2023年(立教186年)12月月次祭神殿講話 ~年限というもの~

1.今日一日元気でいられたこと
 今日は12月の月次祭。12か月があっという間に過ぎてしまいました。まさに今年の1月から教祖140年祭に向けての三年千日が始まったわけですが、昨年10月に真柱様から諭達第四号をお示しいただきまして、それからあっという間に1年が経ってしまいました。
 あっという間と言いますけれど、つい先日私の親友が出直しました。中学から60年以上にわたって付き合ってきた彼が出直しをされました。患ってはおらず、1か月前にも一緒に温泉に旅行に行って、また来年も来ようなあ、ということで別れたんですが・・・
 私たちは、来年とか再来年とか、当たり前に来るように思っています。私なんかも今、一番先の予定が、2年後の10月に熊本での講演です。講演を頼むと言われて「はいはい」と簡単に受けたんですが、考えたら2年後に熊本まで行ける身体をお貸しいただいているかどうか、そもそも命があるかどうかも分からない。
 そんなわけで、親友が今まで当たり前のように生きてきたけれど、ある日突然命というのは途切れるものです。そうすると「あっという間に」とか「ぼうっとしている間に」という言葉で簡単に過ごしていますけれど、このあっという間とかぼうっというのがどれだけありがたいことか。一日一日の積み重ねで今日12月12日を迎えられた。この日帝でも、残念ながら、先月責任役員さんがお出直しをされました。教会の百周年に間に合わずにお出直しをされました。皆、ついつい来年の今頃も何かできる、約束も来年の春の約束、夏の約束、皆簡単にするけれども、神様から丈夫な身体をお貸しいただいてこその話。ということであれば、今日一日元気でいられた、そしてまた来年旅行に行けた、どれだけありがたい御守護かということが分かってくるわけです。
 ところが、残念ながら私もそんなこと分かりだしたのはこの年齢になってからです。今までは生きているのが当たり前、一日一日何もしなくたって時間は過ぎていくということでおりましたけれど、神様のお言葉の中に「年限」という言葉があります。年限区切って御守護をいただこうという、その私たちにとって一番の年限は今、三年千日を一所懸命やらせてもらう。そしてこの一所懸命やらせていただくことによって、三年千日の再来年1月26日にはものすごい御守護をいただく、ということが私どもの「年限」の意味なんですね。今拝読した諭達にもありましたように、「人救けたら我が身救かる」、毎日毎日誰かどなたかを助けさせていただく。身体が動かなかったら心で、言葉で助けさせてもらう。ということでその一日一日の年限というのがいかに大事かというおさしづがあります。

2.年限でできるようになる
「出けん者言うた処が出けん。なれど、年限で出けるようになる。今日種を蒔いて今日に出けん。旬を見て生える。又実が出ける。これ聞き分け。」(明治31年5月3月28日 おさしづ)

 できない者に、お前できないなあと言ったところでできないだろう、と。なれど、年限でできるようになる。今日種をまいたって今日にはできないだろうと。旬を見て生えるんだ、と。旬というのは季節。しかし種をまいてその旬、草花で言えば暑い時、寒い時を過ぎて旬になって初めて実がなる。大事なことはまず種をまくこと。種をまいてから年限をかけること。それではじめてできてくるということなんですね。

「堅きでも年限移りて来れば柔りこうという。年限の道伝うて来れば柔りこう成り、気にしてはならん。」(明治24年6月6日 おさしづ)

 また、堅いものでも年限が移ってくれば柔らかくなるよ、と。年限の道、しっかりと神様の話が伝わってくれば柔らかくなる。堅いから今できないだろうとしても気にしてはならん、というおさしづがあるんです。一人ひとりの一日一日が命ですけれども、これをしっかりと通っておれば、神様に祈っておれば、年限の道が伝わってくれば、神様のことが一所懸命伝わってくれば、必ず柔らかくなる。今堅いからといって、今うまくいかないからといって気にしてはならんというお言葉です。ありがたいですね。何かしなきゃ楽にならないとか、いつまでたってもだめだなんて言わない。年限の道をじっくり年限をかけてくれば、「堅きでも年限移りて来れば柔りこうという。」というお言葉をいただいています。
 私なんかは特に教会に生まれさせてもらって教会で育っていますから、朝晩嫌でも、嫌でもと言ったら叱られてしまいますけれども、嫌でも朝づとめ夕づとめはする。しかし神様はその年限がしっかりしてくれば堅いものでも柔らかくなるんだ、あと旬を見て生えるんだ。だから毎日毎日皆さん誰かのために祈る。誰かのために手伝いをする。誰かのために神様にお願いをする。こういうことで毎日毎日年限を積んでいれば、必ず旬を見て生えるし、年限が移ってくれば柔らかくなる、というお言葉をいただいています。
 だから私たちはぼうっと生きているようだけれども、そのぼうっというのも神様はきちんと意味のある日にちとして私たちに与えてくれているんです。本当にぼうっとして何も考えず、誰のためにもならず悪口を言い、不足を言い、で通っていれば神様はこの年限を与える必要がなくなってしまいます。今日は何でもなかったといっても喜ぶ。何か一つ良いことがあったら喜ぶ。誰かが幸せになったと言ったら喜ぶ。この心の動きが年限を伝わってくるということだと思います。

3.いんねんを悟る
 そんなことで今年一年、私ぼうっとしたつもりではいましたけど、お陰様で朝晩皆さんの、信者さんのことや世界のことをお祈りができる。それをやってきただけで神様は365日年限、ちゃんと一日一日しっかりやってきたなあということで、同じ年齢でも出直すものもいれば病んでるものもいる。そんな中で元気にこういうおつとめをさせていただける。こうしたご守護を考えますと、本当に一日一日を感謝して通らせていただきたいと思います。
 先月皆様にもお配りした、日帝分教会百周年記念の本を知り合いに配らせてもらいました。皆すごい壮絶な中通ってきたんだなあとか、よく書いたなあとか言われました。私は別に恥と思って書いてません、神様のことですから。でも外から見るとそういうことで全部しっかりと我が家のいんねんを書かせてもらった。やっぱりこういういんねんというのはしっかりと悟って隠すことなく、そのおかげで自分たちの今があるんだということを考えて、あの百年史というのを作らせてもらったんです。あの百年のあの方たちの支えがあったからこその今なんです。
 皆さんの家もそれぞれそうです、親があって今日の日がある。親がどんな苦労をして通ってくれたか分からない、親は子どもに苦労のことを言いません。そんな中でも毎日毎日親に対して感謝をする。他の人に感謝をする。親であれば子どもに感謝する。子どもがどんなに悪口を言おうと何をしようと手一つ差し伸べてくれる。お皿一枚持ってきてくれる、これだけだってありがたいことですからね。どんなことでも喜んで通らせていただくということを、今年一年の締めくくりに改めて確認するとともに、お互い感謝の気持ちを忘れずに喜べる日々を通っていきたいと思います。

 本当にこの一年届かぬものでありながら皆さんのお陰でつとめも果たすことができました。また来年もどうぞよろしくお願いいたします。ありがとうございました。

2024年03月03日