2021年(立教184年)9月月次祭神殿講話 ~神様の目~

 ただ今は九月の月次祭を賑やかにおつとめいただきました。少しの間お話をさせていただきますのでどうかお聴き取りをお願いいたします。

 本来なら今日までが緊急事態ということでしたけれど、また一か月延びてしまいまして、九月いっぱいということになりました。来月十月の大祭で皆さんにお会いできるかなと思っておりましたら、思いもかけず車でお出でいただいた方がいらっしゃいまして、今日は久しぶりに賑やかにおつとめをつとめさせていただきました。本当にありがとうございました。

1.先のことがわかる
 私は家で複数の新聞をとっておりまして、朝、一面の大きな記事を見ますけれど、忙しいのでそのまま出かけてしまう。そして帰ってくれば夕刊が来ていますので、一週間、日曜日にその週の月曜日からの記事を読むことになります。そんなことをやっている時に、ふと面白いことに気づきました。月曜日の新聞を読んでいますと、政治の世界でも、誰々さんが何をするとか、こうしたいとか話しているという記事が載っている。それに対して皆がこんなことを言っている、ということも載っている。けれど、その記事を読む時には、もう一週間経ってしまっていて、私は既に日曜のテレビを視て結論を知っている訳です。そのようにして一週間の新聞を読んでいるうちに、徐々に徐々に事情が変わってくる様子がよくわかる。そうすると「ああ、この人はいずれ一週間後にはこうなるのになあ」と。例えば今の総理大臣もそうですけれど、自分が総理大臣を続けるために色々なことを月曜日、火曜日、水曜日と言ってきている。そして金曜日の朝刊でも、今後自分はこういうことをやるんだ、と言っておったのが、当日夕刊になったら突然「辞めます」という記事が載っている。その都度読んでいると、びっくりして驚くようなことばかりなんですけれど、一週間前から結論を知ったうえで読んでいるとですね、ああ、やっぱりこの時この人しんどかったんだなあ、ということが分かるわけです。
 同じようにスポーツでもそうです。絶対に勝つんだ、とか負けないんだ、ということをずーっと本人が言っている。いよいよ試合当日を迎え、やってみるとあっさりと負けてしまう。そうすると、数日前に勝負のうえでこんな懸念があったな、というのが現実になったことが分かる。

2.神様の目
 その時にふと思ったんですね。神様というのは、こういう風に、つまり月曜日の新聞を読む私のように、もう日曜日のことが分かっているんですね。神様の目からすると見ぬき見とおし。そうすると、我々人間が何かをやろうと思っている時に、神様から見て「それはお前危ないよ」ということがはっきりと見えている。つまり神様は結論が見えているのだけれど、人間は分からないからやってしまう。そうすると案の定、神様が心配していたような結論になる。しかし人間は先のことは見えませんから、どんどんどんどん悪い方へ進んでいく。あの時にこっちへ行かないでこっちへ来たら良かったのになあ、と思うのはもう後の祭り。
 同じことが子育てもそうかなと思いました。今日、信者さんのかわいいお孫さんの写真をみせてもらいました。今年生まれたばかりなので、親は今はもう無我夢中で子育てしているけれど、じいさんばあさんという子育て経験のある人たちから見ると、この育て方は危ないなあ、とか、こうやった方が良いのになあ、というのが分かるわけです。経験者としてはついつい、こういう風にしたらどうかなどとアドバイスをするんだけれど、聞く方はもう自分の目の前のことで忙しいし、自分の思いどおりにしたいからそんなこと面倒だと言って聞かない。しかし経験者からするとやはり危なくて見てられないから、やはりこういう風にした方が良い、ということを子供に言って聞かせたいわけです。
 人間の世界でもそれがある。神様から見たらもっと心配だと思います。例えば子供がボール遊びをやっている。ボールがポンポンポンと道路へ出て行ってしまった。子供はボールを取りに行こうと思ったけれども、親あるいはそばの人が慌てて子供を捕まえる。子供はボールが道路の向こうへ行っちゃったのに取りに行かせてもらえないものだからギャンギャン泣く。しかし止めた大人から見ると向こうから車が走ってきていることがわかっている。そのまま子供が行けば車にひかれてしまうことが見えている。だから子供を止めますね。ところが見えない子供にとってはボールを取りに行くのをこの人に邪魔されたと思う訳です。しかし大人は子供がどう感じようが危ないことは止める。結論が見えているから。
 神様は当然一週間後のことも分かっているんです。それどころか、神様の大きな目からすれば、一年後、あるいは人生が終わるような時のことまで神様は全部分かっている。だからこそ、かわいい子供である人間が危ない方へ行かないように「こうしなさい」と言う。とはいえ我々見えない将来のことを言葉で言われるだけではなかなかピンとこないし、そもそも神様は言葉をお話しにならない。だから我々人間の身体の色々な部位や、あるいは我々を取り巻く周りの事情に“しるし”を見せて、そっちへ行かないように、こっちへ行った方が良いよという風に導いてくれるんだろうと思うんです。それはまさに経験者から見て未経験者が危なっかしくて見ていられないのと同じ。神様はそういう風に思っています。おふでさきにこういうのがあります。

「月日にハたん/\みへるみちすぢにこわきあふなきみちがあるので」(7-7)

 月日、神様には人間が行くだんだん見える道筋に「こわきあふなきみちがある」、怖い危ない道が見える。だから、その後に

「にんけんのわが子ををもうもおなぢ事こわきあふなきみちをあんぢる」(7-9)

という歌があるんです。
 人間も我が子を同じように思うだろう?我が子が怖い道、危ない道に行かないように、親が案じてそれを止めるだろう?と。だから神は「にんけんのわが子ををもうもおなぢ事こわきあふなきみちをあんぢる」として、子供がそういう怖い道危ない道に行かないよう、色々な障りを人間に見せて、子供である人間がそっちへ行かないよう教えてくださっているんです。

3.どんなことでも喜ぶ
 今、世の中で起きている色々なこと、あるいは皆さんが家の周りで、自分の身の回りで、嬉しいこと楽しいことあるでしょう。一方で、そんな幸せは毎日続けば良いんだけれど、突然何か一つ気に障ること気になること、あるいはちょっとした病にでもかかれば、一変してしまうことがあります。世界でいえば、新型コロナという大変な病があります。また、世界のあちこちで今でも戦争が起きていて、独裁者によって、人間が当たり前に認められるべき人権が抑圧されている所もある。そういう世界の出来事を、我々は神様から今、見せてもらっている。見せてもらっているということは、それを見た私たち一人ひとりに、それを何とか助けるように、ということを神様が我々人間に訴えかけてくださっているんだと思うんです。神様は我々の親ですから、私たちが見ること聞くこと、あるいは自分の身に生じてくることすべてをとおして、そっちへ行くなよ、人間としてこっちへ行くことができればもっと幸せになれるぞ、陽気になれるぞ、ということを教えてくださっています。
 そういう風に、なんでも分かっている神様が我々に色々なことを教えてくださっているのだと考えることができると、どんなことでも喜ぶしかありません。先ほどの子供がボールを取りに行こうとして大人に止められる話、子供とすればギャンギャン泣けて仕方ないことなのかもしれませんが、しかし、客観的に見れば、それがその子にとっての一番幸せな道なんです。行って車に轢かれちゃったらもうおしまい。それを神様は親だからこそ、子供が怖い道危ない道に行かないように案じているんだぞ。こういうことを教えていただいているので、今自分の身の回りに起きていること、嫌なこと苦しいこと辛いこと、これはしかし神様が幸せな道、楽しい道、陽気な道にしてくださっているんだと、それを喜んで受けとめる。神様は何を私にしろとおっしゃっているんだろう、何をするなとおっしゃっているんだろう、ということをしっかりと考える。
 これが神様のおっしゃる「成ってくる理を喜ぶ」ということなんです。どんなことでも喜べるようになります。
 みかぐらうたにも

「十ド このたびむねのうちすみきりましたがありがたい」(四下り目)

というのがありますね。つまり何がありがたいか、と。お金があってありがたい、あるいは事業に成功してありがたい、勝負に勝ってありがたい、ということではなくて、心が澄み切って、どんなことでも喜べる心を持てた、これがありがたいということなんだということを神様は我々人間にちゃんと教えてくださっている。
 神様はみんな分かっている。先のことが見えているから、人間一人ひとりが危ない道に行かないように、神様が色々な手段で我々人間に教えてくださっている。ですので、どんなことがあってもひとつひとつ、神様が何のために私にこんなことを見せてくれるんだろう、何のために私に辛い思いをさせてくれているんだろう、ということを考えながら、しかもそれを喜ぶ。皆さんどうかひとつ、どんなことでも「成ってくる理を喜ぶ」ということを今月の目標にしていただけたらと思います。
 一週間前の新聞を一週間後に読むということだけでも、「この人こういう風になっちゃうのに、今こんなことを言っているね」なんていうことがよく分かります。それは、神様が我々人間を見て、最初からどうなるか分かっているのと同じ話です。我々は神様からしっかり守られているという安心。それと共に、親である神様が、私たち子供が、幸せな道、楽しい道、陽気な道をたどるために日々見せてくださっているのだ、ということを喜んで受けとめていく。こういうことでこの一か月、お暮しいただきたいと思います。

 本日は本当に賑やかにおつとめいただきましてありがとうございました。

2021年10月30日