊れなかった、良かった」、これで終わっちゃったらば、もう人生が面白くないです。別に信仰なんてしてもしなくても変わらない。何が起きても見ても聞いても、そこから喜びを見出す。これが信仰の醍醐味であろうと思います。

 この十二月というのは、一年の締めくくり。一月一日から今日までの十二月いっぱいで一年が終わります。いつも申しあげておりますが、正月一月一日といっても、大晦日の翌日であるだけのこと。正月一月一日も、今日の明日である十二月十三日も、同じ一日という意味では全く同じ。ではなぜそれを一月一日だけ「正月」として特別に皆祝って喜ぶのかといったら、皆さんの心の中で年が改まったとして喜ぶから、だけではないでしょうか?もし今日が大晦日であれば、明日はめでたいわけでしょう?つまり、皆一人ひとりが心の中で喜んでいるからこそ、正月がおめでたく、楽しいものになるんです。そういう風に考えていけば、どんな所にも幸せの種は必ず見つけられる。辛いことがあっても、神様は私に対してこれをどうしろとおっしゃっているんだろうか、どういう心でどうやって通っていけとおっしゃっているんだろうか、ということを考える。これが信仰をするということです。

 この一年間、本当に皆様には色々なことがあったと思います。今日入院していて、参拝に来られない方もいらっしゃる。新型コロナのために、YouTubeで見てもらっている方もいる。そんな中で今日教会に来られた、歩いて来られたという、そのことだけでも喜べる。その喜びで幸せになります。幸せになったらその幸せを困っている人に伝えていく。声をかけることだけでもおたすけになる。にこやかに笑顔で接するだけでも、笑顔をもらった方がまた別の人に笑顔で接していける。これも立派なおたすけです。そういう風に考えれば、どんな状況にあっても、人を助ける心さえあれば、人助け、世界助けはできます。そういう思いでまた来年一年、頑張っていただきたいと思います。

 今年一年、教会のうえに皆様にはしっかりとお心寄せをいただきました。お蔭様で、私のようなものでも大教会にしっかりとおつとめさせていただくことができました。また来年もさらにいい年になるよう、お互い一人ひとりが心を作らせていただき、喜んでお暮しいただきたいと思います。

 今日は本当にありがとうございました。

2022年03月30日

祈りは無力か

 ロシアによるウクライナ侵攻を受け、先日このホームページに掲載した「会長からの手紙」(こちら)に対し、ある信者さんから、以下のようなコメントをいただきました。
 
 独裁、腐敗のロシアのウクライナ侵略。断じて許されない!
 市井の弱い人々が追いやられ、殺されていく。何と悲惨なこと。
 しかし、私たち信仰者は「平和を願い、ウクライナの人々に平穏な暮らしが戻る事を祈るのみです」としか言えず。
 無力感がありますよね?
 
 たしかに、「祈り」は一番弱いもののように見えます。

 しかし、

 みな、弱いもののように思うなれど、誠よりかたき長きものはない。

と言われるように、「祈り」は誠そのものです。

 世界の祈りは、まず当事者(プーチン)に迷いを与えます。

 そして、祈った者の誠に対して神が先回りしてくれます。

 ミサイルで対抗しても、相手はますます自分が正しいとの確信を持つだけです。

 これだけ情報が発達した社会では、世界が、人々がロシア、プーチンに対して何を言っているのか、何をしているのかをすぐ知ることができます。

 世界から評価を受けたいから、批判を受けたくないために、自国の安全のため、虐げられている人を守るため、などの口実を並べているプーチンを見ても、世界の評価は怖いのです。

 「祈り」は、ミサイルよりも強い。

 ペンは剣より強し、という言葉は真実なのです。

2022年02月28日

会長からの手紙(ロシアによるウクライナ侵攻について)

 戦争が始まりました。
 
 隣国へ侵攻し、世界を敵に回す。
 
 我が国が数十年前に満洲国を作り、中国と戦争したことと同じことが起きてしまいました。
 
 人間は70年も経つと昔のことを忘れると言われていますが、そのとおりのことがロシアのウクライナ侵攻で証明されてしまいました。

にんけんハ あざないものであるからに
すゑのみちすじ さらにわからん(3号35)

[人間は浅はかなものであるから、こんなことをしていると、この先の先がどうなってしまうかは一寸もわからない]

 国と国との大きな戦い(世界大戦)になることの心配をする人もいるでしょうが、しかし、人間というものを神と共に陽気ぐらしをするために造られた親なる神の思いは、もっと重いでしょう。

 それは人間が戦争すらできないようなこと、たとえば大地震、大噴火、暴風雨などを、戦いをやめようとしない人間にお与えなさるかもしれない、と気付くべきです。

 戦争とは、単なる国と国との戦いではなく、陽気ぐらしをさせようとして人間を造られた親なる神の意思に、もっとも背く、大変なほこり、心得違いと考えるべきだと思います。ここには勝者も敗者もありません。

せかいぢう をふくの人であるからに
これすまするがむつかしい(5号75)

[世界中、何十億の人が戦争などしないように心を澄ませることは非常に難しい。]

いかほどにむつかし事とゆうたとて
わが心より しんちつをみよ(5号76)

[世界中何十億の人の心を澄ますことがどんなに難しいとしても、一人ひとりの人間が、それぞれ我が心を通して親なる神の真実のお心を見るように、一人ずつ心を澄み切るならば、世界中の人間の心はいっぺんに全部澄み切ってくる。]

 日本から遠いヨーロッパでの出来事も、それを見たり聞いたりしている私たち一人ひとりが、親神の思いを念じて心を澄ますことができれば、きっと愚かな戦争をやめさせることができます。

 皆さん、一緒に祈りましょう。

羽成 守

2022年02月26日

2021年(立教184年)11月月次祭神殿講話 ~借り物の実感~

 ただ今は11月の月次祭を賑やかにおつとめいただきました。YouTubeで見てくださっている方もいると思いますけれど、来月まではなんとかこの感染状況が続き、来年の春の一月の大祭からは皆さんお集まりいただけるようにぜひしたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。少しの間、時間をいただいてお話をさせていただきます。

1.人間ドックのこと
 先日、毎年のことですが、人間ドックに入ってきました。脳みそからそれこそお尻の穴のところまで全部検査をしてくれるんです。お陰様で、みんなちょっとずつ傷んでいますけれど、年相応ということで大きな病気は無く済みました。ただ、検査をしている時、ちょっと面白い気持ちになったのでお話をさせていただきます。
 検査の中には、脳みそをMRIという機械で撮るものがあります。すると、脳の血管の中でちょっと硬くなっている所があります。この硬くなっている部分が大きくなると脳梗塞、ということになります。ほかにもMRIでは、脳から出ている血管、首の所まで全部血管の枝分かれして細かい所、血管の一本一本まで見せてくれる。胃カメラもやりました。口からカメラを入れまして、モニターで私に見せながらやってくれるんですね。「今食道に入っています」。ずうっと入ってきて「これが胃の入口です」。それから胃に入っていってずうっと降りていって「これが十二指腸です」。そういう感じで全部映っている。そして大腸の内視鏡。これはお尻から入っていって、「これは直腸です」と。「これはこういって腸のどこどこを周っています」、というようなことで、自分の身体の中を全部見ることができるわけです。
 ところが、そこで見えている自分の身体、自分の脳みそ、自分の食道、自分の胃、自分の腸、なんですけれども、画面越しに見ていても自分のものという感じが全然しない。脳の血管を見れば、年相応に色々と小さな老化現象があって、あえて名前を付けると「小さな脳梗塞の一つです」とお医者さんは言うんですけれど、「もうこれ五年も十年も同じ所にあるから心配いりませんよ」と言ってくれる。まあこういう話なのですが、あらためて考えると、自分では自分の脳みそが今どうなっているかわからない。脳みそがこうなっているから、最近物忘れが激しくなったのか、なんてそんなことは全然わからない。何となく最近物忘れが出てきたな、人の名前が出てこなくなってきたな、ということを感じることこそあれ、それが脳のどこで何が起きていることに起因しているのか、なんてことは自分じゃ全然分からない。胃にしても、最近何となく胸やけしているんだけれども、水を飲めば治まってしまいますから、それ以上のことは分からない。しかし、お医者さんのカメラで見ると、ちゃんと自分の胃の所がただれている。腸もそうです。私は腸というものは、洗濯機の丸いホースのようなものだと思っていたら、あれは三角なんですね。三角が全部三角なのではなく、三角がずれている。だから丸いホースだったらさっと流れていってしまうのに、食事がちゃんと止まりながらそこで栄養を吸収して後ろへ流れてゆく。

2.借り物を実感する
 というようなことで、ずうっと見ていても、そこに映っている全部が自分のものとは思えない。人様のものとしか思えない。その時にふと思ったんですね。今、皆さんは自分で考えて自分で歩いて、自分で喋って、自分で食べているから、これは全部自分のものだという風に思っていると思います。ところが、たしかに食べるまでは自分がしているのだけれど、食べた後というのは分からないですよ。それは一体どこにどうなって片付いていくのか、よく分からない。胃カメラでも使わなければ、自分で見ることはできない。胃カメラを使えば、食べた物は食道のここを通って、胃に入って、胃で消化をして、そこに胃の後ろにある胆のうという所から消化液、胆汁が出てきて、消化をしてくれて、それが腸に入って腸で栄養分を全部吸収をしてくれる。ということになるわけですが、そういう自分の身体の働きを、我々は自分の目で見たことが無いし、仕組みも正直なところよく分からないから、せいぜい「食べて出す」ところしか見ていない。そこで、これまでお話ししたような、自分の食道、胃、腸、あるいは脳というものを見せてもらいますと、「ああこれはやっぱり借り物なんだなあ」とつくづく感じました。神様から借りているものであり、自分のものという感じはありません。もしこれが自分のものだったなら、胃だって適当に調節をすれば胃のモヤモヤは無くなるでしょうし、腸だって多少の便秘があったって、ちょっと揺らせば便は出てくるはず。ところが、そんなことは自分ではできない。食べることも。出るのも実は神様の御守護。そこで初めて分かるわけです。毎日健康で過ごしているだけでは、私も分かっていなかった。自分に入れられた胃カメラの映像を見て、「これはあんたの胃ですよ、あんたの心臓ですよ」と言われても「ああそうですか」というだけのことで、それはあたかも他人の内臓を見ているような気持でしかない。
 つまり、我々は自分の身体のことを何にも分からないんです。分からないし、自分の意思ではないんだけれども、ちゃんと消化をしてくれて、お尻から出してくださる。自分の身体とはいうものの、実は身体が持つ様々な機能について、自分で意識しては全然使えていないんだなというのが分かります。

3.自分は気が付かない
 その最たるものが心臓です。人間ドックでは、心臓の検査もやりました。特に異常はありませんと言われました。しかし異常はないけれども、これがあと十年間あるいは二十年間間違いなく動きますよ、という保証は何もありません。今、心臓に異常はありませんよ。ポンプとしてちゃんと動いていますよ、と言われても、どこか他人の心臓のように感じてしまう。けれども、これが急性心不全ということで明日急に止まってしまったら、これで自分は出直しということになります。あと、ガンの話もあります。実は私、病院に一つ文句を言ったことがあります。胃カメラで使うチューブが太いんです。だから入れられるとすごく苦しい、涙ボロボロ。ところが別の病院で胃カメラをやった時には、割りばしを割ったぐらいの細さのものが使われ、涙が出るようなことはなかったんです。そこで私は「大病院がなんでこんな太いのを使っているのか」という内容のクレームをご意見箱に書いて出した。そうしたら内科部長 さんが説明に来られて、二つの違う太さのチューブ持ってこられました。「確かにあなたの言うように細いチューブのものもあります。しかし、この細い方だと、例えばガンがあったとき、それが3ミリ以下だと見落としてしまうんです。ところが、この太い方は、1ミリのガンでも見落とさない」と言うんです。今回検査をしてみて、小さなポリープでもあったら取っちゃいますよということで胃カメラ入れましたら、果たして腸の所に小さなポリープがあった。それを見ている間にぱちんと切ってしまう。血がぴゅっと出ます。映像で見るとすごく大きいんですよ。人差し指の出っ張り位ある。「こんな大きいポリープができていたんですか?」と聞くと、「これ1ミリです」と言うんです。たった1ミリのものがこんな大きく見えるから、間違いなく発見できる。なるほどなあと、自分の都合で、チューブは細い方が良いだろうと思ったら、細い方だと見落としてしまう。今回見つかったポリープは良性のものだったので全然心配はいりません、ということでしたが、そういえばポリープを切られても、自分の腸の痛さは感じませんでした。逆に言えば、腸というのはかなり傷んでいても、出血したりなどのかなりの異常が無い限り、当人は気が付かない。自分のものなのに。

4.貸し物借り物
 ということを考えて、本当に初めて、ああ、やっぱりすべて身体は神様から借りているんだなあということが分かったんです。神様のおふでさきにですね、

「にんけんハみな/\神のかしものや なんとをもふてつこているやら」(第三号 41)

というものがあります。神様は貸しているのに、借りている人間は感謝もせずになんと思って使っているんだ?と。

「めへ/\のみのうちよりのかりものを しらずにいてハなにもわからん」(第三号 137)

ともおっしゃる。人間の身の内は全部借り物だ、それを知らずにいては何も分からん、何も分からんというのは人生の意味が分からない。命の大切さが分からない。命を借りているということ、今生きているということが分からない。なるほどそうでした。自分としては、ちょっと人間ドックへ行ってきます、と言って仕事を休んで行くだけですから、自分ではその瞬間どこか悪いところがあるとは思っていない。しかし、人間ドックで初めて重大なガンが発見されたり、重大な障害が発見されるということもあるわけです。しかもそれは自分の身体のことであるのに、カメラで見てもらわなければ分からない。これはやっぱり自分のものではありません。そしてまた、自分の意識だけで治すこともできない。これはやっぱり自分のものではない。この健康な身体、丈夫な身体を貸していただき、異常なく美味しく物を食べて出して過ごせている、ということに対して感謝とお礼をしなくてはならない。
 いつも申しあげていますけれど、感謝するというのは、朝目が覚めたならありがとうございました、ということです。眠りに就いてから、夜中にそのまま心臓が止まってしまうこともある。心不全というのはそうなんです。眠りに就くまで心臓は正常なんです。それが突然ぽんと止まる。それを思えば、朝起きることができたら、「ああ、目が開いた、お日様が拝める」ということを本当に心から感謝できる。夜寝る前も、「今日一日何事もなく休むことができます、また明日目が覚めるようにどうかよろしくお願いします」と考えると、自然と頭が下がります。人間ドックで、これあなたの食道だよ、これあなたの胃だよ、あなたの腸だよ、あなたの脳だよ、あなたの血管だよ、と言われて初めて、何事もないことの有り難さが分かる。しかし、考えたらそんなこと、お医者さんに言われなくたって、本来ありがたくてありがたくてしょうがないはずですよね。毎年人間ドックに行っていますが、これまでは人間ドックの結果だけを見て、「今年も何も無くてああよかった、また一年間働かせてもらえるなあ」という思いだけだったのが、今回初めて非常に変な感覚になりました。ああ、この身体は全部が私のものではないなあと素直に思いました。これ、本当に妙な感じだったのですが、その時に初めて、ああ、これは神様のものであって、これは借りているだけなんだ、ということが分かりました。

「めへへのみのうちよりのかりものを しらずにいてハなにもわからん」(第三号 137)

「にんけんハみな/\神のかしものや なんとをもふてつこているやら」(第三号 41)

お前なんと思って身体を使っているのか?
それが分からなければ何も分からないぞ?

ということを、この際しっかり感じて、感謝をしたいと思います。
 そしてもう一つ付け加えると、「にんけんハみな/\神のかしものや」とおっしゃる。我々は身体だけを借りているのではなくて、自分の身の回りにいる人、兄弟も親も子供も孫も全部神様から借りているんだということです。ということで、その自分の身の回りにいる方、これは血がつながっていようといまいと関係ない。自分の身の回りで自分のことを案じてくれる人、自分に声を掛けてくれる人、これも全部神様からの貸しもの。ということになると、その人たちがしてくれること、いてくれることで起きてくるあらゆることに感謝できるようになります。その心が自然と湧いてくるというのが、実は陽気ぐらしなんだな、ということがようやく、まだほんの一端ですけれども感じることができました。病気になり、病院で診てもらって先生に「大丈夫ですよ」と言われるとほっとします。しかし、病院に行かなくても、元気でいられることのほっとする嬉しさというものを日常的に感じていると、身体にどんどん活力が出てきて元気になります。これは医学的に言えば「免疫力が高まる」ということです。

5.笑うことは喜ぶこと
 昨日お出直しになった瀬戸内寂聴さん。昨日テレビを観ていたら、寂聴さんに「長生きの秘訣は何ですか?」と聞いたら「笑うことよ」と。いつもニコニコ笑っている。笑っているということは、お医者さんも言いますが、身体の免疫力が上がるということです。変な病気が来ない。病気が来ても、それを身体の中から治す力が湧いてくる。
 ではなぜ笑うかというと喜べるから。喜べるというのは何を喜ぶかというと、神様の御守護を感謝して喜ぶことができるから。これが神様が我々人間に望んでおられることだと思います。皆さんは当然お分かりのことだと思いますが、私は今回の人間ドックで初めて、自分の身体は自分のものではなく、借りものなんだということをつくづく感じましたので、ここでお話をさせていただきました。
 今日一日元気だったことを喜ばせてもらう。その喜びを神様に対するお礼として誰かにさせてもらう。これがひのきしんと申しあげましたね。そういうことで、まずは自分の身体を借りていることを自覚し、しっかりと喜ばせてもらう。これをまたこの一か月目標にしてお暮しをいただきたいと思います。
 まだ暖かいと言いながら冬です。この一週間を過ぎると急に冷えるそうですので、心だけは冷やさず、喜んで暖かくしてお過ごしいただきたいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2022年02月26日

2021年(立教184年)10月秋季大祭神殿講話 ~元一日~

 ただ今は10月大祭を賑やかにおつとめいただきました。一言お話をさせていただきますのでしばらくの間お付き合いをお願いいたします。

1.1日を楽しく感謝して
 10月になってようやく緊急事態宣言が解除されまして、今日も皆さんお集まりいただきました。道路や電車は大変に混んでいるというようなこともありましたけれども、やっぱり一人ひとりの心構えでしょうか、8月頃には一日の感染者数が5,000人とか6,000人とかであったのが、昨日はわずか70人とか80人とかいう、ちょっと信じられない思いがしています。一人ひとりの思いを重ねればこういうことができるんだなあと。逆に一人ひとりがちょっと緩めばどんどん拡大していくんだということがよくわかります。
 去年から始まったコロナ禍ですけれど、おぢばでも今年いっぱいは1大教会4人までしか参拝ができません。会長である私も参拝できません。それまで当たり前のように神殿に上がって拝めたということが、いつ突然こういう風にできなくなるか。人間の身体も同じで、今日歩けても明日歩けなくなるかもしれない。そんな風に考えると一日一日本当に大切に、今日一日歩けた、今日一日何か物が口から入った、ということを感謝して喜んでいく。
 私はいつも申しあげるんですけれど、損得だと思うんです。損だ得だと考えたときに、今日一日ぼーっと何も心に感動が無く過ごした一日と、今日も朝早く目が覚めた、そしてご飯が食べられた、それで人と話ができた。先ほど信者さんからお孫さんの写真を見せてもらったんですけれど、孫の顔が見られた。それで本当に今日一日嬉しかったという思いで一日過ごすのと、何も感激もない感動もない一日を過ごすのでは、同じ一日だったらそれは喜んで感動した方が得です。心も豊かになるしきっと神様はそんなに喜んだのか、と言って、じゃあ明日も喜ぶようにしてやろう、と。その積み重ねで長い寿命、長寿をいただけるのではないかなと思うんですね。
 ですから、決してその一日がつまらない日というのは無い。どんな時でも心一つで楽しく過ごせることができるんだということを、また後ほどちょっとお話したいと思います。

2.立教
 今月は皆さんご承知の通り、今から184年前の天保9年、1838年旧暦10月26日に、教祖に親神天理王命が入り込まれて、神様、神がかりになって、初めて人間の口から神様の思いを聞かされました。皆さん、神様はここにいらっしゃるけれども、神様は口を持っていませんから、神様がどんな思いでいるのかは聞こえない。ところが、中山みき様という教祖に入り込んで、教祖の口を通して、「くちはにんげん心月日や」という言葉があります。口は中山みきという人間だけれども、心は親神天理王命なんだということ。それで我々はこの教えを聞くことができたわけです。ですから、今日踊ったみかぐらうたも、教祖という人間の口を通してはいるけれど、あれは神様が教えてくださった言葉なんだということを教えていただいたのが天保9年10月26日。これが秋の大祭ということです。
 皆さんご承知のとおり、突然人間中山みき様の身体に親神様が入られ、「みきを神の社にもらいうけたい」とおっしゃられた。けれども、当時まだ中山みき様は40歳で、一家の主婦として一番大切・大変な時、そんな時に神様に持っていかれたんでは困るということで、親戚一族全部集まって「他の所へお移り下さい、こちらは世帯盛りですから」と言っても、「神はどこへも退かぬ」と。神様からすると、この教祖こそが、九億九万九千九百九十九年、大昔から約束された方。約束された魂を持っておられる方ということなので、神様としたら他の所へ行く訳にはいかない。そこで「聞き入れてくれた事ならば、世界一列救けさそ。」ということで承知をさせたわけです。親神様が入り込まれたのは10月23日の夜で、そこから皆三日間寝ないでひたすらどうか天へお上がりをお願いします、と頼み込むのだけれど、神は退かぬ、といったような問答が三日間続いたわけです。そして遂に10月26日朝8時に「みきを神の社に差しあげます」と言ったことで、天理教が始まった。これが天保9年10月26日午前8時。これが秋季大祭、ということの意味です。

3.元一日
 そういうことですから、私たちが今、この神様の話が聞けるのは、その天保9年10月26日午前8時という元一日があったからなんですね。元一日というのはそういう意味なんです。皆さんには、それぞれこの道に導かれた元一日がそれぞれあると思います。そして天理教を信じようという心遣いのその日というのがあると思います。 私なんかは教会に生まれて教会で育って、そして教会で鳴り物を聞いているから、天理教を信じるとか信じないとか、そんなことは考えずにずっと来ました。それが、大学に入ってから初めておぢばに帰り、学生生徒修養会に参加して一から天理教の教えを聞き、「何と素晴らしい教えなんだろう」と感激して「この教えを信じよう」と思ったときが私にとっての元一日といえると思います。その後、おさづけをいただき、結婚し、初めて子供を授かり、子供に色々な身上を見せられ、そして母親に色々な身上を見せられ、そして家内に身上を見せられて、初めて本当に神様のお陰で今日があるんだなと分かるようになった。 それは、元一日があったからこそ感じることができたということだと思うんですね。
 そういうことで、皆さんにもきっと元一日というのがあるはずです。つまりそれは神様をぼんやり聞いた日ではなくて、やっぱり神様ってあるんだなあと、私は神様を信じよう、と思ったその日のことです。その日が元一日。そういうこと自分の元一日を、この10月の秋の大祭という、天理教の始まった日になぞらえてぜひしっかりと考えていただきたいと思います。

4.心一つ
 今日はですね、「心一つ」ということについてお話させていただきたいと思います。私たちは、神様から常に「心一つ」と言われています。「心一つ」とはどういうことかというと、この身上、身体は神の貸しもの、神様から身体は借りている。心一つが我がの理、心だけが自分で使っていいものなんだということを教えられている。だから私たちが今持っているすべては、神様からの借りものです。いつも申しあげるように、自分の身体はもちろん、自分の奥さんだとか子供だとか兄弟だとか、場合によっては隣のおじさんおばさんも、自分の目に入ってくるのは全部神様からの借りもの。そんな中で、自分のものだといえるもの「心一つ」だと神様は言うんです。心だけは自由に使ってよろしい。ところが、人間は心は自由に使っていいから心の使い方を間違える。その間違えた時に神様が、そっちじゃないよこっちだよ、と言って手引きをしてくれる。これが病気であったり、色々な事情であったりするわけですね。つまり「心一つ」は自分が自由に使ってよいのだけれど、だからこそその「心一つ」を勝手気ままに使うなよ、というのが神様の教えなんです。
 おさしづにはこういう言葉があります。

「心一つというは優しい心もあれば、恐ろしい心もある 知らず/\の心もある」(おさしづ明治25年1月13日)

 分かりますね。「心一つ」というのは優しい心もあるけれども、恐ろしい心を持つこともある。そして自分で優しい心になろうとか恐ろしい心になってやろうとは全く関係なく、知らず知らずの心もある。自分で意識しないうちに、知らず知らずのうちに使っている心もある。

「どんな事見せても、人の事のように思てはその日限り、あれはあれだけと思えば、それまでのもの」

 言葉としては非常に簡単なんですけれど、難しいですよ。「どんな事見せても」というのは、私たちが自分の身の回りに困っている人を見るということは、神様が見せてくれているんです。神様が困っている人を自分たちに見せてくれているんだけれど、「どんな事見せても、人の事のように思てはその日限り」。困っている人がいたらば、ああ、あいつあんなことやったから困っているんだ、あるいはあんな困っているやつのことは見て見ぬふりをしよう、つまり他人事だと思っていたらその日限りで、実は神様がその人間に見せているんだということが分からずじまい。その人を助けさせてもらうことによって、助けた人に対して神様が御守護をくださる。言い換えれば、神様には「お前に御守護をやりたいから、こういう困っている人を見せているんだよ」という思いがあるのに、見せられた人間の方で、それはもう人のこと、自分には関係ないと言ってしまったならその日限りのこと。結局神様から御守護をもらえない。「あれはあれだけと思えば、それまでのもの」。身の回りでどんなことが起きても、あれはあれ、これはこれ、人間の方で勝手に分別つけてどうやっても自分事として捉えない、考えないという時は、せっかくの神様の想いも届かずじまい。
 この神様の言葉は非常に簡単だけど、難しい。これをもっとやさしく理解するとすれば、こうでしょうか。例えば、誰か困っている人を私が見たとき、「神様はなんであんなに困っている人を世の中に作ったんだろうか」と思ったとします。しかし、そこで神様は「どんな事見せても、人の事のように思てはその日限り」とおっしゃる。この世の中にこんな困っている人がいるということは、この世に神様なんていないのかなあ。神様がいるなら、あんな困っている人を作らないはずだよね、と思うかもしれない。でもそうではなくて、神様はそういう人を見せて「あなたが助けなさい」と言っているんですね。困っている人間を私に見せるのは、私にその人間を助けさせたいという神様の思いがあるから。これが陽気ぐらしの世界ということなんです。「どんな事見せても、人の事のように思てはその日限り」というのは、神様が困っている人を自分に見せてくださった、お互いに助け合おうという考えでなければ、陽気ぐらしをさせたいという神様の想いは分からないよ、という意味なんです。
 私たちの身の回りには、本当に困っている人はいっぱいいる。その困っている人を見せられている私たちは、その人を助けさせてもらうのが神様の想いに応えることになる。世の中には、本当に偉い人だなあと思う人がいます。胸を打たれるような人がいる。なぜその人たちを見る私たちの胸が打たれるかというと、自分を捨てて困っている人を助けているからです。神様から見ると実はそれが一番美しいことだから、私たちの胸を打つのです。
 もう一度読みます。

「心一つというは優しい心もあれば、恐ろしい心もある 知らず/\の心もある どんな事見せても、人の事のように思てはその日限り、あれはあれだけと思えば、それまでのもの」

 どんなことを見ても私たちは喜ぶ心を持つと同時に、どんなことを見てもその人を助けさせてもらおうという心を持つ。これが心一つの自由を人間に与えた理由なんだよ、ということを神様は教えてくださっている。困っている人を見たらその人を助けさせてもらおうという心を持つ。その心が、心一つが我がのもの。心一つが自由(じゅうよう)の理、という意味だということを、今月また改めて心におさめていただきたいと思います。「見るも因縁 聞くも因縁」という言葉があります。どんなものを聞いても全部自分に神様が見せてくださっているんだということをしっかりと心におさめて、この一か月お暮しいただきたいと思います。
 今月はコロナ禍の中、多くの方にお集まりいただきました。久しぶりに賑やかにおつとめをさせていただきました。来月はもっと多くの方においでいただけると思いますので、どうかYouTubeで見ている方も来月はぜひ参拝に来られるようお待ちしております。

 今月はどうもありがとうございました。

2021年12月28日

2021年(立教184年)9月月次祭神殿講話 ~神様の目~

 ただ今は九月の月次祭を賑やかにおつとめいただきました。少しの間お話をさせていただきますのでどうかお聴き取りをお願いいたします。

 本来なら今日までが緊急事態ということでしたけれど、また一か月延びてしまいまして、九月いっぱいということになりました。来月十月の大祭で皆さんにお会いできるかなと思っておりましたら、思いもかけず車でお出でいただいた方がいらっしゃいまして、今日は久しぶりに賑やかにおつとめをつとめさせていただきました。本当にありがとうございました。

1.先のことがわかる
 私は家で複数の新聞をとっておりまして、朝、一面の大きな記事を見ますけれど、忙しいのでそのまま出かけてしまう。そして帰ってくれば夕刊が来ていますので、一週間、日曜日にその週の月曜日からの記事を読むことになります。そんなことをやっている時に、ふと面白いことに気づきました。月曜日の新聞を読んでいますと、政治の世界でも、誰々さんが何をするとか、こうしたいとか話しているという記事が載っている。それに対して皆がこんなことを言っている、ということも載っている。けれど、その記事を読む時には、もう一週間経ってしまっていて、私は既に日曜のテレビを視て結論を知っている訳です。そのようにして一週間の新聞を読んでいるうちに、徐々に徐々に事情が変わってくる様子がよくわかる。そうすると「ああ、この人はいずれ一週間後にはこうなるのになあ」と。例えば今の総理大臣もそうですけれど、自分が総理大臣を続けるために色々なことを月曜日、火曜日、水曜日と言ってきている。そして金曜日の朝刊でも、今後自分はこういうことをやるんだ、と言っておったのが、当日夕刊になったら突然「辞めます」という記事が載っている。その都度読んでいると、びっくりして驚くようなことばかりなんですけれど、一週間前から結論を知ったうえで読んでいるとですね、ああ、やっぱりこの時この人しんどかったんだなあ、ということが分かるわけです。
 同じようにスポーツでもそうです。絶対に勝つんだ、とか負けないんだ、ということをずーっと本人が言っている。いよいよ試合当日を迎え、やってみるとあっさりと負けてしまう。そうすると、数日前に勝負のうえでこんな懸念があったな、というのが現実になったことが分かる。

2.神様の目
 その時にふと思ったんですね。神様というのは、こういう風に、つまり月曜日の新聞を読む私のように、もう日曜日のことが分かっているんですね。神様の目からすると見ぬき見とおし。そうすると、我々人間が何かをやろうと思っている時に、神様から見て「それはお前危ないよ」ということがはっきりと見えている。つまり神様は結論が見えているのだけれど、人間は分からないからやってしまう。そうすると案の定、神様が心配していたような結論になる。しかし人間は先のことは見えませんから、どんどんどんどん悪い方へ進んでいく。あの時にこっちへ行かないでこっちへ来たら良かったのになあ、と思うのはもう後の祭り。
 同じことが子育てもそうかなと思いました。今日、信者さんのかわいいお孫さんの写真をみせてもらいました。今年生まれたばかりなので、親は今はもう無我夢中で子育てしているけれど、じいさんばあさんという子育て経験のある人たちから見ると、この育て方は危ないなあ、とか、こうやった方が良いのになあ、というのが分かるわけです。経験者としてはついつい、こういう風にしたらどうかなどとアドバイスをするんだけれど、聞く方はもう自分の目の前のことで忙しいし、自分の思いどおりにしたいからそんなこと面倒だと言って聞かない。しかし経験者からするとやはり危なくて見てられないから、やはりこういう風にした方が良い、ということを子供に言って聞かせたいわけです。
 人間の世界でもそれがある。神様から見たらもっと心配だと思います。例えば子供がボール遊びをやっている。ボールがポンポンポンと道路へ出て行ってしまった。子供はボールを取りに行こうと思ったけれども、親あるいはそばの人が慌てて子供を捕まえる。子供はボールが道路の向こうへ行っちゃったのに取りに行かせてもらえないものだからギャンギャン泣く。しかし止めた大人から見ると向こうから車が走ってきていることがわかっている。そのまま子供が行けば車にひかれてしまうことが見えている。だから子供を止めますね。ところが見えない子供にとってはボールを取りに行くのをこの人に邪魔されたと思う訳です。しかし大人は子供がどう感じようが危ないことは止める。結論が見えているから。
 神様は当然一週間後のことも分かっているんです。それどころか、神様の大きな目からすれば、一年後、あるいは人生が終わるような時のことまで神様は全部分かっている。だからこそ、かわいい子供である人間が危ない方へ行かないように「こうしなさい」と言う。とはいえ我々見えない将来のことを言葉で言われるだけではなかなかピンとこないし、そもそも神様は言葉をお話しにならない。だから我々人間の身体の色々な部位や、あるいは我々を取り巻く周りの事情に“しるし”を見せて、そっちへ行かないように、こっちへ行った方が良いよという風に導いてくれるんだろうと思うんです。それはまさに経験者から見て未経験者が危なっかしくて見ていられないのと同じ。神様はそういう風に思っています。おふでさきにこういうのがあります。

「月日にハたん/\みへるみちすぢにこわきあふなきみちがあるので」(7-7)

 月日、神様には人間が行くだんだん見える道筋に「こわきあふなきみちがある」、怖い危ない道が見える。だから、その後に

「にんけんのわが子ををもうもおなぢ事こわきあふなきみちをあんぢる」(7-9)

という歌があるんです。
 人間も我が子を同じように思うだろう?我が子が怖い道、危ない道に行かないように、親が案じてそれを止めるだろう?と。だから神は「にんけんのわが子ををもうもおなぢ事こわきあふなきみちをあんぢる」として、子供がそういう怖い道危ない道に行かないよう、色々な障りを人間に見せて、子供である人間がそっちへ行かないよう教えてくださっているんです。

3.どんなことでも喜ぶ
 今、世の中で起きている色々なこと、あるいは皆さんが家の周りで、自分の身の回りで、嬉しいこと楽しいことあるでしょう。一方で、そんな幸せは毎日続けば良いんだけれど、突然何か一つ気に障ること気になること、あるいはちょっとした病にでもかかれば、一変してしまうことがあります。世界でいえば、新型コロナという大変な病があります。また、世界のあちこちで今でも戦争が起きていて、独裁者によって、人間が当たり前に認められるべき人権が抑圧されている所もある。そういう世界の出来事を、我々は神様から今、見せてもらっている。見せてもらっているということは、それを見た私たち一人ひとりに、それを何とか助けるように、ということを神様が我々人間に訴えかけてくださっているんだと思うんです。神様は我々の親ですから、私たちが見ること聞くこと、あるいは自分の身に生じてくることすべてをとおして、そっちへ行くなよ、人間としてこっちへ行くことができればもっと幸せになれるぞ、陽気になれるぞ、ということを教えてくださっています。
 そういう風に、なんでも分かっている神様が我々に色々なことを教えてくださっているのだと考えることができると、どんなことでも喜ぶしかありません。先ほどの子供がボールを取りに行こうとして大人に止められる話、子供とすればギャンギャン泣けて仕方ないことなのかもしれませんが、しかし、客観的に見れば、それがその子にとっての一番幸せな道なんです。行って車に轢かれちゃったらもうおしまい。それを神様は親だからこそ、子供が怖い道危ない道に行かないように案じているんだぞ。こういうことを教えていただいているので、今自分の身の回りに起きていること、嫌なこと苦しいこと辛いこと、これはしかし神様が幸せな道、楽しい道、陽気な道にしてくださっているんだと、それを喜んで受けとめる。神様は何を私にしろとおっしゃっているんだろう、何をするなとおっしゃっているんだろう、ということをしっかりと考える。
 これが神様のおっしゃる「成ってくる理を喜ぶ」ということなんです。どんなことでも喜べるようになります。
 みかぐらうたにも

「十ド このたびむねのうちすみきりましたがありがたい」(四下り目)

というのがありますね。つまり何がありがたいか、と。お金があってありがたい、あるいは事業に成功してありがたい、勝負に勝ってありがたい、ということではなくて、心が澄み切って、どんなことでも喜べる心を持てた、これがありがたいということなんだということを神様は我々人間にちゃんと教えてくださっている。
 神様はみんな分かっている。先のことが見えているから、人間一人ひとりが危ない道に行かないように、神様が色々な手段で我々人間に教えてくださっている。ですので、どんなことがあってもひとつひとつ、神様が何のために私にこんなことを見せてくれるんだろう、何のために私に辛い思いをさせてくれているんだろう、ということを考えながら、しかもそれを喜ぶ。皆さんどうかひとつ、どんなことでも「成ってくる理を喜ぶ」ということを今月の目標にしていただけたらと思います。
 一週間前の新聞を一週間後に読むということだけでも、「この人こういう風になっちゃうのに、今こんなことを言っているね」なんていうことがよく分かります。それは、神様が我々人間を見て、最初からどうなるか分かっているのと同じ話です。我々は神様からしっかり守られているという安心。それと共に、親である神様が、私たち子供が、幸せな道、楽しい道、陽気な道をたどるために日々見せてくださっているのだ、ということを喜んで受けとめていく。こういうことでこの一か月、お暮しいただきたいと思います。

 本日は本当に賑やかにおつとめいただきましてありがとうございました。

2021年10月30日

2021年(立教184年)8月月次祭神殿講話 ~信仰というもの~

 ただ今は八月の月次祭を賑やかにつとめさせていただきました。賑やかにと言いましても、教会の在勤者と家族だけでございますので、人数は少ないです。ただ、いつも申しあげておりますけれど、おつとめをやらせてもらう、歌わせてもらう、振らせてもらうということでどれだけ元気が出ることか、という思いをしております。
 皆さんもお宅でぜひおつとめをしていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

1.信仰ということ
 今月も東京は緊急事態宣言発令中ですが、さらに今日の新聞によりますとまた九月いっぱい云々という話をしております。そうするともう一月から一回も、むしろ緊急事態でない時が無かったぐらいのことになっておりますけれど、こういう時にどのように私たちは教会とつながっていくか、信仰をどのようにするかということを考える必要があると思います。今月は、信仰ということについてちょっと考えてみたいと思います。
 信仰というと、宗教、神様、仏様を信じることといいますけれど、自分の経験から言いますと、信仰というものにはなかなか入れるものではありません。例えば、本当に大変な病気になって何かの宗教に助けてもらう。あるいは大変な事情、世間で言う悩み事があって、これを助けてもらった。そういうことで宗教に触れ合うことはあるでしょうが、それから信仰する、信心するというところまで行くのは果たしてどうかな、という気はします。
 そんなことから私の経験をちょっと申しあげますと、私はこういう教会という環境で育ちましたけれど、大学に入るまでは神様を信じるということは全く頭にありませんでした。別に信仰なんかしなくたって生きていけるし、現に私は信仰をしなくても受験勉強をし、大学の試験に合格し、ということで自分中心で我の強い人間でした。けれど、その大学に入った年の八月に、学生生徒修養会というところに行ってみないかと誘われました。当時の私は天理教のての字も知らないわけですから、おつとめもちゃんとできませんでした。座りづとめもです。またそんな私に親も「やれ」とは言いませんでした。そんなこともあって、いわば興味半分に行ってみたわけです。興味半分と言いましても、天理教の教会という所に住んでいながら天理教を知らないのでは話にならない。まずは勉強のつもりで行こうということで、いわば学ぶつもりで行ったんですね。
 そしてそこで聞いたお話がまさにこの天理教の教えそのもの。それを聞いてびっくり仰天。本当にこんなに深い素晴らしい教えだったのかということで、初めて信仰というものをしようかと考えたんですが、後で考えてみると、それは実は頭の中で昔から知っていた話。学んで「すごい」とは思ったけれども、それを信じるかどうかというのはまた別の話でした。そしてまたその後に、今日はお話をしませんけれど、その後色々なことを見せられまして、そのつど、一つひとつ、「ああ、神様っているんだなあ」ということを自分で感じて、学んできましてですね、それで信じるようになったんです。
 ところが、信じるというのは、神様はいるんだなあと信じるんだけれど、よくよく考えると、なかなかこの信仰というのは文字で言うと面白い言葉。信じるということと仰ぐ、仰ぎ見るという、仰いで見るというのが信仰の「仰」なんですね。そんな風に考えてみると、私は学んで信じるところまでは来たけれど、信仰するところまではなかなか来ていませんでした。ところが色々な方たちと話をし、また周囲に、自分の周りに色々なことを見せられていく中で、これを、この教えを信じていれば間違いないなあ、と。つまり心の基準、よりどころになるということがようやく分かってきました。

2.人を信じる
 そんな時に、親鸞聖人という、皆さんご存知かとおもいますけれど、浄土真宗の開祖です。元々親鸞さんは浄土宗というのを作られた法然上人の弟子です。法然さんの作られたのは浄土宗。これは実は教祖中山みき様も神がかりになる前は浄土宗の熱心な信仰者でした。その浄土宗は法然さんが作られ、その弟子が親鸞さんだった。法然さんは念仏さえ唱えれば極楽に行けるという教え。ところがその弟子の親鸞さんは、昔の仏教の教えを全部壊してですね、つまり今までのお坊さんというのは、信仰者として奥さんをもらってはいけない。妻帯はダメでした。ところが親鸞さんは妻帯も認め、そして良いことをした人が助かるのではなくて、悪い人間の方がもっと助かるんだという、悪人正機というんですが、そういう教えを広めました。本当に浄土宗の反逆者みたいな方でしたけれど、その親鸞さんが先生である法然さんのことを、こういう風に言っているんですね。
「たとい法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」
 「私は、例え法然上人を信じたことによって、法然上人にだまされて、私が地獄に落ちることになったとしても、決して後悔はしない」と言うんですよ。法然さんの弟子でありながら、浄土宗を壊して浄土真宗を作ったような、本当に反逆者のようなその親鸞さんが、法然上人にだまされて、私が地獄に落ちようとも後悔はしない、ということを歎異抄という親鸞さんの書かれた本の中で言われている。これを見て私はびっくりしました。信仰というのはこういうことなんだなあ、と。
 つまり、ただ信じるだけではなく、さらにもっと進んでその教えを教えてくれた人を信じたことによって、たとえ私が地獄へ落ちても後悔しないとまでおっしゃる。結局地獄には落ちないわけですけれど、信仰するという「仰」、仰ぐというのはそういうことなんだと自分ながらにちょっと思いました。
 そうしますと、実は天理教ではそういう人がいっぱいいます。教祖のために命を捧げてきた先人がたくさんおられます。今ある多くの大教会の元となる教会を作られた深谷源次郎先生。あるいは教祖に助からんといわれた母親の病気でもそこをなんとかという必死の想いで神様にお願いをされた逸話の桝井伊三郎さん。お屋敷に向かう途中大雪で橋が落ちそうな中でも一心に神名を唱えて助けられたという逸話の増井りん先生。漁師で大海が荒れている時に教祖が遠くから扇を振って波をおさめて難破しないで済んだという逸話の撫養大教会の土佐卯之助先生。その人たちは、教祖の言葉を本当に一言半句もらさず、教祖の言葉だけを信じてその通り通られた方たちなんです。そういう人たちがいて、先にお話しした親鸞さんと法然さん以上といってもいいでしょう、それくらいの想いで教祖を信じて通ってこられた。

3.一すじ心
 ただその方たちは、今の私たちから見ると非常にうらやましい。教祖というお姿があったから。自分の目の前におわす教祖に一生懸命ついていこうということは当然あったでしょうが、今を生きる私たちには、教祖のお姿は見えません。しかし、教祖は今も存命であるとおっしゃってくれている。
 では、その存命の教祖に対し、どうしたら、だまされても、地獄に落ちても(天理教に地獄はありませんので、たとえ話です)私は後悔しない、とまで言うことができるのか。そういうことを思うとき、実は教祖はこういうことを言ってくださっている。三下り目のですね、

「六ッ むりなねがひはしてくれな ひとすぢごゝろになりてこい」
「七ッ なんでもこれからひとすぢに かみにもたれてゆきまする」

 これは、教祖が一すじ心になりてこいと言ったならば、これから一すじ心でついていきます、という、信者側からの言葉です。つまり、これがまさに教祖にどこまでもついていくという言葉である、「一すじ心」ということなんです。「ひとすぢごゝろになりてこい」「ひとすぢについてゆきまする」ということが、教祖と、教祖の姿が見えない私たちの信仰の有り様として、教祖が教えてくださったことであろうかと思います。
 そういうことから、「一すじ心」とはなにか、ということを考えたい。これは、実は元始まりの元の理に出てきます。親神様は、人間を創ろうとして色々な道具を集めた。その中で、人間の夫婦の種にする「うを」と「み」を集めました。なぜ「うを」と「み」を集めたかというと、これは心が「その一すじ心なるを見澄ました上」という言葉があるんですね。つまり、その「うを」と「み」は神様に対して一すじに、今度は夫婦になって夫婦の一すじ、一すじというのは二すじ三すじはありません。みかぐらうたに人の心は千すじや、ということもあるけれど、その中で「一すじ心」の人間だけを神様は受け取ってくださっている。この「一すじ心」、これが信仰に対する、信仰におけるもっとも大事なことだろうと思うんです。私たちは、ただ一すじに教祖の言われたことを守る。ただ一すじに教祖が通られたひな形をたどっていく。これが教祖についていくということの意味であろうかと思います。
 そんなことで、今を生きる我々は、残念ながら教祖の姿そのものは見られないけれど、教祖はご存命で、私たちのことをしっかり見ていてくださっている。その存命で見ていてくださっている教祖に対して、教祖一すじについていきます、という思いを持つことによって、今まで申しあげた、教祖ご存命中の頃の先人の方たちの思い、あるいは親鸞さんが法然上人についていこうとした思いに少しでも近づくことができる。私はこれが信仰ということだと思うんです。

4.成ってくる理を喜ぶ
 私たちは、教会を通じて教祖に、親神様につながっている。これをぜひともわかっていただきたい。信じるだけではなくその人についていきます、その人の言うことを聞きます、その人のことを守ります、たとえだまされてもついていきます、ということ。言うまでもありませんが、神様が人間をだますということは決してありません。ありませんけれども、だからこそ、今、自分たちがつらい思いになったとしても、これは神様が私たちを試しているんだ、私たちにさらに力をつけようとしてくださっているんだということを信じてついていく。「本当の神ならば人間に対してこんなつらいことを与えるわけがない。だから神なんていないのだ」なんていうことは考えない。そうではなくて、すべてのことは、神様が私たちのためにこういう色々な節(ふし)を見せてくださっているんだ、と思案する。これが信仰するということなんだと思います。これを一言で言うと「どんなことでも喜ぶ、成ってくる理を喜ぶ」という、こういうことであろうかと思います。
 信仰をするということは、成ってくる理を喜ぶ、どんなことでも神様が私たち一人ひとりのために、一番良い方法をとってくださったんだということを信じる、そしてそれについていく、ということが、信仰をするということの本質であろうかと思います。
 さらに進んで、頭で学ぶ、あるいは心で信じるということを超えて、成ってきたことすべてを喜び尽くして、人を助ける心を持ち、自分のできる人助けを少しでも実践する毎日を歩んでいく。こういうことが信仰する目的であろうかと思いますので、どうかこの一か月、そういう思いでお過ごしいただきたいと思います。

 来月12日までの緊急事態宣言もどうやらまた延びるようですけれども、これは神様が、こういう時間でしっかりと物を考えるよう我々人間に教えてくださっているということです。せっかく神様からこういう節を与えてもらっているわけですから、我々人間とすれば、この機会に一段上の人間にならないと損をします。神様は、我々人間をもう一段階上のステージに進ませるために、このコロナの節を与えてくださっています。そう確信し、一段階上の人間に成るための毎日を歩んでいきましょう。繰り返しますが、これが「信仰をする」ということです。
 まだまだ暑い中大変だろうと思いますけれど、どうか喜んで一か月お通りいただきたいと思います。
 今月はどうもありがとうございました。

2021年09月09日

2021年(立教184年)7月中元祭神殿講話 ~神様の試しと御守護~

 ただ今は七月中元祭を無事つとめさせていただきました。ありがとうございました。しばらくの間お付き合いをお願いいたします。

1.教会の屋根の修理から
 実は、教会がちょっと屋根の修理とか部屋の改装をしました。そのことで神様の御守護というのはこういうことか、と実感をしたことについてお話させてもらおうと思います。
 皆さんはあまりご存知なかったと思いますが、以前の地震で二階の大屋根の瓦がずれていたらしくて、二階の部屋が雨漏りをしていました。そこは以前子供部屋として使っておりましたが、今は住んではおりませんし、荷物だけちょっと避難をして放っておいたんです。普通の雨では雨漏りしないものですから放っておいた。
 ところが、二階のみならず、御霊様の脇の神具入れの所が、以前大雨の時に大変に雨漏りしました。さらに最近、御霊様の屋根まで雨漏りがし出したので、これはもう神様のことですから放っておくわけにいかないということで瓦屋さんを探したんですけれど、日本瓦をやってくれるという方がなかなかおりません。そうして困り果てて一か月以上経ったある日、たまたま中根大教会での月次祭の時に、言ってもしょうがないだろうなぁとは思いつつ、千葉県の勝浦という所にある会長さんに「実はこういう訳で非常に困っていて、瓦屋さんに知り合いいませんかね?」と聞いてみました。実際その会長さんにお知り合いがいるとは思っていなかったのですが、とりあえず話をしたところ、その教会の部内教会が東京にあって、つい最近屋根瓦を直した、ということがあったとのことでした。そこで私は「ご紹介いただけませんか?」という話だけはして、それからもうすっかり忘れておりました。
 しばらく経ってから、突然屋根屋だという方からうちの教会に電話がかかってきまして、「誰々さんから紹介されたので近いうちに見に行きます」ということで、それから数日後に見に来られました。そうしたところ、雨どいもおかしいし、雨どいと一緒に瓦を直しましょう、ということで見積もりをお願いしていたんです。
 そうしましたらその日の夜、ちょうど私が教会にいる時に電話がかかってきました。「もしもしMです!先生!」と元気な電話がかかってきた。私は十数年前にその方の事件の弁護士として仕事をしたことがありますので、また何か事件でもあったのかなと思って電話を取り「しばらくです」と話をしました。すると「先生、今日、屋根の修理で話を聞いたんだけど」と言うから「いや今日来たのは若い方だけど?」と返したら、「あれは私の息子だ」と言うんですね。「そうですか、それは奇遇で助かります。ぜひよろしくお願いします」と言いましたが、今、建築関係の業者は大変に忙しいらしく、ちょっとした修理など構っていられないようです。
 そうしてしばらく経ってから、そのMさん御本人が教会に来られまして、屋根と瓦と雨どいを全部直してくれるというのでお願いをしましたところ、数日後にはこの教会の周り全部、足場を二階の屋根まで組んで、全部ネットを張ってかなり大変な様になりました。教会の中は暗くなりますし、ご近所の方からは「お宅建て直すの?」なんて言われるほど大掛かりにやってもらうことになりました。「Mさんは板金屋さんと聞いていたので屋根の修理などやってもらえないと思っていた。」という話をしたら、「うちはこれが本職だ」ということでした。

2.天理教信者の屋根屋さん
 そんなこんなで、数日経ったある日、小学校時代の友人から私のところに急に電話がかかってきました。元々、そのMさんという方を、弁護士としての私に紹介してくれたのその友人で、彼からは本当に何年振りかで電話がかかってきました。そしてこう言うんですね。
 「おい羽成、お前の家、屋根直すって今日聞いたんだけど?」
 「そう。直すけど、なんでお前知ってるの?」
 「いやさ、あれ(Mさん)は俺の女房の兄貴だ」
 「そうなんだ!なんで今日わかった?」
 「今日ね、天理教の教会の月次祭へ行ってその話を聞いたんだよ」
と言うんです。最初は彼が何を言っているのかよくわからなかったのですが、よくよく聞いてみると、彼の奥さんが教会の娘さんで、その弟さんがMさんだったんですね。それで「教会は誰がやってるの?」と言ったら「Mの実兄だ」ということで、以前弁護士として仕事をさせてもらったMさんは、まさに教会の息子さんだったんですね。私、全然知らなかったんです。そもそも小学校時代の友人の奥さんが天理教ということも私は知らなかった。向こうは私が天理教の会長であるということを知っていたらしいですけれども。いずれにしても、今回の件は、神様が先回りして手配してくれたように感じます。元々の話は、千葉県の勝浦にある教会に話を聞いてみたところから、その人からひょいひょいと来て、Mさんにつながった。Mさんの会社は、この教会から近い市川にあります。これは本当に神様の御守護だなあと。自分の家を直そうというよりも、神様、御霊様が雨漏りしてはこれは申し訳ないから、ということで四苦八苦していたら、そういう風に全部神様が手回し良くやってくださいました。
 そしてMさんには、もうあらゆることをしていただきました。雨漏りしているぐらいですから、畳もおかしくなっていて、「二階の畳を全部捨てて、もうこれフローリングにしてくれない?住む予定ないから」とお願いしました。ただ、フローリングにしようとしても周りはふすまで、雨漏りの雨が当たって半分腐りかけていたので、これも全部直そうということになりました。皆さん是非教会お出でいただいたら見ていただきたいんですが、本当に新築のような綺麗な洋間に様変わりしてしまいました。「うちはこういうのも全部出来るんだ」とMさんが全部やってくださいました。

3.修理後の雨漏り
 ところが、ちょうど足場を組んで瓦の修理が全部終わって部屋を直している時に、大雨が降ったんです。そうしましたら、今度は直したところと違う所から雨漏りをしてきた。普通であれば、「直してもらったはずなのになんで雨漏りするんだ」と文句を言いたくなるところでしょうけれど、私は本当にとっさにとっても喜べました。というのは、まだ足場が組んだままになってますから、Mさんに電話したところ、すぐに飛んできて足場を使ってすぐに直してくれた。違うところから雨漏りした理由についても、これはこういう訳でこうなったんだ、ということをきちんと説明してくれて、新たな雨漏り部分もちゃんと直してくれました。 あれがもしも、足場を全部片付けてしまってから大雨で雨漏りしたら、そんな簡単には直せないわけです。そういうことで、実は子供の部屋として使っている中での雨漏りはほったらかしだったんですけど、神様に関わってくるならそういう訳にはいかんということであらためてお願いをしたところ、いろいろすっきり解決したわけです。
 まずは神様を中心に立てて動き出すと、そういう風に神様が全部取り計らってくれる。千葉の勝浦の人に頼んだのが、その市川の屋根屋さんにつながって、その屋根屋さんは昔私が事件を手伝ったことがある人。しかもその人を紹介してくれたのは小学校の友人でその人の奥さんは天理教の娘さん。そして結果的に教会の次男坊さんがやっている屋根屋さん、月次祭に毎月出られているような屋根屋さんがこの教会をやってくれた。だから家に上がるときもごく当たり前に「神様の天井」とかおっしゃる。「神様の所どうしましょう」と言って、本当に献身的に天井も全部張り替えてくれました。
 途中、直したところと別のところで雨漏りするというアクシデントもありましたが、それも足場を解体する前にわざわざ神様が大雨降らせてくださって、結果すぐにそこも綺麗に直った。

4.神様の試(ため)し
 皆さんが信仰の道についたというのは、何かの御守護をいただいているからだと思います。神様は、御守護を下さる際に “試し”をされます。つい神様に不足を言ってしまうような辛いことを与え、それをしっかりと受けとめて喜んで通るように努力する。これを神の試しといいます。神様がちゃんとこういう風に試してそれを喜んで通ったときにすばらしい御守護を下さる。また私どもは先輩から、「この道は証拠信心だからね」と聞かされています。神様は、信心した証拠をきちっと目の前に出してくれるんだということを教えてもらっています。御守護は日々生きている中でありとあらゆるところでいただいているわけですけれども、こういった雨漏りの話というたった一つの出来事を通してみても、全てを神様が取り計らってくれる、やはり証拠信心ということはあるんだな、と思いました。
 こういうおふでさきがあります。
 「このためしすみやかみゑた事ならばいかなはなしもみなまことやで (3-23)」
 この試し、この御守護、今回の雨漏りのことで言えば、この御守護が速やかに見えた、「全部神様がやってくださったんだなあ」と速やか見えたことなら、いかなる話もみなまことやで、と。他の話も全部本当だぞ、ということを神様は教えてくれる。今日ご参拝くださった信者さんには、最近初めてのお孫さんができて、本当にかわいいし、日々どんどんどんどん成長している様を見ることができる。赤ちゃんが元気で健やかで何事ない。これは大変な御守護なんです。そもそも、そういうかわいい孫を授かること自体大変な御守護であり、神様のお陰だ、と思うようになると、他で起きてくるすべての話も「みなまことやで」と信じることができる。
 どんなことも神様の御守護。こんなに素晴らしい毎日を過ごさせてもらっている。神様のお陰でこんなに素晴らしい結果が出来てきてありがたい、という風に信仰していましたら、必ず神様は教えてくださる、見せてくださるということなんです。
 皆さんもこれまでの人生の中、色々な体験をされてきていることでしょうからお分かりかと思いますが、神様の試しというのは、我々人間にとって、時には厳しいこともあります。厳しいことがあっても、それをきちっと受け止めて乗り越えることができると、さらに素晴らしい御守護をいただける。
私などは、自身のこと、家族のこと、本当に全てのことで御守護いただいておりますけれども、たまたま雨漏り一つのことでも神様は全部先回りして働いてくださるんだということを改めて教えていただきました。本当に感激をしているところで、一つの節からこんなに喜べるんだな、ということを思わせてもらいました。その思いをまた、皆さんや他の方にも感じていただけるように、私たちの仕事は神様のお話を誰でも良いから伝えていくこと。そのためには、今いただいている御守護をしっかり見つめて感謝をするんだという思いをもって、今後また生活していきたいと思います。

5.喜んだ方が得
 たしか前回も12日からだったと思いますけれど、この7月12日からまた緊急事態宣言が発せられました。みかぐらうたには
 「やまひのもとハしれなんだ 十ド このたびあらはれた やまひのもとハこゝろから」
とあります。新型コロナも「やまひ」です。新型コロナを受けるというのは「やまひ」。その病のもとは心からだ、心遣いによって神様が御守護をくれる。これは人間の心遣いが悪い時に教えてくださるという意味もありますけれど、そういうことをいただいたことによって今度は「まだ人助けが足らないぞ」という風に神様が教えてくださっているのではないかと考えることもできます。
 どんな病でも、どんな嬉しいことでも、どんな嫌なことでも、全部神様が試しを私たちにしてくださっているんだ、と受け止め、どんなことでも喜びましょう。雨漏り修繕が全部終わったと言われた後の雨漏りを見たら、普通は不足をします。けれども、私はその時本当に喜べた。まだ足場のある時に漏ってくれて本当に良かったなあと感謝ができた。どんなことでもちょっと心ひとつで喜びに変えることができます。同じ暮らすのなら喜んだ方が得。ありがたいのをありがたいと思わず、嫌なことばかり考える人と、ありがたいことは人一倍喜ぶ、嫌なことも喜ぶ。私たちが信仰をしている意味は後者にあると思います。

 今月は教会の体験からお話をさせてもらいましたが、神様はこんなに先回りをしてとんでもない御守護をくださるということを改めて私自身にも教えていただいたということを皆さんにお話を申しあげて、この一か月、また神様の御守護をいっぱいいただけるようにおつとめいただきたいと思います。

 暑い盛りですけれど、どうか身体には気を付けて、喜んで毎日を過していただきたいと思います。
 今月はどうもありがとうございました。

2021年08月30日

2021年(立教184年)6月月次祭神殿講話 ~損と得~

 ただいまは6月の月次祭、真夏のような暑さの中でしたけれども、無事おつとめいただきました。ありがとうございました。しばらくお話をさせていただきますので、お聴き取りよろしくお願いします。

1.病み損
 コロナコロナでまた一年終わりそうです。一応緊急事態宣言というのが今月中には収まるということですけれども、別に国が決めたから感染が収まるわけではなくて、感染するしないというのは一人ひとりの心次第、そしてまたそれを他人に感染させるかどうかというのも神様の思し召しということで、私たちはコロナから何を学ぶか。以前も申しあげましたけれど、仮にコロナに罹って、入院したり薬を飲んだりして治ったのでありがたい、で終わらせてしまっては、これは単なる病み損です。病気に罹らない人もいるのに、罹ってしまって苦しんで、というだけでは損、ということを日帝分教会の前会長から私も仕込まれたことがあります。病んだ時、辛い時というのは、神様が何を自分に求めているんだろうか、ということを考える。そうして人間を、人格を一つ上げていかないと損しちゃうぞ、と、それを「病み損」と教えていただきました。
 そんなことから考えると、世の中には色々な損になるようなことがいっぱいあります。ここでちょっと今日は損か得かということを、私の体験したことから考えてみたいと思います。
 昔、三億円だかを拾ったという人がいました。拾った時はものすごく「得をした」と思っていたんですけれど、今度はその人の悪口があちこちで書かれるようになった。それはどうも皆の気持ちの上で「あの人だけ得をして」という思いがあったらしい。同じように、宝くじで一等賞が当たったとしてもですね、買わなかった人が「私も買っておけばよかった、買わなくて損した」ということもあります。人が当たったからといって、別に自分が損しているわけではないのだけれども、なんとなく人が得をすると、自分が損をしたような気持になる。
 まあこれは人間だから仕方がないことだと思います。ただ損とか得とかいうのは人間の心の中での計算で考えていきますと、中々これは納得できないことが多いと思います。
 教祖の言葉の中に、「月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。」(明治25年1月13日)という言葉があります。
 神様の目から見て「お前は一所懸命にやってむしろ払い過ぎだ」という時は神様は返してやる。しかし、出しているつもりで全然足らない時には足らなきゃもらう、と神様が出すようにさせてくれる。差引損得勘定は神様がしてくれるんだと、いうそういうお言葉がある。だから、人間心で儲かった儲かったと思っていても、それで結果的に損をしてしまうということはいっぱいあります。最近でもニュースになりましたが、億万長者と言われていた人が誰かに薬を飲まされて亡くなってしまった。あの人にもしお金がなければ、そのような形で命を失うことはなかったと思います。そうすると、お金をいっぱい持って得したと思っていたけれども、それによって命という最も大事な物を失うようなきっかけになってしまった。こう考えると、お金を持っていたことが実は損だった、ということがよくわかります。

2.自分に関係のない損
 一つ面白い話。ある方の親が亡くなって、子供であるその人に相続財産が入ってきた。きょうだいは二人しかいない。その上の方がお姉さんで、下の方が弟さん。お姉さんと弟さんはみんな平等に分けるということで非常に仲の良い兄弟。それが相談に来られて、半分ずつにしたいと言うので「結構ですね」と。「半分ずつにするのに弁護士に相談に来る必要もないんだけれど、なんで?」という話を聞きましたらば、実は弟にはものすごい強欲な嫁さんがいる。その嫁さんが、弟がその昔、生活が中々大変な時に、嫁さんがお金を出したことがあって、それを将来「私が出したんだからその分だけ親のお金が入ったんなら返せ」という風に言うかもしれない。また弟がいっぱいお金を持っていると「あんたお金があるんだからあれ出してちょうだい、これ出してちょうだい」と言って全部お嫁さんに指図されて取られてしまうかもしれない。じゃあどうしたいの?とお姉さんに聞いたら、だからなるべく弟にあげたくない、とこういうことを言うんですね。それはあなた違うよ、弟さんと半分ずつで分けたらば、弟さんがどう使おうとそれはあなたに関係の無いことだ、とそう言いました。どうもお姉さんの本心としては、弟に半分分けてあげたとしても、そのお金がお嫁さんの方に行ってしまうのと自分が損をしているように思える。そんな嫁さんに親の財産が行くぐらいなら、最初から私が多くもらった方がいいんじゃないか、というもののようでした。
 この話を一つ考えてみても、人にあげたお金、いやあげたんじゃない、親の財産を分けただけ。そのもらったお金をその弟がどう使おうと、逆に弟がどう騙されようとそれはもうこちらにとってはなんの関係も無い。弟が損をしたとしてもそれは自分が損をしているわけじゃない。ところが姉の立場からすると、やっぱりそこでも弟に損をさせたくないという気持ちからか、なんとなくしっくりしないということだったんです。それに対して、私は一つの答えを出してあげました。
 「一つは、一旦弟さんにあげたら弟さんのお金なんだから、あとはもう何も考えない、ということで自分の頭を切り替える。しかし、それはあなたには難しいことらしい。そうであれば、もう一つの考えがある。あなたがもらう財産を弟さんに全部やっちゃったら?あなたは別に遺産が欲しくない。親からもらった遺産が欲しくないと言っているくらいだから、じゃああなたの遺産を全部あげちゃったらどう?そうしたらあなたは自分は何もないんだから、もうイライラもしないでしょう?」
と話したら、私の言っている意味がまったく分からず、きょとんとしている。
 「つまり、あなた方きょうだいは、このお金があることによって、しかも二つに分けた弟さんのお金が、弟さんの嫁さんに使われてしまう。それによって今度は弟さんとあなたのきょうだい仲が悪くなっちゃうじゃない。つまり、親が亡くなったらちゃんと平等に分けようというくらい仲の良いきょうだいだったのが、親のお金をそれぞれが持った時にどういう使い方をするのか、どういう使い方をされるかによってイライラして喧嘩になりそうだ」と。
 これも考えてみれば、弟が別に損をしたって、そのお姉さんの損ではないんです。そういうことを考えたら「あなたの遺産も全部もらわないで弟さんにあげちゃたら?そうしたらあなたイライラしないよ。どう使おうと向こうの勝手なんだから」と言ました。そうしましたら、お姉さんとしては、そんなことは問題外だという顔をして帰られました。
 ここで私が申しあげたいのは、その遺産さえなければ、きょうだいは仲が良いはずだった、ということ。だってそうでしょう?遺産なんか入ったために、今度はきょうだいと嫁さんの仲まで悪くなりそう。自分には何の関係も無い、自分は損しないことですら自分の思うようにしたいという心。これが実は人間の心の奥に潜んでいる「欲」というものなんですね。

3.「欲」
 「欲」というのは、「物が欲しい」というだけではありません。八つのほこり「をしい、ほしい、かわいい、にくい、うらみ、はらだち、よくにこうまん」ですが、全てのほこりの大本が「よく(欲)」だと。 さらに、私はそんな「よく」をもった人間ではありませんよ、なんていうのは「こうまん(高慢)」だと神様は教えてくださる。そうすると、他人をどうこうしたい、というのも実は「よく」なんです。親が子供をこうしたい、夫が妻に言うこと聞かせたい。逆に子供が親をこういう風にしたがえたい、妻が夫にこういう思いを聞かせたい。実はこういったこともすべて「よく」なんです。人に対してこうあってほしい、という自分の思いを通してもらいたい、という「よく」なんです。神様は、この「よく」を捨てなさいとおっしゃっている。
 ある大先輩から教えてもらいました。お金のあるなしとか、あれが欲しいこれが欲しいとか、あれが好きだこれが嫌いだなんていう、まだそんなのは神様許してくれるんだ。ところが、神様が一番お許しにならないのは、人間の好き嫌いなんだ、と。他人にこうしてもらいたい、こうしてくれる人は好き、こうしてくれない人は嫌い。神様は、自分の欲を人に求めていって、その欲のとおりにやってくれない人を嫌いになるという、これが一番の「よく」なんだということを教えてもらいました。全くそのとおりです。つまり、物の欲しい・惜しいなんていうのは、まあ大したことでは無い。しかし、人間に対して、あの人にこうして欲しい、あの人をこうしたい、というのは、これはやはり大変な「よく」であって、神様はお望みにならない。神様がお望みになるのは、人に対してああだこうだ求めず、ただひたすらにその人の幸せを喜ぶ、祈るということだと思います。

4.人の幸せを喜ぶ
 これも前会長のお話ですが、うちの前会長の夫、つまり私の父親は天理教を最後まで信仰しなかった人です。その信仰しなかった父親が、信仰をしている母親を見て言ったことがあります。うちの母親は誰々が幸せになった、誰々さんの家が建った、良い家が建った、息子さんが良い学校に入った、良い就職ができた、と言うと、「本当にあの家は結構になって良かったね良かったね」と本当に人様が幸せになるのを喜んでいたそうです。その人が幸せになったのを喜んでいる姿を見て、うちの不信心な父親は「お前は三河万歳と同じだ。人が幸せになったことをめでたい、結構だと喜んでいる」と言って笑ったそうです。
 三河万歳というのは、お正月に玄関口に立って「あらめでたいな!」と鼓を叩きながらうたって、お布施のようにお金をもらう芸人のことです。
 それを聞いて前会長は非常に嬉しかったと言うんです。私は、人様が幸せになって結構になっていくことを心から喜んでいるんだ、と。このことを、信仰するようになってから初めて、本当に初めて他の人から、まあ自分の夫からですけれど、よりによって不信心な自分の夫から言われたそうです。結局、そこには「よく」はないですよね。人様が幸せになった、人様が結構になった、それを素直に喜ぶ。
 ところが、先程からお話してきたのは、人が結構になったら、自分が損したかのように思っちゃう人。人の幸せを妬む。これはやっぱり信仰者としては間違い。前会長のそんなお話を聞いてですね、改めて自分自身、人が幸せになった時に妬んでいないか、人がお金持ちになった時に自分が損した気になっていないか。ましてや誰か知り合いが宝くじに当たった時に、自分は宝くじが当たっていなくて損をしたと思っていないか。ということを考えました。当たって良かったね、本当に良かったね、めでたいね、結構になったね、と人が幸せになったことを素直に喜べる。「他の子供があんなに良い学校に入ったのに、うちの子供はそんなところには入れない!悔しい!」ではやっぱりダメですね。逆に、自分の子供は試験に落ちて学校に入れなかった。しかし他の子が入ったならば、学校に入れて良かったですね、希望の学校に入れて本当に良かったね、と。人の結構になった所を本心から喜ぶ。 これが信仰の入口だろうと思います。
 人がお金持ちになって結構になって良かった、自分には別に、神様が十分自分に合ったものを与えてくださっている。「足らなきゃ返す」とまでおっしゃってくださっている。一所懸命に神様に徳を積んでいて、神様がこいつはちょっと足らなそうだなと思ったら必ずご守護をくれるとおっしゃっている。であれば、人様がどうなろうとそんなことは自分には関係ないので、人様の幸せは素直に喜んで褒めて、結構ですねということを言ってあげる。こういう心遣いを持つことが、結局神様の目にかなったご守護だと思います。


 今、話題はコロナ一色です。コロナに罹ってしまった方は本当にお気の毒ですが、罹っていないとしても、私さえかからなければ他の人は罹ろうが罹るまいが知ってことではない、なんていうのは信仰とは程遠い姿です。他の人がコロナに罹らないよう、神様に守っていただけるよう互いに祈る。そういう心構えでこの一か月をまたお過ごしいただきたいと思います。
 来月は緊急事態宣言も解除されそうですし、オリンピックもやるということです。それはそれとして、感染拡大というのは国がコントロールできるものではなくて、我々一人ひとりの行動と心構えでもってコントロールできるものです。いつも申しあげていますが、この教えの根本は、我々一人ひとりが神様から身体をお借りしているということ。このお借りしている身体に傷をつけないように、ウイルスがつかないよう、人間としてできる努力をきっちりと果たしたうえで、神様からご守護いただけるような心を作る毎日を過ごしていきたいと思います。

 この一か月また暑くなりますけども、どうぞお身体に十分気を付けて、神様にもたれてお互いに暮らして行きたいと思います。今月は誠にありがとうございました。

2021年07月31日

2021年(立教184年)5月月次祭神殿講話 ~ぢばに心を寄せるということ~

1.はじめに
 ただ今は5月の月次祭を無事に、陽気につとめさせていただきました。
 教会の在勤者だけでございましたけれども、いつも申しあげておりますように、やはり、鳴り物でおてふりをやらせていただきますと、本当に心が勇みます。皆さんもぜひそれぞれのお宅でおつとめをしていただきたいと思います。どうぞしばらくの間お付き合いをお願いいたします。
 まず最初に、いよいよ5月16日、中根大教会の七代大教会長日高彰先生の就任奉告祭をつとめさせていただきます。先月も申しあげましたけれど、ありがたいことに日帝分教会から4名のおつとめ人衆がご指名を受けまして、就任奉告祭のおつとめに出させていただくということになりました。一所懸命つとめさせていただきたいと思います。

2.ぢばさだめ
 今日は、5月ということですが、天理教では、10月が立教の大祭、10月26日。それから1月が春季大祭、教祖が身を隠されたということで1月26日が春の大祭。そして4月は教祖の誕生祭。ということで、これら以外は普通の月次祭ということでさせていただいているんですが、5月というのは、実はこの教えの中で忘れることのできない月でもあります。
 陰暦明治8年5月26日に教祖が身を隠される12年前ですが、「ぢば定め」がなされました。皆さん、我々はおつとめというのは全部ぢば中心におつとめをしていますね。ぢばを囲んでかんろだいづとめをし、ぢばのしるしにかんろだいを立て、その周りでおつとめをさせてもらう。その理を受けて各教会が本日のように月次祭をつとめさせていただくということですが、この教えの根本、一番最初の中心の地点というのは「ぢば」ですね。この「ぢば定め」というのがなされたのが陰暦明治8年の今月、5月26日なんですね。これは教祖伝でお聞きになったと思いますが、教祖が天保9年以来40年の間色々と教えを説かれました。その中には「ぢば定め」という言葉も出てくるし「ぢばに心を寄せよ」という言葉も出てくるんですが、一体その「ぢば」というのがどこにあるのか最初は誰も知らなかった。それが明治8年になって教祖が「今日はぢば定めをする」ということでお話しなさったんですね。「ぢば定め」というのはこの教えの大元、神様が人間を創り出したその元の一点。これがぢばですから、そのぢばに心を寄せるということは、神様に心を寄せるということになります。天理教の教典にもありますが、「ぢば」と「親神天理王命」と「教祖」の三つは、その理は一つであると。まさに三位一体がこのぢばなんですね。ぢばと親神様と教祖というのはイコールだという風に教えてくださっています。
 そんなぢば定めの決め方というのは、まずこかん様が歩かれました。そして目隠しをしてきれいに清めた御屋敷の庭を歩かれたら、ある一点に行ったらピタッと足が動かなくなってしまった。そしてまたそれから後の本部員さん、仲田先生とか辻先生とか色々な方が皆目隠しして歩かれたら、皆同じところでピタッと足が止まる。ところが辻とめぎくさんのお母さん、辻ますさんは目隠しして歩いていったらばそのまま通り過ぎちゃった。そこで教祖は、当時赤ん坊の辻とめぎくさん、後にお琴を御屋敷で弾くようになる方ですが、赤ん坊の辻とめぎくさんを背負って歩いてごらんとおっしゃったので、そのようにしてもう一度目をつぶって歩いてみたら、また同じような所でピタッと止まった。つまり人間心を持ってどこだろう、どこだろうと思ってお母さんは行ってしまったんだけれど、人間心では探すことができない。だから赤ん坊を背負って、赤ん坊の持つ、なんにも疑わない、親に言われた通りのことをする素直な心。まさに「さんさいごころ」ですね。その「さんさいごころ」を持つ赤ん坊を背負って歩いたらば、ピタッとその地点に止まった。それが元のぢばの一点で、今の本部へ帰ったらかんろだいが立っているあの一点です。あの上を皆さんが歩かれてピタッと足が止まったという、それを思うだけでもなかなか感慨深いものがありますけれど、そうやって決められたぢば定めがあったのが、明治8年5月26日なんですね。
 明治が始まる二年前の慶応には、もうみかぐらうたはできていました。みかぐらうたの中に「ぢばさだめ」なんてありますけれども、おうたはあったのに「ぢば」がどこだかわからなかった。「ぢばってなんだろう?」と。それをようやく皆の心ができてきた時にその「ぢば」を教えていただいた。そしてそのぢばを元にして、世界中の信者さんがあのぢばの一点に心を向けて拝んでいる。皆さんも朝晩親神様を拝していますけれど、その時は常におぢばに心が向かっています。つまり、我々の信仰の基本中の基本、これがおぢば。このおぢばが定まったというのが5月26日。割と知られていないんですけれど、大事な日だということ、その月だということを今月はちょっと思い起こしましょう。先月も申しあげましたけれど、信仰というのは心で神様を信じること。では、どこを信じるかということになると、常に頭でかんろだいのあの一点、そこを常に頭に思い浮かべて、信仰の元一日に帰っていただきたいと思うんですね。これが「ぢば定め」という意味です。

3.ぢばに心を寄せるという意味
 そして「ぢば一つに心を寄せよ」という言葉もあります。ぢばに心を寄せるということは、神様に心を寄せるということ。先ほど申しあげたように、ぢばと親神天理王命と教祖はその理が一つである。ぢばに心を寄せるということは、親神様の思いに心を寄せること。教祖の思い、ひながたに心を寄せること。そして元の始まりであるぢばの一点、人類の始まりである元の一点です。その元の一点はなんなのかというと、人間の陽気ぐらしをするのを見て神も一緒に楽しもうとして人間を創られたという、その思いがこもっているのがあのぢばの一点なんです。
 今、我々には色々と辛いことがあります。コロナがあったり、世界のそこかしこで戦争があったり、今まで自由だった国の人々が突然自由を奪われたり、本当に世界中で辛い思いをしている人がたくさんいます。けれども、神様はこの人間を、そういう辛い思いをするために創ったのではない。陽気ぐらしをするために人間を創られた。ということは、今、世界で争っている人、悩んで困っている人、この人たちは陽気ぐらしをしなければならない。では、陽気ぐらしをするためにはどうしたらいいか。それは自分の心を入れ替えることです。我々が心を入れ替えて世界を見れば、今この瞬間にも多くの人が悩み苦しんでいる。そこで我々は、その悩み苦しんでいる世界中の人たちが、なんとか明るく元気に健康に立ち直ってもらうように、自分が何かお手伝いはできることはないか、ということを親神様、教祖に拝をして真剣に考える。この行為が、元一日、ぢばに心を寄せるということの意味です。
 一人ひとりの信仰が、このぢばに全部集約されるわけですから、そういう意味でもこの5月においては、何のために私たちは信仰しているのかということを考える。元始まりの元の一点、おぢばが定まったのがこの5月の26日ということを覚えてください。我々の信仰の原点は、人を助けるために、お互いが助け合うために、陽気ぐらしをするために、神様は人間を創ったということ。しかし、果たしてこの世の中はそうなっているでしょうか?テレビでもやっていましたが、皆で平等にやらなきゃいけないコロナのワクチンを、自分だけ特別に早く打とう。つまり、人を押しのけて自分が助かろう、という考えになります。俺が俺が。私が私が。そういう考えは、神様の意に反します。難しい状況の中でも、人間同士で争うことなく、平等に、仲良く、皆が幸せになれるよう進んでいくためにはどうすればいいか。そのことを真剣に考えて、拝をする。そのようなことを考えますと、ぢばに心を寄せるというのが日常生活において最も大事な生き方、考え方であるということがお分かりいただけるかと思います。
 のんべんだらりとやっていても、信仰は信仰です。しかし、節目ごとに自分の信仰を考え直す、見つめ直すということも、信仰をするうえで大切な要素です。そういうことで、5月はぢば定めの月、そして4日後の16日には、我々の親である中根大教会の新会長の奉告祭も執り行われます。そういう機会に、改めてそれぞれが身の周りにいる人たちに何ができるのか、という信仰の原点に立ち返ってお考えいただきたいと思います。

 なんとか来月こそ皆さんにお会いしたいと思いますので、心を合わせて神様にお願いさせていただきたいと思います。しっかりと心を作らせてもらいますから、どうかコロナを収めていただきたい。一人ひとりがそのように心を定めて神様にお願いをして、なんとか来月6月12日、皆さんに元気にお会いしたいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2021年06月20日

2021年(立教184年)4月教祖誕生祭神殿講話 ~人間が苦労しないようにしてくれた教祖~

 ただ今は4月の教祖誕生祭を陽気につとめさせていただきました。本当に心勇んでおつとめができました。ありがとうございました。
 ようやく緊急事態宣言が終わったと思ったら、皆さんの気が緩んだのかまた感染者が増えて、それぞれの地区ごとにまん延防止措置というのが出されてしまいました。なかなか集まりにくく、例年であれば4月18日の教祖誕生祭は、本部中庭で皆さん集まって「よろこびの広場」で歌を歌って教祖の御誕生をお祝いする日なんですけれども、今年は残念ながら各教会からの代表者だけで参拝ということになりました。

1.ご報告
 まずご報告が一つあります。そこにも書いてありますが(大教会長就任奉告祭の垂れ幕を示す)、中根大教会の七代会長が日高彰先生になりました。先月3月26日に真柱様にお許しをいただきました。
 私も役員としてお運び(真柱様から許しを得ること)に付き添って行かせていただきましたけれども、本当に厳かな中で、世話人であった本部員の島村先生が十年の間ご苦労いただきまして、ようやく新しい会長が納まるということになりました。
 そんなことで久しぶりに中根詰所に宿泊し、朝づとめも、本部に二日間続けて行かせてもらいました。いつもであれば朝づとめ後、教祖殿で「まなび」というおてふり の練習をやるんですね。その「まなび」の地方は島村先生がつとめられているのです。こうしたことからも、中根は本部の大変立派な先生にお育ていただいたんだなぁとつくづく思います。
 そんなことから、5月16日に、新会長の就任奉告祭があります。このコロナ禍の中、他の大教会でも何か所か会長さん変わられたんですけれど、それぞれ真柱様の名代ということで、真柱様からのお言葉をいただいて、その大教会の世話人の先生がつとめるということが慣例でありました。しかし、中根大教会に関しては、真柱様からの直接の思召しということで、中田表統領、真柱様の弟さんですが、表統領先生が真柱様の名代で来てくださるということになりました。えっ、他の大きな教会と違ってこんな小さな中根に?という思い であったんですけれど、真柱様が中根の親としてそこまでしっかりと子供のために考えてくださっているということに一同感激し、胸が熱くなる思いでお礼を申しあげてきました。
 そういうことで、本来であれば教会の信者さん全員で行きたいところではありますが、一教会三人ないし四人ということに限定をされております。この点はまた改めて皆さんとご相談したく思いますけれども、行かれる方は奉告祭にぜひご参拝いただきたいと思います。

2.日帝から4人のおつとめ奉仕者
 またありがたいことに、奉告祭という大変な祭典に、日帝分教会からは4名がおつとめの人衆として指名されました。私はおてふりをやらせていただき、他はすりがね、拍子木、お琴に上げていただくこととなり、本当にありがたいことです。
 そんなことでふと思いますのは、中根大教会の前会長さんの就任奉告祭の時、もう今から四十年も前になりますけれど、その時は、前の真柱様ご夫妻がお出でになりました。座りづとめでは、真柱様ご夫妻と大教会長ご夫妻、そして女性の三人目の所になんと日帝の前会長、羽成芳枝会長が座らせていただきました。前会長は、私たちには分からない所で本当に中根のために尽くしていたわけですが、このことを葛飾支部で話をしましたら、皆から「有り得ない」ということを言われました。「日帝さん素晴らしいね」とも言っていただきました。ということで、他人から言われ、その凄さを改めて感じたわけですが、今回の奉告祭でも、日帝分教会から4名がおつとめの人衆としてお許しをいただいて参拝することができるようになりました。
 先月、練習のために大教会に行かせてもらいましたが、やはり厳かで、そして本部でいつも地方をおやりになるような島村先生から直接細かいご指導をいただきまして、本当に感激しました。やはり、おつとめをしっかりできると心が勇んでくる、ということを改めて身に染みて感じたわけでございます。そういうことでぜひ皆さん、日帝分教会としても大教会に対して奉告祭のお祝いをさせていただきたいと思っておりますので、どうかお心寄せをいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

3.信仰とは心で神様を信じること
 さて、今月四月は、教祖中山みき様が寛政10年4月18日にお生まれになったことを祝う誕生祭というものがあります。教祖はご存命ですから、皆さん「教祖おめでとうございます」と毎年お祝い申しあげます。「姿は見えないけれども今までのままやで」というお言葉があるように、私たちは存命の教祖を信じているわけですが、存命の教祖の223回目のお誕生日ということになります。
 例年であれば、本部で明るい祭典が執り行われる日になるんですけれど、今年は残念ながらコロナ禍のためできませんでした。祭文でも読ませていただきましたが、信仰の形がどうも変わったように思います。
 以前申しあげましたけれど、我々はおぢばに帰らせていただく、あるいは大教会に参拝させてもらう、そしてこの日帝分教会の祭典をつとめさせてもらう。それが信仰の形だと思っておりました。ところが、人が集まってはならない、本部でも普通の信者さんは祭典の時は上がることができない。私も3月に行かせてもらいましたけれど、今月はおぢばがえりしても神殿には上がらせてもらえません。大教会でも今は参拝を制限をしております。日帝分教会でも、本日は緊急事態宣言も解けたので、無理のない範囲でお出でくださいというお願いをしましたけれども、そうは言っても電車に乗って来られる方はやはり来にくい。教会へ行って、あるいは本部へ行って参拝をすれば信仰をしているというような形がどうも今までの形だった。ところがその教会へ来てはいけません、本部へ来てはいけません、ということになっている。しかし、信仰というのは心でやるものですから、形は変わるけれども、信仰は変わらない。心でやる信仰をしっかりそれぞれが持たないと、本部へ行かなくなったことでだんだんだんだん信仰と縁遠くなってしまう。あるいは教会に行かないことによって信仰に縁遠くなってしまう。これは、元々本当の信仰ができていなかった、ということになります。信仰というのは、心で神様を信じることです。

4.教祖は私たちの身代わりとなってご苦労下された
 教祖は、そのご生涯の中で、天保9年、神がかりになった10月26日以前も、素晴らしい心遣い、優しい心遣いをされてこられました。
 例えば、蔵に入った泥棒がいた。昔、米泥棒は打ち首になるような重罪でした。ところが教祖は、その米泥棒に対してですね、物を盗んで食べようとするその心が気の毒や、と言ってわざわざお米を持たせてどこにも突き出さずに帰される。
 あるいは小さい頃、近所で泣いている子供があると、教祖は自分の持っている飴だとかおもちゃをそのお子さんにあげる。自分も子供ですから、本当なら自分が飴でもおもちゃでも欲しいところなんだけれども、そういう心遣いをされている。
 そういう心遣いがずっとあって、その心遣いに対して後ほど親神様が教祖の口を通して教えてくださった言葉が「この心根を見てこの者こそが神のやしろにふさわしい」ということで降りられた。そして案の定教祖は、神のやしろになられてからも更に、それまでに増して施し尽くされ、中山家は本当に貧のどん底に落ち込むわけです。
 我々は、貧のどん底を経験しておりません。その昔は、貧乏になることが天理教なんだ、貧乏にならなきゃ天理教じゃないんだと言われる先生もおりました。しかし、ある時私が尊敬する先生がこういうことを言われた。「教祖は、私たちが貧に落ちないよう、教祖自らが人間の貧を全部背負って落ち切ってくださったんだ」と。
 また、教祖は、人間の苦労を全部背負って、現身を隠される90歳の時には、その周りに自分の子供も孫も誰もいなかったんです。人間のために尽くされてきたのに、結果身内は誰もいなくなってしまった。人間から見れば、そんな過酷な運命の中でも、教祖は神のやしろとして親神様の存在を我々人間に教え伝えてくださった。
 一人の人間の人生として見た時に、中山みき様という方は決して幸せな方であったとは言えないと思います。しかし、ひたすら人を助ける、人を喜ばせる、人の親として困った子供を救ってあげる、いつもニコニコいそいそとして人助けにいそしまれた。これが我々の教祖です。その教祖が貧に落ち切ってくれたおかげで、教祖が18回も監獄へ行ってくださったおかげで、我々はあんな苦労をしないで済むんだそうです。
 教祖が身代わりになって、人間の苦労を全部背負って済ませてくださった。そういう教祖のおかげですから、我々は苦労なんかしようと思ってもすることができない。それを思えば、今、我々が苦労と思っていることは苦労でもなんでもない。

5.教祖のお誕生祭
 教祖が神がかりになって以降、米びつのお米をどんどんどんどん施した。立教以来20年も経って初めて信者さんが米四合をお礼に持ってきた。しかし、その四合も門口に並んだ物貰い、乞食にすぐに全部あげてしまった、という逸話があります。その教祖に対して、末娘のこかん様が「お母さん、もうお米はありません」とちょっと愚痴をこぼした。そこで教祖のおっしゃった言葉が「世界には枕元に食べ物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんというて、苦しんでいる人もある。その事を思えばわしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」と。食べるものが無くたって水を飲んだら水の味がする、しかも水がちゃんとのどを通って入るじゃないか。水が飲めない人もいるだろう、と。そういう風に常に神様は苦労を苦労と思わない、そして今あるところを喜ぶ。こういうことを教えてくださいました。
 どんな苦労があっても大難は小難、小難は無難、無難は夢に知らせると言って、これも全て神様が軽くしてくださっている。そういうことを教えてくださり、自らが実行されたこの教祖中山みき様が寛政10年4月18日にお生まれになった。それを今日祝ってですね、誕生祭をさせていただきました。
 また、毎月同じように申しあげていますけれど、この教祖が我々に対して持ってくださった親心、この親心のおかげで私たちは苦労もしない、貧にも落ちない。教祖が全部引き受けてくださっていると、こう思ったらますます教祖に対する感謝の気持ちが出てくると思います。そんなことから今月は、親神様の思いを伝えてくださった教祖に対して、改めてお礼の気持ちを持っていただく月としていただきたいと思います。

6.全教一斉ひのきしんデー
 例年であれば、4月29日には全教一斉ひのきしんデーがあります。ひのきしんというのは、いつも申しあげていますが、この身体を借りているお礼です。この丈夫な身体を借りているお礼に、何か人様のためにさせてもらう、これがひのきしん。たしかに、ひのきしんデーに皆で集まって食事をしお酒を飲むのは楽しいけれど、それがひのきしんではありません。身体を借りている感謝をするという思いで、4月29日は皆さんの家の周り、自分の身の周りの人、奥さんでも子供でも親でも、身の周りの人に対して喜んでもらうようなことをちょっとする。それを心掛けるのがこのひのきしんデーです。ひのきしんの有り難さを思い起こす日でもあります。
 残念ながら今年はひのきしんデーが中止になりましたけれども、一人ひとりでやってくださいということが本部から打ち出されています。信仰させてもらっている者同士集まって何かやるというのも楽しいけれど、集まれないときは、一人ひとりが「神様の思いはどんなものか」ということをしっかり考えて行動していただきたいと思います。
 ちょっと前は汗ばむくらいの陽気でしたが、今日なんかは寒くてストーブが必要なくらい。数日前は私は半袖を出しましたけれど。結局寒くてまた長袖に戻りました。皆様体調を壊さないよう、そして健康な身体を借りていることに感謝をして、この一か月またお過ごしいただきたいと思います。

7.中根大教会の月次祭が20日に変更
 最後に一つ。中根大教会の月次祭は、毎月14日ということでしたが、新会長就任を機に「20日」にすることのお許しをいただきました。
 というわけで、今後は毎月20日が大教会月次祭となりました。ただ4月だけは、18日が本部の誕生祭であり、本部の行事へ参加すると20日の月次祭は参拝できない、ということになってしまいますので、4月だけは例外としてこれまでどおり4月14日が大教会月次祭、ということになりました。5月からは毎月20日が月次祭、という具合です。お間違えないよう、どうぞよろしくお願いいたします。

 今月はどうもありがとうございました。

2021年05月11日

2021年(立教184年)3月月次祭神殿講話 ~親孝行の新しい型~

 ただ今は三月の月次祭を陽気につとめさせていただきました。
 人数は少ないですけれども、しっかりとおつとめさせていただいて本当に喜ばせていただいております。

1.10年前の3月12日
 ちょうど10年前のこの3月のおつとめも、やはり大変な状況でした。まさか10年後の3月に、新型コロナウイルスによって自由に出歩けない、教会にも来られないというようなことが起きると思っておりませんでした。10年前の3月11日、東日本大震災が起きました。私は地震が起きた時には裁判所におりまして、法廷で尋問中に大変な揺れが来て、それで事務所に戻るのもやっと。事務所に戻ったら電車が動いていないということで、事務所の者全員を事務所に泊めることにして、そして翌朝電車が動き出して朝一番で帰ってきたことを思い出します。今回はそういう天災地変ではありませんが、新型コロナウイルスのせいで、大地震の時と同様、自由に出歩けません。こういうことが日常の有難さを知る良い機会ではないかなと思います。
 昨日からの新聞を見ますと、東北の大震災で亡くなられた方が2万人を超える、と。そしてまだ二千数百人の方が行方不明であるということで、遺族の方々の苦しみはいかばかりかと思いますが、そんな方たちが、異口同音にこうおっしゃっている。「震災当日、出掛ける時におばあちゃんに口もきかないで怒って家を出ちゃった」。いつもなら挨拶をして家を出るのに、その日に限ってなんだかムッとして、口もきかずに家を出たことが本当につらいということをおっしゃる。あるいは、「なんでもなく家にいられるということがこんなに有難いことなのか。何気ない日常が本当に宝物だ」というようなことをおっしゃる方もいます。これがまさに、私共が神様から教えてもらっている、日々を結構だ、有難いとして通るという、この生き方だろうと思います。そんなことで、こういう災難、地震だとかあるいは新型のウイルスといったものが出てきて、私共は通常の生活ができなくなって、人と自由に会うこともできなくなった。こういう時に初めて、何でもなく自由に会えて、自由に物を食べて、自由に出掛けられたという時の有難さが分かる。これも神様の思し召しだと思いますので、ぜひこういう機会に改めて日常の有難さということを思い出して欲しいと思います。

2.親孝行は古くさくない
 今日は、「親孝行」ということについてお話をしたいと思います。親孝行というのは、親の方から子供に対して言ってはいけない言葉だと思います。「親孝行しなさい」なんて子供に言うのはもっての外。しなさいと言わなきゃいけないような親は親孝行してもらえていない。自分の子供にしてもらえていないからそういう口が出るわけです。親孝行なんていうのは、親孝行する側が言う言葉であって、してもらう側が「親孝行してくれ」なんて言うのは問題外です。なぜ問題外かというと、親孝行してもらえる側に、親孝行してもらえるだけの徳が無い、ということを分かっていないからなんですね。神様は、全てこの世は合わせ鏡だと教えられます。つまり、親孝行してもらえないのは、自分が親孝行してこなかったから。最近では、子に対してする「子孝行」という言葉もきくようになりました。それは別に子供を甘やかすということではなくて、子供を尊重し、子供であっても一人の人間として感謝すべきところは感謝する。これが子孝行という言葉の意味のようです。そんなことで、子供に対しても、あるいは自分の親に対してもやってこなかった人に限ってですね、親孝行という言葉を使いたがる。だから今これを聞いてくださっている方からすると、自分が子供に対して言う言葉ではなく、果たして自分は親に孝行しているだろうか?という風に考えた方がいいと思います。「孝行をしたいときに親はなし」ということわざもあります。親が亡くなったからといって、親孝行できないわけではありません。心の中で親に対して深く感謝をする。今自分がここにいるのは親ありてこそ。親ありてこその自分だということを考えて、今自分が存在できていること、また自分が一人前にご飯を食べて、誰の世話にもならずに生きてこられたこの生活、あるいはその身体、そういうことを考えますと、今、親が皆出直していなくなっているとしても、親に対する思いというのはぜひ残していただきたいと思います。

3.親に話しかける
 親孝行ということに関しては面白い話が一つあります。私が大学で学生を教えている時に、この親孝行の話をしました。「君たち親孝行をしているか?こんな大学に来られて勉強だけしていれば良いなんていう生活をしているのは、世界中でも本当に一握りの人だ。それをやらせてもらっている親に対してちゃんと孝行をしているか?」という話をしたら、学生たちは皆きょとんとしていました。私は良い大学へ入って親が喜んだ、これで親孝行だ、なんて言うのもいました。そこであらためて、「君たちの思う親孝行ってどういうもの?」と聞いてみたら、親に心配させないことだとか、親を喜ばせるとか、出世して親に喜んでもらうとか、いろんな答えがありました。もちろんそれらも一つの親孝行の形ではあろうけれども、私がその学生たちに伝えたのは、「親孝行というのは親に話しかけることだ」ということです。どういうことかといいますと、嬉しいことも辛いことも当たり前なことも、なんでも常に親に対して声をかける。良いときは話しかけるが、悪いときは「親に心配をかけるから」といって声をかけないというのは、親不孝になるんです。親にとってみれば、子供が苦しんでいればなんとかして手助けをしてやりたい。悪いときにこそ素直に子供が話しかけてくれたならば、いくらでも親として手助けができる。親の側からすれば、それも本当に嬉しいことです。だから親孝行というのは難しいことは何も無いよ。親に話しかけるだけんだから、と伝えました。そうしましたら、数日経って、ある学生が私のそばに来まして、「先生、あの日帰ってから親と2時間も話しちゃいました」「親がすごい喜んでいました」と言っていました。それはもちろん親は喜んだでしょうけれども、子である自分も2時間も親と話をすることができたということできっと嬉しかったんだと思います。それがまた人間の関係のつながりにもなってきます。ぜひ皆さん、親のいない方でも心の中で親に話しかける。そして現に親がいる方は実際に親に話しかける。そんな風にして親孝行することを考えてもらいたいと思います。
 そしてもう一つ、これもつい最近聞いた話ですが、ある商売屋さんに子供がいて、上の子は成績が非常に優秀だったので、親の商売を継がないで他の仕事についてしまった。ところが下の子はあまり成績が良くなかったので親の商売を継いでくれた。外から見れば、お兄ちゃんは優秀で良い学校へ行って良い仕事についた。弟は頭が良くないから家業を継いだ、という風に思うでしょう。けれど、親の目から見たらどうでしょうか。成績の良い長男を嬉しいとは思うけれども、親の家業を、つまり親の思いを継いでくれた次男というのもやはりこれは大変な親孝行だと思うんですね。つまり、学校の成績が良いからだとか、社会で出世するとかいうことではなくて、成績や出世などと関係なく親の思いを受け止める。親の思いをちゃんと聞いてあげる。また、親に自分の思いを伝えていく。こういう関係が親孝行なんだと考えると、やはり親孝行は難しいことではないと思います。私も親の立場になって分かりましたが、子供が何の心配もかけないから、「知らせの無いのは良い知らせ」、英語では「No news is good news.」なんてことを言いますけれど、決してそんなことありません。悪いニュースでも、悪い知らせでも常に親に伝えてほしい。普段は何も言わない子供が急に何か言って来るというのは、親はもっと心配します。朝昼晩、常に親と連絡を取っていた人間がちょっと辛いことがあったらちょっと話をする。そういうことが親孝行、それでも親孝行なんだと。決して親に心配かけるから親不孝だなんて思わない。親の立場からはそういうものです。ぜひそういうことで改めて親孝行ということについて考えていただきたいと思います。

4.日帝分教会の親は中根大教会
 そこで、今度は日帝分教会として考えさせてもらいますと、日帝分教会の親というのは中根大教会です。ちょっとこれを映してもらえますか(大教会長就任奉告祭の垂れ幕を映す)。中根大教会の新会長が決まりました。5月16日に就任奉告祭が行われます。これは日帝分教会からすると、日帝分教会の親が改まるということなんですね。日帝分教会は中根大教会の直轄です。日帝分教会の初代会長以来、前会長も含め親である中根大教会に尽くし続けてこられました。その親の徳のお蔭で、私は今は中根大教会の役員という立場を与えてもらっています。そんなことから、5月16日までになんとか日帝分教会としても精一杯のお祝いを親に届けたいと思っていますので、どうかその点についてお心寄せをいただきたいと思います。
 3月になれば、コロナも一段落すると思っていましたけれども、全然一段落する感じがありません。場合によっては緊急事態宣言の再々延長か、なんていう話も出ています。でも、実は私ども教会の周りではどなたもコロナにかかった方がいない。皆さんの普段からの心がけもあるでしょうけれど、でもだから良かったということではなくて、結構な状況であるからこそ、我々の一番の親である親神様に心を寄せていくことが肝要です。今この瞬間に、新型コロナで苦しんでいる方々の辛い思いを理解するように努め、同時にこういうウイルスを我々人間に与えられた神様の思いを改めて考えていく。そして、神様から借りたこの我々の身体を、大切にきれいに使わせていただく。うがいをし、しっかりと手を洗い、お風呂に入り、マスクをし、ということで身体を大切に使わせてもらう。そういうことは神様に対する御礼でもありますし、神様に心を寄せていくということでもあろうかと思います。つまり親孝行です。
 親孝行という言葉を、何か面倒な封建的なニュアンスで捉えられている方もおられるかもしれません。しかし、今ある自分は親のお陰で存在しているのだということを思えば、親に対する有難さが自然と湧いてくるのではないでしょうか。今まで親に対する思いが少なかった方、ぜひこの機会に親孝行し直してみてください。親が出直されているのであれば、もしかすると、既に生まれ変わっているかもしれません。そうであっても、自分が育ててもらった時の親に対する感謝の思いをしっかりと持って、今後の自分の人生につないでいけるよう、この一か月頑張っていただきたいと思います。


 4月は教祖誕生祭ですので、ぜひとも通常の形で月次祭をつとめさせてもらいたいと思っています。直会用に、感染防止用のアクリル板も準備いたしました。このように、教会といたしましても、感染対策には万全を期してまいります。
来月は何とか皆さんと一緒に誕生祭をつとめさせていただけるよう、お互い祈りながら、心を作りながら、この一ヵ月お過ごしいただきたいと思います。今月はどうもありがとうございました。

2021年04月04日

2021年(立教184年)2月月次祭神殿講話 ~楽しんで、喜んで通る~

 ただ今は、2月の月次祭を賑やかにおつとめいただきました。大変な中、車でご参拝された方もいらっしゃいます。ご自宅で遥拝されている方もいらっしゃいますが、2月7日で終わるはずだった緊急事態宣言が、あと一ヵ月延びてしまいました。いつも申しあげていますが、なぜ神様が私共にこういう節を与えてくださったんだろうかと考えたとき、やはり人を助ける心が少ないんじゃないか。ですので、こういう中で皆協力し合ってお互い助け合おう、ということであろうかと思います。改めて、人を助ける心ということを考えてみたいと思います。
 
1.男性と女性
 ここのところちょっと騒がしいですけれど、女性に対して差別をしているんじゃないか、蔑視しているんじゃないかということで、ある役の方がお辞めになりました。そこで今日は、このお道では女性のことをどう考えているかということについて考えてみたいと思います。
 申しあげるまでもありませんが、この教えを伝えてくださった方は中山みき様であり、女性です。中山みき様は人間ですから、性別で言うと女性です。しかし、女性だから神様が降りた、というわけではありません。皆さんもご承知のように、中山みき様という方は、神がかりになられる前から、預かり子の病を助けてもらうために命をかけて神社にお願いをしたり、蔵に泥棒が入ればその泥棒について「その心がかわいそうや」と言ってかえって泥棒に米を与えて帰してあげたり、昔の乞食という物をもらいに来た赤ん坊連れの女性がいれば「背中の子供には何もあげていない」ということで自分の乳を含ませた、というお話があります。

2.めいめいに心ちがうで
 そういう中山みき様という人間こそが、神の社に一番ふさわしいということで神が降りた。そんな神様ですから、男性女性なんていう次元は最初から超越している訳ですけれど、その中山みき様、教祖が書かれたおふでさきの中に、こういうものがあります。

「をやこでもふう/\のなかもきよたいも みなめへ/\に心ちがうで」(五号 8)

 親子でも夫婦でも兄弟でも、皆心は違うんだ。今から180年も前に、既にそういうことを言われていた。人間は、神様がそれぞれの人間に、それぞれの魂にふさわしい身体を与えてくださった。だから魂は皆一人ひとり持っているけれど、それぞれの魂というのは全部違うんだ、人間創造の時は九億九万九千九百九十九人という人間がいたわけですけれど、その人間は全部違うんだと。誰一人同じものはないんだと。皆違うけれども、それらが一つになって皆で何かの目的を達成する。これが一手一つという意味なんですね。人間は全部違う。考え方も違う、性別も違う、違うけれども、それぞれの人が持っている徳分、神様から与えられた徳分を活かして補い合って、それで陽気ぐらしの世の中にしてくれと、こういうことで言われたものですから、この教えの中には男が偉い、女が偉いなんてそんなことは全くありません。全部それぞれが持った徳分。神様が与えてくださった。この魂は女性としての徳分を持たせる、こちらは男性としての徳分を持たせる。それぞれが徳分を活かし合って、つまり自分に無いものが必ず隣の人にはある。また隣の人には無いものはまたその隣の人にある。そういうことの中で皆が協力し合っていく。これがこの神様のおっしゃっている「みなめへ/\に心ちがうで」という意味なんですね。

3.多様性(ダイバーシティ)
 これを今流行りの言葉で言いますと、「多様性」という言葉になります。皆さん聞いたことがあるかもしれませんが、英語で「ダイバーシティ」と言ったりもします。「多様性」とは、皆違うんだということ。神様が創造の時、九億九万九千九百九十九の魂を、全部どじょうとして食べられて種にした。その九億九万九千九百九十九匹どじょう。これは例えです。例えですけれど、そのどじょうの中には、恐らく大きいもの小さいもの、色の黒いもの茶色いもの、あるいは尻尾が曲がってるもの曲がってないもの、様々であったと思います。それを全部神様は一つにして食べられた。これが一列きょうだいということの真の意味です。そんなことから言うと、男女の差別は言うまでもなく、男同士での差別もあり得ません。そんなことはこの神様の教えを信じていたらあり得ない話です。そんなことからもぜひ皆さん、この教えを改めて勉強していただきたいと思います。

4.徳分
 ある時、女性に天理教の話をしました。私は「男と女だったら、女の人は男の下に入った方が上手くいくんだ」と話をしたら、「何で女が下なんですか」と言ってこられた。それはそうですね、「下」というのはなんだか地位が下みたいに聞こえる。けれども、そういう意味ではありません。男のひな型はくにとこたちのみこと様。これは水のご守護。女はをもたりのみこと様。これは火のご守護。男が水で女が火だとして、火が水の横にいても何の変化も起きません。火が水の上に行っても何も変わらない。ところが、火が水の下に入ったときは、水を温かいお湯にするし、飲める熱さのお茶にするし、もっと熱すれば最後は蒸気になって機関車まで動かします。それが徳分というんです。偉い、偉くない、ではなく、徳分としてそれぞれの働きをするという、それがたまたま男よりも下にいて、男を温めたり冷ましたりすることができるのは女だけなんだというのが、神様の与えてくださった徳分なんです。これが「上にいるから俺は偉いんだ」と男が言ったって、をもたりのみこと様の、女性のご守護が無かったら、この水はなんの役にも立たない。そういう風に、この神様は皆に色々な徳分を下さって、その徳分で一つになれよ、これが一手一つという、そういう意味なんですね。世間で起きていることについて、一つひとつ教理に照らし合わせて考えていくと、なにが正しいかということがみえてくると思います。

5.ひのきしん
 今日もそうでしたけれど、教会に皆で集まっておつとめができない。本部でもそうです。私も3月は参拝させてもらいますけれど、1月2月は本部に行っても神殿にも上がれない。こういう状態の中で、ふとこう思いました。昔、天理教は「一ッ ひのもとしよやしき」、つまり日本のもとは庄屋敷であるというようなことを言ったり、あとこの勤めの場所は世界の中心(よのもと)というこの教えから、みかぐらうた十二下りのうちいくつもの下りが禁止されました。それが許されるようになったのは、終戦の昭和21年からなんです。天理教は今年で184年の歴史がありますけれど、その内自由におつとめができたのはたった74年間。その前の110年間というのはちゃんとしたおつとめができなかったんですね。そんな中ですが、天理教の信者さんは残っているわけですから、みかぐらうたをちゃんとできない、じゃあ他に神様から言われたことで何ができるだろうかといったときに、ひのきしんだ、と。ひのきしんというのは禁止されていない。それでみかぐらうたがちゃんとできなくても、ひのきしんはちゃんとやろうということで、大正から昭和にかけて官憲の弾圧で辛かった時期に、我々の先輩の信者さん達は勇んでひのきしんをやらせてもらっていた、という話が残っています。
 ひのきしんとは、この健康な身体をお借りしていることに対する神様への御礼です。神様への御礼。「ひとことはなしハひのきしん」ということで、誰かに一言の言葉を掛けるのでもよろしい。困っている人の荷物を持ってあげる、階段の昇り降りを助けてあげる、もちろんそれもひのきしん。一方で、つらい思いをしている人に対して、一言声を掛ける、喜ばせる声を掛ける、これもひのきしん。そういうことはいつでもできる、という精神で道の先輩方は通ってこられました。

6.喜んで通る
 では、大変な苦労の中でどういう心を持ったらいいか。これは以前お話したことがありますけれど、「雪の日」という逸話篇です。これは、増井りん先生が毎日毎日大阪からおぢばに通って来られるのですけれども、大雪のある日、川の上にかろうじて架かっている欄干の無い石の橋の上を、這いつくばりながら来られた。風が吹いて何度も川に落ちそうになりながらも、ただおぢばに帰りたい一心で。それをお屋敷にいる教祖が、「こんな日にも人が来る。なんと誠の人やなあ。」とおっしゃった。その後増井りん先生はなんとかお屋敷にたどり着いて、教祖にご挨拶に上がった時、教祖から下された言葉はこういう言葉なんです。

「ようこそ帰って来たなあ。親神が手を引いて連れて帰ったのやで。あちらにてもこちらにても滑って、難儀やったなあ。その中にて喜んでいたなあ。さあ/\親神が十分々々受け取るで。どんな事も皆受け取る。守護するで。楽しめ、楽しめ、楽しめ。」

 この中で大事なのは、「難儀やったなあ。」、つまり「大変だったなあ」と、「その中にて喜んでいたなあ。」という言葉。そんな大雪の中で歩くのも大変、川に落っこっちゃうかもしれない。そんな難儀は神様も分かっている。そういう中でも、決して不足を言わないで喜んで通っていたなあ、と言うんです。だから「親神が十分々々受け取るで。」というようにおっしゃって下さった。
 我々は、今コロナで大変な中にあります。その時に不足の心を出すか、しかしそれでも私は幸せだと言ってその中から一つでも喜べる種を見つける。これが今の話で教祖が増井りん先生に対して言った、「難儀やったなあ。その中にて喜んでいたなあ。」ということ。私は、このことこそこの信仰にとってとても大切なことであろうといつも思うんです。どんな時でも、自分にとって本当につらい時でも、全部神様が見てくださっている。神様がそれを見てちゃんとご守護を下さっている。その中でもそれを難儀と思わないで喜んで通る。この心を神様は受け取ってくれる。

7.楽しめ、楽しめ、楽しめ
 皆さん、それぞれおつらいこともあるでしょう。世界でも、コロナをはじめとしてつらいことはいっぱいあるでしょう。その中でも喜んで通ること。これが神様が受け取ってくださる一番の大きな理由だと思います。そんなことからですね、ぜひ皆さん不足をせずにどんなことが起きても喜んで通らせてもらう。この一か月の間、どんなことがあっても必ず喜ばせて通らせてもらう。これを今月一か月の目標にしていただきたい。神様はその心を受け取って「守護するで。楽しめ、楽しめ、楽しめ。」とまでおっしゃってくれています。


 今月もまた少人数でしたれども、非常に賑やかにおつとめをさせていただきました。いつもながらおつとめをすると心が勇みます。心がいずんだ時には皆さんぜひおつとめをさせてもらってください。それぞれの家でできるおつとめをしっかりとさせてもらって、心をいつも明るく、そして楽しむ、喜ぶ心を常にお持ちいただきたいと思います。今月はどうもありがとうございました。

2021年04月04日

2021年(立教184年)1月春季大祭神殿講話 ~人生のルール・陽気ぐらし~

1.春季大祭の意味
 皆さん、明けましておめでとうございます。旧年中は大変にお世話になりました。
今年は、中根大教会は大教会長が新任されるということで、この意味でも切り替えて、新しい年をしっかりと迎えたいと思います。
 現在、東京都では緊急事態宣言が発令されているとのことで、今月の春の大祭も教会在勤者のみで勤めさせていただきました。皆さんもそれぞれの家庭でおつとめいただいたと思います。いつも申し上げていることですが、おつとめをすると心が勇んできますので、ぜひ機会あるごとにおつとめをつとめさせていただくよう、どうかよろしくお願いいたします。
 祭文でも申しあげましたけれども、今月は春の大祭ということで、明治20年、陰暦正月26日に教祖が御身を隠されたという日でございます。
 皆さんご承知かと思いますが、明治20年の正月、教祖はお風呂をお出になられてよろめかれました。そばにいる方が非常に驚いて教祖に声をお掛けすると、「これは世界の動くしるしや」という風におっしゃられた。まだ側近の人は何が起きるかわかりません。それから1月20日過ぎからはどんどんと、人間の目には教祖の御身体は悪くなっていくように見えた。そして「教祖に元気になっていただくにはどうしたらよろしいでしょうか」と伺ったところ、ともかく「つとめをせよ」ということをおっしゃられた。そして初代真柱様をはじめとして、おつとめをすればまた警察が入ってきて捕まる、と。教祖の御身体がこんな状態で捕まったらどんなことになるかと心配でなかなかおつとめに踏み切れなかった。しかしその間も教祖の身上はどんどん悪くなる一方。そこでみんな意を決してですね、もう「命捨てても」と思う者だけがおつとめにかかられました。「命捨てても」というのは、こういうおつとめをすることによって警察に捕まる。場合によっては真冬の監獄では寒さで命を落とすことになるかもしれない。まさに命がけのおつとめにかかったわけです。そうしたところ、それを別の部屋で聞いておられた教祖が、十二下りの最後、「十ド このたびいちれつに だいくのにんもそろひきた」という所まできて十二下りが終わった時に、「う~ん」と一言言われて、それから息をしないようになられた。それで皆さんびっくりして、教祖の代わりに飯降伊蔵様、本席様にどうしてこうなったのかということをお伺いしたところ、本席様を通じて教祖は、「みんな扉開いてと言うたやないか」とおっしゃられた。先ほど申しあげた「世界の動くしるしや」という教祖のお言葉があった後、教祖の身上が悪くなってきたので、それはどういうことなのかと神様にお伺いを立てた時、「扉を開いてほしいか、閉じてしまうか」というお言葉があった。その時は皆さん、扉を開くか、閉じるかの意味があまりよく分からなかったこともありますが、開いた方がなんとなく景気もよかろう、という感じで「扉を開いてもらいたい」というお話をした。それで教祖は自らの人間としての身体を閉じたうえで、ご存命の教祖の魂だけで世界に扉を開いて「これからたすけをする」と、「今までとこれから先としっかり見て居よ」ということで皆さんを元気づけられた。そういう一日が、正月26日、春の大祭ということです。そんな理を受けておつとめをさせてもらいました。
 教祖は、「つとめをせよ」「人を助けよ」ということを徹頭徹尾言っておられたわけです。その当時、教祖の近くでおつとめされていた方々の熱量、心のおさめ方とは比較にならないかもしれませんが、今を生きる我々も、それぞれの持ち場立場でしっかりと「人を助ける」心をおさめてつとめせてもらうところにご守護がいただけるんだ、ということに変わりはないと思います。そんな正月26日の理を受けて、春の大祭が各教会でも執行されています。


2.一日生涯の心
 急に話が変わりますけれど、昨日は成人の日でした。全国で成人式が中止されたり、開催するにしても代表だけが参列したりと色々な形があったようですけれども、晴れ着を着てテレビのインタビューに答えている新成人がみな異口同音におっしゃるのが、「一生に一度のことだからどうしてもやりたかった」ということです。
 「一生に一度のこと」、まったくそのとおりです。その「一生に一度」ということを教祖は「一日生涯」という言葉で表現されています。そして「一日生涯」とはどういうことかというと、この今日一日生かしてもらったことが一生涯を暮らすのと同じなんだ、ということで、一日一日を決しておろそかにしてはならない、という意味です。そうすると、2021年1月11日というのは、確かに一生に一回しか来ませんけれども、実は1月の12日、今日という日も一生に一度しか来ません。明日13日もそうだし、一昨日の10日もそう。そういう風に一日一日は一生に一度しかないんだという思いで日々しっかりとつとめていく。これが教祖のおっしゃっていた「一日生涯」という意味なんですが、おさしづでは、「一日生涯の心を定めよ」と言われています。「一日生涯の心」とは何かというと、人を助ける生涯の心を定めよ、という意味なんです。つまり、今日一日でこの命は終わるかもしれないけれど、その今日一日の命を精一杯使わせてもらって、人を助けさせてもらう心。これが「一日生涯の心」という意味です。
 とはいえ、なかなか難しい。私なんかもついつい、「ああもう今日で正月も12日になっちゃった、今年に入ってもう12日も過ぎちゃったなぁ」なんてことをぼーっと考えていますけれど、考えたらこの12日間、一日一人ずつでもお助けをさせてもらったか、あるいは一日一人ずつでも人のために祈ったかということを考えますと、ちょっと自信がありません。今日ぐらいはいいかな、という日がやっぱりあります。人を助ける心というのはそれではだめだということです。
 幸いなことに、私は教会をお預かりしているので、毎日おつとめをさせてもらう。おつとめをさせてもらうと、信者の皆さんのこと、世界のことが全部頭に浮かんできて「どうか神様、今日一日信者のみなさん、世界の人々が苦しいことがありませんように。世界が平和でありますように」と毎日お願いさせてもらう。それだけでも私は助かっている、と思います。今日一日、誰かをお助けするという心をしっかりと持って、行動につなげていく日々を重ねていくこと。そういう心をしっかりと定めること。これが教祖のおっしゃる「一日生涯」の意味ですので、ぜひこれを実践していただきたいと思います。


3.天理大学ラグビー日本一
 そしてあと一つ、昨日天理大学がラグビーで初の大学日本一になりました。これまで何度も何度も挑戦したけれども、あと一歩のところで日本一になれないできた。それがようやく昨日悲願達成ということで、大変に感動的な優勝でした。テレビでも大々的に放送しておりましたけれど、ラグビーはじめ、スポーツの中には、我々の人生にも通ずる大切なことがあると思いますので、ここで少しお話したいと思います。
 ラグビーというスポーツは、自分がボールを持って走るのはいいんだけれども、人にパスする時には必ず後ろの人に投げなきゃいけない。前の人にパスすると、これは反則なんです。後ろにパスをしながら敵陣ゴールに向かっていく。その意味では、観ていて非常にまどろっこしい。敵陣深く攻め込んでいる状況なのに、あともう少しでゴールなのに、パスする時は必ずボールがどんどん後ろに下がっていく。
 そんなことでまどろっこしく感じてしまうわけですけれども、言いたいことは、ルール・規則の存在です。つまり、ラグビーがそんなルールも何もなしに、ボール持った者がさっさと前にパスでも何でもいいから自由にやってしまうとすれば、まぁそれも一つ面白いかもしれません。しかし、実は観ている方はともかく、実際にプレーする選手からすれば、自由奔放にできるということは、逆に言うと楽しさがないということになるんです。ラグビーもスポーツですから、「こういうことはやっちゃいけません」というルールがあって、その中でプレーされるから面白い。同じくスポーツの野球でもサッカーでもそう。「これはやってはいけません」というルールがいっぱいある。そのルールの中で自分の能力を最大限に発揮すること。これが実はスポーツの奥深さであり、面白さでもあるんです。


4.ルールを守る
 試合であれば試合開始から試合終了まで。人間の一生であれば生まれてから出直すまで。この間に、もしルールがなくて、自由奔放にやって過ごしているのだとしたら、きっと楽しいことは少ないと思うんですね。やりたいことを思うがままにやれることは、一見楽しいように思いますが、実は本当の楽しさではないのです。ルール・規則にのっとったやり方を貫きとおし、最後の出直しまで、ゲームセットまで迎えることができたということになると、これはきっと楽しみの質が違うものになると思います。
 そうすると、人生においてのルール・規則は何かというと、私は神様が教えてくださっている「身上かしもの・かりもの」ということだろうと思うんです。この身体は神様から借りているから、神様の思いに添った使い方をする、というたった一つのルール。これを守りとおす中に真の楽しみがある。
 一方、この身体は自分のものだから、自分の思うように自由に使って構わない。自分で命を落とすことだってそれも自由。こういうことも一つの自由の考え方です。しかし、スポーツ同様、人間の一生にはルールがあるのです。神様は陽気ぐらしをするために人間を作り、身体を貸してくれたので、その思いに添った使い方をしなければならない、というルール。陽気ぐらしをするためにこの身体を使う。陽気ぐらしをするために一日生涯という心を定めさせてもらう。人間の一生という、一つのゲームの始まりから終わりまでの間に、このルールをしっかりと守っていると、きっと自由勝手気ままにやっていく生活よりも、真の楽しさを感じることができるはずです。これがルールの面白さなんです。
 ルールというのは縛られるばかりではありません。ルールの中で、どういう風に点を取っていくかもがき苦しんで試行錯誤していくことが、実は人生の大きな楽しみとなって返ってくる、喜びとなって返ってくる。こういうことで、私は人生にも守るべきルールがしっかりとあるのだなあと、昨日のラグビーを観ながら思っていました。


5.人生のルール・陽気ぐらし
 同じように、人生でもルール通りしっかりとやっていたら、得られるものは、自由にやったものよりも倍も三倍も楽しいと思います。そのルールも厳しいものではなくて、神様からお借りしているこの身体を、神様の思い通りに使わせてもらう、ということです。神様の思いというのは、人間に陽気ぐらしをさせたいということだから、私たちは陽気ぐらしをしなければならない。そういう形でお借りしたこの身体を使わせてもらう。これを人生のルールと考えると、人生はもっと楽しいものになるのではないでしょうか。そんなことを、昨日ラグビーを観ながらふと思いました。
 我々の人生というものは、試合時間と同じで、限りがあります。限りある中でどれだけ喜ばせてもらうか、楽しませてもらうか。繰り返しになりますが、ルールは簡単です。陽気ぐらしをしましょう。自分だけではなくて、周りも一緒に陽気ぐらしをさせてもらいましょう。このルールを人生にとってゆるぎないものであると信じ、守らせてもらう。これがこの教えの神髄なんだということ。
 天理教は難しいことは何もありません。人間が陽気ぐらしをするのを見て神様は喜んでくださる。神様が喜ぶと世界や「りうけ」(立毛【リュウケ】、農作物の意)、色々な作物が立派に育ってくるというところまで具体的に教えてくださっている。人間は周りを楽しませながら、自分もしっかりと楽しませてもらう。そういうルールの中でこの今年一年、お互いに暮らしていきたいと思います。
 いつこのコロナが収まるかわかりません。けれども、以前申し上げたように、このコロナも全部神様の思し召し。神様が何を思っているかというと、

「情けない、どの様に思案したとても人を助ける心ないので」

 文化、文明が発展したのに自分中心の考え、行動ばかりして、お互いが助け合おうとしない人間への注意として、神様がコロナを出されたのだと思います。ですので、ただ自分さえコロナにかからなければよい、ということではなくて、世界人類すべてがコロナに打ち克てるように、感謝して毎日を過ごす。人を助ける心を常に持って周囲に気を配る。 こういう一年であってほしいと思います。
 頑張れば神様はきっとご守護を下さる。そうすると数か月後には皆さん集まっておつとめができることになるかもしれませんので、どうかそれを楽しみに、感染を拡げないために、単に自分だけがどこどこへ出さえしなければよい、で終わらすのではなくて、心の中で困っている人のために祈り、助けるために行動に移しましょう。
 いつも申しあげているように、自分の周りの人はすべて「世界」です。「世界だすけ」というのは、自分の目に見える、手の届く人たちへのちょっとした手助けから始まります。そういう積み重ね全部が全部「世界だすけ」となっていきます。その思いで、今年一年お暮しいただきたいと思います。

 本日はどうもありがとうございました。

2021年01月31日

2021年1月月次祭について

2021年(立教184年)1月12日月次祭の開催方針
 新型コロナウイルスにかかわる社会的状況をふまえ、信者の皆様の健康と安全を第一とすべく、以下のとおりとします。

・1月の月次祭は、予定どおり12日11時から執行します。
・教会在勤者のみで勤めさせていただきますので、信者の皆様におかれましては、教会へのご参拝をお控えいただき、ご自宅でご遥拝くださいますようお願いします。

2021年01月10日

2020年(立教183年)12月月次祭神殿講話 ~当たり前を喜ぶ~

1.大変な一年を振り返って
 ただいまは十二月の納めの月次祭、賑やかにお勤めいただきました。今年の締めの神殿講話をさせていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 今年は言うまでもなく、新型コロナウイルスの感染拡大ということで、本当に大変な一年でした。先ほど祭文でも読ませていただきましたけれども、三月以降、月次祭をそれまでのようには勤めることができなくなりました。今日は車でお出での方が中心ですけれども、遠方の方、特に高齢の方々は参拝するのが難しいということで、自宅でお勤めいただくようお願いしました。二月、三月に感染が拡大し始めた当時は、こんなにひどくなるとは思っていませんでしたけれども、全く収まる気配がない、それどころか今や第三波といわれ、日々大変な数の感染者が発生にしています。
 こうした中、外出は控えるように、と抑える人もいれば、一方では動かないと経済が回転しないということで旅行に行こう、と勧めるという、アクセルとブレーキを一緒に踏んでいるような時代ですけれども、過去に例のないことですので、こういうことになっているんだろうと思います。
 ただそんな中で今年を振り返ってみますと、まず一つは言うまでもなくコロナ禍ですね。私どもは、世の中に見せられることは神様が全て見せて下さることだという風に聞いておりますから、コロナ禍はどういうことなのか、私なりに考えてみました。


2.勝手な心遣い
 全ては神様の計らいである、しかも、子供を助けたいとの一条から全てしていることなんだというのがこの教えです。では、この人間心から見てこんなに辛く苦しい新型コロナウイルスを、なぜ神様は、どんな計らいで世界中に出されたのか。親の思いとしてあるのは、子供をなんとかして助けてやりたいということ。そこに思いを致すと、結局は私たち人間の心が神様の思し召しに合っていなかった、ということになるのです。
 人間すべてが陽気ぐらしできるよう、人種・性を超えて世界中が仲良く手を組んで過ごせるよう、神様は人間を作られました。1900年代は、世界中で多くの人が亡くなった第一次・第二次世界大戦があったわけですけれども、人間はその反省を生かし、その後歩んできました。例えば、ヨーロッパでいえば、ヨーロッパの国同士で喧嘩してしまったという事実を反省し、EU(ヨーロッパ連合)が作られました。国境を取っ払って、パスポートなくても国々を自由に動ける枠組みを作ったんだけれど、最近になってイギリスが出ていくことになり、他のヨーロッパ諸国との関係がギスギスしている。アメリカも、世界の中でのアメリカではなく、アメリカさえよければよい、ということで環境問題を解決するパリ協定というのも勝手に脱退してしまう。「うちは自分たちの思うように二酸化炭素を出すんだ」というような身勝手を平気でやってのける。日本だって同じ。世界唯一の被爆国であるにも関わらず、核拡散防止条約に日本は参加していない。その条約に参加してしまうと、アメリカが持っている核の傘の下で守られている状況を否定することになるから、ということで核なき世界への取り組みに背を向けてしまう。人間の勝手気ままな心に対し、神様が節(ふし)を見せて、その後人間が心を入れ替えて、こういう風によくしていこう、と決めた枠組みを、喉元過ぎた頃にまたそれぞれが勝手な心遣いを始めた、ということができると思います。
 そしてそれは、人間一人ひとりを見てもまた同じです。一人ひとりの思いがついつい自分中心になっている。昔は、隣近所の人がなにか病んでいそうであれば、心配でみんなあちこちから声を掛けたものです。今は、そんなことをすればプライバシーの侵害だということで、何もしないで放っておく。こう言うと、「放っておいているのではない。相手のことを思って静かに見守っているだけ」なんていう反論があるかもしれません。「静かに見守ってあげる」なんていうのは、たしかに聞こえはよい。けれども、その結果が年寄りの孤独死につながったりしている。他にも、経済的に立ち行かなくなり、この日本で餓死してしまうような人もいたりする。そんなことを思うとき、きっと神様は見ていられなくなって、このコロナというものを世界に出して、みんなで連携し合いなさい、との思し召しなのではないか。しかし、そのコロナですら、世界中の国々が連帯して対応しているかというとそうではない。「他の国はともかく、うちの国だけはなんとか」という考えから脱し切れずにいる。


3.神様の思い
 こうした中で、私たちお道を信じている人間からすると、神様の思し召しはどこにあるんだろうかと考える。神様のおふでさきに、昔コレラがはやったとき、あるいは天然痘がはやったときに、なぜ神がこういうことをみんなに与えたかということが書いてあります。

「なさけないとのよにしやんしたとても 人をたすける心ないので」(十二号90)

というおふでさきです。

 つまり神様からすると、人間が人を助ける心を持たないので、情けないので、人を助ける心を持つように、人間一人ひとりが伝染病が出たらなんとか助け合って他の人にうつさないようにしなきゃいけない。罹った人をみんなで助けなきゃいけない。そういうところから、「なさけないとのよにしやんしたとても 人をたすける心ないので」というおふでさきによって、人間が助け合いをするためにこういう病いを出したんだということを教えてくださいました。それを今の時代に置き換えると、まさにそれがこの新型コロナウイルスが神様からすると「情けない、人を助ける心がないから。みんなが」ということをおっしゃっているんではないかなと思います。 
 しかもこの令和二年という年は大変な年でした。戦争もないのにオリンピックが延期になるなど、あらゆる催し物が中止になったり延期になったり、我々人生の中でこんなことを体験したことが無かったわけです。一方で、天気も大変でした。夏は40℃を超えるような大変な暑さもあって、熱中症で亡くなる方もいっぱいいました。それでも神様の思いからすると、これは子供を苦しませるためではなくて、子供を助けるためなんだ、それを受け止めてどんな小さいことでも喜べるようにと神様が教えてくださっている。世界で起きていることをどう自分が受け止めるのか、そう考えるとよく分からなくなってしまいますが、神様は一人ひとりの心を見ています。一人ひとりの心が変わるのか変わらないのか、そこを見てくださっている。ということで、せめてこのお道の話を聞かせてもらっている我々一人ひとりが、周りに病で苦しんでいる人はいないか、事情で困っている人はいないか、人を助けるということを常に心に念じて、人だすけのアンテナを高くして過ごす。そして自らも、身の周りに起きていることを小さなことでもとにかく喜ぶ。喜ばせてもらう。そういうことの大切さを改めて考えてみる年であったと思います。


4.「鬼滅の刃」の大ヒットについて
 そこであと一つ、今年大変に流行したということで言うと、皆さんお読みになった方もいると思いますが、「鬼滅の刃」という漫画。私は全巻読みました。映画も観てきました。本当に大変な人気です。コロナ禍でみんな家にいる時間が長くなったことが大ヒットの理由だろう、と言う人もいますが、他にも読める本はいっぱいあるわけで、しかも映画館があんなにいっぱいになっているところをみると、コロナだけではこの大ヒットの説明にはなりません。あの本ばかりが一億冊も売れるという信じられないような売れ行き。でもあれを読んでみると、きわめてシンプルなんです。「鬼滅の刃」という漫画は、実は当たり前のことしか言っていない。少し種明かしのようになってしまいますけれど、このお話は、主人公が仕事で家を不在にしていた時に、家にいたお母さんや弟、妹たちが鬼に襲われ殺されてしまった、というところから始まるわけですけれど、その主人公が鬼と戦う中で、鬼の術で眠らされ夢を見せられています。その夢の中で、殺されたお母さんや弟、妹たちが、口々に主人公を責めるんです。「何で助けてくれなかったの?」「俺たちが殺されてる時何してたんだよ。自分だけ生き残って」「役立たず」「アンタが死ねばよかったのに」ということを夢の中で言われるわけですね。普通そんなこと言われたら参ってしまうところですが、主人公は、夢の中でも、とっさにこれは自分の家族じゃない、鬼が見せている悪夢だ、ということに気づくわけです。そして鬼に対して「言うはずないだろうがそんなことを!俺の家族が!!俺の家族を侮辱するな!!」と言って術を破り、結果鬼を退治するわけです。家族同士が強く信じあっているからこそ主人公は鬼がしかけた悪夢に負けなかった。家族への絶対の信頼、絆というものがそこには描かれている。かくいう鬼も、不幸にも自分の心の弱さに負けてしまった人間が鬼に変えられてしまった姿であったりして、人間と鬼とは実は紙一重の存在であるということも描かれている。だからこそ主人公は、人間として生まれ変わってくるようにとの思いを込めて、鬼を退治する。
 こうして考えてみると、この漫画に出てくる話は、全部「普通の話」なんです。おそらく、私たちが子供のころの4、50年前にこの漫画があったとしても、ここまでのヒットはしなかったと思います。別に「普通の話」なんで、面白くもなんともないから。このコロナ禍の中、なぜこういう「普通の話」がヒットしたかというと、一人ひとりが人のために助け合いをしよう、人のために何かできないかと思うという、みんな心には思っているけれども、それを言葉にして出せない、どのように出していいかわからない。そのくらい人間がばらばらになっちゃった、ということだと思うのです。そうした中で、「鬼滅の刃」という漫画は、一人ひとりが持っている心の正しさ、人を信じる心、家族を信じる心というのをちゃんと言葉にして出した。今までみんな忘れかけていたことを、「あ、そうか」と気づいたことで感動したんですね。新しいことを言っているわけでもなし、珍しいことを言っているわけでもなし、特別なことを言っているわけでも何でもない。おそらく4、50年前だったらみんなが口に出して言っていたようなことを、みんな口に出さなくなった。口に出さなくなったということは心にもだんだん見失いかけてきた。それを改めて思い起こさせてくれたんじゃないかと思うんですね。


5.天然自然の道
 そして、教祖伝逸話篇にこういうお言葉があります。

「この道は、人間心でいける道やない。天然自然に成り立つ道や。」(十七「天然自然」)

 この天理の教え、神様の教えというのは、人間心で作ったものではないぞ、と。だからといって特別なことを言っているんじゃない。天然自然のことを言っているだけなんだというんです。天然自然というのは、人間が生まれて人間が出直すまで、この間普通に生きているということ。普通に生きていってみんなと仲良く暮らすためにどうしたらいいかという、天然自然のことを言っているだけなんです。だから天理教を信仰するとどうなるのか、信仰するとどういう風に得するのか、そんなことではないんです。この道が、天然自然のことを教えてくださっているという風に考えると、先ほどの鬼滅の刃の話も全部天然自然の話。また、皆さんにもお配りしましたが、中島みゆきさんの第二詩集。これも読んでみるとごくごく当たり前の話です。「私は礼儀が好きなんだ」とかいう言葉が普通に出てくる。それは当たり前のことでした。今までは。人にものをいただいたならお礼を言う。何かしてもらったらお礼を言う。それがついどこかでひねくれてしまって「私は別にあなたに恵んでもらわなくていい」「あなたに助けてもらわなくていい」から、別にお礼を言う必要はない。と、こういうことになってくる。それがエスカレートすると「そもそも誰それが悪いからこうなったんだ」と、さもやってもらうことが当然というようなことにもなってくる。こうなると確実に運命が行き詰まります。そうならないように、天然自然の根っこのところの話を、このお道は教えてくださっている。
 今、教会で教理勉強会をしていますが、中島みゆきさんの詩集を読んでみると、勉強会でやったことの一つひとつが、詩集の言葉の中からうかがいとれるんです。そういう風に、神様は、当たり前のことを当たり前に教えてくださっている。その当たり前の神様が人間を痛めつけるはずがない。人間の親ですからね。しかし、子育てされている方は分かると思いますが、子供が間違えた方向に向かっていたら、行きたい方向を変えさせる。子供は泣くかもしれない。しかし、それは親心からやっている。この子供のために、子供が何とか曲がらないように、子供が救われて育つためにやっている。
 そういう風に、今、世の中で起きていることは全て神様が我々人間のためにしてくださっていることだと理解し、今年一年、一人ひとりの身に見せられた節(ふし)をしっかりと受け止めてまた来年頑張りたいと思います。ということを今日祭文にも書かせてもらいました。一年生活していれば、色々な嫌なこと辛いこと悲しいことあったと思います。でもそれは全部神様が一つひとつその人間にふさわしいように見せられたものですから、この見せられた節(ふし)をしっかりと「神様は何を私に期待されているんだろうか」ということを考えてまたこの来年、新しい年を迎えていただけたらと思います。


6.「当たり前」の大切さ
 そんなことでこの一年間、なかなか大変でしたが、大きな気づきもありました。それは、おつとめをさせてもらう喜びということです。今まで、惰性とは言いませんけれど、12日におつとめするのは当たり前、皆さんに来ていただくのも当たり前と思っていたのが、決してそうではない。つまりこの人生に当たり前のことなんかないんだということですね。息を吸うのも生きていればこそで、息が止まった瞬間、あるいは苦しくなったらこれが病気。ということは今息を吸ってること歩けること、もう当たり前のことなんか一つもない。全部神様のご守護。そんな中で自分が辛いと思うことでも、これはじゃあ神様が何を私に期待しているんだということで考えると、必ず喜びを見つけることができます。喜びを見つけられれば神様はご褒美をくださる。これは命をくださる。そういうことでぜひまたこの一年、見せられてきたことをお互い反省しながら、来年もつとめさせていただきたいと思います。
 そして一年間、皆さまにはこの日帝分教会に大変にお心寄せいただきまして、無事つとめを果たせることが出来ました。本当に皆さんのお陰でございます。高い所からですが、あらためてお礼を申しあげます。今年一年、本当にありがとうございました。

2021年01月10日

2020年(立教183年)11月月次祭神殿講話 ~心を添える~

 ただ今は、11月の月次祭を賑やかにおつとめいただきました。
 ご夫婦で鳴り物をつとめていただきましたが、表拍子、裏拍子しっかりと息が合っていて、それだけのことを見ても、ご夫婦が上手くいっているんだろうなという感じがいたしました。
 前会長が言っていましたが、鳴り物の中でも、すりがねやちゃんぽんという裏拍子、この裏拍子がちゃんと入るということは、家庭でいえば表と裏のバランスがしっかり取れていることにつながるのだと。人と合わせることが難しく、人間関係が上手くいかないなと思う人は、この裏拍子をしっかり覚えるとよい、ということでした。
 たしかに、裏拍子というのは間に入ると皆を勇ませてくれる。表ばっかりで賑やかになるのではなく、裏の拍子が入ることによって、真に賑やかになって、皆の心が勇むということを、おつとめからも学ぶことができます。人間は、色々な役割で人様を勇ませることができる、ということがお分かりになるかと思います。
 今月は、この一ヵ月の間に起きたいくつかのことを考えたうえで、「心を添える」ということについてお話したいと思います。

1.真心の御供
 教祖の逸話篇に、ある大金持ちの家から立派な重箱に入ったお餅が届いた。「ぜひ教祖におあげください」といって届けられて、取次のこかん様が教祖にお渡ししたら、教祖は「ああそうかえ」と素っ気なく言っただけで、それ以上は何もおっしゃらなかった。それから2~3日経って、今度は非常に貧しい家からお餅がお供えされました。その家では、暮らしが大変な中でも、年末になってようやくお餅をつくことができた。そのお初を「これを教祖に差し上げてほしい」ということで持ってきた。ほんのささやかな量を、竹の皮に包んで粗末な風呂敷包みにしたお餅です。これを取次のこかん様が教祖にお渡ししたら、今度は教祖が非常に喜んで、すぐに親神様にお供えしてくれ、ということをおっしゃったというんですね。
 後で分かったことですが、最初の立派な重箱に入ったお餅というのは、豊かな家がお餅をいっぱいついて余ってしまったので、これは余ったものだからお屋敷に届けよう、ということで持ってこられた。一方、その2~3日後の粗末な風呂敷包みで持ってこられた貧しい家の方というのは、暮らし向きも大変な中ではありましたが、ようやく年末にお餅がつけたことを本当に喜んで、わずかな量だけれど、これは親神様のお蔭なのだから、そのお初はぜひ親神様に、という気持ちでお屋敷にお届けした。これは逸話篇の7番にある「真心の御供」というお話です。
 重箱に入った立派なお餅と、竹の皮に包まれたお餅、二つ並べてみれば重箱の立派な方が御供としては素晴らしいものだと人間は思う。けれど、教祖はそうではなくて、心をお供えするんだと。真心のお供えということを大切にされていた、というお話です。

2.心を添える
 我々も同じように、何か人様にお祝いする時、あるいはお葬式でお香典を持っていく時、「これは義理だから」「仕方がないから」、場合によっては「以前うちは先祖でそれをもらったことがあるから、これをとにかく返しておこう」ということで、本来のお祝いの気持ちとか、お悔やみの気持ちというのはそこに入ってこないことがよくあります。かくいう私も反省することがありますが、そんな時にこの教祖の逸話篇を読ませていただきますと、何をするにも、物をあげるということ以外にも身体で何かをしてさしあげるということも含めて、心がちゃんとそこについているだろうか?ということを考えますと、実は義理とか人情とか世の中のしきたりといったことで、ついついおろそかにやってしまっていた、ということがあると思うのです。そんなことを考えますと、心を一緒につけてお渡しする、ということがとても大切だということがわかります。
 そしてそれは、受け取った側も実はそうなんです。「良いものもらったなあ」というのと、「こんな粗末なもの、大したことない、そっちにおいておけ」ということ。後者は、くださった方の心をちゃんと受け取っていないということになります。つまり、受け取る側もいただいたことに対して、贈る側と同じように心を添えて感謝をする。ちょっとしたことなのですが、お礼の言葉を添えて贈る。そのお礼の言葉に対して受け取った側も心を添えたお礼の言葉でお返しをする。そういうことがとても大切なことだと神様からは教えてもらっています。その上で、心が備わった人が神様にお願いした時、神様がちゃんと受け取ってくださるということになります。

3.心の澄んだ人
 同じように176番に「心の澄んだ人」という逸話篇があります。「心の澄んだ人の言う事は、聞こゆれども、心の澄まぬ人の言う事は、聞こえぬ。」というお話です。心の澄んだ人の言う事は神様に聞こえるけれども、心の澄まない人の声は神様には聞こえないと、そこまでおっしゃる。
 我々もついつい心を澄ますことなく、形だけで神様にお願いすることがあります。あと、お願いする時だけでなく、何よりも普段の心遣いが澄んでいない人。日常の心遣いが澄んでいないのに、神様にお願いする時だけ言っても、「心の澄まぬ人の言う事は、聞こえぬ」ということになる。
 ですから、神様に話を聞いていただく、お願い事を叶えていただくためには、何が大切かというと、心を澄ませなければいけない。心を澄ませるというのはどういうことかと言うと、欲を捨てるということです。皆さんいつも聞いている「八つのほこり」、をしい、ほしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、欲に高慢、この八つのほこりを捨てること。その中には「欲」というのがありますね。「欲」というのは、すべてのものが欲しい、すべてことが叶って欲しい、これが「欲」です。人に対して自分の思うとおりにやってもらいたい、というのも「欲」。その「欲」というものを捨てる。これが「澄み切る」ということです。
 みかぐらうたにも「すみきりましたがありがたい」という言葉があります。いつも申しあげていますが、神様を信仰することでありがたいことは何かというと、自分の家にお金がたくさん入って豊かになった、自分の田んぼが豊作になった、あるいは健康になった、こういうことがありがたいのではなくて、「すみきりましたがありがたい」なのです。欲がなくなり、何が出てきても喜べるという心。これが澄み切った心ということで、神様はその心が澄み切った人の言う事は聞こえるとおっしゃる。だから普段から欲を捨てる、心を澄み切る、そして人様のために何ができるかということを常に考える。そういうことをやっているから、本当に困った時に「神様どうかこうしていただきたい」とお願いした時には、それはちゃんと神様は聞こえるとおっしゃる。ところが普段から欲のことばかりかき集めて、人を押しのけて自分中心で心の澄んでいない人が、本当に困った時だけ「神様どうかお願いします」と来ても、神様にはそういう人の声は聞こえぬとおっしゃるんですね。
 そういうことで、どんなときにも真心を常につけていく。どんな行動をするときにも。人様に物を差し上げるときにも。それが、神様のおっしゃっている「真心の御供」という意味だと思います。我々は日常で人様と接することがある、言葉をやり取りすることもある、物のやり取りをすることもある、場合によってはお金をやり取りすることもある。そんな時でも、必ずそこに自分の真心をつけてしなさいよ、そういうことを常にやっていることによって、最後は神様がお話を聞いてくださる、ということになります。
 ぜひ皆さん今月また一ヵ月、心を添えるという考え方でお暮しいただきたいと思います。その心を添えるというのは、いつも申しあげているけれども、自分以外は全て世界です。自分の子供であっても夫であっても妻であっても兄弟であっても、全て自分以外は世界。世界に対して自分の真心をつけて何かをさせていただく。こういうことが今月の一つの目標としてお暮しいただきたいと思います。

4.人を助ける心
 いよいよもう年も押し迫ってまいりまして、今年の正月にいただいた年賀状の整理もしないうちに、今年の年賀状を買ってしまうという、本当にあっという間に一年過ぎるようですけれど、ここへきて、また新型コロナウイルスの感染が拡大してきました。
 いつも申しあげておりますように、これは神様のご守護です。以前の月次祭神殿講話でもお話をさせてもらいましたが、神様は、人を助ける心が無いので情けない、という思いから、この新型コロナを出されました。おふでさきに「新型コロナ」とは書いていませんが、こういう厄介な疫病を出すということは書いてあります。どうか皆さん、人を助ける心をしっかりと持っていただきたい。これは我々一人ひとりの問題です。我々一人ひとりが人を助ける心をしっかりと持っていれば、神様はこの人間にコロナを与える必要はないな、と思って下さるわけです。ですから、人を助ける心をしっかりと持って、ほこりは避けて通る。嫌な所、変な所へは行かない。そういう生活をまたしていただいて、元気にこの年末・年始を過ごしたいと思います。
 なかなか全員揃ってのおつとめはできませんが、今日はこれだけの人数でも、鳴り物を入れておてふりをさせていただくことができ、本当に心が勇みます。お宅にいる皆さんは、それぞれまた自分の所でおつとめをしていただき、心勇むようにしていただきたいと思います。今月はどうもありがとうございました。

2020年11月25日

2020年(立教183年)10月秋季大祭神殿講話 ~信仰を見つめ直そう~

 ただいまは、立教183年の秋の大祭を賑やかに勤めさせていただきました。
同じ葛飾支部の教会長さんでいらっしゃるS先生にも今日はご参拝いただきまして、賑やかに鳴り物をご担当いただきました。おかげさまで久しぶりに六人、男三人女三人でおつとめをさせていただきました。本当に感謝を申しあげます。ありがとうございます。


1.「元(もと)一日」の意味
 言うまでもありませんが、天保9年10月26日、今から183年前、西暦1838年、旧暦(太陰暦)10月26日にこの天理教が始まったということで、本日は秋の大祭をさせていただいたというわけです。
 天理教には、三つの大きなお祭りがあります。10月26日が秋の大祭、立教の大祭。そして1月26日が春季大祭、これは教祖が身を隠された時。そして4月18日、教祖の御誕生祭ですね。この三つが大祭として勤められていますけれど、その中でも一番大切なのがこの10月26日です。当時、10月26日に至るまでの10月23日からの三日三晩、神様が教祖中山みき様に降りられて、寝ずの問答をしました。中山家の一族・親族から全て集まってお断りを申しあげる。しかし、神様は頑として退かぬ、ということでついに10月26日朝10時、「みきを神のやしろに差しあげます」ということで、その瞬間をもって天理教が始まったということになるわけです。
 なぜ10月26日なのかということですが、これは実は元一日で、九億九万九千九百九十九年前の10月26日が、我々人間が神様によって作られた日、約束の年限とはそういうことでして、全て原因が分かっています。そんなことから、本日は元一日ということについてちょっとお話をしたいと思います。
 本日の祭文にもありましたけど、「元一日の理を心におさめ」ということを言わせてもらっています。元一日というのは、文章で書くと元始まり、大元の一日、ということになりますが、これは一体何の元一日なのかというと、私どもにとっては、この神様を信じるようになった日、あるいは神様から声を掛けられた日、神様の匂いをかけられた日。これが元一日ということになるわけですね。その日は一体どういう日だったのか?もう二代三代になってくると、「私は神様によって助けられた!」という人は少なく、これは親がやっているから、ということが多いと思います。しかし、親がやっていても、じゃあ天理教の話を聞いてみるかと、あるいはおぢばに帰って別席の話を聞いてみようか、そして聞いた結果、この教えは素晴らしいなあ、と思ったその瞬間が実はその人にとっての元一日なんですね。
 ですから、元一日というのは、この神様を信じよう、この神様の話は素晴らしいなあと思ったその瞬間が元一日ということになるわけです。その後に色々な御守護をいただく、色々な嬉しいこと、楽しいことを神様に見せてもらうということもあるでしょうけれど、何よりもその、この神様のお話を聞いてみよう信じてみようと思ったその日が元一日ということになるわけです。
 元一日というと、助けられた日という風に思う方がいます。そういう風に考えると、「私は親の信仰を継いだだけだから私は助けられていない、私に元一日はないんだ」なんてことが出てくるかもしれません。しかし、信仰をし始めれば分かるんですが、今日の今日、今、皆さんで集まっておつとめができる。そしてまた食事ができる。歩いて来られる。このこと自体が大変に御守護をいただいているのです。何でもないことが最高の御守護、ということをご理解をいただければと思います。


2.三回の大きな節(ふし)
 そんな中、以前から申しあげていますけれど、最近は新型コロナウイルスのせいで、このおつとめをすること自体が非常に難しくなってきました。今日も何人かの方はおいでになっていない。来たくても来られない、こんなことを思うと、いつも当たり前のようにさせてもらっているおつとめの有り難さ、御守護というものが分かってくると思うんです。
 天理教にとっての元一日は、教祖が神がかりになられて、教祖を神のやしろとして差しあげた。これにより教えが始まった日が元一日、ということになるわけですが、この元一日の後でも大変なことが続きました。皆さんご承知のとおり、すべては元の理につながっています。元の理は五分から生まれて五分五分と生まれて三寸まで育って全部出直す。また五分五分と生まれて二回目は三寸五分、三回目は四寸まできてまた全部出直す。そして「ここまでくればいずれ五尺の人間になるであろう」と言っていざなみのみこと様も身を隠された。これら三回の大きな節(ふし)を、人間は見せられているのです。
 これを教祖伝に当てはめますと、一回目は夫・善兵衛様のお出直し。これは教祖56歳の時です。
 その後11年経って、教祖67歳の時の元治元年、大和神社の節というのがありました。これは主だった信者さんたちが大豆越(まめこし)村の山中家の新築祝いに行く時、皆が鳴り物持って喜んで勇んで向かっていた。教祖からは「途中で神社があったら拝をして行きなさい」と言われたので、拝をして行くつもりでいったら、ちょうど大和神社の前を通った。そこで持っていた太鼓や鳴り物をどんちゃん打ち鳴らしておつとめをしてしまった。ちょうどその時は、大和一帯の取り締まりをする守屋筑前守という方が、神社の中で祭儀式を執り行っていて、それを邪魔するとは不届きだ、ということで皆捕まってしまった。その時にのちの永尾よしえさんがおっしゃっているんですが、その大和神社の節の後は「このお屋敷に人が誰も来んようになった、ひっそりと火が消えてしまったようだった、もう天理教もこれで終わりかと思った」と話したという記録が残っています。それが大和神社の節。それが教祖67歳の時。
 そこから23年経って、またぽつぽつと信者さんが増えてきて、また明治20年1月26日に教祖が身を隠された。これでもうこの道は終わりだという風に皆さん思った。
 そんなことが実は三回もあったのです。本当に人が来なくなってしまうような時が、あるいは絶対に出直さないと思われていた教祖までが身を隠された。その時の皆さんの落胆の仕方はどれほどのものであったか。
 私は、8月の本部月次祭に行かせてもらいました。中根大教会の他の会長さんたちは高齢者が多いこともあり、8月の大教会からの参拝は私一人でした。畳に一人ずつ座らされて、おぢばに帰ってこられる方も神殿に上がれない。おつとめしたいのにおつとめができない。今までは自由に来て自由に上がって自由に参拝して、場合によってはおつとめしながら居眠りしていた人もいます。誰もがいつでも自由に参拝できると思っていた。それが新型コロナのせいで自由にできなくなった。神殿に上がれなくなったんです。おつとめを拝することができなくなった。戦前、この教典の内容が天皇制に反するということで、いろいろと制限をかけられました。例えば「一ツひのもとしょやしきの」の「日の本」がけしからんと、そこだけは歌ってはいけないと、そういうようなことはありましたが、それでもおつとめそのものはできていたんです。しようと思えばできました。ところが、今は、誰から「やめろ」と言われたわけでも法律で禁じられているわけでもないのに、今年は新型コロナウイルスというもののせいで神殿に上がることもできない。この教会でも、おつとめをしに参拝することができない人がおられます。そういう状況が、半年以上も続いています。


3.信仰を見つめ直す
 そういうことを考えると、私は、天理教がこれまでに経験した、三回の大きな出直しに匹敵する出来事なんじゃなかろうかと思っています。とはいえ、これもまた人間の常で、そのうち新型ウイルスに対するワクチンができた、あるいは特効薬ができた、となると、もうケロっと忘れてまた以前のような感じの信仰に戻ることになるんじゃないかと思いますが、そうであっても、今回のこのコロナ禍は、前例のない出来事、先ほどお話しした三回の大きな節と同等の大変なものだと思います。しかも、それは人間心で作ったものではなく、神様がそれをなさっている。まだまだ私も考えがまとまっていませんが、おつとめをしたいのにおつとめできない、教会に参りたいのに教会に参れない、あるいはおぢばに帰りたいのにおぢばに帰れない。こういうことを、一体どういう風に悟ったらいいのか。そして、大和神社の節で道からすっかり離れてしまった人、その後にまたついてきた人、あるいはいったん離れたけれど思い直してまたついてきた人。そういう人たちの思いを改めてここで考えなければいけないのではないかと思います。
 つまり、新型コロナのせいで電車にも乗れない、高齢者だから人混みに行ってはいけない、というこういう世間の中で、これが収まった時、皆さん来た時にどういう心構えでこれからおつとめをするか。あるいは今、今日はたまたま皆さん来られましたけれど、やっぱり来られない時もあるでしょう。幸い今は、YouTubeなども利用して、来られない方にも月次祭の様子をお伝えしていますが、こういうのを観ながらどういう思いで信仰したらいいのか、ということをこの機会にもう一回考え直さなければいけない。10月26日、天理教の立教の日ではありますけれど、どういう風にこれから信仰していったらいいのか、自分の信仰をどのように高めていくのか、深めていくのか、ということを考え直す元一日だと捉えていただければ、親神様が、新型コロナを私ども人間にお与えくださったことの意味が掴めるんではないかと思っています。
 コロナはダメだ、コロナは嫌だ、コロナは怖い、と思っているだけではなく、これも全部神様がなさったこと、そして神様のお言葉の中にもありますが、「成ってくるのが天の理」という。では、そう成ってきたことを、我々はどのように捉えて行動したらよいのか。
 これまでも、新型コロナについての心構えなどは私なりにお話しさせてきてもらいましたけれども、今日はもう一歩進んで、私の信仰はコロナ禍の中でどうしていったらよいのか、あるいはコロナ禍が収束したならば、今までと同じ形で本当によいのかどうか、ということを改めて考え直す、問い直す元一日にぜひしていただきたいと思います。これが本日申しあげたい一番大切な所です。


4.Yさんのお出直し
 本日おいでいただいた皆さんには葬儀に行っていただきましたが、この教会に長年尽くしてこられたYさんが、9月24日にお出直しになられました。日帝分教会が葬儀を執り行いましたが、心を込めてやらせていただきました。Yさんの魂は、因縁のある所に生まれ変わってこられますが、私どももお互いにいつお別れの時が来るか分からない。そう考えますと、今度は一日一日が大切な一日になる。決して無駄な一日にしないこと。教祖の言葉に「一日生涯」という言葉があります。一日が一生涯だという風に考えて、朝から晩まで自分の生涯をしっかりと全うする。こういうことも、改めて身近な方の出直しを通じ、感じさせてもらいました。本当は、毎日毎日絶えずそういうことを感じて過ごさなければいけないんでしょうけれど、ついつい平穏な、当たり前な一日で過ぎてしまいます。しかし、こういう親しい方のお出直しの姿を通して、改めて生かされていることの有り難さ、そして一日一日の大切さということを感じていただけたらと思います。Yさんには、本当に長い間教会にお尽くしいただきましたけれど、また来年には御霊を祖霊殿におさめさせていただきます。また、出直された方だけでなく、そのご遺族の方にも皆さん心寄せていただきますようお願いいたします。同じ教会の仲間ですから、仲間が寂しくないようにどうか声を掛けていっていただきたいと思います。


5.神様のご守護
 コロナコロナですっかり忘れていましたけれど、昨年は台風、豪雨、長雨と大変なことが続きました。しかし、昨日天気予報で言っておりましたが、実は今年は台風が日本に一つも上陸していないんだそうですね。昨年は、あれだけの数の台風が上陸したのに、今年は一つも上陸していない。神様は、コロナで苦労させても、コロナで我々人間が心を作れば、台風はちょっと脇に置いておいてくださる、ということだと思います。こう考えれば、また一つ感謝することができます。ですから、コロナでしっかりと心を作らせていただきましょう。
 昨日までは長袖でしたが、今日は一転して半袖に着替えたりと、最近は本当に天候不順です。みなさまお身体には十分気を付けていただきたいと思います。今月また一か月、どうか身体をしっかり労わりながら、来月もまた月次祭に皆さんおいでいただけるように祈っております。今月はどうもありがとうございました。

2020年11月03日

2020年(立教183年)9月月次祭神殿講話 ~「見方を変える。言葉で喜ばせる」~

 ただいま、9月の月次祭を賑やかに、陽気につとめさせていただきました。
 久しぶりにおいでになられた方が多かったものですから、鳴り物も入ったり、三曲も入って本当に賑やかでした。やはりおつとめというのは心が勇みます。おつとめさせてもらうことによって勇んでくる、という感じがいたします。
 それでは、しばらくの間お話させていただきますので、お付き合いお願いいたします。

1.おつとめをするということ
 先月8月26日、本部の月次祭に参拝させていただきました。各大教会から数人ずつで、中根大教会は4人ということでしたが、真夏ということもあり、私だけが参拝させてもらいました。東西だけ入口を開放しまして、きちんと消毒をして、本部の神殿に一人畳一畳で、会長さんだけ一人ずつ。教服で、足袋で参拝をさせてもらいました。本部神殿は広いですから、畳一枚一人ならガラガラだろうなと思っていましたが、大変な数の人たちでした。本部の神殿に座っておつとめさせていただいたのは、もう本当に数ヶ月ぶりでしたけれども、心が本当に勇んでまいりました。中に入れない信者さんたちは、神殿の外で参拝していらっしゃいましたけれども、「おぢばへ」という思いがひしひしと感じられましてね。これまでは、おぢばに帰らせてもらうのは当たり前のことで、神殿に上がっておつとめさせてもらうのも当たり前。改めて、限られた人しか参拝してはいけないということになってみて、おつとめに対する思い、というものを新たにしたところでございます。
 そんな中、真柱様がコロナでおつとめができないことについて、こうおっしゃっていました。
 これまで先輩の諸先生方は、教祖時代のご苦労をみんなして通ってこられた。あるいは身近に、自分のすぐ上の親がそういう感じを持っておられた。ところが、今の我々は、自分の親も含め、そんなに信仰することが、おつとめをするということが、大変なことだと感じていない。それを、今回コロナというウイルスのせいではありますけども、皆が集まっておつとめをさせていただけないという節を見せていただいて、改めておつとめをしたいということで集まってきた方たちの思いを感じることができたのではないか、というお話をしてくださいました。
 教祖ご苦労の時代に、教祖はつとめをせよ、とおっしゃる。ところが、警察がおつとめをしている所へすぐ飛んできて、おつとめしている人たちを捕まえる。それを聞くにつれ、自由な時代に生きている私などは、おつとめなんて陰で隠れてやればいいのに。皆でわざわざ集まって捕まるようなことやらなければいいのになあと、ちょっと思ったこともありました。
 ところが今回のコロナ禍で、「おつとめはしてはならない」というように言われた時の、どうしてもやむにやまれぬ気持ちで神様の所に集まって皆でおつとめをしたいという思いというのは、こういうものなんだなあということを改めて感じました。今回こういう騒動が起きて、自由に本部への参拝もできない、おつとめに、神殿に上がることもできない。そして大きな声も出してはいけない、唱和してはならない、なんていうことでしたから。ただし、今回は畳一畳で皆離れていましたから、全員マスク着用でしたけれども、おうたは歌えるということでやらせてもらいました。
 そんなことで、普段なんでもなくやっていることが「だめだ」と言われると、本当に人間というのはそういうことをしたくなる。信仰でなくても、一旦「旅行に行ってはならない」ということになり、その後いざ旅行解禁となる皆がワッと動き出す。あるいは解禁されてなくとも、隠れてでも動き出す人も出てくる。こういうのが人間の本性なのかもしれませんけれども、そんな風におつとめということに関して、神様の所でおつとめをしたい。皆さんから言うと、まず、ぢばにつながっている教会でおつとめをしたい。そしておつとめ着を着て、ておどりを皆と一緒に鳴り物を鳴らしてしたい。という思いをこの機会にしっかりと持っていただいて、今度自由にできるようになった時には、それ以前の何倍もの喜びの心を持ってやらせてもらう。これが「節から芽が出る」ということだと思います。そんな風にちょっと考えて、どんな不自由な時でも、その不自由なことからそれまでの自由な時を思い出して、自由な時を感謝して、改めてその不自由を楽しむ、喜ぶということも、人間の成長のためには良いのではないかなと思います。


2.見方を変える
 ここで一つ、私の仕事に関して、非常に面白い話がありますので、少し中身は変えていますけれども、お話をさせてもらいたいと思います。
 その方は高齢の方で、結婚をして子供さんが男の子三人いる。そしてその男の子三人を皆大学出して、一人前にしたところで、その奥さんの親というのが健在で、奥さんの親に言われて離婚させられてしまった、と言うんですね。奥さんの親が厳しく言うものだからやむなく離婚したんだけれども、子供は母親のほうについて、自分だけ一人で家を出て、現在がある。それからもう十数年経つんだけれど、奥さんとは当然離婚したので連絡をとっていないし、子供とも連絡をとらせてくれない。子供に何とか会いたいと思って住所なんかを聞こうとすると、奥さんの親が出てきて、絶対に会ってはいかんと厳しく言うんだ、と。ということで、奥さんの親に対しての損害賠償をしたいという話だったんです。子供を三人大学へやるくらいですから、一所懸命働いて一所懸命子供を教育して、一人前にしたのに、奥さんの親が私たちの幸せを邪魔したんだと、こういう話をされる。
 「でももうお子さんいくつ?」と聞いてみると、もう四十だと言うわけですね。

 「成人していたら住所でもなんでも調べられるじゃないの?」
 「いや、住所が分かっても、電話しても電話にも一切出ない」

 全部向こうの親が邪魔しているんだ、その一点張りなんですね。色々細かい話を聞いた後で、ふとこう思ったので聞いてみました。

 「別れた親であって実の父親であるあなたに、四十過ぎた子供たちが会いたいと思うなら、彼らのお祖父さんがいくら邪魔したところで、簡単にあなたに連絡取れるんじゃないの?あなた、これ結局、子供たちがあなたに会いたくないだけなんじゃないの?」

 と言ったならば、今度は、一緒に相談に来て隣で話を聞いていた彼の後妻さんが、「そうなんです。この間ようやく見つけて長男の所に行ったんですけど、ピンポンを鳴らしてドアを開けて父親の顔を見たら、バタンと長男にドアを閉められた」ということを言う。
 そこで私ははっきり言いました。

 「あなたさ、結局あなたが嫌われているんじゃないの?『自分は子供を愛しているし、子供を一人前に育てたし、今も会いたい。子供も私と会いたいんだけれども、誰かが邪魔しているから会えないんだ』とあなたはそう言うけど、子供はいい大人なんだし、会おうと思えば会える。別にお祖父さんと一緒に暮らしている訳じゃないんだから、会えない理由がない。となると、会えないんじゃなくて、あなたを嫌ってるから『会いたくない』んじゃないの?自分が嫌われていると思ったことはないの?」

 そう聞くと彼は、「そんなことは絶対に無い!」と断言する。

 「じゃあ細かいこと聞くけれど、子供の高校とか大学というのは、あなたが全部選んだんじゃないの?」
 「そうです。子供にとって一番良い学校を選んでやりました」
 「ということは、子供は行きたい学校があったんじゃない?」
 「そうだと思う。しかし、この子にはこの方が良いと思ってやったら、案の定ちゃんと良い学校に入れたんだから、私の方が正しかったし、子供も感謝しているはずです」
 「でも今になってみて、子供からすれば、『俺の人生は全部親父に指示されてきて、自分の自由にならない、親父がいなくなってせいせいした。』なんて思われてないだろうか。それに離婚にしたってそう。親が離婚させたっていうけれど、そんなの奥さんが「嫌だ」と一言言えば済む話。ということは、奥さん自身が離婚したいからしたんじゃないの?離婚するには奥さんの同意が必要ですよ。奥さんは同意して離婚したんじゃないの?」
 「そうです。でも、それは自分の親父に言われたから」
 「そうじゃなくて、奥さんが心からあなたを嫌だと思って離婚したんじゃないの?そういう風に思えないの?」

 と、ずばり言いましたが、あまりピンとこない様子。なので、続けてこう言いました。

 「今までの話、奥さんは親に離婚させられた、子供は会うことを邪魔されている、というのはあなたが思っているだけで、ちょっと見方を変えてみたらどうですか?つまり、奥さんはあなたのことを大っ嫌い。子供三人は、自分の人生は親の言いなりになっていてうんざり。もうあの親父とは会いたくない。親父は大っ嫌い。そういう風に子供が思っている可能性はゼロですか?」
 「ん?・・・ それは・・・あるかもしれない」
 「あるかもしれない、じゃなくて、そっちの可能性が高いと思ったらどうですか?そう考えたら、全て辻褄が合わない?」
 「うーん・・・」
 「今の奥さんとはどういう経緯で結婚したの?」
 「前妻と離婚した後、自分の母親が病気で病んでいた。そしたら近くにいた人が、気の毒だからと言って親の面倒を見てくれた。その女性は親の面倒を見るためだけにうちに来るから、かわいそうになった結婚してやったんだ」

 と、なかなか不思議な話ですが、私は彼に「あ、そう」と軽く答え、今度は隣の後妻さんに聞いてみました。

 「奥さんかわいそうだから、彼に結婚してもらったの?」
 「違います」
 「『違います』と彼に言ったことはあるの?」
 「言ったら怒られます」
 「あなたはなんでこんな訳の分からない男の母親の面倒を見にきたの?」
 「私はある宗教をやっていました。宗教をやっていたら、人間は一生の間に人を助けることをしなきゃいけないということを言われました」

 と言うんですね。
 彼女の宗教というのは、天理教ではありませんが、隣にたまたま一人で暮らしている時にそういう境遇の人がいたから、自分の信仰から助けに行ったんだと言う。それで母親の面倒を見ているうち、お前行く所が無いんなら俺と結婚するか、ということで結婚したんだ、という話をするわけです。

 「あなたさ、この奥さんに感謝とかお礼とかしたことある?」
 「いや、ない。こいつは来たくてやってたんだから」。
 「まさに、あなたの勘違いな考えはそこにある。奥さんからすれば、あなたがかわいそうだからあなたと結婚してやったんだ、と奥さんが思ってるとは考えないんですか?奥さんどう?」

 と聞いたら、隣にいた奥さんは苦笑いをしていました。

 「ほら、奥さんはあなたに対して今の答えを否定しないじゃない。奥さんは仕方ないからあなたと結婚してやったんだという風に思えないの?」
 「うーん」
 「そのあなたの頑固さ、自分中心のところが今のあなたを作っているわけで、ちょっと心を変えて、見方を変えて、私が悪くて離婚された、私が悪くて子供に嫌われている、この妻に対しても本当に私のことを気の毒に思って来てくれたと思ったら、まずここで、奥さんに感謝しなさい、したことないんでしょ?」
 「したことない」
 「感謝しなさいよ」
 「ウーン、する」
 「言葉の上っ面だけじゃなく、心から感謝してください」

 と強く言ったら、そこで初めて仕方なく「ありがとう」と言ったんです。
 そうしたら、彼の顔が変わったんですね。すごく利口そうな人なんですよ。顔がとんがって凛々しくて、もう毅然としていた。それが「ありがとう」と一言言ったならば、顔が変わった。なのでその瞬間に「ほらあなた顔が変わったよ」って言ったんです。そうしたら、今までとんがっていた人が、照れ笑いをしたんです。にやにやっと。奥さんに「こんな顔見たことある?」って聞いたら、「ない」って言うんですよ。
 そこで彼はすべての意味が分かったようでした。
 つまり、彼は「見方を変える」ということをしてこなかった。自分が全部正しいと信じてるから、自分が見えること、自分がやっていることはすべて正しい、と。
 さらに私はこう言いました。

 「あなた、自分がやっていることは、すべて女房のため、すべて子供のため、と思っていたでしょう?家族のために良いことしてやった、と確信しているでしょう?」
 「もちろんです」
 「しかし、それは奥さんにとって迷惑この上ない。子供らにとっても迷惑この上ない、ということは考えたことないの?お前何をやりたい?お前たちは何をしたい?どこへ行きたい?って一度でも聞いたことある?」
 「聞いたことない」
 「つまり、あなたは相手の思いを全部潰してきたわけだ。そこへきて、今現在のあなたの思いが一つも通らないという風に考えたら、今日の結果は当たり前だと思いませんか?私は実は天理教の布教師なんだけれども、そういう風に見方を変えるということ、弁護士として言っているんじゃないよ。これからの人生は、あなた自身の見方を変えてみたらどうですか?」

 という話をしたら、初めてそこで彼は、今隣にいる奥さんに謝って、さらに顔つきまで変わったよって話をしたうえで、損害賠償なんてとんでもないでしょ、ということで、そこで帰られたんですね。ですけれども、さすがに私も気になったので、その人を紹介してくれた人に、後日連絡をしてきいてみました。あれから彼どうなった?と。そうしたら、「彼は今非常に大混乱を起こしている」と言っていました。俺が悪かったんだろうか、とまだくよくよ言っているようです。事務所では納得して帰られたように見えましたが、やはり人間なので、それまでの見方を変えるということは非常にエネルギーのいることなのだと思います。
 それまでの人生の間、何十年もの間、自分が正しいと信じて、周りの人をすべて自分の価値観で動かしてきた人が、その価値観が根っこから崩れ、見方を変えてみたならば、実は全部自分の我が儘でしかなかった。その我が儘の結果が、皆から嫌われ、誰にも大事にされない。後妻に来てくれた奥さんですら、自分のお母さんがかわいそうだから来てあげただけで、自分を愛して来たわけじゃない。そんな現実なのです。だったら、今からでも遅くはない。今から周りの人に心から感謝し、「あなたのお陰だ」ときちんと言葉にして、声に出して、感謝を示していくしかない。そうでないと、彼のこれからの残りの人生、つらいだけのものになってしまいます。


3.声は肥(こえ)
 教祖は、
 「声は肥(こえ)やで」
 とおっしゃる。
 肥というのは肥料のことで、この「声(肥)」は人を育てることができる。でもそれは、相手を育てているようで、実は自分の顔と心が変わってくる、ということなんです。だから言葉というのは、ともかく優しい言葉、感謝をする言葉だけ使うようにすることが大切。
 「切口上は、 おくびにも出すやないで」
 とも、教祖はおっしゃいます。だから、ネガティブな言葉を使うのではなく、ポジティブな言葉を使うことが大切。「それはだめだよ」と言うのではなく、「こうした方が良いよ」という形で言葉を使うようにさせてもらう。
 今回は、「ありがとう」と奥さんに言った瞬間に顔が変わる、言葉一つで顔が変わるという、私自身にとっても非常に珍しい体験をさせてもらいました。言葉には、当然心がついてきます。言葉に真心をこめて出したときには、人間の姿かたちまで変わってくる。それはきっと素敵な人になります。周りから愛される人になります。いつもしかめっ面をしている人からはみんな逃げる。一方で、いつもニコニコ顔の人の所には皆寄って来る。これは、そういう声を出しているから、そういう顔になるということだと思います。そういう声を出すということは、心の中のしかめた思い、優しい思いがそれぞれ声に乗って出てしまうことで、そういう思いが顔に映る、姿に映る。行動に映る。果ては人生にまで映ってくる。これが、教祖がおっしゃっている「声は肥やで」ということの意味なのかなとふと思いました。
 そんなことから、せっかく我々はこういう教えを聞いているんだから、一つでも二つでもそれを身に着けて、決して否定的な、マイナスな、ネガティブな言葉を言わないで、同じ注意をするのでも「こうしたらいいよ」という相手が伸びやすいような言い方をさせてもらう。そして常に「ありがとう」という言葉を忘れない。常に感謝の思いを持つということを忘れない。そこが肝要だと思います。


4.言葉で喜ばせる
 あともう一つのケース。離婚の裁判で、どうしても子供と面会したいんだけれども、お母さんのところについている子供が、面会を嫌だと言うんですね。とはいえ、子供のためには父親に会わせるということは大事なことですから、私が裁判所に頼み込んで、家庭裁判所の面会室でもいいから父親に会わせてやってくれ、ということで、試しに面接を行うこと、これを試行面接と言うんですけど、それを無理やりやってもらいました。
 当日、面会室に子供が来て、お父さんと子供だけにして、こっちはマジックミラーで窓の外から見ている。そうしたら、子供がおもちゃで色んな建物を作るんです。屋根を作ってみた子供に、父親が、「屋根のこの格好、なんて言うか知ってる?」ってたずねたんです。そうしたら、小学校の二年生か三年生の子供が、「二等辺三角形!」と正しく言うんです。それを聞いた父親は一言、「うん、そうだね」。そしてそこから子供が父親に何か言っても、同じように「そうだね」と答えるだけ。
 私はそれを見て。思わず面会を終えて出てきた父親を叱り飛ばしたんです。

 「なんであなたは子供を褒めないのか!小学校低学年の子供が『二等辺三角形』って答えたなら、『すごい!頭いいね!なんでそんな事知ってるんだ!』ってなんで褒めない?」

 そういう風に、子供に褒めてない。言葉は悪いかもしれませんが、子供をおだてない。子供を喜ばせない。そういう生活でずっと来たから、子供にとってみたら別に父親なんて会いたくないんですよね。お母さんと居れば十分と。せっかく子供に会えたのに、その子供を喜ばせることをしない。「喜ばせる」というのは、ともすれば口先だけといわれてしまうこともあるかもしれませんが、口先でも喜ばせることができるなら遥かにまし。口先ですら喜ばせることができない人がその父親だったのです。

 今までお話ししてきましたように、「声は肥やで」と教祖がおっしゃるんだから、我々は口先だけではなく、言葉に真心を添えて相手を喜ばせること。そして、こちらが本当に喜んで感謝して嬉しいんだという思いを、言葉にしてきちんと相手に伝えること。たったそれだけのことを日常やるだけで、人間関係がとても上手くいく。本日お話しした二組の親子を見ても、親が子供に対して喜ぶ声を一切かけていなかった。それによって、いざとなった時に、子供は親になんて会いたくない、とこうなるわけです。
 信仰というものは、日常生活のどんな所にでも活かすことができます。みなさんはこれまで信仰をしてきた中で、日常生活に活かすことのできる話、言葉をいろいろと聞いきていることでしょうけれど、「あれは信仰の世界。教会だけの世界」としてしまうのはあまりにもったいない。どうか皆さん、これまでに聞いてきた信仰の話、言葉を、自分の日常生活に一つでも多く活かしていっていただきたい。

 本日は、見方を変えるということと、「肥」である言葉の大切さについてお話させていただきました。特に後者については、ぜひこの一か月間、みなさんの身に行っていっていただきたい。「声は肥(こえ)やで」とおっしゃる教祖の優しい声、相手を喜ばす声、自分が嬉しいという気持ちを相手に素直に伝える心、言葉。信仰は実行・実践です。月次祭で聞いた話、言葉を実践していただいて、一か月ごとに人間としてのグレードが上がっていかなければ、信仰している意味がありません。そういうことで共々暮らしていきたいと思います。
 まだこの暑さは続くようですけれども、みなさまお体には十分に気を付けていただきたいと思います。来月は秋の大祭ですので、何とかみなさまとお会いできるよう、私も神様にお願いしていますけれども、それぞれ心を作らせていただきたいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2020年10月19日

2020年(立教183年)8月月次祭神殿講話 ~「元」と「原因」について~

 ただいまは、8月の月次祭を賑やかにおつとめいただきました。
 コロナ禍の中、それぞれのご自宅でおつとめしてくださっている方も、車でおいでになった方もいます。また、少年会も夏休みで参加をしてくれました。神様には皆さんの真心をお受け取りいただいているのではないかと思います。それでは、しばらくの間お付き合いください。

1.はじめに
 本日も含め、ここ最近は40度近い尋常ではない暑さが続いております。また何よりも、新型コロナウイルスというものの感染力の強さも、当初は暑くなれば収まるだろうなんてのんきなことを言っていましたが、むしろ暑くなって寒い時よりも猛威を振るっているような様を見るとですね、昔の方たちが天然痘やコレラといった色々な疫病に苦しんでこられたことを改めて思い出すいい機会になったのではと思います。
 もちろん、今この40度にもなる高温も、あるいは新型コロナウイルスというのも、なぜ病気にかかるかというのも全部仕組みは分かっています。仕組みは常に分かっている。これは言葉で言えば「原因は分かっている」。ウイルスによるもの、太平洋高気圧によるもの、といって原因は分かっている。しかし、神様のお話では、

「元を知りたるものはない」

というお話があり、みかぐらうたにも、

「よろづよのせかい一れつみはらせど むねのわかりたものはない しらぬがむりでハないわいな このたびはかみがおもてへあらハれて なにかいさいをとききかす」

と、こういうお話があります。つまり、我々は原因は分かるけれども、「元」が分かっていないのではないかなということで、ちょっとこのことについて今月はお話をさせていただきたいと思います。

2.知恵の仕込み
 ある大学病院の教授をしているお医者さんと食事をしている時に、実は数日後に仏教のある宗派の主催で臓器移植についての対談をするんだ、と言われました。「誰とするんですか?」と聞いたらば、宗教学者、皆さんも知っているような非常に有名なS先生と対談をするということを聞きました。私も天理やまと文化会議という所で臓器移植の教理的な研究をしていましたから、すぐピンときました。おそらくその宗教学者の方は「臓器移植というのは神様、仏様の摂理に反して許されないこと。それを人間が勝手に臓器のやりとりをしている」というようなことをきっと言うに違いない。ということで、私は天理教の元始まりの話をもとにしてこういう風にお話したらいいですよ、とその先生にお話をしました。
 元始まりの話を皆さんちょっと思い出して欲しいんですけれども、この親神様は、人間を作った時に、色々な道具を集めて人間を作った。人間を作ってから、九億九万年は水中の住まい、六千年は知恵の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込みと教えられました。この文字の仕込みというのは学問です。その学問が短くて三千九百九十九年。それよりも知恵の仕込みというのが六千年もある。これをですね、話したらどうかとお話をさせてもらいました。
 つまり、神様は文字の仕込みということで、、臓器移植をすることも含め、すべて神様が与えてくださった人間に対する能力であり、学問なのです。ただ、その能力•学問を使って、臓器移植をするかしないかということについては、正に人間の考え方ひとつである。つまり、臓器移植を研究すること自体は、神様から人間に許された能力•学問なんだ、そして、それを使うかどうかは知恵なのだということをお話しされたらどうでしょうかとお伝えしました。
 そうしましたところ、数日後にその先生から連絡がありまして、その先生は非常に喜んで「勝った勝った」と言っておりました。まあ、勝った負けたの議論ではないと思うんですけれども、とても喜んでいました。理由を聞きましたら、やはり私が想像したように、宗教学者というのは「臓器移植なんていうのは非常におぞましい、嫌なこと」だと。そんなことを医者が研究しているということでお医者さんを倫理的に批判をするつもりで来たらしい、と。ところが、神が人間に臓器移植をするという研究の知恵を与えてくださったんだということで神様を持ち出したらば、その宗教学者は何にも言えなくなっちゃってね、ということで非常に喜んでいました。
 繰り返しますが、これは決して勝ち負けの話ではありません。けれども、そんな学者同士の話であっても、この元始まりのお話、元の理というのはしっかりとした真理でありますから、決してぶれることはない。

3.原因はわかっている
 そんなことから考えますと、新型コロナウイルスというものについて、どうしてこれがこんなに強いのか、あるいはどうしたらこれを撲滅できるのかという研究を世界中の学者・お医者さんがしています。これは学問の世界の話。皆が病気にかかるのはこのウイルス。しかもこのウイルスは今までと違った新しい型のウイルス。だからこのウイルスを止める薬はまだない。このウイルスを止めるにはどうしたらいいのか、またこれにかからないためにはこのウイルスからワクチンを作らねばならない。と、これは正に学問の世界ですね。だから原因が分かっている。原因が分かるというのは顕微鏡で調べれば分かる。この猛烈な高温もそうです。なぜかというと、地球の温暖化から始まって、海水温が高くなって、そこに高気圧が張り出してきて、こういう猛烈な高温になる。これも原因は分かっているわけです。だから人間はその原因を突き止めて治そうとする。実は、普通の人のやることはそこまでなんです。
 私たちは、神様を信仰しています。信仰しているということは、原因は学問の力で分かる、しかしその学問の前に知恵がある。つまり、神様はなんでこんな厄介なウイルスを私ども人間に与えたのだろうか、あるいは何でこんな高温を人間に与えたのだろうか。これの思案が、我々が信じている信仰の「元は何か」ということを思案することなんです。ついつい人間は、原因さえ分かれば、原因さえ止めればもうそれで治ったと思う。しかしそれでは実は全く変わらないのです。

4.「元」を理解する
 私の母である前会長から、以前こういうことを言われたことがありました。私が病気になって病院に行って、薬をもらって飲んで、病院に何日か通って、仕事を休んで、治った治ったと喜んでいました。そうしましたら前会長から一言、「お前それじゃ病み損だぞ」という。病み損とはなんだ、病気に損も得もあるのかとその時は思いましたけども、よくよく考えてみたならば、病気というのは神様が私の心をなおすために送ってくださったメッセージ、手紙なんですね。そうすると、私が先ほど申し上げた、風邪をひいた、あるいは私は喘息持ちですから喘息になった、ということに関して、薬をもらって治ったということは、これは原因が分かったからその原因をなおしただけ。しかし、その元である神様は何で私に喘息を与えたか、何で私に風邪をひかせたか、これを理解しないと、「他の人は病気をしない人もいるのに、お前は病院に行き薬にお金を使い、それで治った治ったと喜んだら、やらない人もいるんだから、変わらない人もいるんだから、お前は病み損だぞ」と、こういう意味なんですね。
 つまり、病気になった時にその自分がなぜ病気になったのか、なぜ手引きを神様からいただいたのかということを考えて自分の心をなおす、それが「心の成人」とこの教えでは言われます。その「元」、原因ではなく神様の思し召しというものを理解することで、一つ人間の人格が上がるのです。そうしないと、お金も時間も使って病院に行っているのに、また少し経つと元どおりの病気にかかってしまうでしょう。これでは病み損だぞ、という意味だったのだなということがやっと分かりました。
 そのように考えますと、今回のコロナにしても、高温にしても、これらの原因はみな分かっている。しかし、その元になるところで、なぜ神様は私たちにこんなコロナだとか高温だとかをくださったのだろうか、ということを考えなければいけない。これが「元」ですね。

5.わが身中心の考え
 これはもう以前に何度か詳しく申しあげたので、本日は簡単に申しあげますけども、コロナというのは、神様が

「なさけないとのよにしやんしたとても人をたすける心ないので」
(第十二号九十)

ということで手引きとしてくださったということがおふでさきにあります。つまり、コロナというのは人間が今や世界中、特にひどいのが大国と言われているアメリカとか、自分中心でやっているブラジルとかひどい状態になっている。日本も今ひどくなりつつあります。これは何かというと、神様から見ると自分中心、自分の国だけさえ良ければいい、あるいは自分の家だけさえ良ければいい、自分さえ良ければ、他の人が罹ったって自分さえ罹らなければよい、と言って自分だけガードしていても、周りがどんどん罹ってきたら、そういう訳にはいきません。
 つまり、その時に人を助ける心、神様が人を助ける心を持てよ、ということでこのコロナを人間に与えたのだということが、おふでさきに書いてあります。
 コロナとは書いてありませんけども、

「やまいとゆうてさらになし」
(第三号百三十八)

という言葉で言われています。
 我々は今、コロナをいただいたということは、人を助ける心が皆乏しくなっているんじゃないのかということを神様から言われている。それにこの高温です。高温も太平洋高気圧、あるいは水温が上がった、という原因は分かっています。なぜ上がったのかというと、これは皆が勝手なことをやって、勝手に便利で電気をいっぱい使い、あるいはポリ袋をいっぱい使い、そしてそれを燃やし、石炭、石油、ガス、そういうものを燃やしてどんどんどんどん地球を暖かくしている。それによって水温が上がって気温が上がってきてそれでこういう猛烈な温暖化、あるいは猛烈な台風、猛烈な大雨、というのをもらっている。

6.神のからだ

「だん/\となに事にてもこのよふわ神のからだやしやんしてみよ」
(第三号四十)

というおふでさきがあります。この身体は神様の身体なんだ、よく思案しろ、と。この地球は神様の身体、我々は神様の身体をお借りして生活している。そうすると、その神様の身体をお借りして生活しているということの有難さ、謙虚さ、それらを忘れてついつい便利なことに走る。自分中心に物事を考える。地球の環境を汚す。これはもう簡単です。日常で使った油をそのまま流してしまったら、下水が汚れ環境が悪化します。その他食べ物でもなんでもそう。あるいは包装紙、いっぱいあるものをどんどんゴミでぽんぽん捨てる。これも全て環境を悪化させます。そうすると、それは神様の身体を汚しているのと同じだよと。それで今、この暑さが返ってきてる訳ですね。神様からの手紙をいただいている。そうすると我々は、太平洋の高気圧の勢力が強まったとか、水温が上がったとかで考えるのではなく、神様がなぜこんな過去に人類が経験したことが無いような暑さをくださるのかということを考えなくてはいけない。暑いのは氷でしのげたからよかった、クーラーでしのげたからよかった、というのでは、先ほどの病み損と全く同じです。お金をかけてクーラーや冷蔵庫をいくら使ったって、それではなにも解決しません。同じことの繰り返し。心をなおすこと。この環境を、神様の身体を汚さない、環境にとってよいことを、自分だけでもひとつ考えて、実行して、何かを良くしていく。そういうことを考えなければいけません。

7.微力でも無力ではない
 先日、テレビでこういうことを言っている方がいました。一人ひとりが何かをすることは微力である。わずかな力である。しかし無力ではない、力が無いわけではない。正に神様は、一人ひとりの心をなおすことを求めておられるんだろうと思います。
 コロナだとか、経験したことの無い高温、大水、台風、これらについては人間一人ひとりが心をもう一度、神様からお借りしているこの地球に住まわせてもらっているのだという感謝や謙虚さを思い出し、なんとか収めていただく。そして、自分自身が神様から借りている身体を、困っている人に対して思いやりをささげる、祈りをささげるという形で尽くしていく。こういうことを、一人ひとりは小さく見える我々人間ですけれども、皆が集まってやるととても大きなことになる。
 神様は、人間一人ひとりの力を、心を見ています。せめてこの教えを信じている我々から、心を作って他の人のためにやらせていただくということを考えて、「ここまで人間が分かればいいか」ということで神様に災いを収めていただけるようにしていきたいと思います。
 この大変な中、ご参拝いただいた皆様、本当に神様お喜びだろうと思います。ただ、このお借りしている身体を大事にするということも私たちの大切な役目です。どうか身体を大事にしながら、周りにいる方々への力となるよう、一つでもいいから手助けをするということを、これからの一ヶ月かけてやっていきたいと思います。

 今月もありがとうございました。来月もまたお元気でお過ごしください。
2020年08月30日

2020年(立教183年)7月中元祭神殿講話 ~世界への手引き~

1.はじめに
 ただ今は、7月中元祭を賑やかにおつとめいただきました。しばらくの間お話をさせていただきますので、お付き合いをお願いいたします。

 4月以来、新型コロナウイルスのおかげで、信者の皆さんと一緒での月次祭をつとめられませんでした。東京はまだかなりの感染者が出ておりますけれども、国の方針でもあるんでしょうか、活動自粛まで求められていないということもありまして、今月から、来られる方は来ていただいて結構ですということで、教会でも感染予防策を取らせていただきつつ、つとめさせていただきました。まだ少人数ではありますが、それでも先月まで私一人で踊らせていただいたのと違って、本当に心が陽気になってきました。おつとめというのは、本当に陽気にさせてくださるんだ、つまり心がいずんでいたならば、辛い思いがしていたならば、その時はしっかりとおつとめをさせてもらう。神様はそういう陽気に成る方法を教えてくださったのだと思います。

2.生活が変わる
 これまでに何度か、会長からの手紙でも祭典講話でもお話をさせてもらいましたが、この新型コロナウイルスというのは、やはり歴史的にみても大変な出来事であろうかと思います。今まで、教会長のかたわらでやらせていただいている弁護士という私の仕事もですね、もう40年を超えますけれども、こういう流行りの病で、裁判の期日が全部取り消されるなんていうことは初めてでした。そのおかげで時間もできましたし、また普段考えたことのないようなことなども色々考えることができまして、そういう意味で私にとっては有り難い時間だと思わせてもらいました。
 おそらく、この新型コロナウイルスに対しては、今後薬やワクチンができたりして、生命の心配はなくなっていくのだと思いますが、この間に我々が変えてきた生活様式は、新型コロナウイルスを克服した後であっても続いていくのではないかと思います。ここ数ヶ月の間でも、私のところへ何件かのお葬式の連絡が入りましたけれども、すべて参列はご遠慮くださいということでしたので、参列していません。あと、人との付き合い方も全く変わってきまして、不用意に人と会ってお話をすることはダメなこと、悪いことだというような感じになってきました。今後薬やワクチンができても、こういう考え方はずっと続いていくのではないかと思います。
 人間というのは、もう字を見ても分かるように、「人の間」ということ。生物である「人」というのが皆つながって、人間という社会を作っているわけですけれども、その言葉が無くなるかのような人間のあり方というのは、一体どうしたことなのだろうか。この機会に、人間の大本である神様が、なぜこういう新型コロナというものを人間世界に出されたのかということを、しっかりと理解しなければいけないと思います。

3.わがみうらみ
 もちろん新型コロナに罹った方も大変なのですが、一方で九州では、この一週間で、70人前後の多くの方が、豪雨によって命を落とされた。台風でもない、いわば普通の雨でそのような大惨事が起きている。「雨降るも神、降らぬも神」というお言葉もありますので、それも全て神様の起こされたこと、思召しによって起きたことだということを私たちはあらためて肝に銘じなければいけない。これをただ地方で起きた大災害として、東京の人は運が良かったなあ、また運良く新型コロナに罹らなくて良かったなあ、ということで終わってしまう。これでは、神様の思いが伝わった、我々が受け取った、ということにはなりません。

 今日、おてふりの中で、十下り目の七ツ、
「なんぎするのもこころから わがみうらみであるほどに」
とありました。ここは私の好きなおてふりの一つなんですが、「なんぎするのもこころから」、「わがみうらみ」というのは、この指を「わがみうらみであるほどに」と自分に指すのです。
 コロナ禍にしても、「夜の街が悪い、若い奴がウロチョロしているから感染が拡がるのだ」と、皆人差し指で相手を指している。そうではなくて、「なんぎ」、私たちもそういう病気やウイルスが流行ってきたことによって難儀している。それは「なんぎするのもこころから」、なので、全部我が身恨みであるぞと神様は仰って下さっている。
 そして八ツ、
「やまひはつらいものなれど もとをしりたるものハない」
 新型コロナというのは辛いだろうけれども、その元を知った者がいない。
 九ツ、
「このたびまでハいちれつに やまひのもとハしれなんだ」
 皆一列、世界中は、この病の元は知らなかったろう。
 十ド、
「このたびあらはれた やまひのもとハこころから」
ですね。これもいつも申しあげておりますが、「病は気から」というのとは違います。「気合だー!」というのも違います。「こころ」というのは心遣いです。そもそも、神様の思いは何かといったら、人間というものを作って、人間が陽気ぐらしをするのを見て、神も共に楽しみたい、という目的で人間を作られた。共に楽しむ、人間が仲良く陽気ぐらしをする、ということを目的で作ったのに、実際は陽気ぐらしから離れているじゃないかと。
 今、世界を見渡せば、大国といわれる国々身勝手なことを散々やっています。この国も同じ。この国の上に立つ人たちは、自分勝手なことをやって、法律を曲げてまでも自分の思いを通して恥じることもない。そういうことは神様から見たら、とてもとてもこれは黙って見ていられない。黙って見ていられないというのは、このまま放っておいたならば、もっとひどくなるということなんです。

4.世界への手引き
 神様は、身上貸しもの借りもの、我々の身体は神様が貸したものだ、人間にとっては借りものだ。心ひとつが我がのもの、自分のもの、心ひとつは使ってよろしい。神様は、心を自由に使ってよいと仰ってくださった。その使い道を許された心をですね、皆で仲良くしようよ、平和になろうよ、幸せになろうよという使い方をするはずだったものが、いつの間にか自分たちだけ助かればよい、特定の人だけを法律を変えて、他の人は全部定年が決まっているのに定年をその人だけ延ばしてしまおう。あるいは特定の人だけ税金を使って、総理大臣の好きな人だけ集めてお花見をやろう。総理大臣と仲のよい人だけに特別に国からの補助金を出してあげよう。こういうことをやっているから、どんどんどんどん国がおかしくなって、それを見て、上があんなことやっているんだから、我々も自分中心でやろうよ、ということで、言ったもの勝ち、やったもの勝ちということで国全体がどんどんどんどんおかしくなってきている。
 日本だけではなく、アメリカでもそうです。中国でもそうです。ブラジルでもそうです。また中近東でも、イラン、イラク、トルコでもそうです。そういう風に、世界中皆自分中心で物事を考えている。そんなことは神様から見たらとても耐えられないことなので、ちょっとお前たち今まで色々な手引きをしたけれども、手引きを分かっていないんじゃないかということで、少し厳しい、世界中への手引きをしてくださったのではないかと思います。
 そんなことを考えながら、あらためてこの身体を神様は一体何のために貸してくださったのかということを省みてみると、やはりこの身体は全て神様からの借りものなのだ、というところに行き着くわけです。

5.明治20年1月13日のおさしづ
 そこで、皆さんもよくご存知の、おそらくおさしづの中で一番有名であろうというおさしづです。教祖伝の320ページを見てください。これは、教祖はつとめを急き込まれた。つとめというのは世界が平和になる、人間が陽気ぐらしをするようになる。そういう一番大事なおつとめをしろと言っているのに、おつとめができない。国の法律・命令が怖いから、教祖の身が心配なのでおつとめができませんと側近の方たちが言った時、明治20年、教祖が間もなく身を隠される直前にあったおさしづです。
「さあ/\月日がありてこの世界あり、世界ありてそれ/\あり、それ/\ありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで。」
とのおさしづでした。ただ、この後に続く教祖伝の解説で、私は違うんだろうと思っていることがありますので、ここで申しあげます。
 この解説では、まず神様がおわして、この世界、宇宙が生まれた。宇宙があってそこから世界があって、それから国があって、そこに人間がいて、法律を作った、とこういう風に解釈をしていますが、これは私は違うと考えています。というのは、元始まりのことを考えれば分かると思いますけれども、神様は九億九万九千九百九十九という全てのどじょうを人間の魂として使おうとして、その全てのどじょうを食べられた。これを人間の魂にする。そして九億九万年の昔からずっと私どもの魂は生き続けているのです。そこに身体を貸してくださる。だから身上貸しもの借りもの、というわけですね。それぞれの身上を貸してくださる。そして、その貸してくださった身上で陽気ぐらしをし、陽気ぐらしできれば、百十五歳まで生きられる。そこから先は心次第に生きよ、という風に仰っているんですけども、なかなかそこまでいかないときには、身上をお返しして、生き通しの魂でまた新しい身体を借りて帰ってくるというのがこの出直しの教理、身上貸しもの借りものなんですけども、その観点からこのおさしづを解釈すると、非常に分かりやすいのです。
 さあさあ月日、神様があってこの宇宙、世界がある。この宇宙、世界があって、それぞれ魂がある。人間の魂がある。そしてその魂があってそこに身の内、身体を貸してくださる。そして、この身体を借りた人間たちが生きやすいように自分たちで律、法律を作った。だから法律があっても神様から借りたという心定めが大事なんだぞ、と。こういう風に、それぞれというのはですね、国ではなくて、それぞれの、私たちの一人一人の魂と考えたらもっと分かりやすいと思います。
 宇宙を作って、この地球を作って、その地球を作った上で陸を作って下さった。一方、それで神様はどじょうを全部食べて、それぞれの魂を作ってくださった。人間はその魂に身の内、身体を借りているのです。そういう風に考えれば、法律なんていうのは、魂に乗っかった身体ができた人間が、その身体がある時だけのために作ったものであることがわかります。だからこそ、いくら法律を作っても心定めが第一だぞ、と仰っているのです。
 これは、国の法律に従わなくてもよいなんていう意味のつまらない言葉ではありません。人間が定めた約束事はあるとしても、それはその時を生きる魂を持った人間が暮らしやすいように定めたものであって、長い歴史の中でみれば、その時に生きる人間たちの勝手な約束事ともいえる。そんな頼りない、うつろうものよりも、どんなに時間が経っても、時代が変わっても、この魂をお作りくださった神様の元なる思いをふまえ、陽気ぐらしをするために我々人間が神様と交わす心定め、これこそが何よりも大切なものであり、第一として考えなければいけないもの。そういう意味の言葉なのです。
 ただ、このことは、私たちの身体は滅びても、魂は生き通しであり、新しい身体をもって出直してくるのである、という出直しの教理、身上貸しもの借りものという確信があってはじめてしっかりと心におさまる、そういうことであろうと思います。
 身近な方が、愛している方が出直される。悲しい、辛いことです。しかし、今ここにいる私たちも、身上を返さなくてはいけない。しかし、その身上は返しても、魂は生き通しです。九億九万年前からずっと生き続けてる。その魂に、その時代時代に身の内、身体を貸してくださった。だから今、この借りているこの時代、私は羽成守という名前を付けてもらって身体を借りている。この身体はいつか返さなくてはいけない。だとしたら、今この借りている、皆さんが今元気で借りているこの身体を神様の思い通りに使わないといけない。神様の思い通りとは何かと言ったら、助け合いをするということです。陽気ぐらしをするということです。自分中心では決していけない。

6.天理教災害救援ひのきしん隊
 今回の九州の豪雨災害でも、多くのボランティアの方が出ています。天理教でも災救隊(災害救援ひのきしん隊)という、日本でトップクラスと言われていますけれども、災害発生時には常に出動しています。あの方たちは、教会本部から、全てのテント、お風呂、トイレなど、生活するために必要なものは全部持って行って、現地では一切世話にならない。重機まで持って行ってそこで復興のお手伝いをさせてもらう自己完結型といわれています。天理教ということは決して表に出さず、コツコツとやって、仕事が終わったならば、さっと自分たちのテントに戻ってきてそこで休んで、また翌日出て行く。このことは、宗教団体の救助隊ということもあってか、基本報道されませんけれども、災救隊が赴いた地域からは、教会本部に多くの方が御礼に訪れているとのことです。よく週刊誌で宗教団体ランキングみたいな特集記事を組んでいることがありますが、天理教の災救隊活動を指して、一切宣伝をしない、現地の世話にならない、やった成果を誇示しない、ということで褒められているようなものもありました。
 ただ、いつも申しあげていますが、人を助ける、人を手助けすることに御礼を言われてはいけません。これは大切なことです。人を助けることは、神様に今、この大事な身体を借りていることに対する御礼ですから。神様に対する御礼として人様を助けさせてもらっているのだから、その人から御礼を言われてはいけません。この意識がなければ、人助けの意味が変わってしまいます。
 だから、一番素晴らしいのは、人の見ていない陰で人様のために祈ったり、陰で人様の役に立つことをする。今この世の中は、これだけやりました、あれだけやりました、と誇らしげに言うのがいるけれども、少なくとも私たち信仰者は、人の見えない所で誰かのために何か一つ良いことをしましょう。

7.他人のために祈る
 「世界だすけ」という言葉がありますが、この「世界」というのは、地球の国々すべて、という意味だけではありません。自分以外はすべて「世界」です。皆さんのお子さんも自分からすれば世界。奥さんも世界。孫も子供も全部世界。ということは、自分の子供のために、奥さんのために、楽になれるよう陰でちょっと何か手助けしてあげること。これも「世界だすけ」です。そして子供のため、奥さんのため、親のため、孫のために神様にどうか助けてください、家族を助けてくださいとお願いをするのも、これも「世界だすけ」です。そういう思いで皆一人ひとりがいてくれたら、これが陽気ぐらしへの確かな筋道となります。難しいことは何もありません。自分の思いで自分の周囲の人に対して祈る、願う。また今新型コロナに罹って病んでいる人、あるいは災害で大変な苦しみをしている人に対して、一日も早く楽になれるようにと祈ること。
 そして、具体的にできるとすれば、例えば私は災害救援ひのきしん隊への寄付をしていますけれども、そういうわずかなことであっても、その思いで人様に助かってもらうようにする。これがおさしづの「それ/\ありて身の内あり」、つまり神様から借りている身の内、それに対して神様が手引きをくれたのがこの十下りの「やまひはつらいものなれど もとをしりたるものハない」ということです。コロナ禍も水害も、神様の思いに背く人間の姿が、神様からすると見ていられない、という手引きであると考える。おふでさきに、
「このはなし ほかの事でわないほとに 神一ぢよでこれわが事」(第一号五十)
とありますように、自分たちには幸い来なかったとしても、全ての話は他人事ではない、全部自分の事として、自分が水害に遭った、自分が新型コロナに罹った、自分が大変な目にあったと思って、その人たちのために祈る。これこそが信仰をしているという意味です。
 自分は信仰をしていて助かったから有難い。そんなものは信仰ではありません。常に自分の幸せに感謝し、その感謝の思いを病んでいる人、苦しんでいる人たちに対する思いに変えていくという信仰の要点を、この7月に入ってからの色々な出来事であらためて考えさせられました。この思いを皆さんと共有し、これからの一か月、お暮しいただけたらよろしいかと思います。

 今月は暑い中、ご参拝の方は本当にお勇み様でした。また、YouTubeでご覧いただいている方も、どうかご無理なさらず、来月皆さんがまたご参拝いただけることを毎日祈っております。
 どうぞお身体お大事に、元気にお暮しください。今月はどうもありがとうございました。

2020年07月29日

2020年(立教183年)6月月次祭神殿講話 ~神の使い良い道具~

1.はじめに
 ただいまから、6月の日帝分教会月次祭の神殿講話をさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。
 今月も教会在勤者のみで勤めさせていただきました。
 本部では、今月はまだ全国からの参拝は自粛していただきたいということですし、東京都も本日、東京アラートが解除されたということですが、今月いっぱいはこのような形で行かせていただくこととしました。来月からはなんとか通常の形になっていければなぁと祈っております。
 ちなみに、栃木県はかなり前から警戒が解除されていますので、中根大教会の今月14日の月次祭は、勤め人衆だけで、おつとめをさせてもらうという通知が来ました。私も行かせてもらいます。そういう中ではありますが、明らかに数字的にはおさまってきておりますので、皆さんが心を作っているということへの一つの神様からのご褒美だろうと思います。

2.画面を通じてのやり取り
 私もそうですけども、今回のこのコロナ禍によって、生活がだいぶ変わってきました。
 夜の会合は無くなりましたので、ほとんど家で夕飯を食べるというような生活になりました。また、混雑する所には極力行かないということで、お互いが距離をとって、電車でもどこでも密集を避けるようにする。さらには、大きな声で話さない。今日のおつとめでは地方がフェイスシールドというのを着けてやっていましたが、唾で人に感染するということなので、必要なことかと思います。
 そんなことで、人のためにマスクをする、大きな声で話さない、ということですから、もしかしたらこれからは、そこかしこで皆が集まって大いに話をする、ということが無くなってくるかもしれない。対面での話し合いは極力避けるべきということですから、今日もYouTubeで月次祭の様子を配信しましたが、このようなテレビやパソコンの画面を通じてのやり取りが、今後のコミュニケーションの主役になっていくというような話なのだと思います。
 そうしますと、信仰の世界についても、かなり大きな変化が出てくるのではないかと思います。例えば月次祭。天理教の月次祭は、皆さんが教会に集まり、それまでの一ヶ月の間にあったことを全部神様にお話をして、大きな声で唱和して勤めさせてもらう。あるいはお寺でも同じように皆が集まってお経を聞く、大きな声であげる。キリスト教の教会であれば皆が教会に集まって讃美歌を歌う。というようなことが、これからはなかなか難しくなる、やりにくくなるということだと思います。

3.心に信仰を持つ
 一方で、この機会に考えさせられることもあります。例えば、私も毎月26日はおぢばへ帰って、本部神殿に座って大きな声で唱和させていただいて、それで実は満足してしまっていて、もうこれで信仰しているんだというふうな思いになっていることもあります。同じように、仏教でもお経を読んだだけで信仰しているつもりになっているかもしれない。キリスト教でも讃美歌を歌ってるだけで信仰しているつもりになっているかもしれない。
 しかし、それらはあくまでも形であって、信仰の核心はそうではないということは皆さんもよくお分かりかと思います。皆が集まらなくても、大きな月次祭とか色々な宗教行事ができなくても、それだから信仰していないことにはなりません。
 今回のコロナ禍は、一人ひとりが、しっかりと心に信仰を持つということはどういうことなのかについて考え直す、一つのきっかけになるかもしれません。

4.談じ合い
 これまでの日帝分教会を考えても、皆さん集まっておつとめをする。おつとめをした後は直会でそれまでの一ヶ月間でたまった色々なことを話して、皆さんすっきりしてお帰りになっていただくことで、また一ヶ月頑張れる。そういうことができなくなるのは残念、とも思いますけれども、ここは実はよくよく考えなければいけない。
 なぜなら、教会という所は、本来世間話をする所ではないのです。あくまでも、お道の話をする所。神様の話をする所。ということで、実はこのことについても神様におさしづがあります。神様のお話をすることを「談じ合い」と言います。おしゃべりではなく「談じ合い」。そのことを示したおさしづがあります。

「さあ/\皆んな/\/\談示々々が肝心やで。」(明治21・11・11)

「皆々談じ合うてすれば、どんな事でも出来て来る。」(明治27・6・29)

 皆が談じ合うてする、何かをする時には皆が談じ合って「今度はこうさせてもらおう」という思いですれば、どんなことでも出来てくる、というそんなおさしづであります。
 神様のお話の談じ合いですから、この日帝分教会を振り返っても、月次祭が終わった後とか、あるいは月に一回やっている教理勉強会など、そういう機会にしっかりと神様の話を談じ合う。そのためには教理をしっかりと勉強しなければいけない。皆さんが教会に集まることのできる貴重な機会を、世間話だけで費やすのではもったいない。神様のお話をさせていただき、お互いがしっかりと信仰を談じ合う。こういうようなことをこれからは強く意識していかなければいけないと思います。

5.神の思い
 そしてまた一方で、コロナという、人間が出直したり、大変な苦しみをしたり、というようなことを神様がしているんだとしたら、なぜ神様はそんなことするんだ、ということを思う方がいるかもしれません。
 以前からお話しているように、親神様は人間の心遣いの過ちに対して「手引き」を与えてくださって、心の向きを正しい方にしてくださいますが、それについて「なんで神様がこんなことするんだ」ということについても、実はぴたっとしたおさしづがありました。

「さあ/\神さん/\と思うやろう。神は何にも身を痛めはせんで。さあ/\めん/\心から痛むのやで。」(明治21・9・18)

「神は救けたいが一条の心。」(明治21・9月頃

というおさしづがある。

 神様神様、どうしてこんなことをするのでしょう?と思うであろう。神は身体を痛めはしない。めんめん(一人ひとり)の人間の心づかいが間違っているから、知らせているのだぞ。人間の心づかいから痛みが出てくるんだ、と。神は人間を救けたいという、ただそのことひとすじ、そのことだけの心でおられる。だから、必要な手引きはするけれども、決して人間を痛めつけたいと思ってやっているのではないのだ。こういう意味のおさしづです。
 「神がいるんなら、なんでこんなことを神がやるのだ」という率直な人間の心情に対し、分かりやすいおさしづを出してくださっているのです。
 新型コロナウイルスですら、これは神様が出したものであるけれども、心さえしっかりしている人、神から見て手引きする必要のない人にとっては、コロナウイルスでその人の身体を痛めることはない。自分の心をきちんと澄ましておれば、すなわち、人を助ける心を持っていれば、新型コロナウイルスというものを恐れることはないのだという、こういう一人ひとりに対してのおさしづです。

6.神の使い良い道具
 一方で、今回のこのコロナ騒動の中で世界の国々を見てみますと、いくつもの大きな国が、自分の国さえ良ければ他はどうでもいいということを言い出しています。皆、自分の国さえ良ければいいという、これはもうほこりまみれの姿そのもの。神様から見たら、こんなほこりまみれの姿は見ていられない。そこで神様は掃除をされるのです。   
 おさしづに

「さあ掃除や。箒が要るで。沢山要るで。使うてみて使い良いはいつまでも使うで。使うてみて使い勝手の悪いのは、一度切りやで。隅から隅まですっきり掃除や。」(明治20・3・15)

とあります。
 さあよごれ切った世界を掃除する。掃除するから箒が要る。箒というのは掃除の道具です。人間のことを指しています。掃除をするための箒となる人間がたくさん必要。神様が箒として使ってみて、使い勝手の良い箒はいつまでも使う。ところが使い勝手の悪い箒は一度切りしか使わないぞ、と。隅から隅まですっきり掃除するぞ、と。
 ここで、神様にとって使い勝手の良い箒、目にかなう箒、すなわち目にかなう人間というのはどういうものかというと、人を助けるという思いのある方です。こういう箒はいつまでも何度でも使う。そして使い勝手の悪い箒とは、自分さえ良くばという思いの人間。こういう人間は神様からすれば使い勝手の悪い箒なので、これはもう最初の一回きりしか使わないと。
 この生命・身体というものは、神様からお借りしているわけなので、神様が何回も何回も使うというのであれば、これは何歳でも生きさせてもらえることになる。もう80だ90だと歳を取ってしまったし、病んでもいるし、身体が不自由で自分は何の役にも立たない、などと思うことはないのです。神様が使い勝手の良い箒、人間はいつまでも使うで、というふうに仰っている。だから神様にとって使い勝手の良い箒にならせてもらう。神様の箒、すなわち神様の道具にならせてもらうというのは、神様のことをさせていただくということです。人を助ける心をもって、人のために動く、あるいは人のために祈る。これを実行できる人が、神様にとっての使い勝手の良い道具だということなのです。

7.神に好かれる
 人間が互いに助け合って、陽気ぐらしの世界を作る、というのがこの神様の願いです。つまり、一人ひとりがそれを自覚して、互いに助け合う。助け合うことによって、皆が陽気ぐらし世界実現のために努力をする。こういう世界になることを神様は望んでおられるので、その世界を作っていくために役立つような人間にならせていただく。
 いつも申し上げているように、「互い助け合いというは諭す理」です。これは神様から言う話であって、一人ひとりは人のことを助けることだけ考えていればよろしい。「お互い、互い助け合いよね。」なんて人間が言う必要はない。そんなことは一切言わず、もう一方的に助けるだけ。これもいつもお話ししていることですが、助けた人、お手伝いをした人、祈ってあげた人、そういう人たちから自分がお礼を言われてはいけません。これはとても大切なことです。
 自分が人のためにしたことは、もう神様が見てくださっているのですから、人様からのお礼やご褒美に意味はありません。人様を助ける時はただ一つ、その人に助かってもらいたい一心で動く。そのことだけです。その姿を神様が見てくださっているので、その神様からご褒美をもらうのだ。こういう思いになることで、今、世界中を掃除にかかっているのかもしれない神様の目にかなった人間となる。
 そういう人間、箒として掃除をする側に回って、いつまでも、しかも何度でも使っていただける人間を目指す。何度でも使ってもらえるような心遣いをして、神様に好かれる人間となり、神様の道具として陽気ぐらし建設の役に立つよう、これからの一ヶ月もお暮しいただきたいと思います。

 この一ヶ月、家に閉じこもっていても人のために祈ることはできます。人のために声をかける、連絡することはできます。人を助ける心をしっかりともって、人様のために動くことのできる、神様にとって使い勝手の良い道具にならせてもらえるような心遣いをする。そういう風に、来月こそはぜひ皆さんとお目にかかれるよう、互いが心を作って行きたいと思います。
 こういう形での月次祭は、なんとか今月で終わらせたいと思っております。来月こそは皆さんと声をかけ合ったおつとめができるように、お互い神様に祈って来月を迎えたいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2020年06月26日

6月月次祭について

立教183年(2020年)6月12日月次祭の開催方針
 緊急事態宣言が解除されましたが、「東京アラート」の発動など、依然としてコロナウイルスにかかわる社会的状況は予断を許しませんので、6月の月次祭につきましても、信者の皆様の健康と安全を第一とすべく、以下のとおりとします。

・6月の月次祭は、予定どおり12日11時から執行します。
・教会在勤者のみで勤めさせていただきますので、信者の皆様におかれましては、教会へのご参拝をお控えいただき、ご自宅でご参拝くださいますようお願いします。

 7月の月次祭には、皆様に教会でお会いできるよう、どうか共々心を作りながら神様にお願いをしていきたいと思います。

2020年06月07日

2020年(立教183年)5月月次祭神殿講話 ~コロナ禍で分かったこと~

1.はじめに
 新型コロナウイルスの感染防止のため、今月5月次祭も教会の在勤者だけで勤めさせていただきました。数は少ないですが、やはりおつとめをやらせていただくと心が勇みます。

 本部も大教会も全て行事が中止になりまして、5月いっぱいは自粛期間と言われておりますが、なんとか来月6月の月次祭では皆さんと一緒におつとめが勤めさせていただきたいと思っております。

 本日は、神様はなぜこの新型コロナウイルスというものを流行させたのかということを考えてみたいと思います。

 それぞれの人間が自分の身に置き換えて考えてみるのがよいと思いますので、私自身のことについて振り返りながら、考えていきたいと思います。


2.不便から便利へ
 私が生まれた頃、もう70年以上前になりますけども、その頃、私の母親は、朝起きるとまず何をするかというと、炭をおこす、おこした炭に火をつけてお湯を沸かし、それからご飯を炊き、お味噌汁を作る、というようなことで食事の支度をする。そしてそれが出来上がって食べ終わった後、今度はたわしで食器を洗って汚れを落とす。そして電気冷蔵庫なんかありませんから、食事の都度、近所の総菜屋に買いに行く。掃除も箒、そしてまた洗濯機なんかもありませんからたらいで、しかも冷たい水で洗う。今のように簡単にお湯なんか出てこない。そういうことが終わったら次は何か繕い物でもして一日を過ごす。

 勤め人は勤め人で、電車で会社へ行くわけですが、駅の階段にはエスカレーターなんてないので自分の足で長い上りの階段をあがっていく。それから冷暖房もない電車に揺られ、ヘトヘトになりながら会社へようやく到着し、エアコンもない職場で暑さ寒さに耐えながら仕事をする。まあそんなような暮らしをしていたわけです。

 それが今やどうでしょう。朝起きるとひねるだけで火がついてお湯は沸く。ご飯も自動でお米を前の日に入れておけば朝勝手に炊きあがっている。冷蔵庫には色々なものが入っているからそ、わざわざ食事のたびに買い物に行かなくても食事はできる。掃除も全部掃除機がやってくれる。そして洗濯物も入れておけば全自動洗濯機が乾燥までしてくれる。そして勤め人もエスカレーターに乗り、エレベーターに乗り、長い階段をてくてく上がらなくてもいい。部屋に入ればエアコンが効いてて一年中非常に快適。

 こういう便利な変わりようを、私どもは小さい頃から一つひとつ経験してきました。ガスが入り、冷蔵庫を買い、エスカレーターが設置され、エアコンが全部の部屋にはいる、ということを順に経験をしてきましたから、今の有難さというものが少しは分かる。

 ところが、今の子供さんたち、うちの子供もいい大人ですが、そういう今の大人の世代も含め、これらの便利はあるのが当たり前。ボタンを押せばガスはつく、電子レンジは冷たいものをすぐにチンが出来る、それは当たり前。当たり前ですから、取り立てて感謝することもない。そして、ひとたび停電ともなれば、今までの便利さを有り難く感じる前に、当たり前が果たされない不満ばっかりが前に出てくる。

 こういう時代であることを考えたとき、親とすれば、親たちの世代からすると、現在がいかに便利なのか、いかに有り難いことなのか、感謝する心というのをちょっと教えてあげたいなあというのが親としては思うところです。


3.親の思い
 このことを、私たち人間すべての親である神様の思いに沿って考えてみますと、子供である人間が、今のもったいないくらいの便利さに当然のように慣れ切ってしまって、神様が全部与えてくださったことへの感謝などない。

 たしかに、その便利さは人間が自らの知恵で作り上げてきたところはあるにせよ、その材料はすべて神様が与えてくださっている。人間が自分の力でゼロから作り出した材料なんてないのです。そもそも、その材料から便利さを作り出した人間の知恵でさえ、人間が陽気ぐらしをして楽しむのをみて、人間と共に神様が楽しむため、我々人間に神様が仕込んでくださった。

 こうしたことへの感謝がなく、次から次へと便利を求めていくだけの姿。これは親である神様から見れば、本当に頼りない。この機会に感謝の思いというものを親として子供に教えてあげたい。そんな思いで新型コロナウイルスというものを出したのかなという気がいたします。

 神様から見ると、子供が当たり前のように暮らしていても、その当たり前というのはいつ壊れるかわからない怖さがあるのです。前会長の母親がよく言っていましたが、電気が止まったって、地震が来たって、私たちはそういうところから生きてきたんだから全然怖くないよ、ということでした。

 ところが、今、私どもは電気ひとつ切れたらもうなんにも動きが出来ません。ご飯一つ、下手すると水も飲めない、お風呂にも入れないという、そういう時代に生きている。こんなことを考えますと、神様が今の生活がいかに有難いかということを、この機会にちょっと教えてくださったと考えますと、またひとしお、その有難さが分かるかもしれません。

 こういうおさしづがあります。

「いつ/\まで親に抱かれて居ては、欲しいと言えば与える。欲しいだけ与えば、これは楽のもの。親の代わり、代わりするようになれば、めんめん苦労すれば分かる。」(M34.5.15)

 自分の身の回りがどれだけ便利になっても、これは子どもが欲しいといって、全部親が与えてくれた便利さです。その便利さも、いつまでもこれを欲しいといってもらってばかりいるのは、それは子供の心だと神様は仰っている。そこから進んで、それを与える側、子供に便利なものを与える側にならなければいけない。これが親の心だというふうにこのおさしづは仰っているわけですね。

 つまり、これまでもらうばっかりだった我々が、もらったものの多くがなくなってしまった今のような時に、どれだけ親が有り難いかということがはじめて分かる。それは、神様や親という与える側の苦労というものを想い、成人させていただくことのできる貴重な機会なのかもしれない。神様が伝えたいことはそういうことなのではないかと思っているわけです。

 しかし、もらったものがなくなってしまったというけれども、日本にはまだまだ多くのものが残っている。世界に目を向けますと、この前聞いて非常に驚きましたけれども、世界で電気を自由に使えるのは、わずか世界の人口の7%だそうです。世界の人口の9割以上の人々は、まだ電気がないか、自由に使えない生活をしている。私たちは今となってはそんな生活想像もできないわけですが、電気を使うということは、実は当たり前ではないということです。

 電気だけでなく、水道もそう。濁った水を飲むのが日常という人たちが、世界には20億人以上いる。そういう多くの不自由な人たちの思いも、同じ一列きょうだいとして考えてみてはどうか。神様は、このコロナ禍を通し、そんなことも教えてくださっているのではないかと感じています。


4.コロナ禍で学んだこと
 今回のコロナ禍で、実は私たちは非常に大切なことを学んでいます。

 まず一つは、コロナから守ってくれるのは誰かということ。これは特効薬を作るとか、ワクチンを作るということを言っているけれども、特効薬やワクチンが効くかどうかは人間には分からない。分かって作るのではなく、作ったものが効くようにしてくれるのは神様しかない。結局神様にしか守ってもらえない。つまり、コロナから守ってくれるのは神様だけなんだということがまず一つ分かる。

 その次に、こういう危険なコロナから逃げることのできる一番安全な場所はどこかというと、これは家庭だということが分かった。

 そして、いざという時に頼りになるのは誰なんだということ、これは家族だということが分かったんですね。

 そうすると最後に、じゃあそのコロナから知らされた一番大切なものは何かというと、健康と命です。

  ・守ってくれるのは誰か、神様。
  ・安全な場所はどこか、家庭。
  ・一番頼りになるのは誰か、家族。
  ・人間の一番大切なものは何か、健康と命。

 実は、こんな当たり前のことを、初めて我々ははっきりとした形で知らされたわけです。

 今まで便利の中で、神様が守ってくださっていることなんて考えてもいなかった。いざという時に誰を頼ったらいいのかということも分からなかった。けれども、今回教えてくださった。これを分かることが、今回のコロナ禍の「節から芽が出る」、我々に見えてきた新しい御守護なのではないかなと。そう考えますと、皆さんにいつも申し上げている、あのおふでさきが頭に浮かびます。

「にんけんハみな/\神のかしものや なんとをもふてつこているやら」(第三号 41)

 この身体を一体皆でなんだと思って使っているんだ、と。このコロナ禍の中で初めて我々が気が付いたことですけれども、神様は常に仰っておりました。神様は、人間と一緒に陽気ぐらしをするために人間を作ったとおっしゃっており、身体をはじめ、すべてのものを人間に貸してくださっているのに、人間はその目的を忘れているのではないか、という意味です。

 
5.心をつなごう
 愛する人に会えない、病院に入っていて心細い思いをしている友人に会えない、施設に入っている自分の両親に会えない、そんな状況が世界中で起きているのです。そのことを考えますと、これまでいつも当たり前にできていたことが、いかに神様の御守護であったかということが分かるかと思います。

 こういう風に、これまで当たり前だった日常の何でもないことを、この機会にあらためてその有難さを考えてみたらどうか、というのが神様の思召しではないでしょうか。こう考えれば、皆さんどんなことでも一つひとつ喜んでいけるのではないかなと思います。

 今この瞬間、新型コロナウイルスで苦しんでいる人がいる。あるいは医療体制すらなくて、満足な治療も受けられずただ苦しみ続けている人がいる。「ステイホーム」と言われても、その家庭の中の人間関係で悩み苦しんでいる人がいる。あるいは家族がいなくて孤独で苦しんでいる人がいる。このように、様々な悩み・苦しみを抱えた人がいっぱいいます。私たちの身の回りにはおたすけする対象がいっぱいいるということです。

 私共も、自粛のストレスがどうのこうの言っていますけれども、ストレスどころか、この状況では生活が成り立たない、明日生きていくための糧もないという人たちが、この日本にでもたくさんいるのです。世界にはそれ以上です。そういう人々のために、何とか一日でも早くこの世界でのコロナ禍が収まるように祈ること。

 以前、皆さんにも手紙で申し上げましたが、神様は人を助ける心さえ持ってくれれば、いつでもおさめてやると、こういう風に仰っていただいております。これを信じ、この機会に改めて、自分の身の回りで苦しんでいる人はいないか、困っている人はいないか、寂しく思っている人はいないかをふりかえり、そういう人がいれば声をかける、心をつないでいくということを実行していっていただきたい。

 このコロナ禍がなんとか5月いっぱいで収束し、6月の月次祭には皆さんに教会でお会いできるよう、どうか共々心を作りながら神様にお願いをしていきたいと思います。この一ヶ月間、どうかそういう思いでお暮しいただきたいと思います。


 今月は誠にどうもありがとうございました。

2020年05月31日

会長からの手紙(いちれつきょうだい)

信者の皆様へ

1.4月の月次祭のこと
 新型コロナウイルスの蔓延により、世界がすっかり変わってしまいました。皆様、いかがお過ごしですか?
 さて、3月に続いて4月も12日の月次祭にご参拝いただくことができませんでした。
 日帝分教会としては、教会の者だけで、いつも通りに月次祭をさせていただきました。
 しかし、調饌(神様へのおそなえを盛り付けること)から献饌(おそなえをすること)、鳴り物の道具を並べるところから調律まで、いつも朝早くから参拝に来てくださる皆様方がして下さったことをするだけで、それなりの時間がかかってしまいます。本当に一人一人の力が集まってこその月次祭だなあと、改めて感じることができました。

2.いつものことができなくなった
 このようにいつもは当たり前のこととおもっていたことがそうではないこと、この度のコロナ禍ではじめてわかりました。
 朝起きて食事をし、その後に満員電車で出勤をする。
 子どもたちも食事のあと、みんなで一緒に学校に行き、授業を受ける。
 家にいてテレビをつければ、モーニングショーからはじまっていろいろなバラエティー番組、相撲、野球であれば高校野球からプロ野球、バレーボール、サッカー、卓球、陸上、水泳いろいろな大会があり、天気のよい日は公園や川べりの散歩、ジョギング。
 ギャンブルの好きな人はパチンコ屋や競馬場に。
 休みの日は家族そろって、夫婦で、あるいは一人静かにレストラン、居酒屋、バーへ。
 これが全部できなくなりました。
 「ステイホーム」(家にいよう)の掛け声で、会社、学校をはじめあらゆる行事、人の集まることやお店が中止、休業。
 学校に行けない子ども、会社に行けない大人がほとんどという状態になりました。

3.いちれつきょうだい
 しかしここでちょっと考えてみましょう。
 学校に行けない子どもは、以前からいました。会社に行けない大人も、やはり以前からいました。そのような子どもを「不登校」、そのような大人を「引きこもり」として、私たちは差別してこなかったでしょうか。
 今、不登校の子どもたちは本当に心穏やかにいるということを聞きました。今、社会全体が引きこもることを事実上強制されています。
 私たちは、こういうことがなければ、少数の、つらい立場におかれた方たちの思いを知ることができません。
 これを機会に、今、新たにはじまった新型コロナ感染者への差別をはじめ、少数であるがゆえに差別されている方々、たとえば障害者、LGBT、アジアなどからの外国人、その他人々の心の中で生じている小さな差別をしっかりと自覚して、みないちれつは神の子であり、どんなことも仲良く、たすけ合って暮らして行こうではありませんか。
 世界的な哲学者で、「ホモ・デウス」などの著者であるユヴァル・ハラリ博士は、「この危機を乗りこえるには、人々との協力と連帯しかない」と話しています。

おやさまは次のようにおっしゃっています。

 「世界中人間は一列兄弟。一列は神の子供や。神からは子供に難儀さしたい、不自由さしたい、困らしたいと思う事は更に無し。」
(明治20.12.1)
 「互いたすけ合いやと、口で言うばかりなら、たすけ合いとは言えようまい。真の心からの互いたすけ合いは一度に受け取る。」
(明治27.2.14)


 世界中はいちれつきょうだいで、皆、神の子だ。親である神は子どもに難儀、不自由させたり困らせたいなどと思っているのではない。
 皆が口先だけでなく、真実の心からたすけ合うことになれば、すぐにその思いを受けとって、どんな難儀もすっきりたすけるから、きょうだい(人間)はお互いにたすけ合いするように。(会長訳)



あらためて、「いちれつきょうだい」(連帯)と「たすけ合い」(協力)をしっかりと心に治めたいと思います。

2020年05月10日

5月月次祭について

立教183年(2020年)5月12日月次祭の開催方針
 新型コロナウイルスにかかわる社会的状況をふまえ、信者の皆様の健康と安全を第一とすべく、以下のとおりとします。

・5月の月次祭は、予定どおり12日11時から執行します。
・教会在勤者のみで勤めさせていただきますので、信者の皆様におかれましては、教会へのご参拝をお控えいただき、ご自宅でご参拝くださいますようお願いします。

2020年05月10日

2020年(立教183年)4月月次祭神殿講話 ~ふしから芽が出る~

 ただいまは、教会在勤者のみでありましたけれども、賑やかにおつとめをいただきましてありがとうございました。
 本日おいでになれなかった方達がそこにいらっしゃるという想いでお話をさせていただきます。

1.はじめに
 残念ながら、今月も月次祭は人が集まってはならない、ということで、それぞれの家からのご参拝ということで、教会でのご参拝ということはご遠慮願いました。
 実は14日の大教会月次祭も同じことで、3月の月次祭は役員のみでつとめるということで私は行かせてもらいましたが、4月は大教会の住み込みの人達だけでやるということで、役員も来ないでよいということになりました。
 そして、おぢばの方でも、楽しみにしておりました4月18日の教祖誕生祭終了後の喜びの広場という誕生祭祝歌を歌うところも中止になりました。また、その後19日に予定されていた婦人会の総会も中止、26日の月次祭も中止ということになりまして、本当に世の中すべて人が集まることが中止ということになっております。こういう中、神様が何をおっしゃっておられるのか悟らせてもらいたいと思います。

2.この大きな節(ふし)について
 これは以前お話をしましたけれども、今回の新型コロナウイルスの件は、天理教信者だけの節ではなく、全世界の人々の節である。全人類に対する神様からの思し召しであるということであると思います。
 先だって、教会信者の皆様には手紙を出させていただきました。このコロナの自粛と言いますか、外出をしてはいけないという事情に対する神様の思し召しはどこにあるのかということで、一つのおふでさきをお示しさせていただきました。12号の90番です。

なさけないどのよに思案したとても
人をたすける心ないので

 神様は人を助ける心がないから情けないとまでおっしゃる。ただし、心をしっかり入れ替えればどんなたすけもする。そして最後に、このたすけというのは、

このたすけどふゆう事にをもうかな
ほふそせんよにたしかうけやう(12号95)

 「ほうそ」とは「疱瘡」であり、天然痘のことですけれども、当時世界中で何千万人という方がなくなった。20世紀だけで3億人亡くなったといわれています。それを神様の思し召しとして、人を助ける心がないから情けない。その心を作ってたすけあいをすれば、疱瘡にならないように守ってやろうと。まさに、今で言うとしっかりと人を助ける心を持てば、新型コロナに負けないたすけをしてやろうと、こういうことであろうかと思います。

3.節(ふし)から芽が出る
 そんな中、先日非常に面白いメールをいただきました。私が人を助ける心を持ちましょうという内容の手紙を信者の皆さんに送らせてもらったことに対して、こういうことをおっしゃる方もいますと。
 「コロナ」というのをカタカナで書くと、「コ」と「ロ」を上下に並べ、そのうえで「コ」の間に「ナ」を入れると「君」という字になる。「コロナ」というのは「君」、つまり自分以外の人に思いを致す、自分以外の誰かをたすけるようにと、そういうことなのではないか。会長さんと同じようなことをメールで言われましたと、こういうことなんですね。
 なるほど、こんなに新型コロナが大変だ大変だと言っている中で、あらためて「コロナ」という文字をカタカナで組み合わせてみると、「君」という字になる。こういう時だからこそ、自分ではなく「君」に思いを致すべきという話ではないか。これは、一つの節を中から何を考えればいいのだろうか、何をさせていただければいいのだろうか、ということを一生懸命考えているからこそ出てくるものであろうかと思います。
 節から芽が出る、と神様はおっしゃってくださっているわけですけれども、この節にも決して心を倒さず、どうやったら芽が出るのか。新型コロナはまさに節そのものでありますけれども、その節から何ができるかということを一生懸命考えることで、きっと神様は新型コロナを治めて下さるだろうと思えます。
 このことは、日本であろうと世界であろうと関係ありません。今は欧米で大惨事になっているわけですが、これが開発途上国にまで及んでくると、例えばアフリカでの大流行を考えてみれば、アフリカ諸国の医療体制からすると欧米以上に悲惨なことが起きてくるかもしれません。しかしそういう中でも、我々と同じ日本人の医師がアフリカでの医療に従事し、その地での新型コロナ感染と戦ってくれている。そういう話を聞くと、同じ日本人としても本当に頼もしく思います。そこにもし、我々が信仰しているお道の人間が、この節のなか、あらゆるところでおたすけをさせてもらうことを考え、実行に移すことができるのであれば、本当にお互いが頼もしいことになるのではないかなという風に思います。

4.人間が1つの心になる
 今回の新型コロナの件は、史上例を見ない話であり、建立から1,400年以上の歴史を誇る四天王寺が閉めざるをえなくなったとか、他にも何百年ぶりにどうしたこうしたと、人間の一生では普通立ち会うことのできない様々なことが起きております。今まで人類が体験したことのない時代が今、我々の目の前で起きているのです。
 少し話がずれますが、人類が体験したことのないといえば、私が子供の頃初めてテレビを見た時のことを思い出しました。広場に一台街頭テレビというものが設置され、それは夕方にならないと始まらないのですが、始まる時間になると皆が広場に集まって一台のテレビに釘付けになる。それでも十分興奮したわけですが、それから何年か経ったならば、今度は自分の家にテレビを買う家が出てきた。そうなったらテレビを買ったその家に見せにもらいに行ったわけですが、その後は自分の家でも白黒テレビが入り、自分の家でテレビを見られる時代がきた。そして気付いてみればそこからわずか数年後にはカラーテレビになっている。そうこうしているうちに、今度は電話線のない電話が出てくる。これは弁護士の仕事に使えて便利だ、ということで私が最初に携帯電話を買ったのが1980年代。その頃の携帯はティッシュペーパーの箱ぐらいの大きさでした。それでも信じられないくらい便利だったわけですが、それがみなさん、今や手のひらよりも小さいサイズになっている。ボタンすらなくなり、画面をタッチするだけでメールは打てるわ、動画は見れるわ、テレビ会議はできるわ、できないことがないくらいのものになっている。そしていつでもどこでも世界中の誰とでも簡単につながることができる。テレビから携帯電話だけの話でも、このわずか数十年の間に、先人には到底想像の及ばない体験をしてきたわけであります。
 それを喜んで使うばっかりで、感謝をしてこないままに来たら、遂に今まで見たこともないウイルスを神様にお見せいただいた。このウイルスによって、人間が一つ心になりなさい、世界バラバラになって一人ひとりが我が身勝手で動いているようなことを神様がお互いが助け合い、お互いが言葉を掛け合うという、そういうことを節として見せてくださっているんだろうと思います。

5.心をつなぐ
 そんなことで、私が今大事に思うことは、「直接会ってはいけません」、それをひっくり返すと、会わないけれども心をつなぎ合わせる。今までは会おうとすれば電車だの車を使えばすぐに会えた。それが会いたくても会えなくなった。そんな中でできるのは、心をつなぐということだと思います。離れている人に対して心をつなぐ。それはいつも申し上げていることですけれども、誰かのために祈るということも誰かに対して心をつないだことになると思います。神様に心を伝えることになるのだと思います。この機会に、姿が見えない顔が見えない、しかし誰々さんのために祈って心をつなぐ、ということを考えたいと思います。
 私も色々と人間関係が広いんですけれども、幸いにと言いましょうか、私の周りには新型コロナにかかった人は今のところ一人もおりません。そういう人を一人でも増やしていくことが、感染者を減らすことになる。一人がかかると夫婦、子供、兄弟、家族みんなに感染します。そんなことのないように、一人ひとりしっかりと感染予防に努めること。私の周りにはたまたまそういう方がいないだけなのかもしれないのですが、感染してしまった方に対しても、しっかりと心をつないでいくこと。こちらが感染しないために物理的な距離は置くせよ、心まで離して通ることのないように。そういう心のつなぎ方をして行っていただきたいと思います。

6.ぢばに心を寄せる
 今、おぢばから打ち出されていることは、ぢばに心をつなごう。そして信者さん同士心をつなごうということです。これは易しいようだけれども実は非常に難しい。今回のことがあって思うのは、今までは私も惰性でおぢばがえりをしていたところがあったのですが、急におぢばがえりをしてはならない、月次祭の参拝は神苑に入ってはならない、となると、本当に恋しいなあ、帰りたいなあという思いでいっぱいになります。

「ぢば一つに心を寄せよ。ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方へ根が張れば一方流れても三方残る。二方流れても二方残る。太い芽が出るで。」(教祖伝逸話篇187「ぢば一つに」)

 このように、ぢばに心を寄せれば、大変な中からでも太い芽が出ると神様がおっしゃる。せめて、皆さんも教会や信者さん同士、また家族、知り合いに心をつなぐ。そして、その中心にはいつもおぢばがある、という心でまたこの一か月をお過ごしいただきたいと思います。

7.祈る
 非常事態宣言は5月6日までということですので、うまくいけば来月の12日は皆さんにお会いできるかもしれません。そうなるためにも、今はしっかり我慢しなければいけない。この節の中をしっかりと通らせていただいて、一人ひとりが神様の思し召しを理解しながら、この一か月お過ごしいただきたいと思います。そして、新型コロナにかかってしまった人々には、一日も早く助かってもらえるように祈る。さらには、自分たちより恵まれない国、境遇にある人々が、どうかこの病にかからないように祈る。これをこの一か月間果たしていただきたいと思います。
 今月は少ない人数でございましたけれども、一生懸命つとめさせていただきまして、勇むことができました。おつとめさせてもらうと、こんな状況の中でもこんなに勇めるのだということ。神様はこのことを喜んでくださるのだと思います。皆さん、それぞれお宅で寂しい思いをされていると思いますが、その場で喜べることを探してお過ごしいただきたいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2020年04月28日

会長からの手紙

 お花見の季節も新型コロナウイルスの流行により、残念な季節となってしまいました。
 それよりも残念なことは、おぢばでの3月月次祭に続き、4月の教祖誕生祭、全教一斉ひのきしんデーも中止となったことです。

 ただ、おつとめやひのきしんは、どこでも、いつでも一人できることですから、おぢばや教会を思い出し、一日、元気で過ごせたことを感謝し、また明日への元気をいただけるよう親神様、おやさまを心に浮かべて手を合わせましょう。
 かえって、静かに信仰できる喜びを感じられるかもしれません。

 さて、親神様は、なぜ、このようなウイルスを世界に広めたのでしょうか。
 これについて、おやさまは、世界中に猛威をふるい数千万人の死者を出した天然痘 (疱瘡ーほうそう)の流行につき、次のようなおふでさきを残されています(漢字、カナ交じり文にします)

    なさけない どのよに思案したとても
    人をたすける心ないので(12―90)

    これからは 月日たのみや一れつは
    心しっかり入れ替えてくれ(12―91)
  
    この心 どういう事であるならば
    世界たすける一条ばかりを(12―92)

    この先は 世界中は一れつに
    よろづ互いにたすけするなら(12―93)

    月日にも その心をば受け取りて
    どんなたすけもすると思えよ(12―94)

    このたすけ どういう事に思うかな
    疱瘡(ほうそ)せんよに確か受け合う(12―95)

 このように、親神様は、
「人間は自分勝手な心づかいばかりして、人をたすけようとする心がないのが情けない。これからは心をしっかり入れ替えて、世界中の人間が互いにたすけ合いをするようにしてもらいたい。そうすれば、神もその心を受けとってどんなたすけもしてやろう。そして、このたすけというのは、流行を止めて疱瘡にかからないようにすることであり、必ず受け合う。」
と約束して下さったのです。

 この「疱瘡」を「新型コロナウイルス」と置き換えれば、今、私達人間がどのような心を持つべきかがわかります。
 すなわち、
人間ひとりひとりが、自分のことばかり考えずに
こういう時こそ人をたすける心を持とう!

 その心を神様が受けとって、どんなたすけもして下さいます。

 お互いに、顔を合わせることができない今、せめて、このお道を信仰する者同士、心をつなぎ、親神様、おやさまにもたれて行きましょう。

2020年04月18日

教会本部からのお知らせ(教祖誕生祭・全教一斉ひのきしんデーについて)

教祖誕生祭について
 4月18日の教祖誕生祭は、3月の本部月次祭と同様、おつとめ中、登殿参拝はできません。
 また、境内地にも入れませんので、自宅で遥拝をお願いします。

全教一斉ひのきしんデーについて
 4月29日の全教一斉ひのきしんデーは中止となりました。
 まことに残念ですが、それぞれの家の近くの清掃など、身近なところでのひのきしんに勤めてください。
 ひのきしんは、健康な身体をお貸しいただいている感謝の気持ちからの神様への恩返しの行為です。人が見ていないところでさせて頂くことが、神様に一番お喜び頂く陰徳を積むことになります。
 何かひとつ、誰にも見られないところでひのきしんをしましょう!

2020年04月06日

4月月次祭について

立教183年(2020年)4月12日月次祭の開催方針
 先月同様、今般の新型コロナウイルスにかかわる社会的状況をふまえ、信者の皆様の身上に万一のことなきよう、以下のとおりとします。

・4月の月次祭は、予定どおり12日11時から執行します。
・信者の皆様におかれましては、当日朝検温いただき、37度以上ある方については、ご参拝をお控えください。また、当日朝、同居するご家族に発熱されている方がいらっしゃる場合も、ご参拝をお控えください。
・信者の皆様におかれましては、公共交通機関を利用してのご参拝はお控えいただき、ご自宅でご参拝くださいますようお願いします。
・原則として70歳以上の信者の皆様におかれましては、ご自宅でご参拝いただくようお願いします。(高齢者の死亡率が高いという新型コロナウイルスに関するデータをふまえた対応)
・月次祭当日は、室内の換気を良くしておつとめをつとめさせていただくこととします。
・直会は、感染防止のため、軽食とさせていただきます。

2020年04月06日

2020年(立教183年)3月月次祭神殿講話 ~誠の心~

 ただいまは、3月の月次祭をにぎやかにお勤めいただきまして、誠にありがとうございました。
 人数は少なかったですが、鳴り物もしっかりやっていただいて、最後はすりがねも入っていただき、本当に陽気におつとめさせていただきました。本当にありがとうございました。

 皆様ご承知のとおり、新型コロナウイルスが世界中に蔓延してしまいまして、人混みに出ないとか、手を洗うとか、そういうことでなんとかを防ごうとしています。ということで、今月の月次祭は、ご高齢の方、または公共交通機関を使われる方については、ご自宅で遥拝をしてくださいというようにお願いをいたしました。

1.おふでさき
 実は、ウイルスに関してはおふでさきがあります。昔、明治時代にコレラが大流行した時、何十万人と亡くなった時のおふでさきです。

にち/\に神の心のせきこみハ
とふぢんころりこれをまつなり(4-17)

 これは、「コレラ」と「ころり」をかけたおふでさきなのですが、「とふぢん」とは「唐人」のことで、これは中国人を指しているのではなく、親神様の教えを知らない人、という意味です。おふでさきでは、当時の人たちが分かりやすいように、親神様の教えを知っている人を「やまと」つまり日本人、そうでない人を「から」つまり中国人に喩えています。比喩としてはなんでもよかったと思いますが、当時の人々にとって、一番わかりやすい外国人の喩えが中国人、とふぢんであったということだと思います。
 日々神様が急いでいることは、この道を知らない人々がコロリと心を入れ替えることである。
 つまり、神の心を理解できない人が、ころっと心を入れ替えて、神の話を理解してもらいたいと、そういうおふでさきです。
 このおふでさきには二つの意味があります。
 一つ目は、このお道を聞いた人が心を入れ替え、みんなのために働くようになってもらいたいということ。二つ目は、お道のことを知らない人に、早くこの道を伝えなさいと、そういう意味もあるのです。
 つまり、お道を知っている我々が、お道を知らない人々にきちんと伝えなきゃいけない。神様は、そういうことを急いでおられるということになるわけです。
 神様の心がなかなか人々に拡がっていかない、伝わっていかない、こういうもどかしさを、今、神様はお示しくださっているのではないかと、そのように思います。
 今こそ、おたすけをする、にをいがけをするということを、神様が望んでおられる旬なのだということを、改めて我々この機会に考えてみなければいけないと思います。
 昔ですと、新型コロナウイルスのようなものが世界中に蔓延しますと、宗教によっては、これを悪魔の仕業だと捉えることもありました。そうではなく、先ほどのおふでさきをふまえますと、今の状況は、神が残念がって、もっとみんなに心を入れ替えてほしい、人をたすける心になってほしい、ということを我々人間に頼んでいるんだ、そのように捉えていただきたい。

2.誠の教え
 話は変わりますが、私が学生の頃、東京教区学生会という、天理教の学生の集まりがありました。そこへ、突然キリスト教の若い人たちが議論を挑んできたことがあります。彼らは、キリスト教は愛だ愛だということをしきりに言うんですね。それに引き換え、天理教には愛がないじゃないか、ということを言って帰ろうとしたので、当時私は一番下級生だったのですが、ちょっと待ってくれと言い、「キリスト教が愛の教えなら、天理教は『誠』の教えである」と話したことがあります。
 みなさん、ここに額がかかっていますよね。これは、二代真柱直筆の額なのですが、「誠」という漢字が書いてあります。「誠」の草書体がこの額なのです。「誠」の字を分解しますと、「言ったことが成る」となります。 天理教が誠の教えだということは、おかきさげの中にその理由を見つけることができます。

誠の心と言えば、一寸には弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものは無い。誠一つが天の理。

 「誠の心」というのは、簡単に言いますと、人をたすける心なのです。でも、人をたすける心があっても、それを「誠の心」とはいうけれども、「誠」そのものではありません。では、「誠」とはどういうことか。私は、三つの条件が揃わないと「誠」にならないと思っています。
 繰り返しになりますが、漢字の「誠」は、「言葉が成る」、言ったとおりになってくるということ。そうであれば、まず、
1.言葉で人様を喜ばせ
2.人がたすかるような行いをする。
3.1と2は、何よりも人をたすけたい、たすかってもらいたいという真実の心から出るも  のであること
 つまり、口と手と心、この三つが揃って初めて「誠」というのであろう思います。
 言葉だけだと、あの人は口先だけだと言われる。だったら、むしろ言葉はなく陰で行動してる人の方が、あの人は「誠」の人だなというふうに言われるかもしれない。でも、そこに真実の心がないと、結局下心からか、と見られてしまう。このように、「誠」を持ってとおるということは、非常に難しいものです。

3.日帝の二代会長夫妻
 東本大教会の二代会長に、中川庫吉(くらきち)先生という方がいらっしゃいます。東京教区の教区長をされていたので、その昔、この日帝分教会に巡教に来られたことがあります。昔、日帝分教会は、江東区古石場という所にありました。戦後だったので、非常に粗末な造りの教会でしたが、その教会に中川庫吉先生がお出でになったわけです。中川庫吉先生は、伝説的布教師でもある東本大教会初代会長の中川よし先生に厳しく仕込まれ、先のことが見えるといわれた立派な先生ですが、人の顔を見ただけで、その人がどういう人か分かるというんですね。
 実は、私も弁護士を40数年やっていますが、弁護士のところには、それはもういろんな人が来ます。一流企業の社長もいれば、人を傷つけたり、人を騙してお金を儲けたりする犯罪者、逆に騙されたりして泣きついてくる被害者、もういろんなタイプの人間をよく見ておりますから、人の顔を見ると大体分かるようになりました。しかし、中川庫吉先生というのは、教内でも指折りの大教会長としていろんな人間を見てきただけでなく、確固たる信仰がきちっと入っているわけなので、どんな人かは言うに及ばず、その人の運命までも分かると言われておりました。
 そんな先生に、日帝分教会の何人かの方が顔を見てもらって、色々と言葉をいただいたそうです。そんな中で、ここに写真がありますが、私の祖父である二代会長の亀田儀八さんのことを見て、「あんたは損な性分やなあ。その口の強いのさえなければ誠の人なのになあ」と言われたそうです。先ほどの話からしますと、心も行動もあるのに、残念ながら言葉が強かった。人を喜ばせる言葉を使っていなかった、ということで「損な性分やなあ」と言われたそうです。
 そして、二代会長の妻、私の祖母である亀田八重さんの顔を見てしみじみと一言、「あんたは誠の人やなあ」とおっしゃったと言うんです。私、このことは、何人かの信者さんからも直接お聞きしましたし、前会長からも聞きました。その時中川庫吉先生に付いてらっしゃった東本の方がおっしゃるには、あの中川庫吉先生がそのようにおっしゃった方は他にはおりません、ということでした。
 私もそばで祖母のことを見ておりましたが、本当に目立つことはせず、家では全ての事をやって、信者さんのことを喜ばせて帰していく。そんな祖母を子供ながらに素敵なおばあちゃんだなぁと思っておりましたが、中川庫吉先生のような立派な人から見ても「誠の人やなあ」と思えた。それに比べて、祖父は「損な人やなあ。口さえなおせば誠の人なのに」と言われたそうです。それぐらい、誠とは難しいものなのです。私も言葉が強いので、おそらく中川庫吉先生に見てもらったら、二代会長と同じようなことを言われたんだと思います。

誠一つが天の理。天の理なれば、直ぐと受け取る直ぐと返すが一つの理。

 人のためになにかしたからといって、人からお礼を言われようとは決して考えない。神様が見ているのだから。人様が助かってもらえるように一生懸命にやる。それを陰で、人の見えないところで行っても、必ず神様は見ていてご褒美をくださる。そういうことが天理教を信仰するということだろうと思います。

4.3月12日のこと
 ところでみなさん、9年前の今日、覚えてますか?
 実は、東日本大震災の翌日でした。私も震災当日は仕事場から帰れず、12日の朝ようやく教会に戻ってきたぐらいでした。電車は震災直後から全て止まっていて、翌日もなかなか動かない。そんな大地震があった日の9年前の今日も、やはりこのように少ない人数でした。
 こういうこと一つとって考えてみても、今日は地震もなく、電車もちゃんと動いている。取り立てて物の不足もない。ウイルスのことが気になるといっても、基本的に不自由なく生活ができている。一方で、まだあの9年前の大地震の影響から脱し切れず、今も苦しんでいる人たちが4万人もいるそうです。私たちができることはまだまだあります。直接に被災地に行って行動することができないのであれば、朝晩そういう苦しんでいる人たちのために、どうか早くそういう人たちが元の生活に戻れますようにと祈る。これも「誠の心」かと思います。
 この3月12日というタイミングは、神様が、日常当たり前だと思っていることを改めて思い出させてくれる日。なんでもないということが、どれだけ幸せなのかということを改めて考えるようにと教えてくださっている日だというように思います。
 日常のなんでもない日を喜ぶ心を作る、ということを、この3月12日の月次祭に念じて、改めてこの一か月、お過ごしいただきたいと思います。
 本日は誠にありがとうございました。

2020年03月18日

3月月次祭および春季霊祭について(教会本部)

※以下、教会本部より教内へ向けての発信内容抜粋

直属教会長各位

 ただいまの新型コロナウイルス感染拡大を防止する社会全体の取り組みを踏まえて、教会本部3月の月次祭および春季霊祭は例年通り勤めますが、参拝者の殿内への昇殿をご遠慮いただき、代表として直属教会長、教区長の参拝のみで勤めさせていただくことにいたします。
 部内教会長はじめ、ようぼく・信者の方々に、本部3月月次祭への参拝をお控えいただき、当日は、教会、布教所、信者詰所、自宅などから遥拝をしていただくように周知徹底をお願いいたします。
 取り急ぎメールでご連絡いたしましたが、詳細につきましては追って書面を郵送しておりますので、ご覧くださいますようお願いいたします。

立教183年3月12日
天理教教会本部

************

会長より(所感)
 過去に例のない登殿参拝中止という事情は、どのように悟らせていただけば良いでしょうか?
 新型コロナウィルスにより、政府(世上)が、集団行事の自粛を求めたことへの対応ですが、ここで明治政府の教団に対する弾圧を思い出しました。
 教祖御存命中、自由におつとめが勤められず、隠れて集まってまでおつとめをした先人の思いをしのぶ良い機会だと思います。
 おつとめを勤めたいのに勤められなかった時代からみれば、いつでも自由に勤められることに感謝し、感激をしていたでしょうか?
 いま、改めておつとめができる有り難さと、その喜びを感じたいと思います。
 この機会におつとめをしっかり覚えて、その楽しさを感じられるようにしましょう。

2020年03月13日

3月月次祭について

立教183年(2020年)3月12日月次祭の開催方針
 今般の新型コロナウイルスにかかわる社会的状況をふまえ、信者の皆様の身上に万一のことなきよう、以下のとおりとします。
・3月の月次祭は、予定どおり12日11時から執行します。
・信者の皆様におかれましては、当日朝検温いただき、37度以上ある方については、ご参拝をお控えください。また、当日朝、同居するご家族に発熱されている方がいらっしゃる場合も、ご参拝をお控えください。
・信者の皆様におかれましては、公共交通機関を利用してのご参拝はお控えいただき、ご自宅でご参拝くださいますようお願いします。
・原則として70歳以上の信者の皆様におかれましては、ご自宅でご参拝いただくようお願いします。(高齢者の死亡率が高いという新型コロナウイルスに関するデータをふまえた対応)
・上記のような方針であることから、当教会へのご巡教を予定されている日高先生には、ご巡教をお断りすることとします。(日高先生が公共交通機関を利用して当教会へご巡教されることをふまえた対応)
・月次祭当日は、室内の換気を良くしておつとめをつとめさせていただくこととします。
・直会は、感染防止のため、軽食とさせていただきます。

2020年03月09日

2020年(立教183年)2月月次祭神殿講話


「大難は小難に」を喜ぶ

1.おつとめができる喜び
 ただいまは2月の月次祭を賑やかにおつとめいただきました。神殿講話をさせていただきますのでよろしくお願いします。
 毎年のことですが、私も大教会の役員に任命されまして、巡教として、毎年3箇所ずつ回らせていただいております。
 いくつか教会に行かせていただきますと、教会の内情といいましょうか、他の教会との対比ができて、私にとってはありがたいのです。今日は献撰から5人の奉仕者がおりまして、綺麗にきちんとできました。そこから始まって、祭儀の仕方、おつとめの仕方、まだ足らないところがあり、他の教会では素晴らしいところもあるわけですが、そのようにして他の教会をみながらお話をさせていただいて、自分の教会を反省するという非常にありがたい機会をいただいております。
 その中でも残念なのは、ある教会は月次祭がないんですね。月次祭は平日なんですけれども、信者さんはいないということなので、土曜日に来てくれと。教会の夫婦だけで話を聞かせてもらうということなのです。「私はあなたたちにお話しに行くのではなく、祭典に行かせてもらうのですが?」と言ったんですけど、ともかくおつとめはやっておりません、ということでした。実は去年もそういう教会が一箇所ありまして、せめてよろづよだけでもさせてもらおうということでやらせてもらいました。うちの教会は少人数とは思えない賑やかさでおつとめさせていただいておりますけれど、本当におつとめができる、ということはありがたいことだと思います。

2.教会というところ
 一方で、教会に行っても教会がひとつも天理教の話をしない、というところがありまして、一昨年に行ったところは、役員として神殿講話させていただいたところ、何年振りかで天理教の話を聞いたというふ風に言われびっくりしました。昨日行かせていただいた教会も、お話しさせていただきましたら、こうやってまとまったお話を聞いたことがないということで、みなさん神様のところに行って、神様のお話を聞かないでなにが楽しいのだろうと不思議に思ったところです。やはり教会というのは、参拝をして、心のほこりを払っていただく。そしてまた自分の悩み苦しみを全部教会に置いてまた一ヶ月がんばろうと、こういうことが教会で大事なことだろうと思うわけです。うちの教会もどこまでできているかわかりませんけど、せめておつとめはしっかりさせてもらえることが本当にありがたいことだと思います。
 そしてまた、月に一回勉強会をやっています。おつとめの理合い、おてふりの理合いをきちんと心に納めさせていただくと、信仰心がどんどん深まってきますので、教えをしっかり学ぶということは大切なことだと思います。

3.節(ふし)をいただいたとき
 昨年の本部の秋季大祭の神殿講話は、内統領の宮森先生でした。そこでのお話を要約しますと、人間は神様からいろいろと手引きをもらう。辛いこと、悲しいこと、大変なこといろいろもらうわけですけれど、その手引きについては、もらったこちら側からすると「節」なわけです。竹というのはまっすぐなところからは芽が出てこない。節というところからしか芽が出ない。それを教祖は、大変なところからこそ新しいものが湧いてくるんだ、生えてくるんだということを教えてくださった。天理教で言う「節から芽が出る」という話はそういう風に教えていただいたわけです。ついつい我々は手引きをいただくと、なぜこうなったのか、こうなったのはあの時こうしたからなのか、一体なぜ私がこんな目にあうのか、などと原因をあれこれ考えてしまう。それを宮森先生が明確におっしゃるには、節をいただいた時は原因など考えるな。自分がどうしたからこうなったなどと考えるな。節から芽を出すということはそういうことなんだ。つまり、神様が期待してるんだから、節をいただいたのであれば、次はどうさせてもらうことが神様の思いに答えることなんだろうか、と、このように考えることこそ「節から芽が出る」の意味するところなのだ。こういう風にお話いただきました。本当にあれを聞いて、この教えの明るさはそういうものなんだなぁということを思いながらお話をうかがったところです。
 
4.節(ふし)を喜ぶ
 そしてさらに、先月春の大祭では、表統領の中田先生が神殿講話に立たれました。そこでのお話もやはり「節」に関係したものでしたが、どんな節でも「大難は小難に」として喜ぶべきものなのだ、とおっしゃるわけです。もしかしたらもっととんでもない病気に罹っていたかもしれない、とんでもない状況に追い込まれていたのかもしれない。そういうところを神様がご守護くださって、こんなもんで済ませてくれた。ああ、ありがたい。と、「大難は小難に」していただいたことを心から喜ぶ。これが大事なのだということを教えていただきました。
 つまり、内統領先生、表統領先生のお話をふまえて悟らせていただきますと、辛いこと、悲しいことがたくさん起きたとしても、それを「大難を小難にしていただいた」とまず喜んで、そしてさらにこれから先この「節」をどう活かして前に進ませていただこうかと、それが一番大切だということです。
 
5.自分の風邪に不足
 そしてみなさまお分かりかと思うのですが、私、風邪をひきました。一昨日からひいております。その時にふと思いました。私は喘息持ちなのですが、毎年季節の変わり目の10月~11月に大変な風邪をひくんです。その時は病院で喘息用の薬をもらうなど大変なのですが、今年はありがたいことにまったくそんなことはなく絶好調で年を越すことができたので、本当にありがたいとその時は喜んでおったのですが、昨日一昨日いざ風邪をひいてみると、なんでこの月次祭も近いタイミングで風邪ひくんだ...と不足するわけです。しかしふりかえってみると、本来であれば大変な風邪をひかなければならないところを、神様はこんなに軽い、町の売薬を飲めばすぐ治るような風邪にしてくださった。そして、年末年始の大変な時期にひくはずの大風邪をひくことなく、2月までおさえてくださった。そのように考えたならば、本来はありがたく思わなくちゃいけないところなんです。「大難は小難に」ということがきちんと心に納まっておれば。風邪は心が冷たいからだ、不足をしているからだ、と神様おっしゃっているところ。だから温かい心であらねばならない、ということを一昨日ハタと気づきまして。この声じゃ地方もできないし...と不足していたのですが、この時期にこの程度の風邪ですませていただいた。まずはそれを喜ぶ、という大切なことをすっかり忘れておりました。他の教会で高いところから偉そうにいろいろ話をさせていただいても、自分自身のちょっとした風邪ひとつとってもつい不足が出てしまった。あぁ、申し訳ないな。人間というのはこういうものなのか、とあらためて思い知らされたところでございます。
 みなさまにも節や事情いろいろあることと思いますが、まずは「大難を小難に」していただいたことを喜ぶ。そして神様はこの「節」にどういう思いを込めているのか。自分は何を期待されているのか、次になにをさせてもらうべきなのか、という先のことを考える。神様は罰を与えるような存在では決してありません。人間に期待しているからこそ手引きをくださる。そのことに感謝して進んでいくという、信仰の初歩的なところを、こんな話をさせていただいておきながらすっかり忘れていたということです。なので今は、今日は地方ができてありがたい。こうして神殿講話もさせていただきありがたい、とそう思っているところです。こういう心持ちになることが、信仰をしているということなんだろうなと改めて思うわけでございます。

6.新型コロナウイルスのこと
 世間では、新型コロナウイルスがいろいろと騒がれているわけですけれど、一説によりますと、インフルエンザよりも症状は軽いということが言われています。ところが、みんなこれまでにさんざんご守護いただいているにもかかわらず、今回の件で心を倒したりするのでは、神様に対し申し訳ないことだと思います。神様の言葉にもあるんですが、昔はコレラ、コロリと言いましたが、これを流行らせたのは、人間に注意を促し、人間の心を磨いてもらうためにそういうものを出すのだ、とそういうお話もございます。今は新型コロナウイルスで騒いでいるわけですが、その昔はもっと大変な病気がたくさんあったはずです。それを医学の進歩で全部助けてもらった。それも神様の知恵の仕込みということなのですが、おそらく新型コロナウイルスについても近いうちに薬が出てくると思いますが、人間がおごり高ぶって慢心した時に、こういうものをくださっているのかもしれないと、まずは自らを省みなければいけない。
 12月のインフルエンザが流行り始めた時、今年は大流行するだろうという話だったので、憩いの家で予防接種をしてもらったわけですが、ところが今やインフルエンザの「イ」の字も言わなくなっちゃった。その原因は、新型コロナウイルスが怖いから、みんな手洗いをよくするようになったと。そのためにインフルエンザはここ数年で一番少ないんだそうです。お借りした身体を大切にするためにも、身の回りを清潔にして、お借りした身体に感謝しながら使うことが大事。こういうこともお教えくださっているんじゃないかなと思います。どんなことが来ても心倒さず、「大難を小難に」として感謝して日々過ごしていただきたいと思います。
 まだまだ寒い日が続きますので、十分に気をつけて。風邪というのは冷たい心、不足をするからひくのだと、前会長にもいつも聞かされていました。冷たい心を持たない。不足はしない。どんなことでも感謝する。そういう心でまたこの一ヶ月お過ごしいただきたいと思います。
 今月は本当にありがとうございました。

2020年02月12日