ご挨拶

 日帝分教会のホームページを作ることになりました。
 常々、会長として、信者の皆さんとお会いする機会が少ないことを申し訳なく思っています。ホームページはそれを埋めるものではありませんが、教会といつも繋がって頂きたいと思いながら作りました。皆さんと一緒に、少しずつ発展させていきたいと思います。

1.簡単に歴史を(敬称は略します)
 日帝分教会は、初代の髙宮乃婦(のぶ)(明治12年1月2日~昭和25年11月19日)が女性一人で単独布教から始め、大正12年4月24日に設立されました。東京市本所区林町2171番地で設立され、関東大震災のため大正13年10月31日、東京市本所区向島吾嬬町東5丁目7番地へ移転しました。昭和20年3月10日の東京大空襲により教会建物が焼失し、昭和21年12月29日に信者である亀田儀八宅(東京都江東区深川古石場2丁目3番地)にお目標様をお遷ししました。髙宮乃婦は千葉県匝瑳郡東陽村宮川の髙宮要蔵の一人娘であったため、昭和25年11月19日に出直された後は後継者がなく、信者の中から、亀田儀八が2代会長となりました。昭和26年2月26日のことです。
 しかし、亀田儀八は、昭和35年3月16日に出直され、またしても後継者がいないという状態でした。
 亀田儀八と八重の一人娘が羽成芳枝(大正4年5月16日~平成17年3月24日)です。
 羽成芳枝は、一人娘であるにもかかわらず、羽成家に嫁がれ、亀田家がなくなったことから、亀田家の何か一つでも継ごうと考え、亀田家の信仰である天理教を継ぐことになったのです。
 ただ、羽成家は仏教で、しかも羽成一族の本家で羽成芳枝の夫羽成松夫は茨城県鹿島郡大洋村(今の鉾田市)の初代村会議長という役職にあったため、羽成芳枝が教会長になることには猛反対でした。
 松夫の芳枝に対する妨害は本当に筆舌に尽くし難いものでしたが、そのことはいずれお話しします。
 その反対の中、羽成芳枝は修養科、教会長講習を経て、昭和36年1月26日に教会本部のお許しを得て第3代会長となりました。
 そして、平成7年5月12日に辞任し、その後を引き継いで、平成7年7月26日に私、羽成守が第4代会長となったのです。

2.今後のホームページについて
 日帝分教会は中根大教会の直轄教会です。すなわち、中根大教会は日帝分教会の親、ということになります。
 いろいろな事情から親の声が日帝分教会の信者さんのところになかなか伝わりませんでした。これからはこのホームページを使って、おぢばからの声、中根大教会からの声をお伝えして行きたいと思います。
 どうぞよろしくお願い申しあげます。