2021年(立教184年)10月秋季大祭神殿講話 ~元一日~

 ただ今は10月大祭を賑やかにおつとめいただきました。一言お話をさせていただきますのでしばらくの間お付き合いをお願いいたします。

1.1日を楽しく感謝して
 10月になってようやく緊急事態宣言が解除されまして、今日も皆さんお集まりいただきました。道路や電車は大変に混んでいるというようなこともありましたけれども、やっぱり一人ひとりの心構えでしょうか、8月頃には一日の感染者数が5,000人とか6,000人とかであったのが、昨日はわずか70人とか80人とかいう、ちょっと信じられない思いがしています。一人ひとりの思いを重ねればこういうことができるんだなあと。逆に一人ひとりがちょっと緩めばどんどん拡大していくんだということがよくわかります。
 去年から始まったコロナ禍ですけれど、おぢばでも今年いっぱいは1大教会4人までしか参拝ができません。会長である私も参拝できません。それまで当たり前のように神殿に上がって拝めたということが、いつ突然こういう風にできなくなるか。人間の身体も同じで、今日歩けても明日歩けなくなるかもしれない。そんな風に考えると一日一日本当に大切に、今日一日歩けた、今日一日何か物が口から入った、ということを感謝して喜んでいく。
 私はいつも申しあげるんですけれど、損得だと思うんです。損だ得だと考えたときに、今日一日ぼーっと何も心に感動が無く過ごした一日と、今日も朝早く目が覚めた、そしてご飯が食べられた、それで人と話ができた。先ほど信者さんからお孫さんの写真を見せてもらったんですけれど、孫の顔が見られた。それで本当に今日一日嬉しかったという思いで一日過ごすのと、何も感激もない感動もない一日を過ごすのでは、同じ一日だったらそれは喜んで感動した方が得です。心も豊かになるしきっと神様はそんなに喜んだのか、と言って、じゃあ明日も喜ぶようにしてやろう、と。その積み重ねで長い寿命、長寿をいただけるのではないかなと思うんですね。
 ですから、決してその一日がつまらない日というのは無い。どんな時でも心一つで楽しく過ごせることができるんだということを、また後ほどちょっとお話したいと思います。

2.立教
 今月は皆さんご承知の通り、今から184年前の天保9年、1838年旧暦10月26日に、教祖に親神天理王命が入り込まれて、神様、神がかりになって、初めて人間の口から神様の思いを聞かされました。皆さん、神様はここにいらっしゃるけれども、神様は口を持っていませんから、神様がどんな思いでいるのかは聞こえない。ところが、中山みき様という教祖に入り込んで、教祖の口を通して、「くちはにんげん心月日や」という言葉があります。口は中山みきという人間だけれども、心は親神天理王命なんだということ。それで我々はこの教えを聞くことができたわけです。ですから、今日踊ったみかぐらうたも、教祖という人間の口を通してはいるけれど、あれは神様が教えてくださった言葉なんだということを教えていただいたのが天保9年10月26日。これが秋の大祭ということです。
 皆さんご承知のとおり、突然人間中山みき様の身体に親神様が入られ、「みきを神の社にもらいうけたい」とおっしゃられた。けれども、当時まだ中山みき様は40歳で、一家の主婦として一番大切・大変な時、そんな時に神様に持っていかれたんでは困るということで、親戚一族全部集まって「他の所へお移り下さい、こちらは世帯盛りですから」と言っても、「神はどこへも退かぬ」と。神様からすると、この教祖こそが、九億九万九千九百九十九年、大昔から約束された方。約束された魂を持っておられる方ということなので、神様としたら他の所へ行く訳にはいかない。そこで「聞き入れてくれた事ならば、世界一列救けさそ。」ということで承知をさせたわけです。親神様が入り込まれたのは10月23日の夜で、そこから皆三日間寝ないでひたすらどうか天へお上がりをお願いします、と頼み込むのだけれど、神は退かぬ、といったような問答が三日間続いたわけです。そして遂に10月26日朝8時に「みきを神の社に差しあげます」と言ったことで、天理教が始まった。これが天保9年10月26日午前8時。これが秋季大祭、ということの意味です。

3.元一日
 そういうことですから、私たちが今、この神様の話が聞けるのは、その天保9年10月26日午前8時という元一日があったからなんですね。元一日というのはそういう意味なんです。皆さんには、それぞれこの道に導かれた元一日がそれぞれあると思います。そして天理教を信じようという心遣いのその日というのがあると思います。 私なんかは教会に生まれて教会で育って、そして教会で鳴り物を聞いているから、天理教を信じるとか信じないとか、そんなことは考えずにずっと来ました。それが、大学に入ってから初めておぢばに帰り、学生生徒修養会に参加して一から天理教の教えを聞き、「何と素晴らしい教えなんだろう」と感激して「この教えを信じよう」と思ったときが私にとっての元一日といえると思います。その後、おさづけをいただき、結婚し、初めて子供を授かり、子供に色々な身上を見せられ、そして母親に色々な身上を見せられ、そして家内に身上を見せられて、初めて本当に神様のお陰で今日があるんだなと分かるようになった。 それは、元一日があったからこそ感じることができたということだと思うんですね。
 そういうことで、皆さんにもきっと元一日というのがあるはずです。つまりそれは神様をぼんやり聞いた日ではなくて、やっぱり神様ってあるんだなあと、私は神様を信じよう、と思ったその日のことです。その日が元一日。そういうこと自分の元一日を、この10月の秋の大祭という、天理教の始まった日になぞらえてぜひしっかりと考えていただきたいと思います。

4.心一つ
 今日はですね、「心一つ」ということについてお話させていただきたいと思います。私たちは、神様から常に「心一つ」と言われています。「心一つ」とはどういうことかというと、この身上、身体は神の貸しもの、神様から身体は借りている。心一つが我がの理、心だけが自分で使っていいものなんだということを教えられている。だから私たちが今持っているすべては、神様からの借りものです。いつも申しあげるように、自分の身体はもちろん、自分の奥さんだとか子供だとか兄弟だとか、場合によっては隣のおじさんおばさんも、自分の目に入ってくるのは全部神様からの借りもの。そんな中で、自分のものだといえるもの「心一つ」だと神様は言うんです。心だけは自由に使ってよろしい。ところが、人間は心は自由に使っていいから心の使い方を間違える。その間違えた時に神様が、そっちじゃないよこっちだよ、と言って手引きをしてくれる。これが病気であったり、色々な事情であったりするわけですね。つまり「心一つ」は自分が自由に使ってよいのだけれど、だからこそその「心一つ」を勝手気ままに使うなよ、というのが神様の教えなんです。
 おさしづにはこういう言葉があります。

「心一つというは優しい心もあれば、恐ろしい心もある 知らず/\の心もある」(おさしづ明治25年1月13日)

 分かりますね。「心一つ」というのは優しい心もあるけれども、恐ろしい心を持つこともある。そして自分で優しい心になろうとか恐ろしい心になってやろうとは全く関係なく、知らず知らずの心もある。自分で意識しないうちに、知らず知らずのうちに使っている心もある。

「どんな事見せても、人の事のように思てはその日限り、あれはあれだけと思えば、それまでのもの」

 言葉としては非常に簡単なんですけれど、難しいですよ。「どんな事見せても」というのは、私たちが自分の身の回りに困っている人を見るということは、神様が見せてくれているんです。神様が困っている人を自分たちに見せてくれているんだけれど、「どんな事見せても、人の事のように思てはその日限り」。困っている人がいたらば、ああ、あいつあんなことやったから困っているんだ、あるいはあんな困っているやつのことは見て見ぬふりをしよう、つまり他人事だと思っていたらその日限りで、実は神様がその人間に見せているんだということが分からずじまい。その人を助けさせてもらうことによって、助けた人に対して神様が御守護をくださる。言い換えれば、神様には「お前に御守護をやりたいから、こういう困っている人を見せているんだよ」という思いがあるのに、見せられた人間の方で、それはもう人のこと、自分には関係ないと言ってしまったならその日限りのこと。結局神様から御守護をもらえない。「あれはあれだけと思えば、それまでのもの」。身の回りでどんなことが起きても、あれはあれ、これはこれ、人間の方で勝手に分別つけてどうやっても自分事として捉えない、考えないという時は、せっかくの神様の想いも届かずじまい。
 この神様の言葉は非常に簡単だけど、難しい。これをもっとやさしく理解するとすれば、こうでしょうか。例えば、誰か困っている人を私が見たとき、「神様はなんであんなに困っている人を世の中に作ったんだろうか」と思ったとします。しかし、そこで神様は「どんな事見せても、人の事のように思てはその日限り」とおっしゃる。この世の中にこんな困っている人がいるということは、この世に神様なんていないのかなあ。神様がいるなら、あんな困っている人を作らないはずだよね、と思うかもしれない。でもそうではなくて、神様はそういう人を見せて「あなたが助けなさい」と言っているんですね。困っている人間を私に見せるのは、私にその人間を助けさせたいという神様の思いがあるから。これが陽気ぐらしの世界ということなんです。「どんな事見せても、人の事のように思てはその日限り」というのは、神様が困っている人を自分に見せてくださった、お互いに助け合おうという考えでなければ、陽気ぐらしをさせたいという神様の想いは分からないよ、という意味なんです。
 私たちの身の回りには、本当に困っている人はいっぱいいる。その困っている人を見せられている私たちは、その人を助けさせてもらうのが神様の想いに応えることになる。世の中には、本当に偉い人だなあと思う人がいます。胸を打たれるような人がいる。なぜその人たちを見る私たちの胸が打たれるかというと、自分を捨てて困っている人を助けているからです。神様から見ると実はそれが一番美しいことだから、私たちの胸を打つのです。
 もう一度読みます。

「心一つというは優しい心もあれば、恐ろしい心もある 知らず/\の心もある どんな事見せても、人の事のように思てはその日限り、あれはあれだけと思えば、それまでのもの」

 どんなことを見ても私たちは喜ぶ心を持つと同時に、どんなことを見てもその人を助けさせてもらおうという心を持つ。これが心一つの自由を人間に与えた理由なんだよ、ということを神様は教えてくださっている。困っている人を見たらその人を助けさせてもらおうという心を持つ。その心が、心一つが我がのもの。心一つが自由(じゅうよう)の理、という意味だということを、今月また改めて心におさめていただきたいと思います。「見るも因縁 聞くも因縁」という言葉があります。どんなものを聞いても全部自分に神様が見せてくださっているんだということをしっかりと心におさめて、この一か月お暮しいただきたいと思います。
 今月はコロナ禍の中、多くの方にお集まりいただきました。久しぶりに賑やかにおつとめをさせていただきました。来月はもっと多くの方においでいただけると思いますので、どうかYouTubeで見ている方も来月はぜひ参拝に来られるようお待ちしております。

 今月はどうもありがとうございました。

2021年12月28日