2020年(立教183年)9月月次祭神殿講話 ~「見方を変える。言葉で喜ばせる」~

 ただいま、9月の月次祭を賑やかに、陽気につとめさせていただきました。
 久しぶりにおいでになられた方が多かったものですから、鳴り物も入ったり、三曲も入って本当に賑やかでした。やはりおつとめというのは心が勇みます。おつとめさせてもらうことによって勇んでくる、という感じがいたします。
 それでは、しばらくの間お話させていただきますので、お付き合いお願いいたします。

1.おつとめをするということ
 先月8月26日、本部の月次祭に参拝させていただきました。各大教会から数人ずつで、中根大教会は4人ということでしたが、真夏ということもあり、私だけが参拝させてもらいました。東西だけ入口を開放しまして、きちんと消毒をして、本部の神殿に一人畳一畳で、会長さんだけ一人ずつ。教服で、足袋で参拝をさせてもらいました。本部神殿は広いですから、畳一枚一人ならガラガラだろうなと思っていましたが、大変な数の人たちでした。本部の神殿に座っておつとめさせていただいたのは、もう本当に数ヶ月ぶりでしたけれども、心が本当に勇んでまいりました。中に入れない信者さんたちは、神殿の外で参拝していらっしゃいましたけれども、「おぢばへ」という思いがひしひしと感じられましてね。これまでは、おぢばに帰らせてもらうのは当たり前のことで、神殿に上がっておつとめさせてもらうのも当たり前。改めて、限られた人しか参拝してはいけないということになってみて、おつとめに対する思い、というものを新たにしたところでございます。
 そんな中、真柱様がコロナでおつとめができないことについて、こうおっしゃっていました。
 これまで先輩の諸先生方は、教祖時代のご苦労をみんなして通ってこられた。あるいは身近に、自分のすぐ上の親がそういう感じを持っておられた。ところが、今の我々は、自分の親も含め、そんなに信仰することが、おつとめをするということが、大変なことだと感じていない。それを、今回コロナというウイルスのせいではありますけども、皆が集まっておつとめをさせていただけないという節を見せていただいて、改めておつとめをしたいということで集まってきた方たちの思いを感じることができたのではないか、というお話をしてくださいました。
 教祖ご苦労の時代に、教祖はつとめをせよ、とおっしゃる。ところが、警察がおつとめをしている所へすぐ飛んできて、おつとめしている人たちを捕まえる。それを聞くにつれ、自由な時代に生きている私などは、おつとめなんて陰で隠れてやればいいのに。皆でわざわざ集まって捕まるようなことやらなければいいのになあと、ちょっと思ったこともありました。
 ところが今回のコロナ禍で、「おつとめはしてはならない」というように言われた時の、どうしてもやむにやまれぬ気持ちで神様の所に集まって皆でおつとめをしたいという思いというのは、こういうものなんだなあということを改めて感じました。今回こういう騒動が起きて、自由に本部への参拝もできない、おつとめに、神殿に上がることもできない。そして大きな声も出してはいけない、唱和してはならない、なんていうことでしたから。ただし、今回は畳一畳で皆離れていましたから、全員マスク着用でしたけれども、おうたは歌えるということでやらせてもらいました。
 そんなことで、普段なんでもなくやっていることが「だめだ」と言われると、本当に人間というのはそういうことをしたくなる。信仰でなくても、一旦「旅行に行ってはならない」ということになり、その後いざ旅行解禁となる皆がワッと動き出す。あるいは解禁されてなくとも、隠れてでも動き出す人も出てくる。こういうのが人間の本性なのかもしれませんけれども、そんな風におつとめということに関して、神様の所でおつとめをしたい。皆さんから言うと、まず、ぢばにつながっている教会でおつとめをしたい。そしておつとめ着を着て、ておどりを皆と一緒に鳴り物を鳴らしてしたい。という思いをこの機会にしっかりと持っていただいて、今度自由にできるようになった時には、それ以前の何倍もの喜びの心を持ってやらせてもらう。これが「節から芽が出る」ということだと思います。そんな風にちょっと考えて、どんな不自由な時でも、その不自由なことからそれまでの自由な時を思い出して、自由な時を感謝して、改めてその不自由を楽しむ、喜ぶということも、人間の成長のためには良いのではないかなと思います。


2.見方を変える
 ここで一つ、私の仕事に関して、非常に面白い話がありますので、少し中身は変えていますけれども、お話をさせてもらいたいと思います。
 その方は高齢の方で、結婚をして子供さんが男の子三人いる。そしてその男の子三人を皆大学出して、一人前にしたところで、その奥さんの親というのが健在で、奥さんの親に言われて離婚させられてしまった、と言うんですね。奥さんの親が厳しく言うものだからやむなく離婚したんだけれども、子供は母親のほうについて、自分だけ一人で家を出て、現在がある。それからもう十数年経つんだけれど、奥さんとは当然離婚したので連絡をとっていないし、子供とも連絡をとらせてくれない。子供に何とか会いたいと思って住所なんかを聞こうとすると、奥さんの親が出てきて、絶対に会ってはいかんと厳しく言うんだ、と。ということで、奥さんの親に対しての損害賠償をしたいという話だったんです。子供を三人大学へやるくらいですから、一所懸命働いて一所懸命子供を教育して、一人前にしたのに、奥さんの親が私たちの幸せを邪魔したんだと、こういう話をされる。
 「でももうお子さんいくつ?」と聞いてみると、もう四十だと言うわけですね。

 「成人していたら住所でもなんでも調べられるじゃないの?」
 「いや、住所が分かっても、電話しても電話にも一切出ない」

 全部向こうの親が邪魔しているんだ、その一点張りなんですね。色々細かい話を聞いた後で、ふとこう思ったので聞いてみました。

 「別れた親であって実の父親であるあなたに、四十過ぎた子供たちが会いたいと思うなら、彼らのお祖父さんがいくら邪魔したところで、簡単にあなたに連絡取れるんじゃないの?あなた、これ結局、子供たちがあなたに会いたくないだけなんじゃないの?」

 と言ったならば、今度は、一緒に相談に来て隣で話を聞いていた彼の後妻さんが、「そうなんです。この間ようやく見つけて長男の所に行ったんですけど、ピンポンを鳴らしてドアを開けて父親の顔を見たら、バタンと長男にドアを閉められた」ということを言う。
 そこで私ははっきり言いました。

 「あなたさ、結局あなたが嫌われているんじゃないの?『自分は子供を愛しているし、子供を一人前に育てたし、今も会いたい。子供も私と会いたいんだけれども、誰かが邪魔しているから会えないんだ』とあなたはそう言うけど、子供はいい大人なんだし、会おうと思えば会える。別にお祖父さんと一緒に暮らしている訳じゃないんだから、会えない理由がない。となると、会えないんじゃなくて、あなたを嫌ってるから『会いたくない』んじゃないの?自分が嫌われていると思ったことはないの?」

 そう聞くと彼は、「そんなことは絶対に無い!」と断言する。

 「じゃあ細かいこと聞くけれど、子供の高校とか大学というのは、あなたが全部選んだんじゃないの?」
 「そうです。子供にとって一番良い学校を選んでやりました」
 「ということは、子供は行きたい学校があったんじゃない?」
 「そうだと思う。しかし、この子にはこの方が良いと思ってやったら、案の定ちゃんと良い学校に入れたんだから、私の方が正しかったし、子供も感謝しているはずです」
 「でも今になってみて、子供からすれば、『俺の人生は全部親父に指示されてきて、自分の自由にならない、親父がいなくなってせいせいした。』なんて思われてないだろうか。それに離婚にしたってそう。親が離婚させたっていうけれど、そんなの奥さんが「嫌だ」と一言言えば済む話。ということは、奥さん自身が離婚したいからしたんじゃないの?離婚するには奥さんの同意が必要ですよ。奥さんは同意して離婚したんじゃないの?」
 「そうです。でも、それは自分の親父に言われたから」
 「そうじゃなくて、奥さんが心からあなたを嫌だと思って離婚したんじゃないの?そういう風に思えないの?」

 と、ずばり言いましたが、あまりピンとこない様子。なので、続けてこう言いました。

 「今までの話、奥さんは親に離婚させられた、子供は会うことを邪魔されている、というのはあなたが思っているだけで、ちょっと見方を変えてみたらどうですか?つまり、奥さんはあなたのことを大っ嫌い。子供三人は、自分の人生は親の言いなりになっていてうんざり。もうあの親父とは会いたくない。親父は大っ嫌い。そういう風に子供が思っている可能性はゼロですか?」
 「ん?・・・ それは・・・あるかもしれない」
 「あるかもしれない、じゃなくて、そっちの可能性が高いと思ったらどうですか?そう考えたら、全て辻褄が合わない?」
 「うーん・・・」
 「今の奥さんとはどういう経緯で結婚したの?」
 「前妻と離婚した後、自分の母親が病気で病んでいた。そしたら近くにいた人が、気の毒だからと言って親の面倒を見てくれた。その女性は親の面倒を見るためだけにうちに来るから、かわいそうになった結婚してやったんだ」

 と、なかなか不思議な話ですが、私は彼に「あ、そう」と軽く答え、今度は隣の後妻さんに聞いてみました。

 「奥さんかわいそうだから、彼に結婚してもらったの?」
 「違います」
 「『違います』と彼に言ったことはあるの?」
 「言ったら怒られます」
 「あなたはなんでこんな訳の分からない男の母親の面倒を見にきたの?」
 「私はある宗教をやっていました。宗教をやっていたら、人間は一生の間に人を助けることをしなきゃいけないということを言われました」

 と言うんですね。
 彼女の宗教というのは、天理教ではありませんが、隣にたまたま一人で暮らしている時にそういう境遇の人がいたから、自分の信仰から助けに行ったんだと言う。それで母親の面倒を見ているうち、お前行く所が無いんなら俺と結婚するか、ということで結婚したんだ、という話をするわけです。

 「あなたさ、この奥さんに感謝とかお礼とかしたことある?」
 「いや、ない。こいつは来たくてやってたんだから」。
 「まさに、あなたの勘違いな考えはそこにある。奥さんからすれば、あなたがかわいそうだからあなたと結婚してやったんだ、と奥さんが思ってるとは考えないんですか?奥さんどう?」

 と聞いたら、隣にいた奥さんは苦笑いをしていました。

 「ほら、奥さんはあなたに対して今の答えを否定しないじゃない。奥さんは仕方ないからあなたと結婚してやったんだという風に思えないの?」
 「うーん」
 「そのあなたの頑固さ、自分中心のところが今のあなたを作っているわけで、ちょっと心を変えて、見方を変えて、私が悪くて離婚された、私が悪くて子供に嫌われている、この妻に対しても本当に私のことを気の毒に思って来てくれたと思ったら、まずここで、奥さんに感謝しなさい、したことないんでしょ?」
 「したことない」
 「感謝しなさいよ」
 「ウーン、する」
 「言葉の上っ面だけじゃなく、心から感謝してください」

 と強く言ったら、そこで初めて仕方なく「ありがとう」と言ったんです。
 そうしたら、彼の顔が変わったんですね。すごく利口そうな人なんですよ。顔がとんがって凛々しくて、もう毅然としていた。それが「ありがとう」と一言言ったならば、顔が変わった。なのでその瞬間に「ほらあなた顔が変わったよ」って言ったんです。そうしたら、今までとんがっていた人が、照れ笑いをしたんです。にやにやっと。奥さんに「こんな顔見たことある?」って聞いたら、「ない」って言うんですよ。
 そこで彼はすべての意味が分かったようでした。
 つまり、彼は「見方を変える」ということをしてこなかった。自分が全部正しいと信じてるから、自分が見えること、自分がやっていることはすべて正しい、と。
 さらに私はこう言いました。

 「あなた、自分がやっていることは、すべて女房のため、すべて子供のため、と思っていたでしょう?家族のために良いことしてやった、と確信しているでしょう?」
 「もちろんです」
 「しかし、それは奥さんにとって迷惑この上ない。子供らにとっても迷惑この上ない、ということは考えたことないの?お前何をやりたい?お前たちは何をしたい?どこへ行きたい?って一度でも聞いたことある?」
 「聞いたことない」
 「つまり、あなたは相手の思いを全部潰してきたわけだ。そこへきて、今現在のあなたの思いが一つも通らないという風に考えたら、今日の結果は当たり前だと思いませんか?私は実は天理教の布教師なんだけれども、そういう風に見方を変えるということ、弁護士として言っているんじゃないよ。これからの人生は、あなた自身の見方を変えてみたらどうですか?」

 という話をしたら、初めてそこで彼は、今隣にいる奥さんに謝って、さらに顔つきまで変わったよって話をしたうえで、損害賠償なんてとんでもないでしょ、ということで、そこで帰られたんですね。ですけれども、さすがに私も気になったので、その人を紹介してくれた人に、後日連絡をしてきいてみました。あれから彼どうなった?と。そうしたら、「彼は今非常に大混乱を起こしている」と言っていました。俺が悪かったんだろうか、とまだくよくよ言っているようです。事務所では納得して帰られたように見えましたが、やはり人間なので、それまでの見方を変えるということは非常にエネルギーのいることなのだと思います。
 それまでの人生の間、何十年もの間、自分が正しいと信じて、周りの人をすべて自分の価値観で動かしてきた人が、その価値観が根っこから崩れ、見方を変えてみたならば、実は全部自分の我が儘でしかなかった。その我が儘の結果が、皆から嫌われ、誰にも大事にされない。後妻に来てくれた奥さんですら、自分のお母さんがかわいそうだから来てあげただけで、自分を愛して来たわけじゃない。そんな現実なのです。だったら、今からでも遅くはない。今から周りの人に心から感謝し、「あなたのお陰だ」ときちんと言葉にして、声に出して、感謝を示していくしかない。そうでないと、彼のこれからの残りの人生、つらいだけのものになってしまいます。


3.声は肥(こえ)
 教祖は、
 「声は肥(こえ)やで」
 とおっしゃる。
 肥というのは肥料のことで、この「声(肥)」は人を育てることができる。でもそれは、相手を育てているようで、実は自分の顔と心が変わってくる、ということなんです。だから言葉というのは、ともかく優しい言葉、感謝をする言葉だけ使うようにすることが大切。
 「切口上は、 おくびにも出すやないで」
 とも、教祖はおっしゃいます。だから、ネガティブな言葉を使うのではなく、ポジティブな言葉を使うことが大切。「それはだめだよ」と言うのではなく、「こうした方が良いよ」という形で言葉を使うようにさせてもらう。
 今回は、「ありがとう」と奥さんに言った瞬間に顔が変わる、言葉一つで顔が変わるという、私自身にとっても非常に珍しい体験をさせてもらいました。言葉には、当然心がついてきます。言葉に真心をこめて出したときには、人間の姿かたちまで変わってくる。それはきっと素敵な人になります。周りから愛される人になります。いつもしかめっ面をしている人からはみんな逃げる。一方で、いつもニコニコ顔の人の所には皆寄って来る。これは、そういう声を出しているから、そういう顔になるということだと思います。そういう声を出すということは、心の中のしかめた思い、優しい思いがそれぞれ声に乗って出てしまうことで、そういう思いが顔に映る、姿に映る。行動に映る。果ては人生にまで映ってくる。これが、教祖がおっしゃっている「声は肥やで」ということの意味なのかなとふと思いました。
 そんなことから、せっかく我々はこういう教えを聞いているんだから、一つでも二つでもそれを身に着けて、決して否定的な、マイナスな、ネガティブな言葉を言わないで、同じ注意をするのでも「こうしたらいいよ」という相手が伸びやすいような言い方をさせてもらう。そして常に「ありがとう」という言葉を忘れない。常に感謝の思いを持つということを忘れない。そこが肝要だと思います。


4.言葉で喜ばせる
 あともう一つのケース。離婚の裁判で、どうしても子供と面会したいんだけれども、お母さんのところについている子供が、面会を嫌だと言うんですね。とはいえ、子供のためには父親に会わせるということは大事なことですから、私が裁判所に頼み込んで、家庭裁判所の面会室でもいいから父親に会わせてやってくれ、ということで、試しに面接を行うこと、これを試行面接と言うんですけど、それを無理やりやってもらいました。
 当日、面会室に子供が来て、お父さんと子供だけにして、こっちはマジックミラーで窓の外から見ている。そうしたら、子供がおもちゃで色んな建物を作るんです。屋根を作ってみた子供に、父親が、「屋根のこの格好、なんて言うか知ってる?」ってたずねたんです。そうしたら、小学校の二年生か三年生の子供が、「二等辺三角形!」と正しく言うんです。それを聞いた父親は一言、「うん、そうだね」。そしてそこから子供が父親に何か言っても、同じように「そうだね」と答えるだけ。
 私はそれを見て。思わず面会を終えて出てきた父親を叱り飛ばしたんです。

 「なんであなたは子供を褒めないのか!小学校低学年の子供が『二等辺三角形』って答えたなら、『すごい!頭いいね!なんでそんな事知ってるんだ!』ってなんで褒めない?」

 そういう風に、子供に褒めてない。言葉は悪いかもしれませんが、子供をおだてない。子供を喜ばせない。そういう生活でずっと来たから、子供にとってみたら別に父親なんて会いたくないんですよね。お母さんと居れば十分と。せっかく子供に会えたのに、その子供を喜ばせることをしない。「喜ばせる」というのは、ともすれば口先だけといわれてしまうこともあるかもしれませんが、口先でも喜ばせることができるなら遥かにまし。口先ですら喜ばせることができない人がその父親だったのです。

 今までお話ししてきましたように、「声は肥やで」と教祖がおっしゃるんだから、我々は口先だけではなく、言葉に真心を添えて相手を喜ばせること。そして、こちらが本当に喜んで感謝して嬉しいんだという思いを、言葉にしてきちんと相手に伝えること。たったそれだけのことを日常やるだけで、人間関係がとても上手くいく。本日お話しした二組の親子を見ても、親が子供に対して喜ぶ声を一切かけていなかった。それによって、いざとなった時に、子供は親になんて会いたくない、とこうなるわけです。
 信仰というものは、日常生活のどんな所にでも活かすことができます。みなさんはこれまで信仰をしてきた中で、日常生活に活かすことのできる話、言葉をいろいろと聞いきていることでしょうけれど、「あれは信仰の世界。教会だけの世界」としてしまうのはあまりにもったいない。どうか皆さん、これまでに聞いてきた信仰の話、言葉を、自分の日常生活に一つでも多く活かしていっていただきたい。

 本日は、見方を変えるということと、「肥」である言葉の大切さについてお話させていただきました。特に後者については、ぜひこの一か月間、みなさんの身に行っていっていただきたい。「声は肥(こえ)やで」とおっしゃる教祖の優しい声、相手を喜ばす声、自分が嬉しいという気持ちを相手に素直に伝える心、言葉。信仰は実行・実践です。月次祭で聞いた話、言葉を実践していただいて、一か月ごとに人間としてのグレードが上がっていかなければ、信仰している意味がありません。そういうことで共々暮らしていきたいと思います。
 まだこの暑さは続くようですけれども、みなさまお体には十分に気を付けていただきたいと思います。来月は秋の大祭ですので、何とかみなさまとお会いできるよう、私も神様にお願いしていますけれども、それぞれ心を作らせていただきたいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2020年10月19日