2021年(立教184年)2月月次祭神殿講話 ~楽しんで、喜んで通る~

 ただ今は、2月の月次祭を賑やかにおつとめいただきました。大変な中、車でご参拝された方もいらっしゃいます。ご自宅で遥拝されている方もいらっしゃいますが、2月7日で終わるはずだった緊急事態宣言が、あと一ヵ月延びてしまいました。いつも申しあげていますが、なぜ神様が私共にこういう節を与えてくださったんだろうかと考えたとき、やはり人を助ける心が少ないんじゃないか。ですので、こういう中で皆協力し合ってお互い助け合おう、ということであろうかと思います。改めて、人を助ける心ということを考えてみたいと思います。
 
1.男性と女性
 ここのところちょっと騒がしいですけれど、女性に対して差別をしているんじゃないか、蔑視しているんじゃないかということで、ある役の方がお辞めになりました。そこで今日は、このお道では女性のことをどう考えているかということについて考えてみたいと思います。
 申しあげるまでもありませんが、この教えを伝えてくださった方は中山みき様であり、女性です。中山みき様は人間ですから、性別で言うと女性です。しかし、女性だから神様が降りた、というわけではありません。皆さんもご承知のように、中山みき様という方は、神がかりになられる前から、預かり子の病を助けてもらうために命をかけて神社にお願いをしたり、蔵に泥棒が入ればその泥棒について「その心がかわいそうや」と言ってかえって泥棒に米を与えて帰してあげたり、昔の乞食という物をもらいに来た赤ん坊連れの女性がいれば「背中の子供には何もあげていない」ということで自分の乳を含ませた、というお話があります。

2.めいめいに心ちがうで
 そういう中山みき様という人間こそが、神の社に一番ふさわしいということで神が降りた。そんな神様ですから、男性女性なんていう次元は最初から超越している訳ですけれど、その中山みき様、教祖が書かれたおふでさきの中に、こういうものがあります。

「をやこでもふう/\のなかもきよたいも みなめへ/\に心ちがうで」(五号 8)

 親子でも夫婦でも兄弟でも、皆心は違うんだ。今から180年も前に、既にそういうことを言われていた。人間は、神様がそれぞれの人間に、それぞれの魂にふさわしい身体を与えてくださった。だから魂は皆一人ひとり持っているけれど、それぞれの魂というのは全部違うんだ、人間創造の時は九億九万九千九百九十九人という人間がいたわけですけれど、その人間は全部違うんだと。誰一人同じものはないんだと。皆違うけれども、それらが一つになって皆で何かの目的を達成する。これが一手一つという意味なんですね。人間は全部違う。考え方も違う、性別も違う、違うけれども、それぞれの人が持っている徳分、神様から与えられた徳分を活かして補い合って、それで陽気ぐらしの世の中にしてくれと、こういうことで言われたものですから、この教えの中には男が偉い、女が偉いなんてそんなことは全くありません。全部それぞれが持った徳分。神様が与えてくださった。この魂は女性としての徳分を持たせる、こちらは男性としての徳分を持たせる。それぞれが徳分を活かし合って、つまり自分に無いものが必ず隣の人にはある。また隣の人には無いものはまたその隣の人にある。そういうことの中で皆が協力し合っていく。これがこの神様のおっしゃっている「みなめへ/\に心ちがうで」という意味なんですね。

3.多様性(ダイバーシティ)
 これを今流行りの言葉で言いますと、「多様性」という言葉になります。皆さん聞いたことがあるかもしれませんが、英語で「ダイバーシティ」と言ったりもします。「多様性」とは、皆違うんだということ。神様が創造の時、九億九万九千九百九十九の魂を、全部どじょうとして食べられて種にした。その九億九万九千九百九十九匹どじょう。これは例えです。例えですけれど、そのどじょうの中には、恐らく大きいもの小さいもの、色の黒いもの茶色いもの、あるいは尻尾が曲がってるもの曲がってないもの、様々であったと思います。それを全部神様は一つにして食べられた。これが一列きょうだいということの真の意味です。そんなことから言うと、男女の差別は言うまでもなく、男同士での差別もあり得ません。そんなことはこの神様の教えを信じていたらあり得ない話です。そんなことからもぜひ皆さん、この教えを改めて勉強していただきたいと思います。

4.徳分
 ある時、女性に天理教の話をしました。私は「男と女だったら、女の人は男の下に入った方が上手くいくんだ」と話をしたら、「何で女が下なんですか」と言ってこられた。それはそうですね、「下」というのはなんだか地位が下みたいに聞こえる。けれども、そういう意味ではありません。男のひな型はくにとこたちのみこと様。これは水のご守護。女はをもたりのみこと様。これは火のご守護。男が水で女が火だとして、火が水の横にいても何の変化も起きません。火が水の上に行っても何も変わらない。ところが、火が水の下に入ったときは、水を温かいお湯にするし、飲める熱さのお茶にするし、もっと熱すれば最後は蒸気になって機関車まで動かします。それが徳分というんです。偉い、偉くない、ではなく、徳分としてそれぞれの働きをするという、それがたまたま男よりも下にいて、男を温めたり冷ましたりすることができるのは女だけなんだというのが、神様の与えてくださった徳分なんです。これが「上にいるから俺は偉いんだ」と男が言ったって、をもたりのみこと様の、女性のご守護が無かったら、この水はなんの役にも立たない。そういう風に、この神様は皆に色々な徳分を下さって、その徳分で一つになれよ、これが一手一つという、そういう意味なんですね。世間で起きていることについて、一つひとつ教理に照らし合わせて考えていくと、なにが正しいかということがみえてくると思います。

5.ひのきしん
 今日もそうでしたけれど、教会に皆で集まっておつとめができない。本部でもそうです。私も3月は参拝させてもらいますけれど、1月2月は本部に行っても神殿にも上がれない。こういう状態の中で、ふとこう思いました。昔、天理教は「一ッ ひのもとしよやしき」、つまり日本のもとは庄屋敷であるというようなことを言ったり、あとこの勤めの場所は世界の中心(よのもと)というこの教えから、みかぐらうた十二下りのうちいくつもの下りが禁止されました。それが許されるようになったのは、終戦の昭和21年からなんです。天理教は今年で184年の歴史がありますけれど、その内自由におつとめができたのはたった74年間。その前の110年間というのはちゃんとしたおつとめができなかったんですね。そんな中ですが、天理教の信者さんは残っているわけですから、みかぐらうたをちゃんとできない、じゃあ他に神様から言われたことで何ができるだろうかといったときに、ひのきしんだ、と。ひのきしんというのは禁止されていない。それでみかぐらうたがちゃんとできなくても、ひのきしんはちゃんとやろうということで、大正から昭和にかけて官憲の弾圧で辛かった時期に、我々の先輩の信者さん達は勇んでひのきしんをやらせてもらっていた、という話が残っています。
 ひのきしんとは、この健康な身体をお借りしていることに対する神様への御礼です。神様への御礼。「ひとことはなしハひのきしん」ということで、誰かに一言の言葉を掛けるのでもよろしい。困っている人の荷物を持ってあげる、階段の昇り降りを助けてあげる、もちろんそれもひのきしん。一方で、つらい思いをしている人に対して、一言声を掛ける、喜ばせる声を掛ける、これもひのきしん。そういうことはいつでもできる、という精神で道の先輩方は通ってこられました。

6.喜んで通る
 では、大変な苦労の中でどういう心を持ったらいいか。これは以前お話したことがありますけれど、「雪の日」という逸話篇です。これは、増井りん先生が毎日毎日大阪からおぢばに通って来られるのですけれども、大雪のある日、川の上にかろうじて架かっている欄干の無い石の橋の上を、這いつくばりながら来られた。風が吹いて何度も川に落ちそうになりながらも、ただおぢばに帰りたい一心で。それをお屋敷にいる教祖が、「こんな日にも人が来る。なんと誠の人やなあ。」とおっしゃった。その後増井りん先生はなんとかお屋敷にたどり着いて、教祖にご挨拶に上がった時、教祖から下された言葉はこういう言葉なんです。

「ようこそ帰って来たなあ。親神が手を引いて連れて帰ったのやで。あちらにてもこちらにても滑って、難儀やったなあ。その中にて喜んでいたなあ。さあ/\親神が十分々々受け取るで。どんな事も皆受け取る。守護するで。楽しめ、楽しめ、楽しめ。」

 この中で大事なのは、「難儀やったなあ。」、つまり「大変だったなあ」と、「その中にて喜んでいたなあ。」という言葉。そんな大雪の中で歩くのも大変、川に落っこっちゃうかもしれない。そんな難儀は神様も分かっている。そういう中でも、決して不足を言わないで喜んで通っていたなあ、と言うんです。だから「親神が十分々々受け取るで。」というようにおっしゃって下さった。
 我々は、今コロナで大変な中にあります。その時に不足の心を出すか、しかしそれでも私は幸せだと言ってその中から一つでも喜べる種を見つける。これが今の話で教祖が増井りん先生に対して言った、「難儀やったなあ。その中にて喜んでいたなあ。」ということ。私は、このことこそこの信仰にとってとても大切なことであろうといつも思うんです。どんな時でも、自分にとって本当につらい時でも、全部神様が見てくださっている。神様がそれを見てちゃんとご守護を下さっている。その中でもそれを難儀と思わないで喜んで通る。この心を神様は受け取ってくれる。

7.楽しめ、楽しめ、楽しめ
 皆さん、それぞれおつらいこともあるでしょう。世界でも、コロナをはじめとしてつらいことはいっぱいあるでしょう。その中でも喜んで通ること。これが神様が受け取ってくださる一番の大きな理由だと思います。そんなことからですね、ぜひ皆さん不足をせずにどんなことが起きても喜んで通らせてもらう。この一か月の間、どんなことがあっても必ず喜ばせて通らせてもらう。これを今月一か月の目標にしていただきたい。神様はその心を受け取って「守護するで。楽しめ、楽しめ、楽しめ。」とまでおっしゃってくれています。


 今月もまた少人数でしたれども、非常に賑やかにおつとめをさせていただきました。いつもながらおつとめをすると心が勇みます。心がいずんだ時には皆さんぜひおつとめをさせてもらってください。それぞれの家でできるおつとめをしっかりとさせてもらって、心をいつも明るく、そして楽しむ、喜ぶ心を常にお持ちいただきたいと思います。今月はどうもありがとうございました。

2021年04月04日