2022年(立教185年)3月月次祭神殿講話 ~祈ろう~

 ただ今は3月の月次祭を陽気につとめさせていただきました。今日までまだコロナのまん延防止期間に東京都が入っておりますので、皆さんに教会に無理にお出でしていただかないようにということでお話ししましたけれども、その中でも何人かの方々に来ていただきました。今日、実はCDでみかぐらうたをやらせていただこうかと思っていたんですけれども、幸い皆さんのお陰で賑やかにおつとめをつとめさせていただきました。私も後半おてふりに立たせていただきましたけれど、本当に心が勇んで、やはりおつとめは素晴らしいなあと思いました。少し時間をいただいてお話させていただきますので、お付き合いをお願いいたします。

1.世界中が戦争をしている
 皆さんご承知のとおり、毎日毎日ロシアがウクライナに侵攻したというニュースで大変です。私どもも、生まれた時からベトナム戦争というのがありましたし、ともかくあちこちで常に戦争が起きていました。今回のように今日から戦争が始まる、2月24日から戦争が始まると、今まできれいな街だったのが一瞬にして爆弾の攻撃を受けて廃墟と化してしまうという初めての経験をしました。本当にショックを受けておりますけれども、もちろん私どものようにテレビを観てショックを受けている方と、実際に国を追われた200万人以上の方々のことを考えますと、本当に気の毒で、やっている方は愚かで、本当に悲しい思いがします。そして、これを自分の生活に当てはめてみますと、すぐ分かることがあります。

 私どもは今日もおつとめをさせていただいた。皆さんとお話ができた。お茶を飲めた。そして子供とか孫とかわいい顔でいつも接していることができた。それが当たり前と思っていたのが、今日から突然それが無くなるという、ウクライナの方々は本当にそういう思いをされているわけです。しかしちょっと落ち着いて考えてみましたら、実はアジアではミャンマーという国がそういう状況にあります。また大分前から続いているのがシリアという国です。それからアフガニスタンという国も大混乱の中にあります。そうすると、世界中で本当に穏やかで今日の生活が明日も保証されているような、自由に食べて、また自由に人と会うことができている、明日も間違いなくそれが続くであろうということが保証されている国というのは実は本当に少ないんだな、ということが分かります。

 私なんか「来年の何月の学会に来てください」とか「何月に講演してください」ともう来年の講演依頼を受けています。まあ冗談めかして「生きていれば」なんてことを言ってお受けするんですけれど、当然それまでは当たり前のように生きているだろうという前提でそういう来年のスケジュールも考える。しかし、世界の多くの人たちは、実は来年どころか明日のこと、今日の夜のことすら分からない方たちがいるということを、私たちは考えなくてはいけない。「戦争が終わったから良かったね」や「日本でなくてよかったね」で終わってしまっては、これはこの神様の話を聞いている者としてはいけないと思います。

2.親の思い
 私たちはいちれつきょうだい、神様が親で、その人間は全部きょうだいと教えられています。そのきょうだいがきょうだい同士で喧嘩をしたり、またあるきょうだいが別のきょうだいから一方的にやられてしまったり、あるいはきょうだい同士で何をやっているか分からない状態で、もうぐちゃぐちゃになってしまって生活はおろか命の保証まで無いという、こういうことが今、世界で起きている。これを私は人間の親と子の関係でちょっと考えてみたんですね。

 皆さん、それぞれお子さんがいらっしゃるけれども、子供たちがきょうだいげんかをしたらどうしますか?まず親だったら、よく話し合って、どっちが悪いの?ちゃんと話し合って悪い方が謝ってやめなさい、と言います。普通はそうであればなるほどということで、子供同士で話をしてやめるでしょう。ところが、そのきょうだいの一方がナイフなんか持ち出すようであれば、親としては何が何でもナイフを叩き落としますよね。あるいはその子を置いて他のきょうだいを連れて外へ逃げる。親だったらそういう風にすると思います。これを今、神様の子である人間同士がこういう愚かな戦いをしているのを見て、親である神様はどう思っているかということを、その親の気持ちから考えてみたんですね。もう、ともかく親からしたらひたすら悲しいです。子供が辛い思いをしている、あるいは一方が一方をいじめている。場合によっては命まで奪っている。そんなことは生んだ親から見ればとてもとても悲しくて見ていられない。そうすると親からしたらどうするかというと、もう喧嘩ができないように片方を縛り上げる。また片方が口で答えたら口をおさえる。ということをしてでも、親はその子供たちが戦えないように、喧嘩ができないようにすると思うんですね。これが今のコロナのまん延であるとか、あるいは大きな震災だとか大噴火、そういうものが神様の怒りではないかという風にふと思いました。

 そのように考えると、親からすると子供が喧嘩できないようにするのは簡単です。子供を二人おさえつけてしまえばいいんだから。しかしおさえつけられた子からすると、なぜ自分たちがおさえつけられているのか分からない。そうすると親に対して文句ばかり言う。おそらく今の世界はそんな風になっているかもしれません。なんで神様はいつまでもこんなコロナを流行らせておくのか?と。実際、今日もいつも来ている信者さんが、昨日から奥さん熱が出ており、もしかしたらコロナかもしれないというので行くのを控えます、ということでお出でにならない。そんな風に考えるとですね、皆コロナで自由な生活ができなくなっているのは、もしかしたら身勝手に喧嘩している人間の喧嘩をやめさせるために、神様がされているのかもしれない。あるいは子供や孫が周りもろくに見ずに道路に飛び出ていきそうになると、親はそれを止めますね。いつ車が来るかわからないという危なさを親は分かっているから。ところがおさえられる子供からすれば、なんで自分が行こうとするのを親はおさえるのか、と不足、不満ばかり出てくる。しかし親とすれば、この子はこのままにしておいたら車にひかれてしまうだろうということがわかるからおさえる。

3.誠の心
 ということで、私たちは今、色々なことを見せられています。気候も異常気象、今日なんかは5月の上旬くらいの気候だそうです。しかし先月まではもう例年にない寒さの中、雪が降っていました。これらも実は、人間がこの神様の身体である地球を痛めているから、壊しているから、お前たち壊したらどうなるかということで神様が教えてくださっているのかもしれない。そういう風に考えると、自分たちが今テレビで見ているウクライナの人たちは間違いなくかわいそうです、しかし、もはやテレビで映らないほど戦争が当たり前になっているような、シリアだとかアフガニスタンという国の方々はもっと気の毒かもしれません。そのように考えると、我々のきょうだいが皆世界中で本当に苦しんでいる。であれば、私たちはその人たちを助けなければいけない。しかしアフガニスタンまで行く、ウクライナまで行くことはできません。何ができるかというと、これは毎日朝晩、あの方たちに早く平和が訪れますように、辛い生活をしないで済みますように、ということをお祈りするしかないんですね。

 教会のサイトでそういうことを書きましたところ、お祈りだけというのは非常に無力な気持ちがします、というご意見を頂きました。そのとおりですね。こんな祈りなんか通じるのか。しかし私どもは、おかきさげというのをようぼくになった時に神様からいただきました。その中にこういうお言葉があります。

「誠の心と言えば、一寸には弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものは無い。誠一つが天の理。天の理なれば、直ぐと受け取る直ぐと返すが一つの理。」(おかきさげ)

 誠の心と言えばちょっとには皆弱いように思うだろう。しかし誠ほど堅き、長きものは無い、誠一つが天の理である、と。誠は天に通じる理である。天に通じる理であれば、すぐに受け取る、そしてすぐに返す、これが一つの理である、とおっしゃっている。どういうことかというと、私たちが今、困っている人たちのことを本当に心から神様にお願いした時、つまり子供の一人が、自分のお父さんお母さんに対し、「あの妹が、弟が、隣の子が、本当に悲しんでいる、苦しんでいるから、なんとか助けてあげてくれない?」と真剣に頼んできた時に、その願いをすぐに受け取ってすぐに返してやる、すぐに守護を与えてあげる。そんなに困っている子がいるなら助けてやろう、ということになる。そういう親の力、神様の守護は、その子を助けてくださいと願う子供の誠の心があるから働くのだ、ということを神様は教えてくださっているんです。

 ということは、今日この世界で苦しんでいる人が増えているというのは、実は私たちの誠の心が少ないんじゃないかと私は思うんですね。平和でいることはありがたい、嬉しい、子供が健康で試験に合格したとか、次は進学するとか、あるいは孫が歩き出したとか、孫が喋りだしたとか、こんなに嬉しいことは無いです。しかし、世の中にはその嬉しさを受けられない人たちがいる。だとしたらせめて、その人たちに一日も早く平和が訪れるように神様にどうかお願いします、ということを朝晩しっかりとお願いしてみませんか。そのお願い、人のために祈るというのは「誠」なんです。「誠の心と言えば、一寸には弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものは無い。」とおっしゃってくれている。だとすれば人のために、自分たちが幸せで感謝するということを神様にお礼申しあげると共に、世の中で苦しんでいる人をどうか楽になるように神様お願いしますと、人のためにちょっと祈る時間を朝晩作ってみませんか。それだけで神様は受け取ってくださるとおっしゃっている。結局最後は、そういう子供の祈りに対し、神様がよくお前は人のたすかりを願えたな、と言って神様の御守護がいただけるんです。そういうことを考えると、決して祈りというのは、願いというのは弱いものではありません。

4.祈ろう
 私も朝晩のおつとめの時に、特に今は強くお願いをしています。ところがはっと気が付いた。あぁ、ウクライナだけじゃないんだ、アフガニスタンもシリアもミャンマーも皆苦しんでいる。もっと苦しんでいる所もあるかもしれない。もしかすると、今日、日本というのは世界で一番幸せかもしれない。その幸せな日本に生まれさせてもらった。しかし、日本もわずか70年前はロシアと同じことをやっていました。それが70年過ぎて、本当に戦争の無いこの日本に生まれ育って、毎日安心して暮らすことができています。このありがたさに対し、ただラッキーだった、運が良かった、で済ませてしまっては、信仰している意味が無いと思います。

 そんなことで、今日はぜひ困っている人、辛い思いをしている人、悲しんでいる人が目に入ったならば、その人たちのためにどうか朝晩祈ってみませんか。この祈ろう、ということを私は「すきっと」にも書かせていただきましたけれど、「祈り」という形のことではなく、「皆で祈ろう」、ということを今月一か月、毎日祈るだけでいいです、それを今月一つの目標としまして、来月には神様がどういう御守護をくださるか。平和な日が一日でも早く来るよう、世界の人たちのために祈りを捧げていただきたいと思います。

 そういうことで、今月は苦しんでいる人のために祈ろう、ということを一つの目標としてお暮しをいただきたいと思います。

 どうもありがとうございました。

2022年04月23日