2024年(立教187年)7月中元祭講話 ~八つのほこりと心の理~

1.八つのほこり
 今日は、天理教の中で、日常的に生活する際に一番大切なものとして、「八つのほこり」というものがありますので、これについてお話しましょう。
 我々は毎日毎日、八つのほこりを積んでしまうので、それを毎日はらいましょう、毎日はらっていれば心は常に明るくて陽気に暮らせるんだけれど、それがついついほこりが溜まってしまうと「悪しき」ということになって、病とか色々な事情を見せられることになる。皆さんご承知かと思いますがもう一度思い出してください。

「をしい、ほしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」

 「をしい」というのは、神様から与えられたものを大事にするのは良いんですけれど、人に出し惜しみをする、出さなきゃいけないことを出し惜しみする。あるいは働かなければいけないのに身惜しみをする。これが「をしい」という心。
 次に「ほしい」という心。自分に持っていないのに、自分にあたわっていないのに人の持っているものを欲しいと思う心。
「かわい」。人様のお子さんをかわいいというのは良いですけれど、自分の子だけかわいい、あるいは自分だけかわいい、これがだめです。人のことをかわいがるのは良いけれど、自分の家族や自分だけかわいがるのはいけない。
 それから「にくい」。にくいというのは心の中で誰かを憎んでしまう。憎む心というのはだめです。
 「うらみ」というのは、心の中にずっと沈んでいきます。自分がもしかしたら悪いのに、あの人のせいで私はこうなった。それが「うらみ」。
 次に「はらだち」。「はらだち」というのは、まだ心の中に恨みがあったものが張り出したように外に出てきてしまいます。口で言ったり行動で不愉快なことをやること、これが「はらだち」。これは周りの人を不快にします。
 「よく」というのはすべての、自分にあたわった神様からの御守護以上のものを欲しいと思う、それがすべて「よく」です。人にああしてもらいたい、こうしてもらいたいという欲。
 そして、そういう「ほこり」を持つのをやめましょうね、と言われている時に、「私はそんなもの持っていない」と堂々と言い切る、これが「こうまん」です。人間は常にそういう心を持っているから、心を磨かせてもらうという。
 そういうことで「をしい、ほしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」、なかなか覚えにくいんですが簡単なんです。
 「をしい、ほしい」とは物なんです。物の出し惜しみは他人と関係ないから、まだこれは軽い。
 ところが人の物を欲しがるようになると「をしい、ほしい」でちょっと重くなります。
 そして今度は対象が人間になる、「かわい」。そしてかわいいから「にくい」になる。
 それから今度心の中に入ってきて、「うらみ、はらだち」。そしてすべてのものに対してああしてもらいたい、こうしてもらいたい、「よく」。そして私はそんな人間ではありませんという「こうまん」。
 順番から言うと、最後の「こうまん」というのが一番いけない。「をしい、ほしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」。この八つのほこりを毎日朝晩はらいましょう。ああ今日は人の物を欲しがってしまったなあ、もし欲しければ一所懸命働いて、それで自分のお金で買う、自分の努力で買うのは良い。あるいは、100点が欲しいなあと思っても勉強もしないで100点が欲しいというのは、これは「よく」ですね。そういう風に自分が努力をした結果でいただくもの。これが八つのほこり。そういうことを私たちは神様から教えてもらった。

2.聞き分ける
 それをしっかりと毎日毎日はらっていきたいんですが、おさしづにこういうおさしづがあります。

「日々八つ/\のほこりを諭して居る。八つ諭すだけでは襖に描いた絵のようなもの。何遍見ても美し描いたるなあと言うだけではならん。めん/\聞き分けて、心に理を治めにゃならん。」
(明治三十二年七月二十三日)

 毎日神様は八つのほこりを諭してきた。「をしい、ほしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」というのは、はらいなさいよ、と諭してきた。そしてそれを諭すだけではふすまに描いた絵のようなもの。何べん見てもきれいに描いたなあと言うだけではならん。「そういうのなるほどありますよねえ、良いお話ですよねえ」と言っているだけではならん。「めん/\聞き分けて、心に理を治めにゃならん。」面々がきちんと今のお話を聞き分けて、心に治めなければならん。
 面々、きちんと心に治めて、「八つのほこり」を毎日はらっていく。これが実は毎日の「あしきをはろうて」の意味なんです。ついつい知らないうちに、自分の欲って出ちゃうんですね。
 例えば、そこのテーブルにお菓子が置いてあっても、3人の中で2つしかない。そうすると自分は食べたいんだけど我慢していると2人が持っていってしまう。「ああ、私にくれなくて!」。「をしい」のがあって「ほしい」のがあって、そして最後に持っていかれちゃって「うらみ」が立ちます。さらに腹が立ってくる。
 そうではなくて、自分が食べられなくても、皆さんに喜んでいただければ結構、皆さんに食べてもらったら結構、場合によっては私は糖尿だから食べなくて良かった、神様のお陰で私に来なかった、ありがたい。と、喜びに変えることだってできる。そういうことで、毎日毎日しっかりとそういう心の持ち方で暮らしていただきたいと思います。

3.初席
 一昨日、Sさんに別席を運んでいただきました。初席です。初めておぢばに帰って、非常に感動されていました。天理という所に行くのが当たり前になっている我々、私なんか月に2~3回常に帰っているわけですけれど、Sさんが感動したような思いというのはやはり薄れてきている。この感動こそが「元一日」ということなんです。
 皆さん、この教えに人生で初めて深く感動した日があるはず。その日をもう一回思い出してみましょう。私は改めて、Sさんをおぢばにご案内した時に、Sさんが本当に感動し興奮している姿を見て、そうだ私も初めて帰らせてもらった時、それは18歳の時でしたけれど、本当に興奮しました。あの思いで信仰をまた新たにしなければいけない。
そしてちょうど、時あたかも三年千日、教祖140年祭の2年目です。あと1年半しかない。前回もお話をしましたけれど、教祖はひながた50年を通られた。50年も口に言えん道を通った。その内の20年も30年も通れと言うのやない。その内10年通れと言うのでもない。その内の3年だ、と。教祖はたった3年間、教祖の真似をして通ってくれれば、50年通ったように受けとってやろうとおっしゃっている。そしてその3年通ったら、えらいことになるのやで、と教祖はおっしゃっている。
 えらいことになるというのは、どんなに皆さんが、とても無理だろうということもすべて神様がご守護をくださる。このことを信じてあと1年半、お互いにしっかりとつとめさせていただきたいと思います。

 また7月でこんな暑いですけれど、いつも申しあげるように、暑くて汗をかくのも生きていればこそ。死んじゃったら汗なんか出ません。だから汗かいたらありがたい、暑さを感じてありがたい、そしてまたクーラーのある部屋に入れてありがたい。そういう風に、常にどんなことにも感謝して、このまた1か月をお暮しをいただきたいと思います。

 これからまたゆっくりと直会でお話をさせていただきましょう。今月はどうもありがとうございました。

2024年08月03日