2021年(立教184年)8月月次祭神殿講話 ~信仰というもの~

 ただ今は八月の月次祭を賑やかにつとめさせていただきました。賑やかにと言いましても、教会の在勤者と家族だけでございますので、人数は少ないです。ただ、いつも申しあげておりますけれど、おつとめをやらせてもらう、歌わせてもらう、振らせてもらうということでどれだけ元気が出ることか、という思いをしております。
 皆さんもお宅でぜひおつとめをしていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

1.信仰ということ
 今月も東京は緊急事態宣言発令中ですが、さらに今日の新聞によりますとまた九月いっぱい云々という話をしております。そうするともう一月から一回も、むしろ緊急事態でない時が無かったぐらいのことになっておりますけれど、こういう時にどのように私たちは教会とつながっていくか、信仰をどのようにするかということを考える必要があると思います。今月は、信仰ということについてちょっと考えてみたいと思います。
 信仰というと、宗教、神様、仏様を信じることといいますけれど、自分の経験から言いますと、信仰というものにはなかなか入れるものではありません。例えば、本当に大変な病気になって何かの宗教に助けてもらう。あるいは大変な事情、世間で言う悩み事があって、これを助けてもらった。そういうことで宗教に触れ合うことはあるでしょうが、それから信仰する、信心するというところまで行くのは果たしてどうかな、という気はします。
 そんなことから私の経験をちょっと申しあげますと、私はこういう教会という環境で育ちましたけれど、大学に入るまでは神様を信じるということは全く頭にありませんでした。別に信仰なんかしなくたって生きていけるし、現に私は信仰をしなくても受験勉強をし、大学の試験に合格し、ということで自分中心で我の強い人間でした。けれど、その大学に入った年の八月に、学生生徒修養会というところに行ってみないかと誘われました。当時の私は天理教のての字も知らないわけですから、おつとめもちゃんとできませんでした。座りづとめもです。またそんな私に親も「やれ」とは言いませんでした。そんなこともあって、いわば興味半分に行ってみたわけです。興味半分と言いましても、天理教の教会という所に住んでいながら天理教を知らないのでは話にならない。まずは勉強のつもりで行こうということで、いわば学ぶつもりで行ったんですね。
 そしてそこで聞いたお話がまさにこの天理教の教えそのもの。それを聞いてびっくり仰天。本当にこんなに深い素晴らしい教えだったのかということで、初めて信仰というものをしようかと考えたんですが、後で考えてみると、それは実は頭の中で昔から知っていた話。学んで「すごい」とは思ったけれども、それを信じるかどうかというのはまた別の話でした。そしてまたその後に、今日はお話をしませんけれど、その後色々なことを見せられまして、そのつど、一つひとつ、「ああ、神様っているんだなあ」ということを自分で感じて、学んできましてですね、それで信じるようになったんです。
 ところが、信じるというのは、神様はいるんだなあと信じるんだけれど、よくよく考えると、なかなかこの信仰というのは文字で言うと面白い言葉。信じるということと仰ぐ、仰ぎ見るという、仰いで見るというのが信仰の「仰」なんですね。そんな風に考えてみると、私は学んで信じるところまでは来たけれど、信仰するところまではなかなか来ていませんでした。ところが色々な方たちと話をし、また周囲に、自分の周りに色々なことを見せられていく中で、これを、この教えを信じていれば間違いないなあ、と。つまり心の基準、よりどころになるということがようやく分かってきました。

2.人を信じる
 そんな時に、親鸞聖人という、皆さんご存知かとおもいますけれど、浄土真宗の開祖です。元々親鸞さんは浄土宗というのを作られた法然上人の弟子です。法然さんの作られたのは浄土宗。これは実は教祖中山みき様も神がかりになる前は浄土宗の熱心な信仰者でした。その浄土宗は法然さんが作られ、その弟子が親鸞さんだった。法然さんは念仏さえ唱えれば極楽に行けるという教え。ところがその弟子の親鸞さんは、昔の仏教の教えを全部壊してですね、つまり今までのお坊さんというのは、信仰者として奥さんをもらってはいけない。妻帯はダメでした。ところが親鸞さんは妻帯も認め、そして良いことをした人が助かるのではなくて、悪い人間の方がもっと助かるんだという、悪人正機というんですが、そういう教えを広めました。本当に浄土宗の反逆者みたいな方でしたけれど、その親鸞さんが先生である法然さんのことを、こういう風に言っているんですね。
「たとい法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」
 「私は、例え法然上人を信じたことによって、法然上人にだまされて、私が地獄に落ちることになったとしても、決して後悔はしない」と言うんですよ。法然さんの弟子でありながら、浄土宗を壊して浄土真宗を作ったような、本当に反逆者のようなその親鸞さんが、法然上人にだまされて、私が地獄に落ちようとも後悔はしない、ということを歎異抄という親鸞さんの書かれた本の中で言われている。これを見て私はびっくりしました。信仰というのはこういうことなんだなあ、と。
 つまり、ただ信じるだけではなく、さらにもっと進んでその教えを教えてくれた人を信じたことによって、たとえ私が地獄へ落ちても後悔しないとまでおっしゃる。結局地獄には落ちないわけですけれど、信仰するという「仰」、仰ぐというのはそういうことなんだと自分ながらにちょっと思いました。
 そうしますと、実は天理教ではそういう人がいっぱいいます。教祖のために命を捧げてきた先人がたくさんおられます。今ある多くの大教会の元となる教会を作られた深谷源次郎先生。あるいは教祖に助からんといわれた母親の病気でもそこをなんとかという必死の想いで神様にお願いをされた逸話の桝井伊三郎さん。お屋敷に向かう途中大雪で橋が落ちそうな中でも一心に神名を唱えて助けられたという逸話の増井りん先生。漁師で大海が荒れている時に教祖が遠くから扇を振って波をおさめて難破しないで済んだという逸話の撫養大教会の土佐卯之助先生。その人たちは、教祖の言葉を本当に一言半句もらさず、教祖の言葉だけを信じてその通り通られた方たちなんです。そういう人たちがいて、先にお話しした親鸞さんと法然さん以上といってもいいでしょう、それくらいの想いで教祖を信じて通ってこられた。

3.一すじ心
 ただその方たちは、今の私たちから見ると非常にうらやましい。教祖というお姿があったから。自分の目の前におわす教祖に一生懸命ついていこうということは当然あったでしょうが、今を生きる私たちには、教祖のお姿は見えません。しかし、教祖は今も存命であるとおっしゃってくれている。
 では、その存命の教祖に対し、どうしたら、だまされても、地獄に落ちても(天理教に地獄はありませんので、たとえ話です)私は後悔しない、とまで言うことができるのか。そういうことを思うとき、実は教祖はこういうことを言ってくださっている。三下り目のですね、

「六ッ むりなねがひはしてくれな ひとすぢごゝろになりてこい」
「七ッ なんでもこれからひとすぢに かみにもたれてゆきまする」

 これは、教祖が一すじ心になりてこいと言ったならば、これから一すじ心でついていきます、という、信者側からの言葉です。つまり、これがまさに教祖にどこまでもついていくという言葉である、「一すじ心」ということなんです。「ひとすぢごゝろになりてこい」「ひとすぢについてゆきまする」ということが、教祖と、教祖の姿が見えない私たちの信仰の有り様として、教祖が教えてくださったことであろうかと思います。
 そういうことから、「一すじ心」とはなにか、ということを考えたい。これは、実は元始まりの元の理に出てきます。親神様は、人間を創ろうとして色々な道具を集めた。その中で、人間の夫婦の種にする「うを」と「み」を集めました。なぜ「うを」と「み」を集めたかというと、これは心が「その一すじ心なるを見澄ました上」という言葉があるんですね。つまり、その「うを」と「み」は神様に対して一すじに、今度は夫婦になって夫婦の一すじ、一すじというのは二すじ三すじはありません。みかぐらうたに人の心は千すじや、ということもあるけれど、その中で「一すじ心」の人間だけを神様は受け取ってくださっている。この「一すじ心」、これが信仰に対する、信仰におけるもっとも大事なことだろうと思うんです。私たちは、ただ一すじに教祖の言われたことを守る。ただ一すじに教祖が通られたひな形をたどっていく。これが教祖についていくということの意味であろうかと思います。
 そんなことで、今を生きる我々は、残念ながら教祖の姿そのものは見られないけれど、教祖はご存命で、私たちのことをしっかり見ていてくださっている。その存命で見ていてくださっている教祖に対して、教祖一すじについていきます、という思いを持つことによって、今まで申しあげた、教祖ご存命中の頃の先人の方たちの思い、あるいは親鸞さんが法然上人についていこうとした思いに少しでも近づくことができる。私はこれが信仰ということだと思うんです。

4.成ってくる理を喜ぶ
 私たちは、教会を通じて教祖に、親神様につながっている。これをぜひともわかっていただきたい。信じるだけではなくその人についていきます、その人の言うことを聞きます、その人のことを守ります、たとえだまされてもついていきます、ということ。言うまでもありませんが、神様が人間をだますということは決してありません。ありませんけれども、だからこそ、今、自分たちがつらい思いになったとしても、これは神様が私たちを試しているんだ、私たちにさらに力をつけようとしてくださっているんだということを信じてついていく。「本当の神ならば人間に対してこんなつらいことを与えるわけがない。だから神なんていないのだ」なんていうことは考えない。そうではなくて、すべてのことは、神様が私たちのためにこういう色々な節(ふし)を見せてくださっているんだ、と思案する。これが信仰するということなんだと思います。これを一言で言うと「どんなことでも喜ぶ、成ってくる理を喜ぶ」という、こういうことであろうかと思います。
 信仰をするということは、成ってくる理を喜ぶ、どんなことでも神様が私たち一人ひとりのために、一番良い方法をとってくださったんだということを信じる、そしてそれについていく、ということが、信仰をするということの本質であろうかと思います。
 さらに進んで、頭で学ぶ、あるいは心で信じるということを超えて、成ってきたことすべてを喜び尽くして、人を助ける心を持ち、自分のできる人助けを少しでも実践する毎日を歩んでいく。こういうことが信仰する目的であろうかと思いますので、どうかこの一か月、そういう思いでお過ごしいただきたいと思います。

 来月12日までの緊急事態宣言もどうやらまた延びるようですけれども、これは神様が、こういう時間でしっかりと物を考えるよう我々人間に教えてくださっているということです。せっかく神様からこういう節を与えてもらっているわけですから、我々人間とすれば、この機会に一段上の人間にならないと損をします。神様は、我々人間をもう一段階上のステージに進ませるために、このコロナの節を与えてくださっています。そう確信し、一段階上の人間に成るための毎日を歩んでいきましょう。繰り返しますが、これが「信仰をする」ということです。
 まだまだ暑い中大変だろうと思いますけれど、どうか喜んで一か月お通りいただきたいと思います。
 今月はどうもありがとうございました。

2021年09月09日