2022年(立教185年)8月月次祭神殿講話 ~宗教は怖いか~

 ただいまは8月の月次祭を賑やかにおつとめいただきました。ありがとうございました。
 教会で新型コロナの陽性者が出てしまったために、皆さんには今日は自宅からご参拝いただくということでお願いいたしました。まことに申し訳ありません。
 暑さとコロナと、東北の方では大雨が全然降りやまないということで、社会で色々なことを見せられておりますけれど、こんな中から私たちは何を考えたらいいかということをちょっとお話させていただきたいと思います。しばらくの間お付き合いをお願いいたします。

1.カルトについて
 最近、いわゆる旧統一教会のことが盛んに話題になっています。私も旧統一教会の被害者の弁護をしたことがありまして、ほんのつまらない壺を二千万円で買わされたとか、色々なことがあります。最近テレビなどで気になっていることがあり、私がカルトについてあちこちで講演させてもらっていることもありますので、その中から信仰につながるお話をさせていただきたいと思います。
 よくカルトとかオカルトということを言いますけれど、カルトというのはいわば狂信的な集団のことです。特にそこに精神的なもの、神様とかあるいは色々な心のメンタルの問題、要するに人間の目では見えない、科学では説明できないことを真理として信じ込ませ、それを前提として反社会的な行動を指示、命令していく集団、これがカルトと言うんです。
 色々なカルトの定義がありますけれど、私は皆さんに一番分かりやすいカルトの定義として、2点をお話しています。


カルトとは(1と2を両方みたすもの)
1.その集団以外である(集団の外にある)「社会」には、正義も真実も無いということを教え込むもの
2.「何々をしないと不幸になる」ということを教え込むもの



 一つは、その集団の中にしか正義とか真実が無いんだと、つまりその集団以外である「社会」ですね、社会には正義も真実も無いということを教え込む。これがカルトの一つの特徴です。
 あと一つは、「何々をしないと不幸になる」ということを教え込むのがカルトの特徴です。この二つについて、ちょっとお話をしたいと思います。
 まず自分のグループ、集団の中にしか正義とか真実は無い、という人たちにとってみると、自分たちの外の「社会」にはもう正義や真実は無いわけですから、自分たちのことをどんなに批判されても、自分たちがどんなに叩かれても、それは周りが悪い、間違っているので自分たちは間違っていない、ということで、どんどんどんどん信仰心が強くなります。そうした中で誤った正義や真実を教えられてしまうと、外からの意見について一切耳を貸さなくなる。むしろその外からの批判に対して、どんどん自分たちの結束が固まっていくという、こういう特徴があるんです。
 それと「何々をしないと不幸になる」、例えばこれを信仰しないと不幸になる、あるいはこの壺を買わないと不幸になる、あるいはお金を献金しないと不幸になる。これがカルトの、いわば経済的に結びついた一番大きな特徴と言ってもよいと思います。
 それによって先日、元総理大臣が狙撃されて亡くなった犯人とされている人も、母親が旧統一教会から献金を求められて財産が全部無くなって破産をして、それによって自分の人生が変わってしまったということから、旧統一教会を日本に導入してきた、あるいは日本で運動を支えてきた政治家だということで恨みが募って殺したということを言っています。つまり「何々をしないと不幸になる」というカルトの特徴によって、献金をして家が破産するなど困窮してしまったのが原因と言っています。このように、自分の集団にしか正義は無い、真実は無い、また信仰しないと不幸になる、献金しないと不幸になる、といういわば脅迫的な言葉で自分たちのグループに引き込もうとする。私は、この二つがあればカルトだとお話をしているんです。一方だけ、たとえば「その集団の中にしか正義とか真実は無い。」だけであれば、単なる狂信的集団ですし、また「何々をしないと不幸になる。」として献金などだけをさせれば詐欺や脅迫行為となるわけで、これらの二つが備わって、カルトということになると考えています。

2.宗教は怖いか?
 そんな中で、最近宗教って怖いよね、あるいは信仰って怖いよねということを言う人がいっぱいいます。私が信仰を持っていることを知っている人が、私に対してすら、信仰って怖い、宗教って怖いということを言ってきます。この人たちに対して、その誤り、間違いを今日皆さんと一緒に考えてみたいと思うんです。
 まず、その人たちにとって宗教というのはどういうことかということを聞いてみるんです。すると、宗教というのは怖い、何とか教とか何とか宗ということで、それは怖いということを言うんです。宗教は怖い、なぜ怖いかというと、宗教に入ってしまうと自分の意思が無くなってしまう。もっと単純に言うと、宗教には昔からの良い宗教もあるし、悪い宗教もあるという言い方をするんです。
 しかし、社会でそういう宗教という名を借りて違法な行為、犯罪行為を行っている集団は、宗教でも何でもない、単なる「犯罪集団」というだけの話であって、決して宗教が悪いことをしているわけではない、宗教の名を借りた犯罪集団が悪さをしているだけ、という風に考えれば、宗教が悪いということには決してなりません。
 ところが、本当の信仰を持っていない人が宗教に対して何を言うかというと、「良い宗教ならいいけれど、悪い宗教はだめよね」という話になるわけです。良い宗教と悪い宗教という判断は誰がするかというと、実は自分がしてしまう。そうするとその判断を間違えると、宗教に名を借りた犯罪集団が「良い宗教」となってしまう。
 実は、そのような犯罪集団は、さきほどお話しましたように、自分たちだけが正しい宗教だからということで、そしてまた非常にごまかした人の集め方をします。彼らは、勧誘のスタート地点においては、決して自分たちが宗教団体であるとは言いません。オウムにしてもヨガ教室というところから入ってきた。旧統一教会も家庭の幸せ、家庭の幸福ということから入ってきた。ということで、決して自分たちが宗教団体だということは最初は言わない。そこをだまされると、自分がたまたま引きずり込まれた集団を良い宗教だと思ってしまう。これがまさにカルトに入ってしまうということなんですね。
 つまり宗教には良い宗教も悪い宗教も無いんです。のちほど申しあげますけれど、信仰や宗教というのはどういうものか突き詰めて考えれば、良い宗教・悪い宗教というものは無いです。これ、全部自分で考えて決めるしかない。宗教は怖いとか、私は宗教はしないんだという人に限って、実は今のように良い宗教ならしてもいいけれど、悪い宗教はダメだと勝手に思っているから、その基準を間違えて、そこに付け入れられて、悪い宗教に入ってしまうと、これこそが正しい宗教だというカルトの考え方になってしまう。ということで、宗教には良い宗教・悪い宗教というのはありません。そこをまずしっかりと理解してもらいたいんです。

3.信仰とは
 そして信仰についてですけれど、信仰は何かを頼るもの、信仰をするというのは何か自分が困っている時に助けてもらうものという風に考えている人が世の中多いです。ですから、受験に合格させてもらうために湯島天神に行ってお守りを買ってくるくらいならまだ罪がありません。特に罰が当たるわけでもなんでもないから。しかし、心に苦しみがある時に、この集団に入ればその苦しみは助かるというようなことで、信仰というのは何かに頼って助けてもらうんだ、ということだけを考えていると、これはまた間違いのもとになってしまいます。
 つまり、信仰とは何か、ということをしっかりと考えないと、すぐにカルトにかかってしまう。皆さん、オウム真理教だとか旧統一教会のことをテレビがこれだけ報じているのに、いまだに信者が増えているんです。これはどうしてかというと、彼らの教えがすばらしいんじゃなくて、彼らの勧誘の仕方がまことに巧妙だからなんです。彼らは、何かに頼らないと、何々しないと不幸になるよ、これを信仰すれば幸せになれる、あるいはこれを買えば幸せになれる、そう言うんです。そこで、信仰というのは単純に幸せになるためのものだと思っていると、そこに行けばじゃあ幸せになれるんだと思って引っかかってしまう。こういうのは本当の信仰ではないということを、しっかりと理解をしてもらいたいんです。
 じゃあ正しい信仰とは何か。これは非常に簡単です。


正しい信仰とは(1と2を両方みたすもの)
1.感謝する心というのを知るというもの
2.人を助ける心を持つもの



 一つ目は、感謝する心というのを知るという信仰です。二つ目は、人を助ける心を持つという信仰です。これが本来の正しい宗教であり、信仰なんです。
 つまり、人間は誰しも幸せなとき、たとえば、オリンピックで金メダル取った人、あるいはとんでもなく難しい試験に受かった人、そういう人たちの口から出てくる言葉は何かというと、全部「感謝」なんです。「皆さんのお陰で今日が迎えられた」「皆さんのお陰で金メダルが取れた」「皆さんのお陰でこんな難しい試験に受かった」という風にです。「俺が頑張ったから金メダル取ったんだ」という人は、テレビや新聞等で知る限りですが、誰もいない。ということは、やはり人間の本当の心というのは、皆さんに助けられているんだなあということを感じること。これが人間として最も正しい、すばらしい心だろうと思うんです。
 感謝の心を持つようになる。だから子供、特に小さい子供に対して最初に教えることはなにかというと、いただきますという手を合わせる。誰に手を合わせているのといったら、神様のお陰。神様がこういう食べ物をちゃんと作ってくれて、食べられるようにしてくれた。そしてまた両親が自分を産んでくれた。そしてこんなおいしいものを食べられる身体を神様が貸してくれている。こういうことを教えるのが、まずいただきますという、そこから始まる。そういうことの積み重ねの中で、自然と感謝の心を持つようになる。こういうことが本来の正しい「信仰心」なんですね。

4.誤った信仰心
 信仰心について、自分だけ幸せになればいいというのでは、これは信仰ではありません。例えばオウムにしても、アルマゲドンというとんでもない神からの罰が下る。だからそれを避けるためにはこの信仰をして、そのアルマゲドンを起こしそうな人間を全部殺してしまう。この信仰をしている人間だけが助かるということでサリンを撒きました。それは自分が幸せになろうという心しか持っていないから。
 また旧統一教会もそうです。この壺さえ買えば幸せになれるけども、あるいはこの献金をすれば幸せになれるけども、献金しなければ不幸になります。壺を買わなければ不幸になります。自分の全財産を売り払って壺を買う。そして自分の全財産を教会にお供えをする。このお供えは別に嬉しくて、喜んでするわけではなくて、これをしなかったならば、地獄に落ちる、悪魔に自分の命を取られてしまうというその怖い教えの中から仕方なくしているんですね。
 つまり人を助けようという心ではなくて、自分だけが助かればいいという心なんです。これはやっぱり信仰ではないんですね。信仰のように見えるけれど、信仰とはまったく無縁のものです。

5.天理教の信仰
 そこで我々天理教を信仰している人間は、オウムだとか旧統一教会だとかの話が出てきた時にどういうことが言えるかというと、これは極めて簡単です。
 教祖に、自分が神様に助けてもらったお礼をどうしたらよろしいですかと尋ねたとしたら、お供えをしなさいなんておっしゃらない。

「金や物でないで。救けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、救けてほしいと願う人を救けに行く事が、一番の御恩返しやから、しっかりおたすけするように。」(教祖伝逸話篇七十二)

 自分が助かった喜びをもって、自分と同じ苦しんでいる人を助けてあげなさい、とおっしゃる。そして神様が身体を貸している、神様から身体を借りているんだから、これに対する感謝、「かしもの かりもの」への感謝だけは欠かさずにする。その感謝は何かというと、これが「ひのきしん」です。
 ひのきしんは、神様に対してどうこうしなさいではありません。神様に対するお礼として、自分の周りの人たちに喜んでもらえるようなことをするという、まさに感謝の心を持つということと、人を助ける心を持つということを、この天理教の教えは根本にしているんです。
 自分だけ助かればいいというのは信仰ではない。人が不幸になっても自分は幸せになるというのは、そんなもの宗教でも信仰でも何でもありません。真の教えは、神様に対する感謝の心を持つこと、この立派な丈夫な身体を貸していただいていること、また自分の周りにすばらしい人たちを貸していただいていること、自分にとって嫌な人であってもこの人は自分を磨いてくれる人なんだと言って、貸してくれた神様に感謝をすること。またその人に感謝をする。その感謝を持つ心。そうして自分が助かったならば、さらに困っている人を助けさせてもらうという、この天理教の教えの神髄、皆さん分かっていますね。
 天理教はどうやったら助かるんでしょうかというと、お供えしたら助かるとは教えていない。「人を助けて我が身助かる」と教えてくださる。この天理教の助かり方は、人を助けると自分が助かる。人を助けている姿を神様が見て、人間きょうだい仲良くやっているなということで、助けている方を神様が助けてくださる。これがまさに信仰の一番正しい姿だと思うんですね。

6.温かい心を万人に
 そして【教祖より聞きし話第四巻】に書いてあるんですが、教祖は、「温かい心を万人に使うのやで」とおっしゃったとあるんです。温かい心を万人、すべての人に使うのやでとおっしゃった。万人というのは自分に反対する人、自分に意地悪する人、自分から考えて自分の支障になる人、こういう人に対しても「温かい心を万人に使うのやで」という風に私たちの教祖は教えてくださっています。
 この教えを信じているということは、他の、今世の中でとやかく言われているような宗教や教え(本来そう呼べないものですが)とはまったく違います。我々天理教を信じる人間は、宗教は怖いとか信仰は怖いという人に対して「そんなことはない」ということを自信を持って伝えましょう。
 そしてそういう風に宗教は怖い、信仰は怖いと思っている人は、これは心が救われていない、場合によっては辛い状況に置かれている人かもしれない。だとしたらそういう人に温かい心を持って、幸せになってもらうように心を使わせてもらう。これが私たちの信じているこの天理教、教祖の教えなんです。
 ぜひこの機会に、世の中でとやかく言われている「宗教」とか「信仰」とかいう用語に惑わされず、宗教は怖い信仰は怖いと言っている人に対して「そんなことはない」と毅然と伝えましょう。
 繰り返しますが、今テレビなどで報道されている信仰や宗教というのは、これは全部宗教に名を借りた違法な団体です。私のような法律家から言うと、あれは宗教団体でもなんでもない、単なる「犯罪集団」であるとして皆さんに説明をしています。そういうことから、決して心を濁さず、こういう時だからこそ、私たちの教祖の教えに素直についていきたいと思います。

 本当に東京は暑いですけれど、私の家内の実家の弘前は大雨で大変のようです。自分の所だけではなくて、常に周りで苦しんでいる人、大変な思いをしている人に対して、一日も早く穏やかな日が来るようにということを神様にお願いをするということも、信仰をしている一つの意味です。どうか困っている人たちのために、苦しんでいる人たちのためにまた祈りを捧げる一か月であって欲しいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2022年08月26日