2024年(立教187年)4月教祖誕生祭講話 ~天保9年までの教祖~

1.神がかりになるまでの教祖
 本日は4月12日、先ほど祭文にもお読みしましたけれども、寛政10年(1789年)4月18日、空に五彩の雲たなびく中、教祖中山みき様が前川家にお生まれになりました。その教祖が生まれた日を祝って、今日は誕生祭ということで、いつもと違って教祖にケーキをお供えしてあります。後でおさがりをいただきたいと思います。
 教祖は41歳、天保9年から90歳までの50年間にわたってご苦労をいただいたわけですが、その神がかりになるまでの40年間のお話をさせていただきたいと思います。
 皆さんご承知のとおり、教祖は父を前川半七正信さんとして、三昧田の前川家にお生まれになりました。そして小さい頃から近所の子どもに遊んであげたり、あるいは自分の持っているものを子どもにあげたりということで、本当に近所からも珍しい優しい子だと言われていたわけです。そのうち教祖のその心と働きを感心した方から紹介されて、中山家の善兵衛様の所に嫁がれたわけです。善兵衛様とは27、8歳の歳の差がありますけども、教祖は13歳の時に中山家にお嫁入されました。
 そしてその後は、まだ13歳ですけれども、舅、姑さんによく仕えて、舅さんの髭なんかも剃ってあげたそうです。その他に男のやる荒田起こしまでやったり、色々なことをすべて一人の身で任せられており、16歳、わずか3年後には善兵衛様、舅、姑から家の家計を全部任された。まさに主婦になったわけです。その教祖が16歳で主婦になってからは、中山家は庄屋さんですから作男もいっぱいいる。そして使っているお女中さんもいっぱいいる。そんな中でうまく皆さんの気持ちを立てながら中山家を仕切っておりました。
 そんな中で教祖が神がかりになる前に三つの大きなエピソードがあります。一つは、米泥棒が入った。米泥棒というのは本当に重罪でして、その米泥棒が捕まって皆の前へ引きずり出された時に、教祖はそこの家の御新造さんですから、「貧しいからといってその盗む心が気の毒や」と、盗んだのがけしからんというのではなくて、盗んだ心が気の毒だと言ってその泥棒を許してあげたという逸話があります。
 そしてまた、近所の足達家の長男照之丞さんを預かったときの話です。足達家は何人も子どもが生まれるんだけれども育たない。その足達家の子どもを預かって、中山家で教祖にお育ていただいた。そうしたある時、照之丞さんが病気にかかりました。黒疱瘡といって大変な天然痘です。当時黒疱瘡というのは、かかった人のほとんどが亡くなってしまう。そんな中で教祖は、近所の三島神社に参って一所懸命祈った。そして、預かった子どもをどうしても亡くすわけにはいかないということで、うちの子どもを差しあげるから、それでも足らなければ私の命を差しあげます、と言ってお願いをした結果、照之丞さんは見事に回復なされました。預かり子を自分の子どもや自分の命を捧げてまで助かってもらいたいというその思い、これはまだ神がかりになる前です。その足達家が今の足達神具店です。
 そして三番目は、庄屋さんですから物もらい、今でいう乞食の、赤ん坊を背負った女乞食が、門口に立った。そして気の毒だからその女性に食べ物をあげた。そして帰る時に教祖がちょっと待ちなされや、と言って止めて、あんたにはあげたけれど背中の子どもには何もあげていない、と言って、真っ黒で汚かったと思いますけど、子どもを背中から降ろして教祖自ら自分の乳房を含ませて子どもにお腹いっぱい飲ませてあげたという逸話があります。
 これは皆さん、教祖が神がかりになってからとお思いでしょうけれど、そうじゃないんです。40歳以前の話でして、それほどまでにして人のため、人を救うという、あるいは人に対する思いやりが本当に深い。そしてあと一つ、中山家の作男で働かない作男がいた。いつも怠けている。皆が色々言っても全然怠けて動かない。ところが教祖がその作男に対していつもいつも会うとご苦労さん、ご苦労さんやなあという声をずっと優しくかけておった。そうしたらその作男はある時突然目覚めたかのように働くようになった。全然働かないでいつもいつも朝寝ばかりしている作男に教祖は優しく声をかけてその人間をまっとうな人間にしたという、こういう話もあります。

2.神がかりになった後の教祖
 そんな中で、教祖は元々、元始まりの話で言うといざなみのみこと様の魂をお持ちの方だけれども、ご本人はもちろんそんなことは知らない。そしてそんな中で親神様がそういった人間としての素晴らしい心を見込んで教祖に天保9年10月26日に月日のやしろとして神様が下がったわけです。そういうように教祖は神がかりになる前からも今こうやって皆が聞いてもなるほどなあ、すごいなあと思うような逸話がいくつもあります。そしていよいよ今度はこんな素晴らしい御新造さんが、神がかりになられてからは、突然貧に落ち切れ、立派な家があったり高塀があったり蔵があったりしたのでは難儀する者の気持ちが分からない、貧に落ち切れということで41歳、神がかりになってからどんどんどんどん中山家は落ちぶれていきます。
 そして20年経った時にはほとんどすべてがなくなった。田んぼ、畑までも年切質に出し、何もなくなってしまった。そして来る人も誰もいない。そして神様が天保9年10月26日に、中山家の人たちに対し、今は分からないだろうけれど、20年30年経ったらばなるほどと思う日が来る、ということをおっしゃられた。そこから25年目くらいの時に米4合を持ってお礼に来られた信者さんが一人いた。全部施しつくして、貧に落ち切って、人に笑われそしられて、親類縁者からも縁を切られて、そしてその25年目くらいにようやく4合のお米を持って信者さんが一人来た。しかしその後でも続くわけではありません。まさに神様がおっしゃったように、30年経ってから教祖の話を聞く人間が出てきたわけです。
 そうすると、先ほど申しあげた教祖が神がかりになる前の本当に優しい教祖が、神がかりになってからはとんでもないことになった。教祖伝にもありますけれど、前川家に嫁に来た人間に全部財産を取り払われてしまうなんてことは到底認められないと、親族が集まって怒るわけですが、それも親神様は聞かずに教祖に凛として返事をさせる。それによって親類縁者とはまったく縁が切れてしまいました。中山家の親類というのは、庄屋さんですからいっぱいいたはずです。残っているのは前川家一軒だけ。他の人は全部親戚ではなくなってしまった。縁を切られてしまった。

3.案じることはいらない
 その神がかりになる前の教祖であれば、本来ならばこんなことをしたら皆が困るだろうというところを、神一条のこころで神様の言われるがままにすべての財産を取り払ってしまう。そしてそれも世界、人助けのために取り払ってしまう。そしてそれから50年間のご苦労が始まりましたね。それが50年のひながたということになるんですが、先ほど申しあげたお話は実は神がかりになる前の話でひながたではないんです。そしてその教祖が50年間のひながたの道を通られて、明治20年陰暦1月26日に身を隠された20年後に、こういうおさしづがあります。

「さあ/\皆よう思やんをして掛かれば危ない事は無い。影は見えぬけど、働きの理が見えてある。これは誰の言葉と思うやない。二十年以前にかくれた者やで。なれど、日々働いて居る。案じる事要らんで。勇んで掛かれば十分働く。心配掛けるのやない程に/\。さあ/\もう十分の道がある程に/\。」(明治四十年五月十七日)

 教祖、20年前に身を隠したものだけれど、「なれど、日々働いて居る。案じる事要らんで。勇んで掛かれば十分働く。」とこうおっしゃっているんですね。教祖は姿は見えないけれど、案じることはいらない。そして大事なことは「勇んで掛かれば十分働く。」とおっしゃっているんです。ですからどんなことでも勇んで、喜んで、神様に対して喜んでなんでもやらせていただきます、という思いで何かいただいたら勇んで喜ばせていただく。そして勇んで動けば、十分に働くとおっしゃってくださっています。
 この教祖の40年、神がかりになるまでの優しい素晴らしいお嫁さんが、神がかりになったらむしろこの嫁のお陰で財産がなくなった、ということになるわけですね。そしてその50年経った後に、それだけのことを伏せ込んだから、今度は姿は見えないけれども皆のために十分働いているぞということをおっしゃってくださっている。こんなに心強いことはないと思います。

 神がかりになる前には人間の誰の目から見ても非の打ちどころのない素晴らしい方であったのに、後ではこんなに親類縁者や世間からつらく当たられるようなことをしたという、その教祖のお心に思いを馳せてください。それはひとえに世界を助けるためだったのだということを、どうかこの4月の誕生祭の機会にしっかりと理解してください。
 教祖という方は、最初から最後まで人知を超えたとんでもない存在だった、ということでは決してないんです。少なくとも神がかりになる前の教祖は、間違いなく立派な方ではあったけれど、人間の目から見て理解ができた方なんです。そんな方が、神がかりになった後は、人知を超えてここまで徹底的におやりになったという、この落差の大きさを、私たちはあらためて理解すべきです。
 世界を助けるため、教祖はここまでなされたんだ、しかも監獄に18回も行かれたという、そういう教祖のご苦労のお陰で私たちは今、楽しく明るく生活することができているということ。この4月の誕生祭の時に、改めてそのことに思いを馳せ、そして十分勇んで喜んで、私たちの身の回りを取り巻くすべてのことにかかっていただきたいと思います。

 ようやく暖かくなってきました。体調を壊さないよう、どうかまた1か月お暮しをいただきたいと思います。今月はどうもありがとうございました。

2024年06月23日