2022年(立教185年)7月中元祭神殿講話 ~喜びの種を探す~

 ただいまは7月の中元祭を賑やかに、陽気におつとめいただきました。誠にありがとうございました。
 中元祭というのはちょうど一年の半分、もうあっという間に半年過ぎたわけでございまして、さきほど年賀状の古いのが出てきたと思ったら、くじに当たった年賀状だったんです。当たりの年賀状の交換期限は来週までなので後で行ってこようと思いますが、それぐらい、年賀状も交換しないうちに半年過ぎてしまいました。ついついうっかり過ごしている我々ですけれども、うっかりでも今日まで無事にお連れ通りいただいたという感謝で今月もおつとめいただきました。しばらくお付き合いいただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

1.喜びの種を探す
 先月、立ちづとめ、おてふりが立っていられないぐらい足が痛くて、本当にしんどいなあと思っている矢先に松尾真理子先生から喜べとメールを頂き、ああそうか、ここで喜ばないでどうすると思って喜びの種を一所懸命探しておりました。探すと喜びの種はあるものでして、何年も同じような状況だったのに五年間も痛みも出ないで過ごさせてもらったということや、また座っていればなんでもないということで日常生活にも支障がない、というようなことを一つずつ探してみると本当に喜べる種というのはあるものです。それを喜ばせていただいているうちに、すっかり痛みがなくなりました。手術をするための予定日も決まっていたんですが、お医者さんが「その(元々の診断の)病名では痛みなんか止まらないはずだ」と。「もしかしたら違う(原因)かもしれない」と言うので、また改めて検査をした結果、違う原因がわかり、手術もしないでいい、静かにしていれば良いと言われました。本当に御守護ですね。
 そうか、こんなしんどい中で喜ばなければいかんのだなあと喜びの種を探してみたら結構探せる、探して神様に本当に感謝を申しあげたら、神様から、わかったか、ということでそれでもう手術をしないで済むという大変な御守護をいただきました。

2.神の手引き
 ついつい我々うっかりと生活しているわけですけれど、そのうっかりの中を神様が「手引き」で教えてくださる。新型コロナもそうですね。私も4回目のワクチンを打ちました。お陰様で新型コロナにもかからず、当たり前だと思ってついつい緩んでいたところ、また神様から見せていただいて、ついに第7波到来だそうです。今日も祭文で読ませていただきましたけれど、新型コロナが始まったころはみんな緊張して反省して心を作らせてもらってなにか一つでも役に立つことをやらせてもらおうと考えた。

「なさけない とのよにしやんしたとても 人をたすける心ないので」(十二号90)

という昔のコレラの時に出されたおふでさきですが、なるほど新型コロナも人を助ける心が無いから、神様が情けないということで出してくださったんだということでちょっと心を引き締めて、自分なりに朝晩のおつとめを一所懸命みなさんのために祈らせてもらう。ところがコロナが収まってきた。もう大丈夫かと思うと次は第2波。またちょっといけないと思って反省するとまた第3波。そんなことでついにもういよいよ終わりだなあ、と。夏は遊びに行こうと予定を作っておりましたらなんと第7波で、つまり7回にもわたって神様は、おまえたち、まだ分かっていないのか、ということをおっしゃってくださっているんだと思います。
 そんなことでこの手引きをいただくということは、我々がうっかり過ごしている、あっという間の六か月の間に出直された方もいるということです。大変な病気になった方もいる。そしてあっという間だと言いながら生まれた子供は六か月経てばもうハイハイするようになる。そんな大変な時間を私たちは「うっかり」という言葉で当たり前に過ごさせていただいた。これを喜ばなきゃ神様に申し訳ないなあと思います。お正月に元旦祭をやった後に中元祭、もう六か月も経って病気も痛い所もなにも無くて、今日という日を喜んで迎えられたことにはしっかりと感謝をしていかないと、神様がいつ「お前もうそんなに喜んでいないんなら出直すか」ということになるかもしれない。なんにも気が付かないでぼんやりと過ごせたこの六か月というのが、実は本当にありがたく幸せなんだということを考えないと、神様に対する感謝を忘れてしまっているということになると思います。

3.思うようにならんが借り物
 いつも申しあげていますけれど、この教えの基本は、「かしもの かりもの」なんですね。この身体は神様からお借りしている。あと連れ合いも子供も孫もすべて、あるいはご近所の人もすべて神様からお借りしているものだという、その「かしもの かりもの」ということが分からないと何もわからんとおっしゃいます。こういうおさしづがありました。

「かりものめん/\ものなら、思うようになる。思うようにならんがかりもの。」(明治32年4月2日)

 かりもの、自分の身体、借りている物、「かりものめん/\ものなら」、お前たちの物なら、「思うようになる。思うようにならんがかりもの。」、お前たちの思うようにならないなあ、と。膝も痛い、腰も痛い、あそこも痛い腰も痛いなにも痛い、自分の借り物が、自分の物だったら自分の思うようになるだろう、しかし思うようにならない、これが「かりもの」という意味なんだよと教えてくださっている。また、

 「人間は、かりもの分からんから。かりもの分かれば、扶け合いの心浮かむ/\。この理諭したら、救けの道理、この理一つである。」(河合藤太郎三十八才身上願・明治33年3月22日

 人間は「かりもの」が分からない、「かりもの」が分かれば扶け合いの心浮かぶとおっしゃる。この身体は神様から借りているということの「かりものの理」が分かれば、「扶け合いの心浮かむ/\。」。扶け合いというのは人間どうし。人間どうしの「扶け合いの心浮かむ/\。この理諭したら、救けの道理、この理一つ」。みんなその「かりもの」をありがたいなあと思っている、神様からこんな丈夫な身体をお借りした。結構な一か月間を過ごさせてもらった、ということだけではダメで、まだ分かったとは言えない。「かりもの分かれば、扶け合いの心浮かむ/\。」とおっしゃるんですね。つまりこの身体は神様からお借りしているんだから、神様に対してのお礼はどうしたらいいかというと、人を助けなさいと神様はおっしゃる。つまり自分の身体は借りているんだということが分かれば、助け合いの心が浮かんでくるんだ、というおさしづなんですね。私たちが扶け合いの心、あっちで困っているこっちで困っている人たちを何とか助けて差しあげようという心が浮かばないのは、実は「かりものの理」がおさまっていないからだということなんです。

4.借りていることへの感謝

「にんけんハみな/\神のかしものや なんとをもふてつこているやら」(おふでさき 3号41)

ということを神様がおっしゃっているのはそういうことなんです。自分の身体だと思っているかどうかを一歩越えて、神様からお借りしているんであれば、そのお借りしている身体に対する感謝の思い、お礼、そのありがたい、嬉しいという神様に対する御恩、御恩返し、感謝の気持ちをどうか周りの困っている人、あるいは世界のあちこちで困っている人のために祈りを捧げましょう。それが人間の扶け合いということです。直接行って手を差し伸べることができない人に対しても、「神様どうかあの人を助けてあげてください」とお願いすることだけでも神様はそれを受け取ってくださるとおっしゃっています。
 そんなことから今月は中元祭で六か月無事に、私なんかはぼーっと過ごさせてもらった。このぼーっと過ごさせてもらったというのが実は神様からの御利益なんだと思って、その御利益に対する感謝として人を助ける。いつも申しあげているように、自分の身の回りはすべて世界。「世界たすけ」とは、身近でいつも喋っている人、お話をしている人であっても、その人の何を一つやってあげたらその人が軽くなるだろうか、助かるだろうかということを思いながらお互いが助け合っていくこと、これが陽気ぐらしの世界です。ということでこの六か月間の感謝を込めてですね、改めて無事に次の六か月を迎えられるように、それぞれがそれぞれの立場で感謝をして周りの人を扶け合いできるような生活をしていただきたいと思います。

 今日はまるで8月の天気のような暑さです。7月からこんなに暑い。場合によっては9月まで猛暑が続くかもしれませんが、感謝をしながら心に喜びをもって過ごしていくと、身体の調子もどんどん良くなります。冒頭お話しましたように、いまさらながら喜べということで喜びの種を探してみたら、神様からあっという間に御守護をいただきました。ぜひ皆さんにも、あっという間の御守護を感じていただけるような喜びの心を持ってお過ごしいただきたいと思います。

 本当に今月はどうもありがとうございました。

2022年08月04日