2023年(立教186年)9月月次祭神殿講話 ~神様の理を立てる~

1.命を貸していただけることへの感謝
 ただいまは人数が少ない中でも陽気におつとめをいただきました。
 つい一昨日、うちのすぐ隣のお宅の奥様がお出直しなされました。朝、急に呼吸と心臓が止まってしまったということで、苦しまずに逝ってよかったということを遺されたご主人がおっしゃっていましたけれど、私たちはいつ何時神様が命をお引き取りくださるかわからない。逆に言えば、この健康な身体は神様から一日一日お貸しいただいている。ということであれば、今日一日無事に過ごせたということを本当に神様に感謝ができると思うんです。
 そうすると私なんかは自分の力で生きているという風に思いがちですが、自分が生きたいときに生きられない、私どもは神様から身体を借りている間だけこうやって元気でいられるということを考えたら、一日一日がどれだけありがたいか、どれだけ感謝しなければならないか、息を引き取られた方とその周囲の方の悲しみを見せていただくと、本当に胸が痛くなるような思いがします。
 このことに対して、私じゃなくてよかった、などということではなくて、自分たちもいつ神様からそういう形で引き取られるかわからない。そういうことを考えたら一日一日を感謝し、そしてそのお借りしている感謝の気持ちを他の人の為に使う。これが「ひのきしん」だということをいつもお話しますけれど、神様から健康な身体を借りている、今日おつとめに来られた、そしてまたこれから皆さんと楽しい直会ができる、こういうことも生きていれば、歩ければこそ。そしてご飯が口から入ればこその話です。
 であるならば、常に神様に感謝を毎日毎日していく、神様とすれば、そんなに喜んでいるのなら明日また貸してやろう、ということでまたお貸しいただけるかもしれない。そしてまた喜んだ感謝の気持ちをひのきしんという形で他の人たちの為に自分の身体や時間を使わせていただく。これがどれだけ神様の目にかなって長生きさせていただけるか、ということを改めて人様の命が亡くなった時に感じるわけです。今日一日生かしていただいてありがたかったということを感謝して、神様また明日もどうぞよろしくお願いします。と、このように過ごせていけたらと思います。


2.道の理、神様の理
 例えば今日の月次祭でも、世間の考え方で他に忙しいことがあるとそこに行かなきゃならないので教会にはいけない。神様はいつでもいるんだからまた後でいい、という風なことをついつい思ってしまいます。つまり人間の方の理由だとか道理を優先してしまって、神様の方をついついおろそかにしてしまう。おろそかというよりも甘えてしまう、と私なんかはそんなことが時々ありますけれど、そういったことに対して神様はきちんとおさしづを残されています。

 「人間の理を立てるから、だん/\道の理が薄くなる。人間の力で通れるか。道の理が無けねば守護は無い。」
 (明治三十二年六月二十七日 昨日増野正兵衞身上のおさしづより一同協議の上願)

 人間の理を立てるからだんだん神様からの御守護が薄くなってくる。人間の力でこの世の中を通れると思うか?と。神様の理がなければ、守護は無いよ、ということを神様がおっしゃっている。神様は直接ものをおっしゃらない。嫌な顔もされない。人間の方は嫌な顔もされるし、何かをすれば喜んでくれる。神様の御用と人間の用があった時についつい人間の理を立ててしまう。人間の理を立てるから、神様の理が薄くなってしまう。理が薄くなれば守護は無いぞ、と神様から言われているわけです。皆さんはしっかりと神様の理を立てていただいていると思いますけれど、私なんか自分で仕事を持っていることもあって、ついつい人間の道理の方を立てたくなるようなことがあります。
 そこで自分の経験ですけれど、以前宮内庁から園遊会に招待されました。あれは実は事前に電話が来て、その日行けます、と答えた人にしか通知が来ない。ご招待状が来ない。それで事前確認の電話がかかってきました。忘れもしません、5月12日園遊会ですがいらっしゃいますか?という。12日と聞いた瞬間に、うちの月次祭だからだめだ、ということで、その日はだめですとすぐに断ったんです。そうしたら電話をしてきた宮内庁の方が「天皇陛下のご招待ですが・・・」と言うんです。こちらとすれば天皇陛下であろうとどうしても先約があるからだめです、としかいえない。先方とすれば、天皇陛下より大事な先約があるのか?というような雰囲気でしたけれども、ともかく「5月12日はだめです」と即座に断りました。そうしましたら、それでは来年にしましょうか、ということを言われました。
 これは後で聞いて驚いたことなのですが、一度招待を断った方は、二度と呼ばれないそうです。普通、断る方というのはこういう断り方をするわけです。5月12日はいかがですか?と言われた時に、例えば私だったら、「(月次祭だなあ、月次祭休むわけにはいかんかなあ・・・)じゃあ皆と相談してから返事をしよう、ちょっと時間をください。」と言って時間を置いて、それで皆さんと相談をして翌日やはり申し訳ないですがダメです、と断るわけですね。そうするともう二度と招待されないそうです。私の場合「どうですか?」と言われた瞬間に「あっ、その日はだめです」とポンと断った。そうしたら先方もそんな勢いよく断られるものですから、じゃあ次に、秋にしましょうということでそれで改めて秋に招待状をいただきました。これも12日だったら断るつもりでしたけれど、12日じゃなかった。そんなことでささいなことですけれど、天皇陛下の園遊会、一生に一回行けるかどうか、というのが来ても、我が日帝分教会の月次祭の日にあたってはだめだということで即座に断った。即座に断ったのでまたじゃあ秋に回そうと向こうもその勢いで負けたのか知りませんけれども、改めて次の園遊会に招待されて行ったことがあります。
 同じように、実は勲章もそうでした。叙勲の式が12日で、それで70歳になった時にくれるんですけれど、「いやちょっと今年はご遠慮します」と。今年は遠慮しますということで、来年是非、というような話でお断りした。やはり勲章も、考えて断ると二度とくれないそうですが、それもやはり即座にお断りをした。そうしましたら翌年、また改めて勲章をあげるということで、翌年は行って、家内共々天皇陛下から勲章をいただくということができました。
 この二つに共通するのは、最初にどうですかと言われた時に、人間の理とすると天皇陛下の勲章や園遊会に行きたい。しかし神様の理、月次祭の理を見たらば、月次祭の理を立てることで即座にそちらを断った。そのお陰で、と言いましょうか、二回断って二回とも次にくれたというのは他の人から非常に珍しがられましたけれども、私からすると、人間の理よりも神様の理、道の理を立てたという思いがあります。


3.人をたすける心
 そこで、その神様の理とはなんなのかということです。私はたまたま月次祭をつとめるということでしたけれども、じゃあ皆さん、例えばなにか月次祭以外で神様の理と人間の理とをどう立て合うかといった時に、興味深いおふでさきがあるんです。神様はおふでさきの中で、「情けない」という言葉を使われているのが一つある。

「なさけないとのよにしやんしたとても 人をたすける心ないので」(十二号90)

 つまり神様からすると、人間は色々なことを皆考えているだろうけれど、神様からすると情けない。お前たち色々なことを考えているけれど、お前たちは人を助けようという心が無いじゃないかと言うんです。これがまさに神の理ということなんです。自分が例えば、どこかに映画に行きたい、旅行に誘われた、何々をしたい、と思った時に、自分の理、人間の理を立てるのか。誰かここに困っている人がいる、この困っている人の為に何ができるかという時に、この人の為にこれをして差しあげようと心を定めたのであれば、これが人間の理としてどんな良い話が来たとしても、人を助ける心を定めた以上は人を助けることを優先をすること。これが神の理ということなんです。
 一つも難しいことはない。人間の理というのは自分の都合。神の理というのは人様の都合。人様の為になる都合。という風に考えると、たまたま私の本当にささやかな、比較にもならないような話ですけれども、わずかながら月次祭を立てようと、神様を立てようと思ったことによって、結果的に人間の理も立ってきた。その人間の理というと常に皆さん、私もそうですけれど常に日常生活しているとぶつかります。自分の都合と、誰かの為になることとぶつかってくる。その時に、自分の都合を立てるのではなく、誰かの為になることの方を立てる。これが、神の理を立てる。そうすると、神の理を立てれば御守護があるというんですね。神の理が薄ければ守護は無いとまでさきほどのおさしづにあるように、逆に言えば神の理を立てれば守護がある。
 つまり、この道は、先ほど読んだ諭達にもありますけども、「人救けたら我が身救かる」という教えなんです。自分が助かりたければ人様を助けなさい。その人様を助けるというのが神の理なんです。自分の都合ではなくて、人様を助けるという神の理を立てる。こうすることで、神様がその後にもっとすばらしい御守護をくださるということを私自身もささやかながら体験をしたわけです。そんなことで日常、自分の都合と人様を助ける都合がぶつかることがままあると思いますけれど、その時に一つでも自分の都合を抑えて、人様の為に都合を使うということを考えて、またこの一か月お暮しをいただきたいと思います。

 まだまだ9月と言いながら本当に暑い中ですけれど、どうか借りている身体を大事に使いながら、一か月をお過ごしいただきたいと思います。

 先ほど、椅子で祭儀式をやってみました。10月末までには椅子でおつとめや祭儀式ができるように、円座をやめ、鳴り物もすべて椅子の高さに合わせてかさ上げをしておつとめをするようになります。そうした時にどんな祭儀式になるかということで予行演習をしてみたんですがなかなかうまくいきません。そういうことも含めて、11月12日の日帝分教会の100周年の為に皆さんおつとめの手をそろえるということを勉強する機会を作りたいと思いますので、どうかその節にはご参加いただきたいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2023年10月21日