2024年(立教187年)8月月次祭講話 ~喜ぶ心、満足する心~

1.感謝の心、喜ぶ心
 ただいまは8月の月次祭を賑やかにつとめさせていただきました。本当に暑いところ、なんとエアコンが1台故障してしまいました。本当にどうなるかと思いましたけれど、もう1台でも生きていたのでなんとかなっております。むしろこういう時こそ、普段のエアコンの有難さをしっかりと御礼を申しあげましょう。エアコンのお陰で涼しいということを考えたら、エアコンにも感謝ができる。そういう思いでひとつ、エアコンの故障も喜んで受けとめさせていただきましょう。

 テレビではオリンピックをやっています。私はオリンピックはまぁ別にいいや、と思っていたんですけれど、皆さんがんばってメダルを取った、入賞したということを聞きますと、さすがに心嬉しくなりまして、ついつい観てしまいます。その時に気が付いたんです。例えば金メダル・銀メダル・銅メダルを取った人たちが、なんて言っているかというと、「もう本当に人生で一番うれしい、こんなに今までうれしかったことはない」と言う。ですけれど、必ず加えて、「皆さんのお陰で今日まで来られました」と皆言うんです。両親のお陰、コーチのお陰、というようなことを皆言っている。
 聞いていてこちらも気分が良くなるのは、結局メダルを取れた人ですら、私が取ったんだ、どうだすごいだろう、という人は一人もいない。皆周りに感謝して喜んでいる。これがきっと私たちの気持ち、心を打つんだと思うんです。
 例えば宝くじで一億円当たって喜んでいる人に対して私たちは別に感動はしない。オリンピックのように喜びの中に感謝があるということ、これが皆さんを感動させるんだと思うんです。
 おそらくそれまでは、面と向かって親に対して「お父さんお母さんありがとう」なんて言ったことない選手たちが、テレビの画面で「お父さんお母さんありがとう」と言う。これがやはり、皆さんを感動させるのではないかな、と思います。
 おさしづに、喜ぶ心ということについて、こういうおさしづがあります。

「皆寄り合うて、喜ぶ心を以てすれば、神は十分守護するとさしづして置く。」
(明治三十年十一月二十日)

 「皆寄り合うて」、集まって、「喜ぶ心を以てすれば」、どんなことでも喜ぶ心をもって何かをすれば、神は十分に守護をするとさしづする、とこういう風におっしゃっています。
 だから自分だけではなくて楽しいことは皆で集まって喜び合う。それを見た神様が、それであれば、皆が喜ぶ心をもってすれば、神は十分に守護をする。そういう風に喜ぶという心が、先ほど言ったように、宝くじに当たって喜ぶというのとは違うんです。努力をして、またその努力をさせてくれた環境、ご両親ですとか、あるいは社会ですとか、あるいは学校ですとか、そういう勉強をさせてもらうということに関しての感謝があって、その感謝の心をもって喜ぶということであれば、神は守護をするとおっしゃっています。

2.満足の心
 そして喜んだ上で満足をする。その満足についてもこういうおさしづがあります。

「満足というものは、あちらでも喜ぶ、こちらでも喜ぶ。喜ぶ理は天の理に適(かな)う。適うから盛ん。」
(明治三十三年七月十四日)

 どんなことがあっても満足をする、喜んでいく。その人が今、自分の境遇を満足して喜んでいれば、あちらへ行っても喜ぶことができる、またあちらを喜ばせることができる。こちらでも皆を喜ばせることができる。喜ぶということは天の理である。天の理だから、かなう。「適うから盛ん。」とおっしゃるんです。
 喜んで満足して、皆さんを喜ばせていけば、天の理に適う。天の理に適えば盛んになるんだ、と。その人の周りは盛んになる。人が集まってくる。お店でもどんどん流行ってくる。それを文句たらたらで物を売ってたって誰も喜ばないから誰も寄ってこない。自分が心から喜んで満足する、この大元は神様から借りているというこの身体でしょう。この健康な身体を借りている。暑いからと言って汗が出る。こんな健康な身体をお借りしているという、これがまず喜ぶ心。喜んでいるから、それ以外のことがあっても、こんな元気な身体を貸していただいていているんだから、自分は不足しない。満足です。エアコンの一台くらい壊れたって私は汗が出てくるのが満足です、ありがたい。
 こういう風に天の理に適えば、これは盛んになるんだ、と納得をするから神様は助けてくださる。こういうことでどんなことにでも喜んで、満足する。これをぜひ今月の一つの生活の指針として暮らしていただきたいと思います。

3.出版について
 ところで私は本を出版しました。今日皆さんに一冊ずつ差しあげます。「元の理とみかぐらうた」という本です。これ本当に天理教のことばかりなんですが、最初の「はじめに」というところと後ろの「あとがきに代えて」という、ぜひそこを読んで欲しいんですが、なぜこの本を書いたか、ということが書いてあります。
 しかもこの本は普通の出版社から出したんです。天理教の道友社ではなく、普通の出版社から出しました。その出版社の編集者がこの本を読んで、天理教ってすごい教えですね、とおっしゃっていました。それで天理へ帰りたいと言うので来月おぢばを案内しますけれど、まったくの未信者でもこれ、天理教のみかぐらうたと元の理が書いてありますけれど、これを読んで本当にすごい教えですね、と。また、何よりもおだやかな、非常に押しつけがましくない教えですね、ということを言っておりました。
 今日のみかぐらうたにもありましたけれど、「むりにこいとハいはんでな いづれだん/\つきくるで」というお言葉もあります。来ない人に、来たくない人に無理に来いなんて言わない。ただ段々についてくるようになるから、とそういう教えであるとあります。私はあとがきのところで、「本書はある程度天理教を信仰している方でないと理解が難しい内容である。しかし、元の理を世界中の人に伝えたいと考え、未熟をかえりみず、あえて出版することとした。」と書きました。つまり元の理というのは天理教の道友社に行かないと買えないけど、この元の理というのは人類普遍の真理ですから、一般の出版社で出すことに意味があるんだ、ということで出しました。
 それで早速色々あちこちから注文が来ております。そして来月の陽気にも宣伝が出ることになりました。そんなことで私が常々思っていた、この教えは元の理という、元始まりの元の理の、この世はどろ海であったというところから始まる、そこから人間を創り世界を創り、宇宙を創ってきた。というその壮大な創世記で、今日踊っていたみかぐらうたに全部入っているんです。だからそのみかぐらうたをしっかり理解すれば、元の理がわかるという意味で書かせてもらいました。
 従来の天理教の先生方の立派な本もいっぱい出ていますけれど、どうも何となく私は納得できなかったので、今回あえて出させてもらいました。天理教の中枢の方々にもお送りしてありますけれど、また来月、どんな批評が出てくるか楽しみにしております。まず日帝分教会の信者さんに差しあげる、これが第一号です。まだどなたにも差しあげていません。この教会の方々にまず真っ先に読んでいただきたいと思います。表現難しいようですけれど、やさしく書いたつもりです。

4.おつとめの意味
 「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」というのは21回あるんです。私はあの「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」というのは本当に嫌だった。自分が悪しきを払ってどうか神様私を助けてください、というような思いだった。
 ところがある時、気が付いた。先ほど諭達にもありましたけど、人助けたら我が身助かるというのがこの教えなんですね天理教は。助かるためには人を助けなければだめだ。その人を助けると神様が上から見ていて、自分を助けてくれる。人を助けたら我が身助かるという。そうすると「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」というのは自分を助けてくださいではなくて、誰か今病んでいる人、今苦しんでいる人を頭に浮かべて、どうか神様あの人の悪しきを払って助けてあげてくださいとして21回拝む。親であれば子どものために祈る。子であれば親のために祈る。夫であれば妻のために祈る。妻であれば夫のために祈る。つまり人のため、兄弟のため、他人のことを21回神様にお願いする。ああそうか、と初めて納得ができて今は「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」が抵抗なくできるようになった。
 常に今病んでいる人、苦しんでいる人を頭に浮かべて、神様どうかあの人を助けてあげてくださいと。特に人のために祈るとおつとめがしやすいんです。それを実は分からなくてついつい自分のことばかり祈っていた。というそんなシンプルなことも私たちは分かっていなかったということが中に書いてあります。これはどういう意味なのか、ということが。

5.信仰というもの
 ということでこれをしっかり読んでいただいて、普段しているおつとめがどれだけありがたいことなのか、どれだけ自分のためになるのか、どれだけ世のためになるのかということをおわかりいただきたい。
 未熟な者が書いた本なので、この本をたたき台にして、読者の皆さんが「これ違うよ」と言って次の新しい解釈をする。これこそが実は信仰というものなんです。言われたことだけをしていてはだめ。教理を自分の心でしっかりと捉えて、神様はこういう時にどうされるんだろう、どう思うんだろうということを自分で考えた上で神様にお願いをする。これが信仰です。人に言われたとおりにやったって信仰じゃない。自分自身が自らの思いで神様と向かい合って、「神様、こういう時にどうすればいいんですか」と聞くと必ず神様は答えてくれます。本気で神様にお願いすれば。
 今まで、何となく十二下り長くて早く終わらないかなあと思うこともあったと思いますが、この本をしっかりと読んでいただければ、今まで流していたおうたの一つひとつを自分の心でしっかりと捉えられるようになります。そうかこれはこういうことなのかと、人のためにおつとめをしているんだということが分かります。皆さん、いくら年を取ったって、足腰が立たなくなったって、祈りはできます。おつとめはできるから、どうか人のために祈ってください。そうするとそれを見て神様が、まだお前は世の中に必要だということで生かしてくれます。

 本当に暑くて私もまったく出るのが嫌で、旅行から帰ってきてから十日くらいまったく外に出ないので、さっき久しぶりにひげをそりました。家を出るのが嫌になるくらいの暑さですけれど、そんな中、今日は新しい方もお出でになっているので、直会楽しく過ごしていただきたいと思います。暑いですけれど一か月またがんばってください。

 どうもありがとうございました。

2024年09月23日