2021年(立教184年)11月月次祭神殿講話 ~借り物の実感~

 ただ今は11月の月次祭を賑やかにおつとめいただきました。YouTubeで見てくださっている方もいると思いますけれど、来月まではなんとかこの感染状況が続き、来年の春の一月の大祭からは皆さんお集まりいただけるようにぜひしたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。少しの間、時間をいただいてお話をさせていただきます。

1.人間ドックのこと
 先日、毎年のことですが、人間ドックに入ってきました。脳みそからそれこそお尻の穴のところまで全部検査をしてくれるんです。お陰様で、みんなちょっとずつ傷んでいますけれど、年相応ということで大きな病気は無く済みました。ただ、検査をしている時、ちょっと面白い気持ちになったのでお話をさせていただきます。
 検査の中には、脳みそをMRIという機械で撮るものがあります。すると、脳の血管の中でちょっと硬くなっている所があります。この硬くなっている部分が大きくなると脳梗塞、ということになります。ほかにもMRIでは、脳から出ている血管、首の所まで全部血管の枝分かれして細かい所、血管の一本一本まで見せてくれる。胃カメラもやりました。口からカメラを入れまして、モニターで私に見せながらやってくれるんですね。「今食道に入っています」。ずうっと入ってきて「これが胃の入口です」。それから胃に入っていってずうっと降りていって「これが十二指腸です」。そういう感じで全部映っている。そして大腸の内視鏡。これはお尻から入っていって、「これは直腸です」と。「これはこういって腸のどこどこを周っています」、というようなことで、自分の身体の中を全部見ることができるわけです。
 ところが、そこで見えている自分の身体、自分の脳みそ、自分の食道、自分の胃、自分の腸、なんですけれども、画面越しに見ていても自分のものという感じが全然しない。脳の血管を見れば、年相応に色々と小さな老化現象があって、あえて名前を付けると「小さな脳梗塞の一つです」とお医者さんは言うんですけれど、「もうこれ五年も十年も同じ所にあるから心配いりませんよ」と言ってくれる。まあこういう話なのですが、あらためて考えると、自分では自分の脳みそが今どうなっているかわからない。脳みそがこうなっているから、最近物忘れが激しくなったのか、なんてそんなことは全然わからない。何となく最近物忘れが出てきたな、人の名前が出てこなくなってきたな、ということを感じることこそあれ、それが脳のどこで何が起きていることに起因しているのか、なんてことは自分じゃ全然分からない。胃にしても、最近何となく胸やけしているんだけれども、水を飲めば治まってしまいますから、それ以上のことは分からない。しかし、お医者さんのカメラで見ると、ちゃんと自分の胃の所がただれている。腸もそうです。私は腸というものは、洗濯機の丸いホースのようなものだと思っていたら、あれは三角なんですね。三角が全部三角なのではなく、三角がずれている。だから丸いホースだったらさっと流れていってしまうのに、食事がちゃんと止まりながらそこで栄養を吸収して後ろへ流れてゆく。

2.借り物を実感する
 というようなことで、ずうっと見ていても、そこに映っている全部が自分のものとは思えない。人様のものとしか思えない。その時にふと思ったんですね。今、皆さんは自分で考えて自分で歩いて、自分で喋って、自分で食べているから、これは全部自分のものだという風に思っていると思います。ところが、たしかに食べるまでは自分がしているのだけれど、食べた後というのは分からないですよ。それは一体どこにどうなって片付いていくのか、よく分からない。胃カメラでも使わなければ、自分で見ることはできない。胃カメラを使えば、食べた物は食道のここを通って、胃に入って、胃で消化をして、そこに胃の後ろにある胆のうという所から消化液、胆汁が出てきて、消化をしてくれて、それが腸に入って腸で栄養分を全部吸収をしてくれる。ということになるわけですが、そういう自分の身体の働きを、我々は自分の目で見たことが無いし、仕組みも正直なところよく分からないから、せいぜい「食べて出す」ところしか見ていない。そこで、これまでお話ししたような、自分の食道、胃、腸、あるいは脳というものを見せてもらいますと、「ああこれはやっぱり借り物なんだなあ」とつくづく感じました。神様から借りているものであり、自分のものという感じはありません。もしこれが自分のものだったなら、胃だって適当に調節をすれば胃のモヤモヤは無くなるでしょうし、腸だって多少の便秘があったって、ちょっと揺らせば便は出てくるはず。ところが、そんなことは自分ではできない。食べることも。出るのも実は神様の御守護。そこで初めて分かるわけです。毎日健康で過ごしているだけでは、私も分かっていなかった。自分に入れられた胃カメラの映像を見て、「これはあんたの胃ですよ、あんたの心臓ですよ」と言われても「ああそうですか」というだけのことで、それはあたかも他人の内臓を見ているような気持でしかない。
 つまり、我々は自分の身体のことを何にも分からないんです。分からないし、自分の意思ではないんだけれども、ちゃんと消化をしてくれて、お尻から出してくださる。自分の身体とはいうものの、実は身体が持つ様々な機能について、自分で意識しては全然使えていないんだなというのが分かります。

3.自分は気が付かない
 その最たるものが心臓です。人間ドックでは、心臓の検査もやりました。特に異常はありませんと言われました。しかし異常はないけれども、これがあと十年間あるいは二十年間間違いなく動きますよ、という保証は何もありません。今、心臓に異常はありませんよ。ポンプとしてちゃんと動いていますよ、と言われても、どこか他人の心臓のように感じてしまう。けれども、これが急性心不全ということで明日急に止まってしまったら、これで自分は出直しということになります。あと、ガンの話もあります。実は私、病院に一つ文句を言ったことがあります。胃カメラで使うチューブが太いんです。だから入れられるとすごく苦しい、涙ボロボロ。ところが別の病院で胃カメラをやった時には、割りばしを割ったぐらいの細さのものが使われ、涙が出るようなことはなかったんです。そこで私は「大病院がなんでこんな太いのを使っているのか」という内容のクレームをご意見箱に書いて出した。そうしたら内科部長 さんが説明に来られて、二つの違う太さのチューブ持ってこられました。「確かにあなたの言うように細いチューブのものもあります。しかし、この細い方だと、例えばガンがあったとき、それが3ミリ以下だと見落としてしまうんです。ところが、この太い方は、1ミリのガンでも見落とさない」と言うんです。今回検査をしてみて、小さなポリープでもあったら取っちゃいますよということで胃カメラ入れましたら、果たして腸の所に小さなポリープがあった。それを見ている間にぱちんと切ってしまう。血がぴゅっと出ます。映像で見るとすごく大きいんですよ。人差し指の出っ張り位ある。「こんな大きいポリープができていたんですか?」と聞くと、「これ1ミリです」と言うんです。たった1ミリのものがこんな大きく見えるから、間違いなく発見できる。なるほどなあと、自分の都合で、チューブは細い方が良いだろうと思ったら、細い方だと見落としてしまう。今回見つかったポリープは良性のものだったので全然心配はいりません、ということでしたが、そういえばポリープを切られても、自分の腸の痛さは感じませんでした。逆に言えば、腸というのはかなり傷んでいても、出血したりなどのかなりの異常が無い限り、当人は気が付かない。自分のものなのに。

4.貸し物借り物
 ということを考えて、本当に初めて、ああ、やっぱりすべて身体は神様から借りているんだなあということが分かったんです。神様のおふでさきにですね、

「にんけんハみな/\神のかしものや なんとをもふてつこているやら」(第三号 41)

というものがあります。神様は貸しているのに、借りている人間は感謝もせずになんと思って使っているんだ?と。

「めへ/\のみのうちよりのかりものを しらずにいてハなにもわからん」(第三号 137)

ともおっしゃる。人間の身の内は全部借り物だ、それを知らずにいては何も分からん、何も分からんというのは人生の意味が分からない。命の大切さが分からない。命を借りているということ、今生きているということが分からない。なるほどそうでした。自分としては、ちょっと人間ドックへ行ってきます、と言って仕事を休んで行くだけですから、自分ではその瞬間どこか悪いところがあるとは思っていない。しかし、人間ドックで初めて重大なガンが発見されたり、重大な障害が発見されるということもあるわけです。しかもそれは自分の身体のことであるのに、カメラで見てもらわなければ分からない。これはやっぱり自分のものではありません。そしてまた、自分の意識だけで治すこともできない。これはやっぱり自分のものではない。この健康な身体、丈夫な身体を貸していただき、異常なく美味しく物を食べて出して過ごせている、ということに対して感謝とお礼をしなくてはならない。
 いつも申しあげていますけれど、感謝するというのは、朝目が覚めたならありがとうございました、ということです。眠りに就いてから、夜中にそのまま心臓が止まってしまうこともある。心不全というのはそうなんです。眠りに就くまで心臓は正常なんです。それが突然ぽんと止まる。それを思えば、朝起きることができたら、「ああ、目が開いた、お日様が拝める」ということを本当に心から感謝できる。夜寝る前も、「今日一日何事もなく休むことができます、また明日目が覚めるようにどうかよろしくお願いします」と考えると、自然と頭が下がります。人間ドックで、これあなたの食道だよ、これあなたの胃だよ、あなたの腸だよ、あなたの脳だよ、あなたの血管だよ、と言われて初めて、何事もないことの有り難さが分かる。しかし、考えたらそんなこと、お医者さんに言われなくたって、本来ありがたくてありがたくてしょうがないはずですよね。毎年人間ドックに行っていますが、これまでは人間ドックの結果だけを見て、「今年も何も無くてああよかった、また一年間働かせてもらえるなあ」という思いだけだったのが、今回初めて非常に変な感覚になりました。ああ、この身体は全部が私のものではないなあと素直に思いました。これ、本当に妙な感じだったのですが、その時に初めて、ああ、これは神様のものであって、これは借りているだけなんだ、ということが分かりました。

「めへへのみのうちよりのかりものを しらずにいてハなにもわからん」(第三号 137)

「にんけんハみな/\神のかしものや なんとをもふてつこているやら」(第三号 41)

お前なんと思って身体を使っているのか?
それが分からなければ何も分からないぞ?

ということを、この際しっかり感じて、感謝をしたいと思います。
 そしてもう一つ付け加えると、「にんけんハみな/\神のかしものや」とおっしゃる。我々は身体だけを借りているのではなくて、自分の身の回りにいる人、兄弟も親も子供も孫も全部神様から借りているんだということです。ということで、その自分の身の回りにいる方、これは血がつながっていようといまいと関係ない。自分の身の回りで自分のことを案じてくれる人、自分に声を掛けてくれる人、これも全部神様からの貸しもの。ということになると、その人たちがしてくれること、いてくれることで起きてくるあらゆることに感謝できるようになります。その心が自然と湧いてくるというのが、実は陽気ぐらしなんだな、ということがようやく、まだほんの一端ですけれども感じることができました。病気になり、病院で診てもらって先生に「大丈夫ですよ」と言われるとほっとします。しかし、病院に行かなくても、元気でいられることのほっとする嬉しさというものを日常的に感じていると、身体にどんどん活力が出てきて元気になります。これは医学的に言えば「免疫力が高まる」ということです。

5.笑うことは喜ぶこと
 昨日お出直しになった瀬戸内寂聴さん。昨日テレビを観ていたら、寂聴さんに「長生きの秘訣は何ですか?」と聞いたら「笑うことよ」と。いつもニコニコ笑っている。笑っているということは、お医者さんも言いますが、身体の免疫力が上がるということです。変な病気が来ない。病気が来ても、それを身体の中から治す力が湧いてくる。
 ではなぜ笑うかというと喜べるから。喜べるというのは何を喜ぶかというと、神様の御守護を感謝して喜ぶことができるから。これが神様が我々人間に望んでおられることだと思います。皆さんは当然お分かりのことだと思いますが、私は今回の人間ドックで初めて、自分の身体は自分のものではなく、借りものなんだということをつくづく感じましたので、ここでお話をさせていただきました。
 今日一日元気だったことを喜ばせてもらう。その喜びを神様に対するお礼として誰かにさせてもらう。これがひのきしんと申しあげましたね。そういうことで、まずは自分の身体を借りていることを自覚し、しっかりと喜ばせてもらう。これをまたこの一か月目標にしてお暮しをいただきたいと思います。
 まだ暖かいと言いながら冬です。この一週間を過ぎると急に冷えるそうですので、心だけは冷やさず、喜んで暖かくしてお過ごしいただきたいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2022年02月26日