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2024年(立教187年)8月月次祭講話 ~喜ぶ心、満足する心~

1.感謝の心、喜ぶ心
 ただいまは8月の月次祭を賑やかにつとめさせていただきました。本当に暑いところ、なんとエアコンが1台故障してしまいました。本当にどうなるかと思いましたけれど、もう1台でも生きていたのでなんとかなっております。むしろこういう時こそ、普段のエアコンの有難さをしっかりと御礼を申しあげましょう。エアコンのお陰で涼しいということを考えたら、エアコンにも感謝ができる。そういう思いでひとつ、エアコンの故障も喜んで受けとめさせていただきましょう。

 テレビではオリンピックをやっています。私はオリンピックはまぁ別にいいや、と思っていたんですけれど、皆さんがんばってメダルを取った、入賞したということを聞きますと、さすがに心嬉しくなりまして、ついつい観てしまいます。その時に気が付いたんです。例えば金メダル・銀メダル・銅メダルを取った人たちが、なんて言っているかというと、「もう本当に人生で一番うれしい、こんなに今までうれしかったことはない」と言う。ですけれど、必ず加えて、「皆さんのお陰で今日まで来られました」と皆言うんです。両親のお陰、コーチのお陰、というようなことを皆言っている。
 聞いていてこちらも気分が良くなるのは、結局メダルを取れた人ですら、私が取ったんだ、どうだすごいだろう、という人は一人もいない。皆周りに感謝して喜んでいる。これがきっと私たちの気持ち、心を打つんだと思うんです。
 例えば宝くじで一億円当たって喜んでいる人に対して私たちは別に感動はしない。オリンピックのように喜びの中に感謝があるということ、これが皆さんを感動させるんだと思うんです。
 おそらくそれまでは、面と向かって親に対して「お父さんお母さんありがとう」なんて言ったことない選手たちが、テレビの画面で「お父さんお母さんありがとう」と言う。これがやはり、皆さんを感動させるのではないかな、と思います。
 おさしづに、喜ぶ心ということについて、こういうおさしづがあります。

「皆寄り合うて、喜ぶ心を以てすれば、神は十分守護するとさしづして置く。」
(明治三十年十一月二十日)

 「皆寄り合うて」、集まって、「喜ぶ心を以てすれば」、どんなことでも喜ぶ心をもって何かをすれば、神は十分に守護をするとさしづする、とこういう風におっしゃっています。
 だから自分だけではなくて楽しいことは皆で集まって喜び合う。それを見た神様が、それであれば、皆が喜ぶ心をもってすれば、神は十分に守護をする。そういう風に喜ぶという心が、先ほど言ったように、宝くじに当たって喜ぶというのとは違うんです。努力をして、またその努力をさせてくれた環境、ご両親ですとか、あるいは社会ですとか、あるいは学校ですとか、そういう勉強をさせてもらうということに関しての感謝があって、その感謝の心をもって喜ぶということであれば、神は守護をするとおっしゃっています。

2.満足の心
 そして喜んだ上で満足をする。その満足についてもこういうおさしづがあります。

「満足というものは、あちらでも喜ぶ、こちらでも喜ぶ。喜ぶ理は天の理に適(かな)う。適うから盛ん。」
(明治三十三年七月十四日)

 どんなことがあっても満足をする、喜んでいく。その人が今、自分の境遇を満足して喜んでいれば、あちらへ行っても喜ぶことができる、またあちらを喜ばせることができる。こちらでも皆を喜ばせることができる。喜ぶということは天の理である。天の理だから、かなう。「適うから盛ん。」とおっしゃるんです。
 喜んで満足して、皆さんを喜ばせていけば、天の理に適う。天の理に適えば盛んになるんだ、と。その人の周りは盛んになる。人が集まってくる。お店でもどんどん流行ってくる。それを文句たらたらで物を売ってたって誰も喜ばないから誰も寄ってこない。自分が心から喜んで満足する、この大元は神様から借りているというこの身体でしょう。この健康な身体を借りている。暑いからと言って汗が出る。こんな健康な身体をお借りしているという、これがまず喜ぶ心。喜んでいるから、それ以外のことがあっても、こんな元気な身体を貸していただいていているんだから、自分は不足しない。満足です。エアコンの一台くらい壊れたって私は汗が出てくるのが満足です、ありがたい。
 こういう風に天の理に適えば、これは盛んになるんだ、と納得をするから神様は助けてくださる。こういうことでどんなことにでも喜んで、満足する。これをぜひ今月の一つの生活の指針として暮らしていただきたいと思います。

3.出版について
 ところで私は本を出版しました。今日皆さんに一冊ずつ差しあげます。「元の理とみかぐらうた」という本です。これ本当に天理教のことばかりなんですが、最初の「はじめに」というところと後ろの「あとがきに代えて」という、ぜひそこを読んで欲しいんですが、なぜこの本を書いたか、ということが書いてあります。
 しかもこの本は普通の出版社から出したんです。天理教の道友社ではなく、普通の出版社から出しました。その出版社の編集者がこの本を読んで、天理教ってすごい教えですね、とおっしゃっていました。それで天理へ帰りたいと言うので来月おぢばを案内しますけれど、まったくの未信者でもこれ、天理教のみかぐらうたと元の理が書いてありますけれど、これを読んで本当にすごい教えですね、と。また、何よりもおだやかな、非常に押しつけがましくない教えですね、ということを言っておりました。
 今日のみかぐらうたにもありましたけれど、「むりにこいとハいはんでな いづれだん/\つきくるで」というお言葉もあります。来ない人に、来たくない人に無理に来いなんて言わない。ただ段々についてくるようになるから、とそういう教えであるとあります。私はあとがきのところで、「本書はある程度天理教を信仰している方でないと理解が難しい内容である。しかし、元の理を世界中の人に伝えたいと考え、未熟をかえりみず、あえて出版することとした。」と書きました。つまり元の理というのは天理教の道友社に行かないと買えないけど、この元の理というのは人類普遍の真理ですから、一般の出版社で出すことに意味があるんだ、ということで出しました。
 それで早速色々あちこちから注文が来ております。そして来月の陽気にも宣伝が出ることになりました。そんなことで私が常々思っていた、この教えは元の理という、元始まりの元の理の、この世はどろ海であったというところから始まる、そこから人間を創り世界を創り、宇宙を創ってきた。というその壮大な創世記で、今日踊っていたみかぐらうたに全部入っているんです。だからそのみかぐらうたをしっかり理解すれば、元の理がわかるという意味で書かせてもらいました。
 従来の天理教の先生方の立派な本もいっぱい出ていますけれど、どうも何となく私は納得できなかったので、今回あえて出させてもらいました。天理教の中枢の方々にもお送りしてありますけれど、また来月、どんな批評が出てくるか楽しみにしております。まず日帝分教会の信者さんに差しあげる、これが第一号です。まだどなたにも差しあげていません。この教会の方々にまず真っ先に読んでいただきたいと思います。表現難しいようですけれど、やさしく書いたつもりです。

4.おつとめの意味
 「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」というのは21回あるんです。私はあの「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」というのは本当に嫌だった。自分が悪しきを払ってどうか神様私を助けてください、というような思いだった。
 ところがある時、気が付いた。先ほど諭達にもありましたけど、人助けたら我が身助かるというのがこの教えなんですね天理教は。助かるためには人を助けなければだめだ。その人を助けると神様が上から見ていて、自分を助けてくれる。人を助けたら我が身助かるという。そうすると「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」というのは自分を助けてくださいではなくて、誰か今病んでいる人、今苦しんでいる人を頭に浮かべて、どうか神様あの人の悪しきを払って助けてあげてくださいとして21回拝む。親であれば子どものために祈る。子であれば親のために祈る。夫であれば妻のために祈る。妻であれば夫のために祈る。つまり人のため、兄弟のため、他人のことを21回神様にお願いする。ああそうか、と初めて納得ができて今は「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」が抵抗なくできるようになった。
 常に今病んでいる人、苦しんでいる人を頭に浮かべて、神様どうかあの人を助けてあげてくださいと。特に人のために祈るとおつとめがしやすいんです。それを実は分からなくてついつい自分のことばかり祈っていた。というそんなシンプルなことも私たちは分かっていなかったということが中に書いてあります。これはどういう意味なのか、ということが。

5.信仰というもの
 ということでこれをしっかり読んでいただいて、普段しているおつとめがどれだけありがたいことなのか、どれだけ自分のためになるのか、どれだけ世のためになるのかということをおわかりいただきたい。
 未熟な者が書いた本なので、この本をたたき台にして、読者の皆さんが「これ違うよ」と言って次の新しい解釈をする。これこそが実は信仰というものなんです。言われたことだけをしていてはだめ。教理を自分の心でしっかりと捉えて、神様はこういう時にどうされるんだろう、どう思うんだろうということを自分で考えた上で神様にお願いをする。これが信仰です。人に言われたとおりにやったって信仰じゃない。自分自身が自らの思いで神様と向かい合って、「神様、こういう時にどうすればいいんですか」と聞くと必ず神様は答えてくれます。本気で神様にお願いすれば。
 今まで、何となく十二下り長くて早く終わらないかなあと思うこともあったと思いますが、この本をしっかりと読んでいただければ、今まで流していたおうたの一つひとつを自分の心でしっかりと捉えられるようになります。そうかこれはこういうことなのかと、人のためにおつとめをしているんだということが分かります。皆さん、いくら年を取ったって、足腰が立たなくなったって、祈りはできます。おつとめはできるから、どうか人のために祈ってください。そうするとそれを見て神様が、まだお前は世の中に必要だということで生かしてくれます。

 本当に暑くて私もまったく出るのが嫌で、旅行から帰ってきてから十日くらいまったく外に出ないので、さっき久しぶりにひげをそりました。家を出るのが嫌になるくらいの暑さですけれど、そんな中、今日は新しい方もお出でになっているので、直会楽しく過ごしていただきたいと思います。暑いですけれど一か月またがんばってください。

 どうもありがとうございました。

2024年09月23日

2024年(立教187年)7月中元祭講話 ~八つのほこりと心の理~

1.八つのほこり
 今日は、天理教の中で、日常的に生活する際に一番大切なものとして、「八つのほこり」というものがありますので、これについてお話しましょう。
 我々は毎日毎日、八つのほこりを積んでしまうので、それを毎日はらいましょう、毎日はらっていれば心は常に明るくて陽気に暮らせるんだけれど、それがついついほこりが溜まってしまうと「悪しき」ということになって、病とか色々な事情を見せられることになる。皆さんご承知かと思いますがもう一度思い出してください。

「をしい、ほしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」

 「をしい」というのは、神様から与えられたものを大事にするのは良いんですけれど、人に出し惜しみをする、出さなきゃいけないことを出し惜しみする。あるいは働かなければいけないのに身惜しみをする。これが「をしい」という心。
 次に「ほしい」という心。自分に持っていないのに、自分にあたわっていないのに人の持っているものを欲しいと思う心。
「かわい」。人様のお子さんをかわいいというのは良いですけれど、自分の子だけかわいい、あるいは自分だけかわいい、これがだめです。人のことをかわいがるのは良いけれど、自分の家族や自分だけかわいがるのはいけない。
 それから「にくい」。にくいというのは心の中で誰かを憎んでしまう。憎む心というのはだめです。
 「うらみ」というのは、心の中にずっと沈んでいきます。自分がもしかしたら悪いのに、あの人のせいで私はこうなった。それが「うらみ」。
 次に「はらだち」。「はらだち」というのは、まだ心の中に恨みがあったものが張り出したように外に出てきてしまいます。口で言ったり行動で不愉快なことをやること、これが「はらだち」。これは周りの人を不快にします。
 「よく」というのはすべての、自分にあたわった神様からの御守護以上のものを欲しいと思う、それがすべて「よく」です。人にああしてもらいたい、こうしてもらいたいという欲。
 そして、そういう「ほこり」を持つのをやめましょうね、と言われている時に、「私はそんなもの持っていない」と堂々と言い切る、これが「こうまん」です。人間は常にそういう心を持っているから、心を磨かせてもらうという。
 そういうことで「をしい、ほしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」、なかなか覚えにくいんですが簡単なんです。
 「をしい、ほしい」とは物なんです。物の出し惜しみは他人と関係ないから、まだこれは軽い。
 ところが人の物を欲しがるようになると「をしい、ほしい」でちょっと重くなります。
 そして今度は対象が人間になる、「かわい」。そしてかわいいから「にくい」になる。
 それから今度心の中に入ってきて、「うらみ、はらだち」。そしてすべてのものに対してああしてもらいたい、こうしてもらいたい、「よく」。そして私はそんな人間ではありませんという「こうまん」。
 順番から言うと、最後の「こうまん」というのが一番いけない。「をしい、ほしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」。この八つのほこりを毎日朝晩はらいましょう。ああ今日は人の物を欲しがってしまったなあ、もし欲しければ一所懸命働いて、それで自分のお金で買う、自分の努力で買うのは良い。あるいは、100点が欲しいなあと思っても勉強もしないで100点が欲しいというのは、これは「よく」ですね。そういう風に自分が努力をした結果でいただくもの。これが八つのほこり。そういうことを私たちは神様から教えてもらった。

2.聞き分ける
 それをしっかりと毎日毎日はらっていきたいんですが、おさしづにこういうおさしづがあります。

「日々八つ/\のほこりを諭して居る。八つ諭すだけでは襖に描いた絵のようなもの。何遍見ても美し描いたるなあと言うだけではならん。めん/\聞き分けて、心に理を治めにゃならん。」
(明治三十二年七月二十三日)

 毎日神様は八つのほこりを諭してきた。「をしい、ほしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」というのは、はらいなさいよ、と諭してきた。そしてそれを諭すだけではふすまに描いた絵のようなもの。何べん見てもきれいに描いたなあと言うだけではならん。「そういうのなるほどありますよねえ、良いお話ですよねえ」と言っているだけではならん。「めん/\聞き分けて、心に理を治めにゃならん。」面々がきちんと今のお話を聞き分けて、心に治めなければならん。
 面々、きちんと心に治めて、「八つのほこり」を毎日はらっていく。これが実は毎日の「あしきをはろうて」の意味なんです。ついつい知らないうちに、自分の欲って出ちゃうんですね。
 例えば、そこのテーブルにお菓子が置いてあっても、3人の中で2つしかない。そうすると自分は食べたいんだけど我慢していると2人が持っていってしまう。「ああ、私にくれなくて!」。「をしい」のがあって「ほしい」のがあって、そして最後に持っていかれちゃって「うらみ」が立ちます。さらに腹が立ってくる。
 そうではなくて、自分が食べられなくても、皆さんに喜んでいただければ結構、皆さんに食べてもらったら結構、場合によっては私は糖尿だから食べなくて良かった、神様のお陰で私に来なかった、ありがたい。と、喜びに変えることだってできる。そういうことで、毎日毎日しっかりとそういう心の持ち方で暮らしていただきたいと思います。

3.初席
 一昨日、Sさんに別席を運んでいただきました。初席です。初めておぢばに帰って、非常に感動されていました。天理という所に行くのが当たり前になっている我々、私なんか月に2~3回常に帰っているわけですけれど、Sさんが感動したような思いというのはやはり薄れてきている。この感動こそが「元一日」ということなんです。
 皆さん、この教えに人生で初めて深く感動した日があるはず。その日をもう一回思い出してみましょう。私は改めて、Sさんをおぢばにご案内した時に、Sさんが本当に感動し興奮している姿を見て、そうだ私も初めて帰らせてもらった時、それは18歳の時でしたけれど、本当に興奮しました。あの思いで信仰をまた新たにしなければいけない。
そしてちょうど、時あたかも三年千日、教祖140年祭の2年目です。あと1年半しかない。前回もお話をしましたけれど、教祖はひながた50年を通られた。50年も口に言えん道を通った。その内の20年も30年も通れと言うのやない。その内10年通れと言うのでもない。その内の3年だ、と。教祖はたった3年間、教祖の真似をして通ってくれれば、50年通ったように受けとってやろうとおっしゃっている。そしてその3年通ったら、えらいことになるのやで、と教祖はおっしゃっている。
 えらいことになるというのは、どんなに皆さんが、とても無理だろうということもすべて神様がご守護をくださる。このことを信じてあと1年半、お互いにしっかりとつとめさせていただきたいと思います。

 また7月でこんな暑いですけれど、いつも申しあげるように、暑くて汗をかくのも生きていればこそ。死んじゃったら汗なんか出ません。だから汗かいたらありがたい、暑さを感じてありがたい、そしてまたクーラーのある部屋に入れてありがたい。そういう風に、常にどんなことにも感謝して、このまた1か月をお暮しをいただきたいと思います。

 これからまたゆっくりと直会でお話をさせていただきましょう。今月はどうもありがとうございました。

2024年08月03日

2024年(立教187年)6月月次祭講話 ~たった一つの心よりどんな理も出る~

 ただ今は6月の月次祭、思わず暑いので7月と言いそうになりましたけれど、6月の月次祭を無事賑やかにおつとめいただきました。
 少ない人数の中でも、一人ひとりが勇んで、鳴り物なんか特にしっかりと皆で合わせると、おつとめ、手をどりをしている方たちの心を勇ませることができます。自分も勇めば周りも勇むということで、ぜひ人数に関わりなく一人ひとりがつとめを果たして教祖年祭に向かって行っていただきたいと思います。

1.かしものかりもの
 先日、私が弁護した男性が刑務所に行って満期で出てきたので挨拶に来ました。刑務所は非常に健康に良い所で、15㎏も痩せたと言って喜んでおりました。そういう一つひとつ、どんな時でもどんな所でも喜ぶ、ということが神様が喜んでくれる道だと思います。
 そんな中でそのお母さんから電話をいただきました。もう80歳過ぎの方でしたけれど、腰の骨にひびが入って痛くてしょうがない。辛い思いをしているということをおっしゃったので、「痛いというのは生きていればこそですよ。死んじゃえば痛くもなんともないけれど、死んだ方が良い?」と言ったら「いや生きている方が良い」と言う。「だったら痛いのは生きている証拠だと喜んだらどうですか?」と言ったら、こんな話は初めて聞きました、ということだったので、実は私は天理教を信仰していて、この身体は神様からお借りしているものだ、という話をしました。特にあなたの場合は、息子さんが社会に出てきたのだから、激励して正しい道をまたちゃんと歩んでもらえるような、そういうお仕事がありますよ、という話をしたら、本当に喜んでこんな話は初めて聞きましたということでした。身体を神様から借りているとか、痛いというのは神様から何かの手紙、メッセージを下さっているんだということについて、知らない方が多いです。
 私どもは「かしものかりもの」というのは当たり前に思っているけれど、それは神様から身体をお借りしている、あるいは神様からすれば私たちに貸しものだということをお話をくださっているわけですけれど、今日はその「かしものかりもの」ということについて、神様が「ちょっとお前たち違うぞ」ということをお話しくださっているおさしづのことをお話したいと思います。

2.かりものの理
 私たちは、身体は神様からお借りしているもの、魂だけは生き通し、そして心は自由に使ってよろしい。この神様は、神様に反対してもよろしい。しかし親としてお前たちを見捨てないぞ、と。反対するのもかわいいわが子と言ってちゃんと助けてくださる。そんな神様から身体を借りているということに関して当たり前に思っていたけれど、こういうおさしづがあります。

「めん/\かりもの承知。

 みんな借りものだということは承知しているだろう。

「めん/\かりもの承知。かりもの分かっても、かりものの理自由分からねば何もならん。」明治二十年十月十二日(陰暦八月二十六日)

 とおっしゃるんですね。私たちは身体を借りていることは分かっている。しかしかりもの分かっても、かりものの理自由、ということが分からねば何もならん、ということなんですね。
 じゃあ自由ってなんだ、と言うと、おさしづがあります。

「人間というものは、皆神のかしもの。いかなる理も聞かすから、聞き分け。心の誠、自由自在と。自由自在何処にもあらせん、誠の心にあるのや。」 (明治二十一年二月十五日)
 
 どういうことかと言うと、人間は皆、神の「かしものかりもの」だけれど、その「かしものかりもの」という理は心の誠をいう。その心の誠で身体が自由自在になるのだとおっしゃる。「いかなる理も聞かすから、聞き分け。心の誠、自由自在と。」心の誠があればこその自由自在で、身体を借りていても、これが自由にならない人がいっぱいいます。なぜかと言うと、心の誠を使っていないから。

3.たった一つの心
 もう一つ分かりやすいおさしづがあります。

「人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る。(明治二十二年二月十四日)

 人間の身体は借りもので、心一つがお前たちの、自分のものだ。ただ、たった一つの心からどんな理も出てくる。そのたった一つの理というのが誠の心なんです。ですから私たちは身体を借りて感謝はしているけれど、この身体が自由に動くようになるには、誠の心を持たねばいかんよ、と言っているわけです。誠の心だけが自由自在になるもとだ。誠の心というのは簡単です、人を助ける心。人に喜んでもらう心。その心を持てばこの借りている身体は自由になる。
 皆さん身体を神様から借りているから、私も朝晩神様ありがとうございます、神様の言うことを聞きますから長く貸してください、とお願いをしているけれど、しかしそれはお願いしているだけであって、神様はこの身体が自由自在に使えるのはお前たちの心次第だぞ、とおっしゃる。お前たちが心の誠を使えば、それが自由自在になるのだ、と。そういう風に、身体は借りていても、この心の誠でこそ自由自在になるんだという、これが分からねばどうにもならん。改めておさしづを読ませていただいて、いつも神様に身体をありがとうございますと言ってはいるけれど、もっと自由に使わせていただくためには誠の心を使う。誠の心というのは神様が喜ぶ、人のために使う心、人に助かってもらう心、人に喜んでもらう心。
 人というのは、自分以外は全部人(他人)ですよ。いつも言うけれど、妻も人、夫も人、子どもも人、おじいさんおばあさんも人、孫も人。これを何とか自分が喜ばせてあげようという心の誠を持つことによって、自分の身体が自由に使えるんだよ、ということを教えていただいています。
 あそこに140年祭の目標が貼ってありますが、真ん中に「かしものかりものの教えを伝えよう」というのがある。「かしものかりもの」という、単に身体を借りているだけではなくて、この借りている身体が自由自在に使えるには、誠の心一つだ、と。これを皆さんに伝えていきましょう。だから皆さん、互いに立て合いましょう、互いに助け合いましょう。これがこの教えの神髄なんです。天理教の基本の教理が「かしものかりもの」です。親である神様から借りている。ただそれは「かしものかりもの」だけれど、その借りている身体を自由に使うためにはお前たちの心一つだぞ、と言われている。ここを今月改めてしっかりと心に刻み、心一つ、心の誠、誠の心を使っていきましょう。

4.誠の心
 そして、そこにある額、あれ「誠」と書いてあるんです。二代真柱様の字で。つまり神様に喜んでいただくという心遣い、誠の心です。皆さんようぼくになるといただけるおかきさげにありますね。

「誠の心と言えば、一寸には弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものは無い。誠一つが天の理。」

 誠といえばちょっとにはみんな弱いもののように思うだろう、しかし誠より堅き長きものは無い。誠一つが天の理。つまり誠の心が神様の心に添う心だと、こういうおかきさげです。ようぼくの方は皆さんちゃんともらっているのですが、忘れているだけ。改めて今月は誠の心を使わせてもらって、身体を自由に使わせてもらうということと、今病んでいる人や身体が痛い痛いと言っている人に対して、自由自在になるには誠の心、人を助ける心を少し使ってください、とお伝えしていきましょう。これがお助けになります。

 これからさらに暑くなりますけれど、皆さん身体に気を付けて大事に、しかし毎日陽気に明るい心を持ってこの一か月お過ごしいただきたいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2024年08月03日

2024年(立教187年)5月月次祭講話 ~今、世界で「借りもの」の思想~

1.おつとめ
 ただいまは5月の月次祭、賑やかにおつとめいただきました。誠にありがとうございました。
 このおつとめは、世界をおさめる道、世界たすけるつとめと言いまして、このおつとめで世界のおさまりを願う、あるいは人々の健康を願うという非常に大切なおつとめです。教祖は、「大切なつとめやで」「一つ手の振り方間違うても、宜敷ない。」とおっしゃっています。今日いくつも間違えましたけれど、これを間違えないようにやらせていただく。そうすると心の中から本当に喜びが湧いてくる。これがおつとめの意味です。
 そしてまたおつとめは、この一つひとつがすべて神様の、人間に伝えたいという思いがこもった歌ですので、それをしっかりと歌いながら、踊りながら身に付けていくことによって、神様の思いが身に付くということです。ぜひおつとめをしっかりとお互いつとめさせていただきたいと思います。

2.レンタルの思想
 最近ある本を読みました。「所有論」という厚い本で、哲学者の鷲田清一さんという方が書かれた本です。思わず最後まで読み切ってしまいました。実は聞いたことがあるような話ばかりが出てくるわけです。どういうことかと言いますと、所有論というのは、その人は哲学者ですけれど、自分のものというのは一体なんなんだ、ということなんです。
 自分のものというのは、自由に処分ができるとか、あるいは人に売れるとか、ようするに自分が自由にできるというのが自分のものというものだろうと。そうすると例えば財産、お金だとか物だとかの財産も、これは果たして自分のものだと言えるのかという深いお話をされるわけです。
 たまたま財産があってもこれを処分したくても、例えば自分が死んでしまったらこの財産は自分のものではなくなってしまう。そうするとそれをもらった人がまた自分のものだと思う。しかしその品物そのものは誰も結局、持っている人が代わるだけで処分できていないじゃないか、というところから始まりまして、自分のものというのは、じゃあこの身体というのは一体自分のものなのか、という話につながるわけです。
 自分のものというのは自由に処分ができる、しかし長生きすることもできない、あるいは早く死ぬこともできない。中には自分で命を絶とうとする方もいますけれど、百発百中で亡くなるかというと果たしてそれも分からない。そうすると自分のものといっても、自分の身体さえも処分できないじゃないかという風に言うわけです。そうするとこれは誰かから借りているものという風に考えるしかないじゃないか、と、その哲学者は言うわけです。つまりこの身体すら自分のものではなくて、誰かからの借りものなんだというのがその本の結論なんです。
 あと一つ、これは東京大学の宇宙物理学者の松井孝典さんという先生なんですが、この先生は天理に来たことがある。その先生が最近亡くなりました。最後に書かれた本が、「レンタルの思想」、つまり借りものの思想というわけですね。
 なぜこの地球がこんなおかしくなったかというと、人間が地面に埋まっている石油だの石炭だのを取り出して、地球を暖かくして温暖化してしまって、そのために南極・北極の氷が溶けて、氷河がもう何千年も前から凍っていたものが全部溶けだして、千年前二千年前に閉じ込めたメタンガスが今吹き出ている。これではまたまた地球が暖かくなってしまう、というようなことを松井先生がおっしゃっている。
 これは、それぞれの国や人間が掘ったものは、俺が掘ったんだから俺のものだという風に思っているからじゃないか。これは決して自分のものではなくて、地球からお借りしていると考えたらどうなんだ。借りたならばどこかで返さなくてはいけない。そうすることでバランスがとれるんだ。このレンタルの思想、借りものの思想というものを持たない限り、この地球はもう永続しないんだということをおっしゃった。

3.かしものかりもの
 その話を聞いて、先ほど申しあげたように私はスラスラ読めた。それは当たり前です。187年も前から教祖は、この地球やこの人間の身体は神の貸しものでお前たちは神の借りものだということを教えられていた。「かしものかりものの教え」というのは天理教の基本教理です。身体が自分のものだったら自分で自由に処分できるはずだけれど、自分で処分できないじゃないか、長生きしたくてもできないじゃないか。こんなことで私たちは「かしものかりもの」ということをいつもしっかりと聞いていました。
 その「かしものかりもの」ということをしっかりと聞いていたけれど、なんとなくうわの空だった。書いてあっても、「かしものかりものの教え」って別に珍しいとも思わない。ところが天理教を知らない人がこの地球やこの人間がおかしくなっているのをただすにはどうしたらいいか、と考え、これはすべて何かから、彼らは哲学者ですから神様からとは言わない、何かから借りていると言うしかないんじゃないか。地球から借りていると言うしかないんじゃないか。あるいは何かからこの身体は借りているという、この身体すら私たちは預かりものとして考えなければいけないんじゃないかということを、今頃になって哲学者が言っている。
 しかし、教祖や私たち天理教の人間は常に、身体もそうですけれど、自分の家内や自分の亭主も借りもの、自分の子どもも借りもの、場合によっては自分の周りに出てくる人間、嫁舅も含めて隣の人も全部神様がお前にふさわしい人間だとして貸してくださったと考えたならば、例えば自分の周りに嫌な人、変な人が来た時には、「ああ自分もああいう心遣いをしているんだな」と。これは「みなせかいのむねのうちかがみのごとくうつるなり」とみかぐらうたにありましたね。あれはどういうことかと言いますと、自分の身の周り、自分が見ているのは自分の鏡だと。自分が映っているんだ、という意味なんです。だから嫌な人がいるというのは自分が嫌な人なんです。私の周りは良い人ばかりという時は、自分が良い人になっている。そういう風に考える。これは自分の周囲は全部「かしものかりもの」という意味。それを今、哲学者が人間の身体も借りものと考えるべきだ、地球の色々な資源も全部借りものと考えるべきだ、そうしないとこの地球が、人間が持たないということを言っている。

4.私たちの責任
 今頃世界でそのことに気が付いている人たちがいる一方、私たちはもっと早くからこの教えの一番最初、別席のお話を聞いた時からこの基本教理は「かしものかりもの」という風に聞いています。だとしたら、それをしっかりと私たちがおさめていないから、この地球がおかしくなっている。人間関係がおかしくなっていると思えたなら、それは神様の話を聞いた私たちがまず最初に実践してくれ、と神様がおっしゃっているんだ、ということがわかるわけです。私たちはそういうように身体を借りているんだから大切に使わせてもらう。そしてその身体というのは人のために使わせてもらう。人を喜ばせるために使わせてもらう。こういう思いになったら、陽気ぐらしになるとすでに神様は教えてくださっている。それを遅まきながら今、哲学者が言うとその本が売れる。私も買ってしまいました。それは神様の話を、哲学者がどんな風に言うのかなあと思って買ったわけですけれど、この神様の「かしものかりものの教え」を超えてはいません。
 私たちは、本当に真理として神様から身体を借りていることを知っているから、毎日夜寝る時はこの身体を一日貸していただいてありがとうございました、そして自分の身の周りの人たちもこんな良い人たちを貸してくれてありがとうございました、と感謝していけば、周りが悪くなるはずがないんです。こんな嫌な奴がきてどうのこうのと思っていると、その心が見事に向こうに映ります。それは当然向こうにとっても私は嫌な人になっている。それは陽気ぐらしにはならない。あの人は良い人だなあ、あの人の言っていることは楽しいなあ、あの人のそばに居たいなあ。お互いがそう思った時に陽気ぐらしの世界になるわけです。
 そんなことから、今、世界で声高に言われている、この世界や人間をなんとかしようということの解決策が「かりもの」という思想にあるのだ。これがしっかりと心におさまったなら、私たち人間は幸せになれるんだ、というこういうことを改めて外の人たちから教えられました。本当に、180年前から聞いている私たちは一体何をやっていたんだろうという思いがしております。そんなことからしっかり皆さん、自らの「かしものかりもの」という教え、この天理教の基本教理を、しっかりと改めて身に付けて暮らして幸せになっていただきたいと思います。

5.大人の役目
 先日をびや許しをいただきました方に女の子が産まれました。非常に安産だったということで、写真をみせてもらいました。そういう風に一人ひとりをびや許しをいただきながら健康に育って、だんだん大人になっていく。子どもが大人になれば、親である大人はだんだんその分だけ年取っていくんですけれど、年を取っても親である大人の役目はあります。それは子どもが親孝行をする対象になること。子どもに親孝行してもらうためには、親である大人に長生きしてもらうしかない。いいですか、親がいればこそ子どもは親孝行できる。
 ちょっと身近な話ですけれど、私は旅行に行くとうちの母親が何が好きだろうかと考えて必ずお土産を買ってきました。それを母親は喜んでくれる。その母親が出直してしまったら、持って行ったって喜んでくれる人がいないからしばらく買うのをやめました。今では家内や娘が買っていくと喜んでくれるのでまた買って行こうと思える。喜んでくれる人がいるから買ってきています。つまり、親が生きているだけでも子どもは親孝行ができるんです。ですからもう年だとかなんとか言わないで、しっかりと長生きをして子どもに親孝行してもらえる親になっていただきたいと思います。

 本日はどうもありがとうございました。

2024年08月03日

「お道の家族観」YouTube配信(2024/6/1@深川大教会)

 6月1日深川大教会で開催のようぼく一斉活動日(葛飾支部)にて、会長がプレゼンターとして「お道の家族観 ~親子・夫婦間、LGBT、宗教二世問題等~」というテーマでお話をさせていただきました。
 その模様をYouTubeにて配信していますので、ぜひご覧ください

https://youtu.be/jWuTA_eKmnE

!YouTube視聴上の注意!
 スマホなどで動画視聴をする際は、Wi-Fiを使っての視聴を強くお勧めします。
 通常の通信環境(4GLTEや5G)ですと、多くのデータ通信量が必要となり、契約形態によっては料金が高額となるおそれがありますので、くれぐれもご注意ください。

2024年07月10日
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