2020年(立教183年)10月秋季大祭神殿講話 ~信仰を見つめ直そう~

 ただいまは、立教183年の秋の大祭を賑やかに勤めさせていただきました。
同じ葛飾支部の教会長さんでいらっしゃるS先生にも今日はご参拝いただきまして、賑やかに鳴り物をご担当いただきました。おかげさまで久しぶりに六人、男三人女三人でおつとめをさせていただきました。本当に感謝を申しあげます。ありがとうございます。


1.「元(もと)一日」の意味
 言うまでもありませんが、天保9年10月26日、今から183年前、西暦1838年、旧暦(太陰暦)10月26日にこの天理教が始まったということで、本日は秋の大祭をさせていただいたというわけです。
 天理教には、三つの大きなお祭りがあります。10月26日が秋の大祭、立教の大祭。そして1月26日が春季大祭、これは教祖が身を隠された時。そして4月18日、教祖の御誕生祭ですね。この三つが大祭として勤められていますけれど、その中でも一番大切なのがこの10月26日です。当時、10月26日に至るまでの10月23日からの三日三晩、神様が教祖中山みき様に降りられて、寝ずの問答をしました。中山家の一族・親族から全て集まってお断りを申しあげる。しかし、神様は頑として退かぬ、ということでついに10月26日朝10時、「みきを神のやしろに差しあげます」ということで、その瞬間をもって天理教が始まったということになるわけです。
 なぜ10月26日なのかということですが、これは実は元一日で、九億九万九千九百九十九年前の10月26日が、我々人間が神様によって作られた日、約束の年限とはそういうことでして、全て原因が分かっています。そんなことから、本日は元一日ということについてちょっとお話をしたいと思います。
 本日の祭文にもありましたけど、「元一日の理を心におさめ」ということを言わせてもらっています。元一日というのは、文章で書くと元始まり、大元の一日、ということになりますが、これは一体何の元一日なのかというと、私どもにとっては、この神様を信じるようになった日、あるいは神様から声を掛けられた日、神様の匂いをかけられた日。これが元一日ということになるわけですね。その日は一体どういう日だったのか?もう二代三代になってくると、「私は神様によって助けられた!」という人は少なく、これは親がやっているから、ということが多いと思います。しかし、親がやっていても、じゃあ天理教の話を聞いてみるかと、あるいはおぢばに帰って別席の話を聞いてみようか、そして聞いた結果、この教えは素晴らしいなあ、と思ったその瞬間が実はその人にとっての元一日なんですね。
 ですから、元一日というのは、この神様を信じよう、この神様の話は素晴らしいなあと思ったその瞬間が元一日ということになるわけです。その後に色々な御守護をいただく、色々な嬉しいこと、楽しいことを神様に見せてもらうということもあるでしょうけれど、何よりもその、この神様のお話を聞いてみよう信じてみようと思ったその日が元一日ということになるわけです。
 元一日というと、助けられた日という風に思う方がいます。そういう風に考えると、「私は親の信仰を継いだだけだから私は助けられていない、私に元一日はないんだ」なんてことが出てくるかもしれません。しかし、信仰をし始めれば分かるんですが、今日の今日、今、皆さんで集まっておつとめができる。そしてまた食事ができる。歩いて来られる。このこと自体が大変に御守護をいただいているのです。何でもないことが最高の御守護、ということをご理解をいただければと思います。


2.三回の大きな節(ふし)
 そんな中、以前から申しあげていますけれど、最近は新型コロナウイルスのせいで、このおつとめをすること自体が非常に難しくなってきました。今日も何人かの方はおいでになっていない。来たくても来られない、こんなことを思うと、いつも当たり前のようにさせてもらっているおつとめの有り難さ、御守護というものが分かってくると思うんです。
 天理教にとっての元一日は、教祖が神がかりになられて、教祖を神のやしろとして差しあげた。これにより教えが始まった日が元一日、ということになるわけですが、この元一日の後でも大変なことが続きました。皆さんご承知のとおり、すべては元の理につながっています。元の理は五分から生まれて五分五分と生まれて三寸まで育って全部出直す。また五分五分と生まれて二回目は三寸五分、三回目は四寸まできてまた全部出直す。そして「ここまでくればいずれ五尺の人間になるであろう」と言っていざなみのみこと様も身を隠された。これら三回の大きな節(ふし)を、人間は見せられているのです。
 これを教祖伝に当てはめますと、一回目は夫・善兵衛様のお出直し。これは教祖56歳の時です。
 その後11年経って、教祖67歳の時の元治元年、大和神社の節というのがありました。これは主だった信者さんたちが大豆越(まめこし)村の山中家の新築祝いに行く時、皆が鳴り物持って喜んで勇んで向かっていた。教祖からは「途中で神社があったら拝をして行きなさい」と言われたので、拝をして行くつもりでいったら、ちょうど大和神社の前を通った。そこで持っていた太鼓や鳴り物をどんちゃん打ち鳴らしておつとめをしてしまった。ちょうどその時は、大和一帯の取り締まりをする守屋筑前守という方が、神社の中で祭儀式を執り行っていて、それを邪魔するとは不届きだ、ということで皆捕まってしまった。その時にのちの永尾よしえさんがおっしゃっているんですが、その大和神社の節の後は「このお屋敷に人が誰も来んようになった、ひっそりと火が消えてしまったようだった、もう天理教もこれで終わりかと思った」と話したという記録が残っています。それが大和神社の節。それが教祖67歳の時。
 そこから23年経って、またぽつぽつと信者さんが増えてきて、また明治20年1月26日に教祖が身を隠された。これでもうこの道は終わりだという風に皆さん思った。
 そんなことが実は三回もあったのです。本当に人が来なくなってしまうような時が、あるいは絶対に出直さないと思われていた教祖までが身を隠された。その時の皆さんの落胆の仕方はどれほどのものであったか。
 私は、8月の本部月次祭に行かせてもらいました。中根大教会の他の会長さんたちは高齢者が多いこともあり、8月の大教会からの参拝は私一人でした。畳に一人ずつ座らされて、おぢばに帰ってこられる方も神殿に上がれない。おつとめしたいのにおつとめができない。今までは自由に来て自由に上がって自由に参拝して、場合によってはおつとめしながら居眠りしていた人もいます。誰もがいつでも自由に参拝できると思っていた。それが新型コロナのせいで自由にできなくなった。神殿に上がれなくなったんです。おつとめを拝することができなくなった。戦前、この教典の内容が天皇制に反するということで、いろいろと制限をかけられました。例えば「一ツひのもとしょやしきの」の「日の本」がけしからんと、そこだけは歌ってはいけないと、そういうようなことはありましたが、それでもおつとめそのものはできていたんです。しようと思えばできました。ところが、今は、誰から「やめろ」と言われたわけでも法律で禁じられているわけでもないのに、今年は新型コロナウイルスというもののせいで神殿に上がることもできない。この教会でも、おつとめをしに参拝することができない人がおられます。そういう状況が、半年以上も続いています。


3.信仰を見つめ直す
 そういうことを考えると、私は、天理教がこれまでに経験した、三回の大きな出直しに匹敵する出来事なんじゃなかろうかと思っています。とはいえ、これもまた人間の常で、そのうち新型ウイルスに対するワクチンができた、あるいは特効薬ができた、となると、もうケロっと忘れてまた以前のような感じの信仰に戻ることになるんじゃないかと思いますが、そうであっても、今回のこのコロナ禍は、前例のない出来事、先ほどお話しした三回の大きな節と同等の大変なものだと思います。しかも、それは人間心で作ったものではなく、神様がそれをなさっている。まだまだ私も考えがまとまっていませんが、おつとめをしたいのにおつとめできない、教会に参りたいのに教会に参れない、あるいはおぢばに帰りたいのにおぢばに帰れない。こういうことを、一体どういう風に悟ったらいいのか。そして、大和神社の節で道からすっかり離れてしまった人、その後にまたついてきた人、あるいはいったん離れたけれど思い直してまたついてきた人。そういう人たちの思いを改めてここで考えなければいけないのではないかと思います。
 つまり、新型コロナのせいで電車にも乗れない、高齢者だから人混みに行ってはいけない、というこういう世間の中で、これが収まった時、皆さん来た時にどういう心構えでこれからおつとめをするか。あるいは今、今日はたまたま皆さん来られましたけれど、やっぱり来られない時もあるでしょう。幸い今は、YouTubeなども利用して、来られない方にも月次祭の様子をお伝えしていますが、こういうのを観ながらどういう思いで信仰したらいいのか、ということをこの機会にもう一回考え直さなければいけない。10月26日、天理教の立教の日ではありますけれど、どういう風にこれから信仰していったらいいのか、自分の信仰をどのように高めていくのか、深めていくのか、ということを考え直す元一日だと捉えていただければ、親神様が、新型コロナを私ども人間にお与えくださったことの意味が掴めるんではないかと思っています。
 コロナはダメだ、コロナは嫌だ、コロナは怖い、と思っているだけではなく、これも全部神様がなさったこと、そして神様のお言葉の中にもありますが、「成ってくるのが天の理」という。では、そう成ってきたことを、我々はどのように捉えて行動したらよいのか。
 これまでも、新型コロナについての心構えなどは私なりにお話しさせてきてもらいましたけれども、今日はもう一歩進んで、私の信仰はコロナ禍の中でどうしていったらよいのか、あるいはコロナ禍が収束したならば、今までと同じ形で本当によいのかどうか、ということを改めて考え直す、問い直す元一日にぜひしていただきたいと思います。これが本日申しあげたい一番大切な所です。


4.Yさんのお出直し
 本日おいでいただいた皆さんには葬儀に行っていただきましたが、この教会に長年尽くしてこられたYさんが、9月24日にお出直しになられました。日帝分教会が葬儀を執り行いましたが、心を込めてやらせていただきました。Yさんの魂は、因縁のある所に生まれ変わってこられますが、私どももお互いにいつお別れの時が来るか分からない。そう考えますと、今度は一日一日が大切な一日になる。決して無駄な一日にしないこと。教祖の言葉に「一日生涯」という言葉があります。一日が一生涯だという風に考えて、朝から晩まで自分の生涯をしっかりと全うする。こういうことも、改めて身近な方の出直しを通じ、感じさせてもらいました。本当は、毎日毎日絶えずそういうことを感じて過ごさなければいけないんでしょうけれど、ついつい平穏な、当たり前な一日で過ぎてしまいます。しかし、こういう親しい方のお出直しの姿を通して、改めて生かされていることの有り難さ、そして一日一日の大切さということを感じていただけたらと思います。Yさんには、本当に長い間教会にお尽くしいただきましたけれど、また来年には御霊を祖霊殿におさめさせていただきます。また、出直された方だけでなく、そのご遺族の方にも皆さん心寄せていただきますようお願いいたします。同じ教会の仲間ですから、仲間が寂しくないようにどうか声を掛けていっていただきたいと思います。


5.神様のご守護
 コロナコロナですっかり忘れていましたけれど、昨年は台風、豪雨、長雨と大変なことが続きました。しかし、昨日天気予報で言っておりましたが、実は今年は台風が日本に一つも上陸していないんだそうですね。昨年は、あれだけの数の台風が上陸したのに、今年は一つも上陸していない。神様は、コロナで苦労させても、コロナで我々人間が心を作れば、台風はちょっと脇に置いておいてくださる、ということだと思います。こう考えれば、また一つ感謝することができます。ですから、コロナでしっかりと心を作らせていただきましょう。
 昨日までは長袖でしたが、今日は一転して半袖に着替えたりと、最近は本当に天候不順です。みなさまお身体には十分気を付けていただきたいと思います。今月また一か月、どうか身体をしっかり労わりながら、来月もまた月次祭に皆さんおいでいただけるように祈っております。今月はどうもありがとうございました。

2020年11月03日