2022年(立教185年)9月月次祭神殿講話 ~誠の心とは~

 ただ今は9月の月次祭、賑やかに陽気におつとめいただきました。
 まだまだコロナが収束しない中でのおつとめでございましたけれども、明るく陽気につとめさせていただき、本当にありがとうございました。
 一言お話をさせていただきます。どうかしばらくの間お付き合いいただきますようよろしくお願いします。

1.家族ぐるみのおぢばがえり
 9月20日は「ファミリーホリデー in 中根」という会をやらせていただきまして、100人ほどの方にお集まりいただきました。
 松尾真理子先生に来ていただきましたけれど、果たして何人お出でになるのか心配しておりました。松尾先生には「元気がない大教会ですから人数少なくても勘弁してくださいね」という話をしましたら、「いいのいいの、私は元々そういう教会から来たんだから」というお話をいただきました。
 皆さん、素晴らしいお話をゆっくりと聞いていただいたと思いますけれど、中根につながる人たくさんの人が来たのをみられた松尾先生からは、「中根すごいじゃないの」と言われました。普通の大教会から比べたら少ない人数かもしれませんが、ああいう形で色々な方が大勢来ていただいたことを考えますと、まだまだ中根大教会も頑張ればまだ何とかなる、という思いがした訳でございます。
 そんな中で昨年もやらせていただきましたけれど、おぢばにつながろう、ということで、「家族ぐるみのおぢばがえり」を開催します。11月27日午前11時半に本部神殿にて大教会としておつとめをさせていただきます。みなさまにはぜひご参加いただきたいと思います。というのは、10月大祭で140年祭に対する三年千日の諭達が真柱様から発表されます。それを受けての最初の11月の本部月次祭というとで、まあ偶然なんですけれど、こちらが先に決めていましたわけです。皆が本当に心勇んでおぢばがえりをさせていただくにはちょうどぴったりの日にちになりました。
 おぢばもかなり混むかと思いますが、賑やかなおぢばを見るのことでまた我々の心も勇んでいきますので、ぜひ一人でも多くの方にご参拝いただきたいと思います。詳しいことは来月お話いたしますけれど、11月27日の午前11時半から本部神殿で、拍子木を入れておつとめさせていただきますので、ぜひご参加をいただきたいと思います。

2.三年千日のはじまり
 それと今申しあげましたけれど、来月10月26日の大祭で、真柱様からいよいよ三年後に迫った教祖140年祭のお打ち出しがあります。その諭達も出していただけるそうですので、また改めて年祭の意義というものを思い返して頑張ってみたいと思います。年祭というのは、10年に一度必ずやってくるものですけれど、10年に一度のその節、これを「旬」と言うんですけれど、「旬」の時に何をやらせてもらおうかということです。
 教祖のお言葉にもこうあります。教祖は50年のひながたを通られた訳ですけれど、50年通れと言うのやない、20年30年通れと言うのでもない。10年でもない。その内の三つや、3年でいい。3年間しっかりと教祖の思いを受け止めて、教祖が身を隠された思いをしっかりと受け止めて、3年間頑張ろう、と。それが三年千日という意味なんですね。
 ですから、年祭のつど、我々人間は三年千日の意義をしっかりと理解して、人間として成人、つまり心を成人させることのできる「旬」という機会を与えていただけるわけなので、頑張っていきたいと思います。

3.年祭というもの
 思い返しますと、本当に私も「旬」というものを見せていただいているなと思います。私の最初の「旬」は80年祭の3月。80年祭の年祭期間中でしたけれど、大学に合格したその御礼参りに参拝させてもらったのがちょうど80年祭でした。それから90年祭になって、もう弁護士になって子どもも産まれ、100年祭で隣の教職舎を建てさせてもらって、110年祭で教会長にならせてもらって、そうやって考えていくと、もう私27年なるんですね、教会長になってから。中々ぼーっとしていてあの時何があったかとすぐには思い浮かばないんですけれど、そういう風に10年ごと、ちょうどこの年祭の「旬」に色々なことが起きているなあと。やっぱりそのつど成長させてもらっているなと思います。そんな風に考えますと、年祭というのを自分自身が人間として成長する、成人をする機会としてとらえる、これが年祭の意義だろうと思います。
 他の宗教では、千年紀だとか色々なことを言ってます。しかし、教祖はご存命です。出直されていなくなった訳でもないし、親の命日でもなんでもない。人間がちょうど教祖を思い出して、思い浮かべて教祖の教えを改めて身に着けていこうという時の「旬」という風に教えていただいてますので、ぜひ140年祭に向けて頑張らせてもらう一つの目標として、教会でも140年祭にはまた皆で団参を組んでおぢばがえりしたいと思っておりますので、そういう意味でも常に目標を作って、しっかりと一日一日を大切に過していきたいと思います。

4.天理教は「誠」の宗教
 今、80年祭の話をしましたけれど、80年祭では私は大学に入学し、その年の夏に学生生徒修養会という所に行かせてもらって、初めてこの天理教の教えを聞かせてもらいました。本当にすごい教えだなあということで、私は初めてそこでこの教えを信じ始めました。それが明確に分かるんです。
 翌年3月、東京学生会の春の集いというのがありました。まだ一年生でしたが、その時に面白い出来事がありました。今思い返しますと、旧統一教会が日本で布教を許されたばかりの年でした。私どもは当時の東中央大教会の詰所で合宿をしていました。といっても参拝だけで、別に勉強するわけでもないんですが、そんな時にですね、キリスト教の原理運動をしているという人たちが何とか話をしたいと来ているけどどうする?という話がありました。私はまだ1年生で、学生会の中ではぺーぺーですから、私がどうのいう話ではなかったのですが、先輩方が「入れるけどいいか」という話になったので、キリスト教の話を聞くことになりました。そうしたらば、4~5人来ましたでしょうか。そして我々が4、50人座っている所に来ました。キリスト教はいかにすばらしいかという演説をぶちだした。そしてその中で「キリスト教は愛の宗教だ」という。
 今になってみると、旧統一教会というのはキリスト教ではないというのが分かっています。現に本当のキリスト教であるバチカンからも、あれはキリスト教ではないと言われているんですが、当時はキリスト教の原理運動ということで、「世界基督教統一神霊教会」という名称でしたから、本当のキリスト教の話だと思って聞いていました。話としてはキリスト教なんですけども、「キリスト教は愛の宗教だ、天理教にそういうのはあるか」という風にいきなりけんかをふっかけてくる。
 私は先ほど申しあげたように当時はぺーぺーということもあり、その他大勢で黙って聞いていたけれど、皆何も言わないんで、これはだめだと思って、一番下っ端でしたけれど、私が前に出て行ってですね、「皆さんは愛の宗教だと言うけれども、天理教は誠の宗教です」ということで「誠」という話をしました。誠というものは愛も含んだもっと大きなものであるとか、キリスト教は「父なる神」というが天理教は母も含めた「親なる神」であるといったことを彼らと議論をして撃退をしたということがあります。
 その当時、学生会には教会本部の人たちも多く来ていたので、それから何かと私が本部に呼ばれるようになった一つのきっかけであるんですけれど、そういうこともあり、「誠の心」というのはそれ以後も私の信仰をする中で、ずっと意識し続ける言葉でした。

5.誠の心とは
 昨日、ふと「誠の心」って何だろうかと思ったんです。「誠の心」というのは誠実な心とか、色々に解釈できるのだろうけれど、「誠一つが天の理」とまでおっしゃる。何々は真の誠とか言うんだけれど、その誠について実は調べたことが無かったので、昨日一所懸命、「誠」というのをおさしづで引いてみたんです。そうしたら出てきました、いっぱい。ちょっとご紹介します。

■「内々睦ましいは誠、誠は天の理である。」(補遺明治20.12.14)
■「真実誠天の理」(明治23.5.26)
■「育てば育つ、育ては誠、誠は修理、修理は肥やし。」(明治23.6.24)
→これは子供のことです。「育てば育つ、育ては誠」、育てることは誠だと。「誠は修理」、修理というのは手入れをすること。育てた後に、その子供をちゃんと手入れをして、さらにいつも修理をしていく。
■「真の誠はたんのう。」(明治31.12.31)
■「堪忍というは誠一つの理」(明治26.7.12)
■「言葉添えは真の誠。」(明治31.12.31)
→この明治31年のおさしづに、満足させる言葉を添えるのは真の誠と書いてある。
■「仲好くはこれ誠。誠無けねば治まらん。」(明治32.10.8)

「内々睦ましいは誠」、「真実誠」、「育ては誠」、「誠は修理」、「真の誠はたんのう」、「堪忍というは誠一つの理」、「言葉添えは真の誠」、「仲好くはこれ誠」、ということでこれらをまとめていくと、

・家の中では相手を思って、真実の心で、どんなこともたんのうして、仲良く暮らす
・外では相手を育てて、許して、さらに言葉で満足させる

 つまりこういうことが「誠」なんだ、ということがおさしづに書いてありました。
 皆さん、今の生活の中でも堪忍する、というのもこれも「誠」。だから家の中で、家族・夫婦が仲良く暮らす、教祖は、これも「誠」だっておっしゃるんです。それで何かあっても堪忍してあげるというのもこれも「誠」だ。言葉で相手を満足させるのもこれも「誠」だ。あと育てるのも「誠」だ。そして修理も「誠」である。「仲好くはこれ誠」と書いてある。これだったら難しくないですね。「誠」というのは、すべて相手を喜ばせる。内々を仲良くする。不穏なことがあっても喜ぶ。相手のことを許す。そういうこと全部が「誠」なんだと一つひとつ詳しく説明がありました。
 私たちは「誠」というものを抽象的に考えがちですが、今この瞬間、夫婦仲、あるいは親子の仲が断絶していたら、もうこれは「誠」じゃないと教祖はおっしゃる。あと、子供が何をしても堪忍するがこれが「誠」という。隣の人がどんな不愉快なことをしてもこれを堪忍するのが「誠」という。そしてたんのうですね、どんなことが来ても喜ぶ、受け止める。これが「誠」という。「言葉添えは真の誠」、「仲好くはこれ誠」、これだったら難しくありません。みんなと仲良くしていく、どんな人がいても、目の前のこの人と仲良くしていこう、そういう心の持ち方全部が「誠」だとおっしゃる。

6.優しい教え
 そういう風に考えると、この教えは一つも難しくありません。しかし、私たちはこんなやさしいことをやっていないんです。私もそう。ついつい言葉で相手を責めてしまうし、好きな人とはいいけれども、嫌いな人とはちょっと遠ざかる。自分が癪に障れば喜べないこともある。「育ては誠」だけれども、育てるだけ育てたらもう責任は無いと思ってしまう。しかし「誠は修理」とおっしゃっている。育てるだけ育ててもう私には責任は無い、と言うんじゃなくて、育て終わっても、それをちょっとおかしい所があったら修理をしてあげる、直してあげるのがこれも「誠」だ、と。そういう風に考えたらば、当たり前の親子、きょうだい、さらにもっと大きく言えば一列きょうだいは仲良くしなければいけない。そして間違っていることは修理する。これをすることが「誠」だということを教えてくださっている。
 であれば、先ほどの話で、キリスト教が愛の宗教だとありましたが、愛というよりもさらにもっと大きな、どんなことがあってもたんのうする、喜ぶ、言葉を添える、こういうことが「誠」だというのであれば、この教えは本当に優しい教えだなと。優しいからこそついつい私たちはおろそかにしてしまう。ということを、今月改めておさしづを読ませていただいて感じました。
 こんなこと、皆さんできますよね。「今日はちょっと不愉快だから黙っていよう」じゃなくて、そんな時でもあえて機嫌よく言葉をかけさせてもらう。それがたんのうです。それを神様は、たんのうは誠と言って受け取ってくださる訳ですから。どんなことでも人様に喜んでもらう。自分が納得をし、どんなことでも喜ばせてもらう。これだけで神様は「誠一つが天の理。」として受け止めてくださるそうです。
 今さらこんなことに気付くのでは、私も不勉強だったなとつくづく思いますけれど、改めてそういう抽象的な「誠」という言葉を感じているだけではなく、今のように分解して教祖が教えてくださっているということを知る。であれば、今日これからでも「誠」は尽くせることになる訳です。その「誠」を尽くせば、それは天の理であって、「天の理なれば、直ぐと受け取る直ぐと返すが一つの理。」とまで神様はおっしゃってくださっている。
 そんな風に仲良く、睦まじく、楽しく、喜んで今月は通る、ということをひとつモットーとしていただいて、来月の大祭には皆さん元気でお会いできるようにしたいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2022年10月12日