2021年(立教184年)1月春季大祭神殿講話 ~人生のルール・陽気ぐらし~

1.春季大祭の意味
 皆さん、明けましておめでとうございます。旧年中は大変にお世話になりました。
今年は、中根大教会は大教会長が新任されるということで、この意味でも切り替えて、新しい年をしっかりと迎えたいと思います。
 現在、東京都では緊急事態宣言が発令されているとのことで、今月の春の大祭も教会在勤者のみで勤めさせていただきました。皆さんもそれぞれの家庭でおつとめいただいたと思います。いつも申し上げていることですが、おつとめをすると心が勇んできますので、ぜひ機会あるごとにおつとめをつとめさせていただくよう、どうかよろしくお願いいたします。
 祭文でも申しあげましたけれども、今月は春の大祭ということで、明治20年、陰暦正月26日に教祖が御身を隠されたという日でございます。
 皆さんご承知かと思いますが、明治20年の正月、教祖はお風呂をお出になられてよろめかれました。そばにいる方が非常に驚いて教祖に声をお掛けすると、「これは世界の動くしるしや」という風におっしゃられた。まだ側近の人は何が起きるかわかりません。それから1月20日過ぎからはどんどんと、人間の目には教祖の御身体は悪くなっていくように見えた。そして「教祖に元気になっていただくにはどうしたらよろしいでしょうか」と伺ったところ、ともかく「つとめをせよ」ということをおっしゃられた。そして初代真柱様をはじめとして、おつとめをすればまた警察が入ってきて捕まる、と。教祖の御身体がこんな状態で捕まったらどんなことになるかと心配でなかなかおつとめに踏み切れなかった。しかしその間も教祖の身上はどんどん悪くなる一方。そこでみんな意を決してですね、もう「命捨てても」と思う者だけがおつとめにかかられました。「命捨てても」というのは、こういうおつとめをすることによって警察に捕まる。場合によっては真冬の監獄では寒さで命を落とすことになるかもしれない。まさに命がけのおつとめにかかったわけです。そうしたところ、それを別の部屋で聞いておられた教祖が、十二下りの最後、「十ド このたびいちれつに だいくのにんもそろひきた」という所まできて十二下りが終わった時に、「う~ん」と一言言われて、それから息をしないようになられた。それで皆さんびっくりして、教祖の代わりに飯降伊蔵様、本席様にどうしてこうなったのかということをお伺いしたところ、本席様を通じて教祖は、「みんな扉開いてと言うたやないか」とおっしゃられた。先ほど申しあげた「世界の動くしるしや」という教祖のお言葉があった後、教祖の身上が悪くなってきたので、それはどういうことなのかと神様にお伺いを立てた時、「扉を開いてほしいか、閉じてしまうか」というお言葉があった。その時は皆さん、扉を開くか、閉じるかの意味があまりよく分からなかったこともありますが、開いた方がなんとなく景気もよかろう、という感じで「扉を開いてもらいたい」というお話をした。それで教祖は自らの人間としての身体を閉じたうえで、ご存命の教祖の魂だけで世界に扉を開いて「これからたすけをする」と、「今までとこれから先としっかり見て居よ」ということで皆さんを元気づけられた。そういう一日が、正月26日、春の大祭ということです。そんな理を受けておつとめをさせてもらいました。
 教祖は、「つとめをせよ」「人を助けよ」ということを徹頭徹尾言っておられたわけです。その当時、教祖の近くでおつとめされていた方々の熱量、心のおさめ方とは比較にならないかもしれませんが、今を生きる我々も、それぞれの持ち場立場でしっかりと「人を助ける」心をおさめてつとめせてもらうところにご守護がいただけるんだ、ということに変わりはないと思います。そんな正月26日の理を受けて、春の大祭が各教会でも執行されています。


2.一日生涯の心
 急に話が変わりますけれど、昨日は成人の日でした。全国で成人式が中止されたり、開催するにしても代表だけが参列したりと色々な形があったようですけれども、晴れ着を着てテレビのインタビューに答えている新成人がみな異口同音におっしゃるのが、「一生に一度のことだからどうしてもやりたかった」ということです。
 「一生に一度のこと」、まったくそのとおりです。その「一生に一度」ということを教祖は「一日生涯」という言葉で表現されています。そして「一日生涯」とはどういうことかというと、この今日一日生かしてもらったことが一生涯を暮らすのと同じなんだ、ということで、一日一日を決しておろそかにしてはならない、という意味です。そうすると、2021年1月11日というのは、確かに一生に一回しか来ませんけれども、実は1月の12日、今日という日も一生に一度しか来ません。明日13日もそうだし、一昨日の10日もそう。そういう風に一日一日は一生に一度しかないんだという思いで日々しっかりとつとめていく。これが教祖のおっしゃっていた「一日生涯」という意味なんですが、おさしづでは、「一日生涯の心を定めよ」と言われています。「一日生涯の心」とは何かというと、人を助ける生涯の心を定めよ、という意味なんです。つまり、今日一日でこの命は終わるかもしれないけれど、その今日一日の命を精一杯使わせてもらって、人を助けさせてもらう心。これが「一日生涯の心」という意味です。
 とはいえ、なかなか難しい。私なんかもついつい、「ああもう今日で正月も12日になっちゃった、今年に入ってもう12日も過ぎちゃったなぁ」なんてことをぼーっと考えていますけれど、考えたらこの12日間、一日一人ずつでもお助けをさせてもらったか、あるいは一日一人ずつでも人のために祈ったかということを考えますと、ちょっと自信がありません。今日ぐらいはいいかな、という日がやっぱりあります。人を助ける心というのはそれではだめだということです。
 幸いなことに、私は教会をお預かりしているので、毎日おつとめをさせてもらう。おつとめをさせてもらうと、信者の皆さんのこと、世界のことが全部頭に浮かんできて「どうか神様、今日一日信者のみなさん、世界の人々が苦しいことがありませんように。世界が平和でありますように」と毎日お願いさせてもらう。それだけでも私は助かっている、と思います。今日一日、誰かをお助けするという心をしっかりと持って、行動につなげていく日々を重ねていくこと。そういう心をしっかりと定めること。これが教祖のおっしゃる「一日生涯」の意味ですので、ぜひこれを実践していただきたいと思います。


3.天理大学ラグビー日本一
 そしてあと一つ、昨日天理大学がラグビーで初の大学日本一になりました。これまで何度も何度も挑戦したけれども、あと一歩のところで日本一になれないできた。それがようやく昨日悲願達成ということで、大変に感動的な優勝でした。テレビでも大々的に放送しておりましたけれど、ラグビーはじめ、スポーツの中には、我々の人生にも通ずる大切なことがあると思いますので、ここで少しお話したいと思います。
 ラグビーというスポーツは、自分がボールを持って走るのはいいんだけれども、人にパスする時には必ず後ろの人に投げなきゃいけない。前の人にパスすると、これは反則なんです。後ろにパスをしながら敵陣ゴールに向かっていく。その意味では、観ていて非常にまどろっこしい。敵陣深く攻め込んでいる状況なのに、あともう少しでゴールなのに、パスする時は必ずボールがどんどん後ろに下がっていく。
 そんなことでまどろっこしく感じてしまうわけですけれども、言いたいことは、ルール・規則の存在です。つまり、ラグビーがそんなルールも何もなしに、ボール持った者がさっさと前にパスでも何でもいいから自由にやってしまうとすれば、まぁそれも一つ面白いかもしれません。しかし、実は観ている方はともかく、実際にプレーする選手からすれば、自由奔放にできるということは、逆に言うと楽しさがないということになるんです。ラグビーもスポーツですから、「こういうことはやっちゃいけません」というルールがあって、その中でプレーされるから面白い。同じくスポーツの野球でもサッカーでもそう。「これはやってはいけません」というルールがいっぱいある。そのルールの中で自分の能力を最大限に発揮すること。これが実はスポーツの奥深さであり、面白さでもあるんです。


4.ルールを守る
 試合であれば試合開始から試合終了まで。人間の一生であれば生まれてから出直すまで。この間に、もしルールがなくて、自由奔放にやって過ごしているのだとしたら、きっと楽しいことは少ないと思うんですね。やりたいことを思うがままにやれることは、一見楽しいように思いますが、実は本当の楽しさではないのです。ルール・規則にのっとったやり方を貫きとおし、最後の出直しまで、ゲームセットまで迎えることができたということになると、これはきっと楽しみの質が違うものになると思います。
 そうすると、人生においてのルール・規則は何かというと、私は神様が教えてくださっている「身上かしもの・かりもの」ということだろうと思うんです。この身体は神様から借りているから、神様の思いに添った使い方をする、というたった一つのルール。これを守りとおす中に真の楽しみがある。
 一方、この身体は自分のものだから、自分の思うように自由に使って構わない。自分で命を落とすことだってそれも自由。こういうことも一つの自由の考え方です。しかし、スポーツ同様、人間の一生にはルールがあるのです。神様は陽気ぐらしをするために人間を作り、身体を貸してくれたので、その思いに添った使い方をしなければならない、というルール。陽気ぐらしをするためにこの身体を使う。陽気ぐらしをするために一日生涯という心を定めさせてもらう。人間の一生という、一つのゲームの始まりから終わりまでの間に、このルールをしっかりと守っていると、きっと自由勝手気ままにやっていく生活よりも、真の楽しさを感じることができるはずです。これがルールの面白さなんです。
 ルールというのは縛られるばかりではありません。ルールの中で、どういう風に点を取っていくかもがき苦しんで試行錯誤していくことが、実は人生の大きな楽しみとなって返ってくる、喜びとなって返ってくる。こういうことで、私は人生にも守るべきルールがしっかりとあるのだなあと、昨日のラグビーを観ながら思っていました。


5.人生のルール・陽気ぐらし
 同じように、人生でもルール通りしっかりとやっていたら、得られるものは、自由にやったものよりも倍も三倍も楽しいと思います。そのルールも厳しいものではなくて、神様からお借りしているこの身体を、神様の思い通りに使わせてもらう、ということです。神様の思いというのは、人間に陽気ぐらしをさせたいということだから、私たちは陽気ぐらしをしなければならない。そういう形でお借りしたこの身体を使わせてもらう。これを人生のルールと考えると、人生はもっと楽しいものになるのではないでしょうか。そんなことを、昨日ラグビーを観ながらふと思いました。
 我々の人生というものは、試合時間と同じで、限りがあります。限りある中でどれだけ喜ばせてもらうか、楽しませてもらうか。繰り返しになりますが、ルールは簡単です。陽気ぐらしをしましょう。自分だけではなくて、周りも一緒に陽気ぐらしをさせてもらいましょう。このルールを人生にとってゆるぎないものであると信じ、守らせてもらう。これがこの教えの神髄なんだということ。
 天理教は難しいことは何もありません。人間が陽気ぐらしをするのを見て神様は喜んでくださる。神様が喜ぶと世界や「りうけ」(立毛【リュウケ】、農作物の意)、色々な作物が立派に育ってくるというところまで具体的に教えてくださっている。人間は周りを楽しませながら、自分もしっかりと楽しませてもらう。そういうルールの中でこの今年一年、お互いに暮らしていきたいと思います。
 いつこのコロナが収まるかわかりません。けれども、以前申し上げたように、このコロナも全部神様の思し召し。神様が何を思っているかというと、

「情けない、どの様に思案したとても人を助ける心ないので」

 文化、文明が発展したのに自分中心の考え、行動ばかりして、お互いが助け合おうとしない人間への注意として、神様がコロナを出されたのだと思います。ですので、ただ自分さえコロナにかからなければよい、ということではなくて、世界人類すべてがコロナに打ち克てるように、感謝して毎日を過ごす。人を助ける心を常に持って周囲に気を配る。 こういう一年であってほしいと思います。
 頑張れば神様はきっとご守護を下さる。そうすると数か月後には皆さん集まっておつとめができることになるかもしれませんので、どうかそれを楽しみに、感染を拡げないために、単に自分だけがどこどこへ出さえしなければよい、で終わらすのではなくて、心の中で困っている人のために祈り、助けるために行動に移しましょう。
 いつも申しあげているように、自分の周りの人はすべて「世界」です。「世界だすけ」というのは、自分の目に見える、手の届く人たちへのちょっとした手助けから始まります。そういう積み重ね全部が全部「世界だすけ」となっていきます。その思いで、今年一年お暮しいただきたいと思います。

 本日はどうもありがとうございました。

2021年01月31日