2020年(立教183年)7月中元祭神殿講話 ~世界への手引き~

1.はじめに
 ただ今は、7月中元祭を賑やかにおつとめいただきました。しばらくの間お話をさせていただきますので、お付き合いをお願いいたします。

 4月以来、新型コロナウイルスのおかげで、信者の皆さんと一緒での月次祭をつとめられませんでした。東京はまだかなりの感染者が出ておりますけれども、国の方針でもあるんでしょうか、活動自粛まで求められていないということもありまして、今月から、来られる方は来ていただいて結構ですということで、教会でも感染予防策を取らせていただきつつ、つとめさせていただきました。まだ少人数ではありますが、それでも先月まで私一人で踊らせていただいたのと違って、本当に心が陽気になってきました。おつとめというのは、本当に陽気にさせてくださるんだ、つまり心がいずんでいたならば、辛い思いがしていたならば、その時はしっかりとおつとめをさせてもらう。神様はそういう陽気に成る方法を教えてくださったのだと思います。

2.生活が変わる
 これまでに何度か、会長からの手紙でも祭典講話でもお話をさせてもらいましたが、この新型コロナウイルスというのは、やはり歴史的にみても大変な出来事であろうかと思います。今まで、教会長のかたわらでやらせていただいている弁護士という私の仕事もですね、もう40年を超えますけれども、こういう流行りの病で、裁判の期日が全部取り消されるなんていうことは初めてでした。そのおかげで時間もできましたし、また普段考えたことのないようなことなども色々考えることができまして、そういう意味で私にとっては有り難い時間だと思わせてもらいました。
 おそらく、この新型コロナウイルスに対しては、今後薬やワクチンができたりして、生命の心配はなくなっていくのだと思いますが、この間に我々が変えてきた生活様式は、新型コロナウイルスを克服した後であっても続いていくのではないかと思います。ここ数ヶ月の間でも、私のところへ何件かのお葬式の連絡が入りましたけれども、すべて参列はご遠慮くださいということでしたので、参列していません。あと、人との付き合い方も全く変わってきまして、不用意に人と会ってお話をすることはダメなこと、悪いことだというような感じになってきました。今後薬やワクチンができても、こういう考え方はずっと続いていくのではないかと思います。
 人間というのは、もう字を見ても分かるように、「人の間」ということ。生物である「人」というのが皆つながって、人間という社会を作っているわけですけれども、その言葉が無くなるかのような人間のあり方というのは、一体どうしたことなのだろうか。この機会に、人間の大本である神様が、なぜこういう新型コロナというものを人間世界に出されたのかということを、しっかりと理解しなければいけないと思います。

3.わがみうらみ
 もちろん新型コロナに罹った方も大変なのですが、一方で九州では、この一週間で、70人前後の多くの方が、豪雨によって命を落とされた。台風でもない、いわば普通の雨でそのような大惨事が起きている。「雨降るも神、降らぬも神」というお言葉もありますので、それも全て神様の起こされたこと、思召しによって起きたことだということを私たちはあらためて肝に銘じなければいけない。これをただ地方で起きた大災害として、東京の人は運が良かったなあ、また運良く新型コロナに罹らなくて良かったなあ、ということで終わってしまう。これでは、神様の思いが伝わった、我々が受け取った、ということにはなりません。

 今日、おてふりの中で、十下り目の七ツ、
「なんぎするのもこころから わがみうらみであるほどに」
とありました。ここは私の好きなおてふりの一つなんですが、「なんぎするのもこころから」、「わがみうらみ」というのは、この指を「わがみうらみであるほどに」と自分に指すのです。
 コロナ禍にしても、「夜の街が悪い、若い奴がウロチョロしているから感染が拡がるのだ」と、皆人差し指で相手を指している。そうではなくて、「なんぎ」、私たちもそういう病気やウイルスが流行ってきたことによって難儀している。それは「なんぎするのもこころから」、なので、全部我が身恨みであるぞと神様は仰って下さっている。
 そして八ツ、
「やまひはつらいものなれど もとをしりたるものハない」
 新型コロナというのは辛いだろうけれども、その元を知った者がいない。
 九ツ、
「このたびまでハいちれつに やまひのもとハしれなんだ」
 皆一列、世界中は、この病の元は知らなかったろう。
 十ド、
「このたびあらはれた やまひのもとハこころから」
ですね。これもいつも申しあげておりますが、「病は気から」というのとは違います。「気合だー!」というのも違います。「こころ」というのは心遣いです。そもそも、神様の思いは何かといったら、人間というものを作って、人間が陽気ぐらしをするのを見て、神も共に楽しみたい、という目的で人間を作られた。共に楽しむ、人間が仲良く陽気ぐらしをする、ということを目的で作ったのに、実際は陽気ぐらしから離れているじゃないかと。
 今、世界を見渡せば、大国といわれる国々身勝手なことを散々やっています。この国も同じ。この国の上に立つ人たちは、自分勝手なことをやって、法律を曲げてまでも自分の思いを通して恥じることもない。そういうことは神様から見たら、とてもとてもこれは黙って見ていられない。黙って見ていられないというのは、このまま放っておいたならば、もっとひどくなるということなんです。

4.世界への手引き
 神様は、身上貸しもの借りもの、我々の身体は神様が貸したものだ、人間にとっては借りものだ。心ひとつが我がのもの、自分のもの、心ひとつは使ってよろしい。神様は、心を自由に使ってよいと仰ってくださった。その使い道を許された心をですね、皆で仲良くしようよ、平和になろうよ、幸せになろうよという使い方をするはずだったものが、いつの間にか自分たちだけ助かればよい、特定の人だけを法律を変えて、他の人は全部定年が決まっているのに定年をその人だけ延ばしてしまおう。あるいは特定の人だけ税金を使って、総理大臣の好きな人だけ集めてお花見をやろう。総理大臣と仲のよい人だけに特別に国からの補助金を出してあげよう。こういうことをやっているから、どんどんどんどん国がおかしくなって、それを見て、上があんなことやっているんだから、我々も自分中心でやろうよ、ということで、言ったもの勝ち、やったもの勝ちということで国全体がどんどんどんどんおかしくなってきている。
 日本だけではなく、アメリカでもそうです。中国でもそうです。ブラジルでもそうです。また中近東でも、イラン、イラク、トルコでもそうです。そういう風に、世界中皆自分中心で物事を考えている。そんなことは神様から見たらとても耐えられないことなので、ちょっとお前たち今まで色々な手引きをしたけれども、手引きを分かっていないんじゃないかということで、少し厳しい、世界中への手引きをしてくださったのではないかと思います。
 そんなことを考えながら、あらためてこの身体を神様は一体何のために貸してくださったのかということを省みてみると、やはりこの身体は全て神様からの借りものなのだ、というところに行き着くわけです。

5.明治20年1月13日のおさしづ
 そこで、皆さんもよくご存知の、おそらくおさしづの中で一番有名であろうというおさしづです。教祖伝の320ページを見てください。これは、教祖はつとめを急き込まれた。つとめというのは世界が平和になる、人間が陽気ぐらしをするようになる。そういう一番大事なおつとめをしろと言っているのに、おつとめができない。国の法律・命令が怖いから、教祖の身が心配なのでおつとめができませんと側近の方たちが言った時、明治20年、教祖が間もなく身を隠される直前にあったおさしづです。
「さあ/\月日がありてこの世界あり、世界ありてそれ/\あり、それ/\ありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで。」
とのおさしづでした。ただ、この後に続く教祖伝の解説で、私は違うんだろうと思っていることがありますので、ここで申しあげます。
 この解説では、まず神様がおわして、この世界、宇宙が生まれた。宇宙があってそこから世界があって、それから国があって、そこに人間がいて、法律を作った、とこういう風に解釈をしていますが、これは私は違うと考えています。というのは、元始まりのことを考えれば分かると思いますけれども、神様は九億九万九千九百九十九という全てのどじょうを人間の魂として使おうとして、その全てのどじょうを食べられた。これを人間の魂にする。そして九億九万年の昔からずっと私どもの魂は生き続けているのです。そこに身体を貸してくださる。だから身上貸しもの借りもの、というわけですね。それぞれの身上を貸してくださる。そして、その貸してくださった身上で陽気ぐらしをし、陽気ぐらしできれば、百十五歳まで生きられる。そこから先は心次第に生きよ、という風に仰っているんですけども、なかなかそこまでいかないときには、身上をお返しして、生き通しの魂でまた新しい身体を借りて帰ってくるというのがこの出直しの教理、身上貸しもの借りものなんですけども、その観点からこのおさしづを解釈すると、非常に分かりやすいのです。
 さあさあ月日、神様があってこの宇宙、世界がある。この宇宙、世界があって、それぞれ魂がある。人間の魂がある。そしてその魂があってそこに身の内、身体を貸してくださる。そして、この身体を借りた人間たちが生きやすいように自分たちで律、法律を作った。だから法律があっても神様から借りたという心定めが大事なんだぞ、と。こういう風に、それぞれというのはですね、国ではなくて、それぞれの、私たちの一人一人の魂と考えたらもっと分かりやすいと思います。
 宇宙を作って、この地球を作って、その地球を作った上で陸を作って下さった。一方、それで神様はどじょうを全部食べて、それぞれの魂を作ってくださった。人間はその魂に身の内、身体を借りているのです。そういう風に考えれば、法律なんていうのは、魂に乗っかった身体ができた人間が、その身体がある時だけのために作ったものであることがわかります。だからこそ、いくら法律を作っても心定めが第一だぞ、と仰っているのです。
 これは、国の法律に従わなくてもよいなんていう意味のつまらない言葉ではありません。人間が定めた約束事はあるとしても、それはその時を生きる魂を持った人間が暮らしやすいように定めたものであって、長い歴史の中でみれば、その時に生きる人間たちの勝手な約束事ともいえる。そんな頼りない、うつろうものよりも、どんなに時間が経っても、時代が変わっても、この魂をお作りくださった神様の元なる思いをふまえ、陽気ぐらしをするために我々人間が神様と交わす心定め、これこそが何よりも大切なものであり、第一として考えなければいけないもの。そういう意味の言葉なのです。
 ただ、このことは、私たちの身体は滅びても、魂は生き通しであり、新しい身体をもって出直してくるのである、という出直しの教理、身上貸しもの借りものという確信があってはじめてしっかりと心におさまる、そういうことであろうと思います。
 身近な方が、愛している方が出直される。悲しい、辛いことです。しかし、今ここにいる私たちも、身上を返さなくてはいけない。しかし、その身上は返しても、魂は生き通しです。九億九万年前からずっと生き続けてる。その魂に、その時代時代に身の内、身体を貸してくださった。だから今、この借りているこの時代、私は羽成守という名前を付けてもらって身体を借りている。この身体はいつか返さなくてはいけない。だとしたら、今この借りている、皆さんが今元気で借りているこの身体を神様の思い通りに使わないといけない。神様の思い通りとは何かと言ったら、助け合いをするということです。陽気ぐらしをするということです。自分中心では決していけない。

6.天理教災害救援ひのきしん隊
 今回の九州の豪雨災害でも、多くのボランティアの方が出ています。天理教でも災救隊(災害救援ひのきしん隊)という、日本でトップクラスと言われていますけれども、災害発生時には常に出動しています。あの方たちは、教会本部から、全てのテント、お風呂、トイレなど、生活するために必要なものは全部持って行って、現地では一切世話にならない。重機まで持って行ってそこで復興のお手伝いをさせてもらう自己完結型といわれています。天理教ということは決して表に出さず、コツコツとやって、仕事が終わったならば、さっと自分たちのテントに戻ってきてそこで休んで、また翌日出て行く。このことは、宗教団体の救助隊ということもあってか、基本報道されませんけれども、災救隊が赴いた地域からは、教会本部に多くの方が御礼に訪れているとのことです。よく週刊誌で宗教団体ランキングみたいな特集記事を組んでいることがありますが、天理教の災救隊活動を指して、一切宣伝をしない、現地の世話にならない、やった成果を誇示しない、ということで褒められているようなものもありました。
 ただ、いつも申しあげていますが、人を助ける、人を手助けすることに御礼を言われてはいけません。これは大切なことです。人を助けることは、神様に今、この大事な身体を借りていることに対する御礼ですから。神様に対する御礼として人様を助けさせてもらっているのだから、その人から御礼を言われてはいけません。この意識がなければ、人助けの意味が変わってしまいます。
 だから、一番素晴らしいのは、人の見ていない陰で人様のために祈ったり、陰で人様の役に立つことをする。今この世の中は、これだけやりました、あれだけやりました、と誇らしげに言うのがいるけれども、少なくとも私たち信仰者は、人の見えない所で誰かのために何か一つ良いことをしましょう。

7.他人のために祈る
 「世界だすけ」という言葉がありますが、この「世界」というのは、地球の国々すべて、という意味だけではありません。自分以外はすべて「世界」です。皆さんのお子さんも自分からすれば世界。奥さんも世界。孫も子供も全部世界。ということは、自分の子供のために、奥さんのために、楽になれるよう陰でちょっと何か手助けしてあげること。これも「世界だすけ」です。そして子供のため、奥さんのため、親のため、孫のために神様にどうか助けてください、家族を助けてくださいとお願いをするのも、これも「世界だすけ」です。そういう思いで皆一人ひとりがいてくれたら、これが陽気ぐらしへの確かな筋道となります。難しいことは何もありません。自分の思いで自分の周囲の人に対して祈る、願う。また今新型コロナに罹って病んでいる人、あるいは災害で大変な苦しみをしている人に対して、一日も早く楽になれるようにと祈ること。
 そして、具体的にできるとすれば、例えば私は災害救援ひのきしん隊への寄付をしていますけれども、そういうわずかなことであっても、その思いで人様に助かってもらうようにする。これがおさしづの「それ/\ありて身の内あり」、つまり神様から借りている身の内、それに対して神様が手引きをくれたのがこの十下りの「やまひはつらいものなれど もとをしりたるものハない」ということです。コロナ禍も水害も、神様の思いに背く人間の姿が、神様からすると見ていられない、という手引きであると考える。おふでさきに、
「このはなし ほかの事でわないほとに 神一ぢよでこれわが事」(第一号五十)
とありますように、自分たちには幸い来なかったとしても、全ての話は他人事ではない、全部自分の事として、自分が水害に遭った、自分が新型コロナに罹った、自分が大変な目にあったと思って、その人たちのために祈る。これこそが信仰をしているという意味です。
 自分は信仰をしていて助かったから有難い。そんなものは信仰ではありません。常に自分の幸せに感謝し、その感謝の思いを病んでいる人、苦しんでいる人たちに対する思いに変えていくという信仰の要点を、この7月に入ってからの色々な出来事であらためて考えさせられました。この思いを皆さんと共有し、これからの一か月、お暮しいただけたらよろしいかと思います。

 今月は暑い中、ご参拝の方は本当にお勇み様でした。また、YouTubeでご覧いただいている方も、どうかご無理なさらず、来月皆さんがまたご参拝いただけることを毎日祈っております。
 どうぞお身体お大事に、元気にお暮しください。今月はどうもありがとうございました。

2020年07月29日