2023年(立教186年)8月月次祭神殿講話 ~怒りを抑えて相手を許す心~

1.日帝分教会百周年
 今日は8月のお暑い中、本当に暑い中こんなに皆さんお集まりいただきまして本当にありがとうございます。
 先月申しあげましたが、大教会長さんとご相談し、11月12日(日)にこの日帝分教会の百周年記念祭をしようとお話をし、了解をしていただきました。それで11月12日は大教会長様もおいでいただけるということです。
 日帝分教会が創立したのが大正12年。初代さんが髙宮のぶ先生という方で、女性一人で単独布教に出られて日帝分教会を作られました。その方は独身であったために出直された時に次を継ぐ方がいない。その時に信者さんの中から亀田儀八さんという方にやってもらおうということで亀田儀八さんが教会を引き受けた。その亀田儀八さんが出直した時に亀田儀八さんの一人娘が羽成に嫁いでいたために、今度はその一人娘にまた頼んでやってもらおうということで、それが私の母です。
 そんなことで羽成の方で知っているのは二代さん以降なんです。初代さんのことはまったく知らない。そんなことで今、初代さんがどういう方であったかということを、初代さんの出身地である千葉県の勝浦という所の方にお話を聞いていたところだったのですが、今年に入って子ども達が調べたところ、「今年、日帝分教会の創立百年だよ」ということを言われました。
 百年というのが三年千日の始まりであるし、こういう皆さんが集まる場所を、またこの教えをつなげてきてくれた一番最初の方が作られたという、その「元」に思いを寄せるというのは大切なことですね。ということでなんとか百周年をやらせていただこうと思っています。そんなおおげさにはできませんけれども、今日、おつとめをつとめる中で、百周年には皆で全部の鳴り物で鳴らしておつとめをしたいなあ、と思いました。
 今月中に皆さんにはご通知するつもりですが、11月の12日、これ日曜日ですのでなんとか空けていただけるようにお願いをし、そしてまた当日には日帝分教会としてしっかりとしたおつとめができるよう、記念祭までの間でちょっと練習の日なども入れることを今考えています。
 そんなことでぜひ皆さん、そういう記念の年が今年だということをしっかりと心に刻んでですね、記念の時に巡り会えるというのは本当に良いことなんです。その百周年が終わってからこられる方もいるでしょうけれど、ちょうどその百周年に立ち会える、何かの節目に立ち会えるということは本当に素晴らしいこと。立ち会いたくても命が無ければ立ち会えない。あとまた縁がなければここに立ち会えない。そんなことを考えますと、せっかく日帝分教会というところに皆さんつながってきて、その一番最初に始まった時からちょうど百周年というその大きな意味を私は感じております。何よりも神様に喜んでいただく。この教会百年続いてきたということです。このお目標(めどう)様、日帝分教会としてご本部からお許しいただいた。それから色々な方がずうっとここに寄って出たり出直したりということで、それで今日の皆さんがある。我々が突然作ったわけじゃなくて、先人がいたから今日があるという、こういうことを考えますと、何とか皆さんで改めて日帝分教会の元一日を思い出して進めていきたいと思っております。どうかご協力をお願いいたします。


2.最近の事件、災害について
 今月は何をお話させていただこうかなあと思っていましたら、最近の人の心というものに思いあたりました。今、死刑になりたいから人を殺したい、誰でも良いから殺したいとか、個人のレベルで言えば、殺人をして首をとって持っていってしまったりとか、凄惨な事件が非常に多い。本当に人の心がなんでこんなにすさんでしまったのかなあという思いがします。そして世界を見れば、自分になんの関係も無い隣の国に自分の主義主張に合わないからといっていまだにプーチンのロシアが戦争を続けている。中国でも少数民族に対してひどい弾圧を加えている。その他ミャンマーでもそうですし、その他あちこちで本当に戦争ばかり起きている。北朝鮮ももちろん。あとまたこのものすごい暑さ、日本だけじゃなく世界中が暑い。ハワイなんか島の半分が燃えちゃっているぐらい、大変な災害が起きています。
 私たちの信仰では、これらの出来事はすべて神様からのメッセージだという風に受け止めているんですね。神様はなんでこんな苦しいことを、皆に試練を与えるんだろうか、あるいは人間の心がなんでこんなにすさんでしまっていることに、神様はなんでこんなことを世界に見せるんだろうかということをずっと考えておりました。そしておさしづを一所懸命に読んでいきました。おさしづというのは神様の言葉が記録になったものですが、その中に私なりにこれだなあと思ったのがあるんですね。
 私どもの信仰というのは、心通りの守護ということを教えられています。その人間の心通りに神様が御守護くださる。悪い心を使うとその悪い心に対してのメッセージをくださる。これがおそらく病気であるとか色々なつらい事情が起きてくるということでしょう。あるいは、本当に優しい心、人のためになるような心を使っているとその心通りに神様が本当その人に幸せをくださる。身体は神様からの借り物、心は人間が自由に使ってよい。その自由な心を神様の思いである陽気ぐらしの為に使う、これが神一条ということです。その神一条の心を基準として、心づかい通りの守護を下さる。これが心通りの守護と言うんですね。ところがあちこちの神社では、願い通りの守護というのを求めています。お願いして家内安全、無病息災、商売繫盛、それでお札を買ってお金を出してお願いしてなんとか助けてください。そうするとお金がない人お札もない人は助からないことになっちゃう。この親神様の教えとまったく違う。
 つまり、普通の社会では願い通りです。お願い通りに助けてください、というのが神様だと思っている。だから試験に受ける時は神様に試験に受けさせてください、合格させてください、くじを買う時には宝くじ神社なんてあるそうですけれども、神社へ行って宝くじに当たるようにお願いする。これは願い通り、思い通りの守護。神様はそんな都合よくしてくれないんです。心というものの使い方を皆ちょっと間違えているんだなあ、と思います。神様にこういう言葉があります。
 「神様ってあるんですか?」とある人が教祖に質問した。そうしたら教祖がその人に対して「在るといえばある。無いといえばない。願う心の誠から、見える利益が神の姿やで。」(正文遺韻)とおっしゃった。
 神様ってあるんですかと聞いた人に、まあ在るといえばあるよ、無いといえばないよ、その人がお願いする心の誠に見えてくる利益、ご利益が神の姿だとおっしゃった。願う心に見えてくる利益が神の姿とおっしゃったんじゃない、願う心の誠に対して神が見せてくれた、利益が神の姿やとおっしゃっている。これどういうことかというと、自分が「神様助けてください」という風にお願いした時には、神様はそんなものは受け取ってくれない。自分のことではなくて、「神様どうかあの人に助かってもらいたいんです」という風に人のために願う心の誠、この「誠」というのは「人のため」ということです。
 いつも言うように、人を助けるということが誠。だから誰かを助けてください、あの方を助けてください、神様お願いします、と言うと、これは神様にしてみたらばその人に誠があります。他人のために祈っているという。そうすると、その他人にご利益が出てくる。神様はその人を助けてくれることになる。これが神の姿だよ、という風に神様はおっしゃるんですね。一つも難しいことじゃありません。


3.堪忍(かんにん)の心
 自分のことをお願いするな、先ほど諭達にもありました、「人救けたら我が身救かる」と書いてある。天理教の助かり方は、お願いすることじゃないんです。天理教の助かり方は、人を助けたら自分が助かる、だから自分が助かりたければ人様の役の立つことを、人様を助けることをしなさい。これは言葉でもいい、笑顔でもいい。何でもいいから、人が喜ぶことをしなさい。そうすればその人が助かるし、それをやっている人間に対して神様が「ああ、お前人のために祈っておったなあ、人のために手伝ったなあ」と言って助けてくれる。これが天理教の助かり方なんです。「人救けたら我が身救かる」、いくら神様を拝んだって、人を突き飛ばしたってそんなもの絶対助かりません。「人救けたら我が身救かる」、これが、この神様の実は一番の大事な所。これを元に、先ほどの人殺しをしたり、戦争をしたりしているのは何が足らないのかなあ、と。そしてそういう人たちに対して私たちはどうしたらいいのかなあと思った時に、こういうおさしづがありました。

「堪忍(かんにん)というは誠一つの理、天の理と諭し置く。堪忍という理を定めるなら、広く大きい理である。(中略)心に堪忍戴いて通れば晴天同様、一つ道と諭し置こう。」
(明治二十六年七月十二日 夜 前のおさしづに付願)

 堪忍というのは、これは辞書を引きますと、「自分の怒りを抑えて人の過ちを許すこと」だそうです。自分の怒りを抑えて、人の間違っていることを許すこと。これが堪忍。神様はその心を使いなさいと。つまり「堪忍というは誠一つの理、天の理と諭し置く。」、神様の心なんだよと。「堪忍という理を定めるなら」、私はこれからずっと堪忍します、という理を定めるなら、「広く大きい理である。」、そして「心に堪忍戴いて通れば晴天同様」、晴れた日同様、「一つ道と諭し置こう」。つまりね、あいつにやられたからやり返す、これは堪忍じゃありません。やられたとしてもその人を許して、自分の怒りを抑えてその人を許す、という心を持っていれば、誠一つで天の理と諭し置いて晴天同様、もう晴れ晴れとした心になるんだと言うんですよ。
 だから何か悪いことをした人に対しても常にその心を持って堪忍する心、そしてその堪忍する心というのはその人のためになる心。もっと大きく言うとですね、その人を助ける心です。自分に悪いことをしている人に対して、その人を怒らず、その人を許すということはその人を助けることになります。その人を殴ったり殺したり鉄砲撃ったりということではなくて、ということを考えますと、今この世の中で足らないのは、国家の指導者も、我々一人ひとりも含めて堪忍する心ではないかと。
 「堪忍」というのは非常にシンプルではありますけれど、つい忘れていたんじゃないかな、と。まず怒りを抑える。今怒りはどんどん出ちゃいますね。怒りを抑える。これは皆さん隣の人に対してもそうですよ。親が子に対してもそうですよ。子どもが悪いことをしたらば、親は怒りを持つけれどもその怒りを抑える。そしてその悪いことをしたことを許す。その心は実は親の心です。悪いことをしている子どもは分からない。悪いことをしている人間も分からない。そういう人に対して全部許す心、これは親の心ですね。


4.人を信じる心
 結局神様が求めているのは、我々に対して親である神様が、人間の親である神様が私たちに対して持ってくれている親心を皆で持ってくれよ、という意味なんですね。これを持つことによって、おそらく今すさんでいる世界もおさまって来るような気がします。私はたまたま弁護士という職も持っていますから、犯罪者に接することが多いです。その時に、昔の私だったら、何も教えを持っていなかったらば、「お前なんでこんなことをしたんだ」というところから入ってくる。ところがまず自分の怒りを抑えて相手の罪を許すというところから入っていくと、相手も本当に心を許して話してくれるようになります。
 これ自分の話ですが一つ面白い話をします。ある時、鉄砲を持っていたので銃刀法違反で捕まったということで国選弁護が私に来ました。それで本人に聞いたら、「いや先生、俺あれ警察にだまされたんだ」と言うわけですね。「どうして?」と聞いたら、銃刀法の検挙月間というのがあって、ピストルを集めている犯罪者の逮捕を強化する月間があった。元々前科者で警察官と仲がよかった(と本人は思っているわけですけれど)ので、ある警官から頼まれて、どこどこの家の軒の下にピストルが置いてあるから、それをお前拾ってくれよと頼まれた。自分はそれを言われたままに拾ったところで捕まった。だから私が元々持っていたんじゃありません。と言うわけです。本人がそう言うので、私は弁護士ですからそのまま信じて、法廷でそれを話しました。そうしたら向こう側にいた検察官がふんぞり返ってね、弁護人の私に対して「あんたそんなバカな話を本当に信じているのか」とこう言うんですよ。私は「大の大人がまじめに喋っているんだから黙って聞け!」と言い返したら裁判官が怒って、「直接二人でけんかするな」と叱られました。
 検察官にバカにされながらも、本人を信じて検察官とケンカをしながらその裁判を終え、本人に面会に行きました。そしたら本人が急に「先生悪かった」と言うわけ。「なにが?」と聞いたら、「先生に恥をかかせた」という。なんの恥だと言ったら、「あんなばかばかしい話を先生が信じるから」と。自分のことを信じてくれている弁護士が、自分のつまらないウソのせいで検察官にバカにされたので、「先生がバカにされて本当に申しわけなかった、あの話は全部ウソだ」と言うつもりになった。えっ、嘘かと思いましたが、私は本人にじゃあその通り話をしろ、と言って、次の裁判で本人が実はあれは嘘でしたと証言した。
 なんで話す気になったのかと聞いたら「俺のことを信じてくれている弁護士さんがバカにされたから辛くなって本当のことを話す気になった」と言いました。これを裁判官から見れば、まさにこの人は真人間になったわけですよ。本当に悪かった、人のために、俺のために信じてくれる人に恥をかかせた、ここで本気で真人間になったということが裁判官に伝わりまして、それでピストル所持だけでしたから執行猶予という刑をもらったことがあります。
 その時に私思ったんです。人を疑うというのは簡単です。何よりもだましている人が一番分かっているわけだから、こいつだましているということが分かっている。それでもこの人を信じていくということはやっぱり相手の心を変えるんだなあ、と。お前本当か?と思ってこちらが疑いながらやっていたら、おそらく彼は嘘を通し続けたと思うんです。ところが荒唐無稽な話を本気になって信じて、本気で弁論していたために、恥をかかせたと言って本人が心を入れ替えてくれた。
 そんな自分の仕事のことで恐縮ですけれども、やはり人を信じるということは相手の、犯罪者ですら自分の犯罪を素直に話すような気持になってくれるということです。そんなことを考えますと、先ほどの話に戻りますけれど、やっぱり自分の怒りを抑えて相手を許すというこの心を、やっぱり神様は一番大事だ、天の理である、と。これは誠であって天の理であるとまでおっしゃってくれている。ああ、やはり自分のやってきたことは間違いがなかったなと後で再確認をしたわけです。そういう心が今やっぱり足らなくなっているんだろうなあと。
 相手がやったことを許せないから殺してしまう。また相手の考えている、相手の国を許せないからミサイルを撃ち込んでしまう。ということを考えると自分の怒りを抑えて、まず、怒りを抑えて相手を許す気持ちになるようにせめて努力だけはしてみたら少し世の中は変わると思います。もっと言えば家庭が変わると思います。お互いがお互いを信じて相手の悪い所をこう決してつつかないで、そういうことが神様もそういうことをしなさいとおっしゃっている。であるならば、ひとつずつでも身近な所でもこういうことをやっていきたいなと思っております。
 そんなことでちょっとあまりにも世の中がすさんでいるように私は感じましたので、神様は何をおっしゃっているのかなあと調べたらそんなお言葉が出てきました。皆さん、自分の怒りを抑える、そして相手を許すという心をどこかで持ちながら、またこの一か月お暮しをいただきたいと思います。

 本当に暑い、災害級の暑さだと言われておりますけれど、それでもこうやって元気に来られるという、暑さよりもその暑さに耐えられて汗が出る身体をお借りしていることを感謝して、どんなことでも一つ喜んで暮らす。嫌なことを一つでも喜ぶということでお暮しいただきたいと思います。


 暑い中本当にありがとうございました。また来月どうぞよろしくお願いします。

2023年09月18日