2020年(立教183年)6月月次祭神殿講話 ~神の使い良い道具~

1.はじめに
 ただいまから、6月の日帝分教会月次祭の神殿講話をさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。
 今月も教会在勤者のみで勤めさせていただきました。
 本部では、今月はまだ全国からの参拝は自粛していただきたいということですし、東京都も本日、東京アラートが解除されたということですが、今月いっぱいはこのような形で行かせていただくこととしました。来月からはなんとか通常の形になっていければなぁと祈っております。
 ちなみに、栃木県はかなり前から警戒が解除されていますので、中根大教会の今月14日の月次祭は、勤め人衆だけで、おつとめをさせてもらうという通知が来ました。私も行かせてもらいます。そういう中ではありますが、明らかに数字的にはおさまってきておりますので、皆さんが心を作っているということへの一つの神様からのご褒美だろうと思います。

2.画面を通じてのやり取り
 私もそうですけども、今回のこのコロナ禍によって、生活がだいぶ変わってきました。
 夜の会合は無くなりましたので、ほとんど家で夕飯を食べるというような生活になりました。また、混雑する所には極力行かないということで、お互いが距離をとって、電車でもどこでも密集を避けるようにする。さらには、大きな声で話さない。今日のおつとめでは地方がフェイスシールドというのを着けてやっていましたが、唾で人に感染するということなので、必要なことかと思います。
 そんなことで、人のためにマスクをする、大きな声で話さない、ということですから、もしかしたらこれからは、そこかしこで皆が集まって大いに話をする、ということが無くなってくるかもしれない。対面での話し合いは極力避けるべきということですから、今日もYouTubeで月次祭の様子を配信しましたが、このようなテレビやパソコンの画面を通じてのやり取りが、今後のコミュニケーションの主役になっていくというような話なのだと思います。
 そうしますと、信仰の世界についても、かなり大きな変化が出てくるのではないかと思います。例えば月次祭。天理教の月次祭は、皆さんが教会に集まり、それまでの一ヶ月の間にあったことを全部神様にお話をして、大きな声で唱和して勤めさせてもらう。あるいはお寺でも同じように皆が集まってお経を聞く、大きな声であげる。キリスト教の教会であれば皆が教会に集まって讃美歌を歌う。というようなことが、これからはなかなか難しくなる、やりにくくなるということだと思います。

3.心に信仰を持つ
 一方で、この機会に考えさせられることもあります。例えば、私も毎月26日はおぢばへ帰って、本部神殿に座って大きな声で唱和させていただいて、それで実は満足してしまっていて、もうこれで信仰しているんだというふうな思いになっていることもあります。同じように、仏教でもお経を読んだだけで信仰しているつもりになっているかもしれない。キリスト教でも讃美歌を歌ってるだけで信仰しているつもりになっているかもしれない。
 しかし、それらはあくまでも形であって、信仰の核心はそうではないということは皆さんもよくお分かりかと思います。皆が集まらなくても、大きな月次祭とか色々な宗教行事ができなくても、それだから信仰していないことにはなりません。
 今回のコロナ禍は、一人ひとりが、しっかりと心に信仰を持つということはどういうことなのかについて考え直す、一つのきっかけになるかもしれません。

4.談じ合い
 これまでの日帝分教会を考えても、皆さん集まっておつとめをする。おつとめをした後は直会でそれまでの一ヶ月間でたまった色々なことを話して、皆さんすっきりしてお帰りになっていただくことで、また一ヶ月頑張れる。そういうことができなくなるのは残念、とも思いますけれども、ここは実はよくよく考えなければいけない。
 なぜなら、教会という所は、本来世間話をする所ではないのです。あくまでも、お道の話をする所。神様の話をする所。ということで、実はこのことについても神様におさしづがあります。神様のお話をすることを「談じ合い」と言います。おしゃべりではなく「談じ合い」。そのことを示したおさしづがあります。

「さあ/\皆んな/\/\談示々々が肝心やで。」(明治21・11・11)

「皆々談じ合うてすれば、どんな事でも出来て来る。」(明治27・6・29)

 皆が談じ合うてする、何かをする時には皆が談じ合って「今度はこうさせてもらおう」という思いですれば、どんなことでも出来てくる、というそんなおさしづであります。
 神様のお話の談じ合いですから、この日帝分教会を振り返っても、月次祭が終わった後とか、あるいは月に一回やっている教理勉強会など、そういう機会にしっかりと神様の話を談じ合う。そのためには教理をしっかりと勉強しなければいけない。皆さんが教会に集まることのできる貴重な機会を、世間話だけで費やすのではもったいない。神様のお話をさせていただき、お互いがしっかりと信仰を談じ合う。こういうようなことをこれからは強く意識していかなければいけないと思います。

5.神の思い
 そしてまた一方で、コロナという、人間が出直したり、大変な苦しみをしたり、というようなことを神様がしているんだとしたら、なぜ神様はそんなことするんだ、ということを思う方がいるかもしれません。
 以前からお話しているように、親神様は人間の心遣いの過ちに対して「手引き」を与えてくださって、心の向きを正しい方にしてくださいますが、それについて「なんで神様がこんなことするんだ」ということについても、実はぴたっとしたおさしづがありました。

「さあ/\神さん/\と思うやろう。神は何にも身を痛めはせんで。さあ/\めん/\心から痛むのやで。」(明治21・9・18)

「神は救けたいが一条の心。」(明治21・9月頃

というおさしづがある。

 神様神様、どうしてこんなことをするのでしょう?と思うであろう。神は身体を痛めはしない。めんめん(一人ひとり)の人間の心づかいが間違っているから、知らせているのだぞ。人間の心づかいから痛みが出てくるんだ、と。神は人間を救けたいという、ただそのことひとすじ、そのことだけの心でおられる。だから、必要な手引きはするけれども、決して人間を痛めつけたいと思ってやっているのではないのだ。こういう意味のおさしづです。
 「神がいるんなら、なんでこんなことを神がやるのだ」という率直な人間の心情に対し、分かりやすいおさしづを出してくださっているのです。
 新型コロナウイルスですら、これは神様が出したものであるけれども、心さえしっかりしている人、神から見て手引きする必要のない人にとっては、コロナウイルスでその人の身体を痛めることはない。自分の心をきちんと澄ましておれば、すなわち、人を助ける心を持っていれば、新型コロナウイルスというものを恐れることはないのだという、こういう一人ひとりに対してのおさしづです。

6.神の使い良い道具
 一方で、今回のこのコロナ騒動の中で世界の国々を見てみますと、いくつもの大きな国が、自分の国さえ良ければ他はどうでもいいということを言い出しています。皆、自分の国さえ良ければいいという、これはもうほこりまみれの姿そのもの。神様から見たら、こんなほこりまみれの姿は見ていられない。そこで神様は掃除をされるのです。   
 おさしづに

「さあ掃除や。箒が要るで。沢山要るで。使うてみて使い良いはいつまでも使うで。使うてみて使い勝手の悪いのは、一度切りやで。隅から隅まですっきり掃除や。」(明治20・3・15)

とあります。
 さあよごれ切った世界を掃除する。掃除するから箒が要る。箒というのは掃除の道具です。人間のことを指しています。掃除をするための箒となる人間がたくさん必要。神様が箒として使ってみて、使い勝手の良い箒はいつまでも使う。ところが使い勝手の悪い箒は一度切りしか使わないぞ、と。隅から隅まですっきり掃除するぞ、と。
 ここで、神様にとって使い勝手の良い箒、目にかなう箒、すなわち目にかなう人間というのはどういうものかというと、人を助けるという思いのある方です。こういう箒はいつまでも何度でも使う。そして使い勝手の悪い箒とは、自分さえ良くばという思いの人間。こういう人間は神様からすれば使い勝手の悪い箒なので、これはもう最初の一回きりしか使わないと。
 この生命・身体というものは、神様からお借りしているわけなので、神様が何回も何回も使うというのであれば、これは何歳でも生きさせてもらえることになる。もう80だ90だと歳を取ってしまったし、病んでもいるし、身体が不自由で自分は何の役にも立たない、などと思うことはないのです。神様が使い勝手の良い箒、人間はいつまでも使うで、というふうに仰っている。だから神様にとって使い勝手の良い箒にならせてもらう。神様の箒、すなわち神様の道具にならせてもらうというのは、神様のことをさせていただくということです。人を助ける心をもって、人のために動く、あるいは人のために祈る。これを実行できる人が、神様にとっての使い勝手の良い道具だということなのです。

7.神に好かれる
 人間が互いに助け合って、陽気ぐらしの世界を作る、というのがこの神様の願いです。つまり、一人ひとりがそれを自覚して、互いに助け合う。助け合うことによって、皆が陽気ぐらし世界実現のために努力をする。こういう世界になることを神様は望んでおられるので、その世界を作っていくために役立つような人間にならせていただく。
 いつも申し上げているように、「互い助け合いというは諭す理」です。これは神様から言う話であって、一人ひとりは人のことを助けることだけ考えていればよろしい。「お互い、互い助け合いよね。」なんて人間が言う必要はない。そんなことは一切言わず、もう一方的に助けるだけ。これもいつもお話ししていることですが、助けた人、お手伝いをした人、祈ってあげた人、そういう人たちから自分がお礼を言われてはいけません。これはとても大切なことです。
 自分が人のためにしたことは、もう神様が見てくださっているのですから、人様からのお礼やご褒美に意味はありません。人様を助ける時はただ一つ、その人に助かってもらいたい一心で動く。そのことだけです。その姿を神様が見てくださっているので、その神様からご褒美をもらうのだ。こういう思いになることで、今、世界中を掃除にかかっているのかもしれない神様の目にかなった人間となる。
 そういう人間、箒として掃除をする側に回って、いつまでも、しかも何度でも使っていただける人間を目指す。何度でも使ってもらえるような心遣いをして、神様に好かれる人間となり、神様の道具として陽気ぐらし建設の役に立つよう、これからの一ヶ月もお暮しいただきたいと思います。

 この一ヶ月、家に閉じこもっていても人のために祈ることはできます。人のために声をかける、連絡することはできます。人を助ける心をしっかりともって、人様のために動くことのできる、神様にとって使い勝手の良い道具にならせてもらえるような心遣いをする。そういう風に、来月こそはぜひ皆さんとお目にかかれるよう、互いが心を作って行きたいと思います。
 こういう形での月次祭は、なんとか今月で終わらせたいと思っております。来月こそは皆さんと声をかけ合ったおつとめができるように、お互い神様に祈って来月を迎えたいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2020年06月26日