2021年(立教184年)12月月次祭神殿講話 ~どんな所にも幸せの種はある~

1.「病み損」ということ
 ただ今は12月の納めの月次祭、賑やかにおつとめをさせていただきました。誠にありがとうございました。少しの間お時間いただいてお話させていただきたいと思います。お付き合いをお願いいたします。
 ちょうど十二下りが終わって、ありがとうございました、と頭を下げた時に地震がグラグラっと来ましたね。地震、大波、山崩れなどは全部神からの手引きであるという風に教えていただいておりますので、今ちょうどぴったり十二下りが終わって拝をしている最中の地震で、これは神様がこの一年よくやったねと言ってくださっているのか、まだ足らんと言っておられるのか、どちらかは分かりませんが、神様のお手引きというのはそういう風に受け止めるんですね。地震があれば、一体神様は何を私どもに伝えてくださっているんだろうなあという風に思うわけです。
 同じように、何か足が痛い、手が痛い、腰が痛い、あるいは気分が悪い、というような病気についても、全部神様の手引きという風に教えていただいております。そのお手引きというもの、自分たちに現れた一つのことをどのようにして受け止めるかというのが、実は信仰する意味なんです。一つ楽しいことがあっても、楽しいことがあって良かったね、と言ったならばそれでおしまい。あるいは辛いこと悲しいことがあったとしても、辛いのも悲しいのももう二度とこんな目にあうのは嫌だ、といってそれで忘れ去ってしまおうと思うのも、やはり神様のお手引きの意味が分からないことになる。
 以前、天理医療大学で講演をさせてもらいました。その時に私が前会長、つまり私の母から教えてもらった話をさせてもらったんです。母からは、「病気をして、薬を飲んで、医者へ行って、治った治ったと喜んでいただけなら、お前病み損だぞ」と言われました。病んで損しただけだと言われたんです。信仰をしていない人だって、お前と同じように病気になる人もいればならない人もいる。いったん病気になってしまい、薬を買いに行けばお金がかかる。病院に行って注射をすれば痛い、辛い思いもする。一方で、病気をしない人もいる。その人と比べたとき、病気になって治ったことだけを喜んでいたとしたら、治ったとしても、薬を買っただけお金は無くなったわけだし、病院の注射で痛い、辛い思いをしただけということになる。これでは単に損をしたことになるんだぞ、と。
 損だの得だのといった言葉だとなかなかぴったりこないでしょうけれど、病んだとき、ケガをしたとき、辛いことがあったときに、それを受け止めて、神様は自分に対して何を伝えてくださっているんだろうかなあ、という風に考えてみると、「ああそうか。神様は私に何か足らない所を自分で考えて改善しなさい、改良しなさいとおっしゃっているのか」ということが分かるようになる。あるいは、素晴らしい、嬉しい楽しいことがあったときには、「これはご褒美としてくださったんだ。さらにもっと楽しいことが来るように、もっと頑張れとおっしゃっているのかもしれない」ということが分かる。自分の身に起こる一つひとつのことをそういう風に受け止めることで、人柄が、人格がまた一つグレードアップする。また一つ他の人よりも人間を磨くことができる。こういうことが信仰をする意味なんだということを教えてもらいました。だから病気になって薬を飲んで、病院へ行って注射打って治ったので良かった、というレベルで止めてしまったら、病気になっていない人に比べて損をしただけ、病み損だぞ、ということなんです。

2.病んで得する
 じゃあ得するためにはどうすればよいのかですが、病んだことによって、神様が自分にどのように、自分の悪い点、欠点を直せとおっしゃっているんだろうか、ということを考えて、「ああそうか、こういうことがあったから、こういう風に神様からお手引き、手紙、メッセージをもらったんだ」という風に考えればいいだけのことです。とはいえ、一つひとつの出来事がどういうメッセージなのかというのはそう簡単には分からない。ところが、この信仰では全部きっちりと教えてくださっています。これはしっかり原点を勉強しないとなかなか難しいので そういうことは先輩のようぼくに尋ねてみて下さい。神様はこの身体に十全の守護といって、見える、聞こえる、食べられる、あと温み、水気、体温が36度5分でおさまっている、こういうことをすべて御守護くださっています。こういうことを考えますと、どこか悪いということは、神様がその人間の機能に障りをつけて、心を直させようと思っているということです。神様からすると、我々はみんな子供です。親が子供の悪い所を直してあげようと思って教えてくれているんだと考える。それが病んだことによって得をするということです。薬を飲んで病院へ行って治したということであっても、お金をかけた、痛い辛い思いをした以上に、自分の人格を一つ高めていくこと。これが信仰の意味だろうと思うんです。日常に起こるどんなことからでも、自分の人格を高めることができるのです。

3.「自由」ということ
 そしてもう一つ。ぜひ皆さんに覚えてほしいのが、自由(じゅうよう)ということ。「自由」と書いて関西では「じゅうよう」と言うらしいですが、

「自由という理は何処にあるとは思うなよ。ただめん/\精神一つの理にある。」

と神様は教えてくださっています。例えばお金が欲しい、健康が欲しい、あるいはもっとあちこち歩いてみたい、あるいはいい子供を授けて欲しい、あるいは子供が授かったならば良い子になって欲しい、いい成績をとって欲しい、そういう思いは全部自分の心の自由ということなんですけど、それは

「何処にあるとは思うなよ。ただめん/\精神一つの理にある」

とおっしゃっている。つまり、自由というのは外から与えられるものではなくて、自分自身で喜べるかどうか、ということ。これがこの教えの神髄なんです。だからどんなことがあってもまず喜ぶ。これが大切です。
 以前お話させてもらいましたけれど、新型コロナの感染拡大という、世界中が困っている中で、これをどうやったら喜べるんだろうかと考える。これも一つの信仰している意味なんです。こんなもの嫌だ、こんなもの辛いだけ、死ぬ方もいる、大変な後遺症が残る方もいる、けれども、それを神様は何のためにこういう辛い病を私たちの前に出してくださったんだろうかと考える。
 あるいは、どんなに嬉しいことであっても、これはただ自分がやったからこれだけのものができた、分かりやすく話をすれば、例えば自分が一所懸命に朝から晩まで仕事をした、それで会社から評価されて出世をした、給料も上がった。これは全部俺の力によるものなんだという風に考えるか、あるいは健康な身体を貸していただいて、無事に働きたいだけ働けた。また家庭に何事もなく、家庭を気にせず働きたいだけ働けた。もしかしたら奥さんが蔭で支えてくれているかもしれない。あるいは親が支えてくれているかもしれない。あるいは子供が心の中で「お父さんお母さん頑張れ」と言ってくれているかもしれない。そのように考えると、自分が出世したこと、この喜びは自分の力ではなくて、周りの人の力だということが分かる。そうすると、自分の力で勝ち得たもののように見えたものであっても、皆に感謝できる。これが信仰をしている意味です。最近は、何十億ものお金を払って宇宙へ行ってきた人がいますが、私は、ああいうことで自分が幸せだとは全く思わない。幸せというのはお金があろうとなかろうと、宇宙へ行けても行けなくても、海外へ行けても行けなくても、そんなことは関係なく、自分の身の回りにある小さな幸せを探していく。小さな幸せに気づくことができ、感謝で心を満たすことができる。これが

「自由という理は何処にあるとは思うなよ。ただめん/\精神一つの理にある。」

という意味です。

4.どんな所にも幸せの種はある
 そういうことで、先ほどの地震の例一つとってみても、神様は何を私たちに伝えたいのか。私たちに何を求めているのか。何をしたら神様は喜んでくれるんだろうか。先ほどの地震が、場所によってはもっと大きな地震であったりして、恐ろしい、辛い思いをした方がいるかもしれない。そうした方たちに対して祈るだけでも、そういうことがないように、辛いことがないように、あるいは大きな被害がないようにと祈ることだけでも、それが信仰しているということの意味なんです。「おお地震があった、揺れた、家が壊れなかった、良かった」、これで終わっちゃったらば、もう人生が面白くないです。別に信仰なんてしてもしなくても変わらない。何が起きても見ても聞いても、そこから喜びを見出す。これが信仰の醍醐味であろうと思います。

 この十二月というのは、一年の締めくくり。一月一日から今日までの十二月いっぱいで一年が終わります。いつも申しあげておりますが、正月一月一日といっても、大晦日の翌日であるだけのこと。正月一月一日も、今日の明日である十二月十三日も、同じ一日という意味では全く同じ。ではなぜそれを一月一日だけ「正月」として特別に皆祝って喜ぶのかといったら、皆さんの心の中で年が改まったとして喜ぶから、だけではないでしょうか?もし今日が大晦日であれば、明日はめでたいわけでしょう?つまり、皆一人ひとりが心の中で喜んでいるからこそ、正月がおめでたく、楽しいものになるんです。そういう風に考えていけば、どんな所にも幸せの種は必ず見つけられる。辛いことがあっても、神様は私に対してこれをどうしろとおっしゃっているんだろうか、どういう心でどうやって通っていけとおっしゃっているんだろうか、ということを考える。これが信仰をするということです。

 この一年間、本当に皆様には色々なことがあったと思います。今日入院していて、参拝に来られない方もいらっしゃる。新型コロナのために、YouTubeで見てもらっている方もいる。そんな中で今日教会に来られた、歩いて来られたという、そのことだけでも喜べる。その喜びで幸せになります。幸せになったらその幸せを困っている人に伝えていく。声をかけることだけでもおたすけになる。にこやかに笑顔で接するだけでも、笑顔をもらった方がまた別の人に笑顔で接していける。これも立派なおたすけです。そういう風に考えれば、どんな状況にあっても、人を助ける心さえあれば、人助け、世界助けはできます。そういう思いでまた来年一年、頑張っていただきたいと思います。

 今年一年、教会のうえに皆様にはしっかりとお心寄せをいただきました。お蔭様で、私のようなものでも大教会にしっかりとおつとめさせていただくことができました。また来年もさらにいい年になるよう、お互い一人ひとりが心を作らせていただき、喜んでお暮しいただきたいと思います。

 今日は本当にありがとうございました。

2022年03月30日