2021年(立教184年)5月月次祭神殿講話 ~ぢばに心を寄せるということ~

1.はじめに
 ただ今は5月の月次祭を無事に、陽気につとめさせていただきました。
 教会の在勤者だけでございましたけれども、いつも申しあげておりますように、やはり、鳴り物でおてふりをやらせていただきますと、本当に心が勇みます。皆さんもぜひそれぞれのお宅でおつとめをしていただきたいと思います。どうぞしばらくの間お付き合いをお願いいたします。
 まず最初に、いよいよ5月16日、中根大教会の七代大教会長日高彰先生の就任奉告祭をつとめさせていただきます。先月も申しあげましたけれど、ありがたいことに日帝分教会から4名のおつとめ人衆がご指名を受けまして、就任奉告祭のおつとめに出させていただくということになりました。一所懸命つとめさせていただきたいと思います。

2.ぢばさだめ
 今日は、5月ということですが、天理教では、10月が立教の大祭、10月26日。それから1月が春季大祭、教祖が身を隠されたということで1月26日が春の大祭。そして4月は教祖の誕生祭。ということで、これら以外は普通の月次祭ということでさせていただいているんですが、5月というのは、実はこの教えの中で忘れることのできない月でもあります。
 陰暦明治8年5月26日に教祖が身を隠される12年前ですが、「ぢば定め」がなされました。皆さん、我々はおつとめというのは全部ぢば中心におつとめをしていますね。ぢばを囲んでかんろだいづとめをし、ぢばのしるしにかんろだいを立て、その周りでおつとめをさせてもらう。その理を受けて各教会が本日のように月次祭をつとめさせていただくということですが、この教えの根本、一番最初の中心の地点というのは「ぢば」ですね。この「ぢば定め」というのがなされたのが陰暦明治8年の今月、5月26日なんですね。これは教祖伝でお聞きになったと思いますが、教祖が天保9年以来40年の間色々と教えを説かれました。その中には「ぢば定め」という言葉も出てくるし「ぢばに心を寄せよ」という言葉も出てくるんですが、一体その「ぢば」というのがどこにあるのか最初は誰も知らなかった。それが明治8年になって教祖が「今日はぢば定めをする」ということでお話しなさったんですね。「ぢば定め」というのはこの教えの大元、神様が人間を創り出したその元の一点。これがぢばですから、そのぢばに心を寄せるということは、神様に心を寄せるということになります。天理教の教典にもありますが、「ぢば」と「親神天理王命」と「教祖」の三つは、その理は一つであると。まさに三位一体がこのぢばなんですね。ぢばと親神様と教祖というのはイコールだという風に教えてくださっています。
 そんなぢば定めの決め方というのは、まずこかん様が歩かれました。そして目隠しをしてきれいに清めた御屋敷の庭を歩かれたら、ある一点に行ったらピタッと足が動かなくなってしまった。そしてまたそれから後の本部員さん、仲田先生とか辻先生とか色々な方が皆目隠しして歩かれたら、皆同じところでピタッと足が止まる。ところが辻とめぎくさんのお母さん、辻ますさんは目隠しして歩いていったらばそのまま通り過ぎちゃった。そこで教祖は、当時赤ん坊の辻とめぎくさん、後にお琴を御屋敷で弾くようになる方ですが、赤ん坊の辻とめぎくさんを背負って歩いてごらんとおっしゃったので、そのようにしてもう一度目をつぶって歩いてみたら、また同じような所でピタッと止まった。つまり人間心を持ってどこだろう、どこだろうと思ってお母さんは行ってしまったんだけれど、人間心では探すことができない。だから赤ん坊を背負って、赤ん坊の持つ、なんにも疑わない、親に言われた通りのことをする素直な心。まさに「さんさいごころ」ですね。その「さんさいごころ」を持つ赤ん坊を背負って歩いたらば、ピタッとその地点に止まった。それが元のぢばの一点で、今の本部へ帰ったらかんろだいが立っているあの一点です。あの上を皆さんが歩かれてピタッと足が止まったという、それを思うだけでもなかなか感慨深いものがありますけれど、そうやって決められたぢば定めがあったのが、明治8年5月26日なんですね。
 明治が始まる二年前の慶応には、もうみかぐらうたはできていました。みかぐらうたの中に「ぢばさだめ」なんてありますけれども、おうたはあったのに「ぢば」がどこだかわからなかった。「ぢばってなんだろう?」と。それをようやく皆の心ができてきた時にその「ぢば」を教えていただいた。そしてそのぢばを元にして、世界中の信者さんがあのぢばの一点に心を向けて拝んでいる。皆さんも朝晩親神様を拝していますけれど、その時は常におぢばに心が向かっています。つまり、我々の信仰の基本中の基本、これがおぢば。このおぢばが定まったというのが5月26日。割と知られていないんですけれど、大事な日だということ、その月だということを今月はちょっと思い起こしましょう。先月も申しあげましたけれど、信仰というのは心で神様を信じること。では、どこを信じるかということになると、常に頭でかんろだいのあの一点、そこを常に頭に思い浮かべて、信仰の元一日に帰っていただきたいと思うんですね。これが「ぢば定め」という意味です。

3.ぢばに心を寄せるという意味
 そして「ぢば一つに心を寄せよ」という言葉もあります。ぢばに心を寄せるということは、神様に心を寄せるということ。先ほど申しあげたように、ぢばと親神天理王命と教祖はその理が一つである。ぢばに心を寄せるということは、親神様の思いに心を寄せること。教祖の思い、ひながたに心を寄せること。そして元の始まりであるぢばの一点、人類の始まりである元の一点です。その元の一点はなんなのかというと、人間の陽気ぐらしをするのを見て神も一緒に楽しもうとして人間を創られたという、その思いがこもっているのがあのぢばの一点なんです。
 今、我々には色々と辛いことがあります。コロナがあったり、世界のそこかしこで戦争があったり、今まで自由だった国の人々が突然自由を奪われたり、本当に世界中で辛い思いをしている人がたくさんいます。けれども、神様はこの人間を、そういう辛い思いをするために創ったのではない。陽気ぐらしをするために人間を創られた。ということは、今、世界で争っている人、悩んで困っている人、この人たちは陽気ぐらしをしなければならない。では、陽気ぐらしをするためにはどうしたらいいか。それは自分の心を入れ替えることです。我々が心を入れ替えて世界を見れば、今この瞬間にも多くの人が悩み苦しんでいる。そこで我々は、その悩み苦しんでいる世界中の人たちが、なんとか明るく元気に健康に立ち直ってもらうように、自分が何かお手伝いはできることはないか、ということを親神様、教祖に拝をして真剣に考える。この行為が、元一日、ぢばに心を寄せるということの意味です。
 一人ひとりの信仰が、このぢばに全部集約されるわけですから、そういう意味でもこの5月においては、何のために私たちは信仰しているのかということを考える。元始まりの元の一点、おぢばが定まったのがこの5月の26日ということを覚えてください。我々の信仰の原点は、人を助けるために、お互いが助け合うために、陽気ぐらしをするために、神様は人間を創ったということ。しかし、果たしてこの世の中はそうなっているでしょうか?テレビでもやっていましたが、皆で平等にやらなきゃいけないコロナのワクチンを、自分だけ特別に早く打とう。つまり、人を押しのけて自分が助かろう、という考えになります。俺が俺が。私が私が。そういう考えは、神様の意に反します。難しい状況の中でも、人間同士で争うことなく、平等に、仲良く、皆が幸せになれるよう進んでいくためにはどうすればいいか。そのことを真剣に考えて、拝をする。そのようなことを考えますと、ぢばに心を寄せるというのが日常生活において最も大事な生き方、考え方であるということがお分かりいただけるかと思います。
 のんべんだらりとやっていても、信仰は信仰です。しかし、節目ごとに自分の信仰を考え直す、見つめ直すということも、信仰をするうえで大切な要素です。そういうことで、5月はぢば定めの月、そして4日後の16日には、我々の親である中根大教会の新会長の奉告祭も執り行われます。そういう機会に、改めてそれぞれが身の周りにいる人たちに何ができるのか、という信仰の原点に立ち返ってお考えいただきたいと思います。

 なんとか来月こそ皆さんにお会いしたいと思いますので、心を合わせて神様にお願いさせていただきたいと思います。しっかりと心を作らせてもらいますから、どうかコロナを収めていただきたい。一人ひとりがそのように心を定めて神様にお願いをして、なんとか来月6月12日、皆さんに元気にお会いしたいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2021年06月20日