2020年(立教183年)5月月次祭神殿講話 ~コロナ禍で分かったこと~

1.はじめに
 新型コロナウイルスの感染防止のため、今月5月次祭も教会の在勤者だけで勤めさせていただきました。数は少ないですが、やはりおつとめをやらせていただくと心が勇みます。

 本部も大教会も全て行事が中止になりまして、5月いっぱいは自粛期間と言われておりますが、なんとか来月6月の月次祭では皆さんと一緒におつとめが勤めさせていただきたいと思っております。

 本日は、神様はなぜこの新型コロナウイルスというものを流行させたのかということを考えてみたいと思います。

 それぞれの人間が自分の身に置き換えて考えてみるのがよいと思いますので、私自身のことについて振り返りながら、考えていきたいと思います。


2.不便から便利へ
 私が生まれた頃、もう70年以上前になりますけども、その頃、私の母親は、朝起きるとまず何をするかというと、炭をおこす、おこした炭に火をつけてお湯を沸かし、それからご飯を炊き、お味噌汁を作る、というようなことで食事の支度をする。そしてそれが出来上がって食べ終わった後、今度はたわしで食器を洗って汚れを落とす。そして電気冷蔵庫なんかありませんから、食事の都度、近所の総菜屋に買いに行く。掃除も箒、そしてまた洗濯機なんかもありませんからたらいで、しかも冷たい水で洗う。今のように簡単にお湯なんか出てこない。そういうことが終わったら次は何か繕い物でもして一日を過ごす。

 勤め人は勤め人で、電車で会社へ行くわけですが、駅の階段にはエスカレーターなんてないので自分の足で長い上りの階段をあがっていく。それから冷暖房もない電車に揺られ、ヘトヘトになりながら会社へようやく到着し、エアコンもない職場で暑さ寒さに耐えながら仕事をする。まあそんなような暮らしをしていたわけです。

 それが今やどうでしょう。朝起きるとひねるだけで火がついてお湯は沸く。ご飯も自動でお米を前の日に入れておけば朝勝手に炊きあがっている。冷蔵庫には色々なものが入っているからそ、わざわざ食事のたびに買い物に行かなくても食事はできる。掃除も全部掃除機がやってくれる。そして洗濯物も入れておけば全自動洗濯機が乾燥までしてくれる。そして勤め人もエスカレーターに乗り、エレベーターに乗り、長い階段をてくてく上がらなくてもいい。部屋に入ればエアコンが効いてて一年中非常に快適。

 こういう便利な変わりようを、私どもは小さい頃から一つひとつ経験してきました。ガスが入り、冷蔵庫を買い、エスカレーターが設置され、エアコンが全部の部屋にはいる、ということを順に経験をしてきましたから、今の有難さというものが少しは分かる。

 ところが、今の子供さんたち、うちの子供もいい大人ですが、そういう今の大人の世代も含め、これらの便利はあるのが当たり前。ボタンを押せばガスはつく、電子レンジは冷たいものをすぐにチンが出来る、それは当たり前。当たり前ですから、取り立てて感謝することもない。そして、ひとたび停電ともなれば、今までの便利さを有り難く感じる前に、当たり前が果たされない不満ばっかりが前に出てくる。

 こういう時代であることを考えたとき、親とすれば、親たちの世代からすると、現在がいかに便利なのか、いかに有り難いことなのか、感謝する心というのをちょっと教えてあげたいなあというのが親としては思うところです。


3.親の思い
 このことを、私たち人間すべての親である神様の思いに沿って考えてみますと、子供である人間が、今のもったいないくらいの便利さに当然のように慣れ切ってしまって、神様が全部与えてくださったことへの感謝などない。

 たしかに、その便利さは人間が自らの知恵で作り上げてきたところはあるにせよ、その材料はすべて神様が与えてくださっている。人間が自分の力でゼロから作り出した材料なんてないのです。そもそも、その材料から便利さを作り出した人間の知恵でさえ、人間が陽気ぐらしをして楽しむのをみて、人間と共に神様が楽しむため、我々人間に神様が仕込んでくださった。

 こうしたことへの感謝がなく、次から次へと便利を求めていくだけの姿。これは親である神様から見れば、本当に頼りない。この機会に感謝の思いというものを親として子供に教えてあげたい。そんな思いで新型コロナウイルスというものを出したのかなという気がいたします。

 神様から見ると、子供が当たり前のように暮らしていても、その当たり前というのはいつ壊れるかわからない怖さがあるのです。前会長の母親がよく言っていましたが、電気が止まったって、地震が来たって、私たちはそういうところから生きてきたんだから全然怖くないよ、ということでした。

 ところが、今、私どもは電気ひとつ切れたらもうなんにも動きが出来ません。ご飯一つ、下手すると水も飲めない、お風呂にも入れないという、そういう時代に生きている。こんなことを考えますと、神様が今の生活がいかに有難いかということを、この機会にちょっと教えてくださったと考えますと、またひとしお、その有難さが分かるかもしれません。

 こういうおさしづがあります。

「いつ/\まで親に抱かれて居ては、欲しいと言えば与える。欲しいだけ与えば、これは楽のもの。親の代わり、代わりするようになれば、めんめん苦労すれば分かる。」(M34.5.15)

 自分の身の回りがどれだけ便利になっても、これは子どもが欲しいといって、全部親が与えてくれた便利さです。その便利さも、いつまでもこれを欲しいといってもらってばかりいるのは、それは子供の心だと神様は仰っている。そこから進んで、それを与える側、子供に便利なものを与える側にならなければいけない。これが親の心だというふうにこのおさしづは仰っているわけですね。

 つまり、これまでもらうばっかりだった我々が、もらったものの多くがなくなってしまった今のような時に、どれだけ親が有り難いかということがはじめて分かる。それは、神様や親という与える側の苦労というものを想い、成人させていただくことのできる貴重な機会なのかもしれない。神様が伝えたいことはそういうことなのではないかと思っているわけです。

 しかし、もらったものがなくなってしまったというけれども、日本にはまだまだ多くのものが残っている。世界に目を向けますと、この前聞いて非常に驚きましたけれども、世界で電気を自由に使えるのは、わずか世界の人口の7%だそうです。世界の人口の9割以上の人々は、まだ電気がないか、自由に使えない生活をしている。私たちは今となってはそんな生活想像もできないわけですが、電気を使うということは、実は当たり前ではないということです。

 電気だけでなく、水道もそう。濁った水を飲むのが日常という人たちが、世界には20億人以上いる。そういう多くの不自由な人たちの思いも、同じ一列きょうだいとして考えてみてはどうか。神様は、このコロナ禍を通し、そんなことも教えてくださっているのではないかと感じています。


4.コロナ禍で学んだこと
 今回のコロナ禍で、実は私たちは非常に大切なことを学んでいます。

 まず一つは、コロナから守ってくれるのは誰かということ。これは特効薬を作るとか、ワクチンを作るということを言っているけれども、特効薬やワクチンが効くかどうかは人間には分からない。分かって作るのではなく、作ったものが効くようにしてくれるのは神様しかない。結局神様にしか守ってもらえない。つまり、コロナから守ってくれるのは神様だけなんだということがまず一つ分かる。

 その次に、こういう危険なコロナから逃げることのできる一番安全な場所はどこかというと、これは家庭だということが分かった。

 そして、いざという時に頼りになるのは誰なんだということ、これは家族だということが分かったんですね。

 そうすると最後に、じゃあそのコロナから知らされた一番大切なものは何かというと、健康と命です。

  ・守ってくれるのは誰か、神様。
  ・安全な場所はどこか、家庭。
  ・一番頼りになるのは誰か、家族。
  ・人間の一番大切なものは何か、健康と命。

 実は、こんな当たり前のことを、初めて我々ははっきりとした形で知らされたわけです。

 今まで便利の中で、神様が守ってくださっていることなんて考えてもいなかった。いざという時に誰を頼ったらいいのかということも分からなかった。けれども、今回教えてくださった。これを分かることが、今回のコロナ禍の「節から芽が出る」、我々に見えてきた新しい御守護なのではないかなと。そう考えますと、皆さんにいつも申し上げている、あのおふでさきが頭に浮かびます。

「にんけんハみな/\神のかしものや なんとをもふてつこているやら」(第三号 41)

 この身体を一体皆でなんだと思って使っているんだ、と。このコロナ禍の中で初めて我々が気が付いたことですけれども、神様は常に仰っておりました。神様は、人間と一緒に陽気ぐらしをするために人間を作ったとおっしゃっており、身体をはじめ、すべてのものを人間に貸してくださっているのに、人間はその目的を忘れているのではないか、という意味です。

 
5.心をつなごう
 愛する人に会えない、病院に入っていて心細い思いをしている友人に会えない、施設に入っている自分の両親に会えない、そんな状況が世界中で起きているのです。そのことを考えますと、これまでいつも当たり前にできていたことが、いかに神様の御守護であったかということが分かるかと思います。

 こういう風に、これまで当たり前だった日常の何でもないことを、この機会にあらためてその有難さを考えてみたらどうか、というのが神様の思召しではないでしょうか。こう考えれば、皆さんどんなことでも一つひとつ喜んでいけるのではないかなと思います。

 今この瞬間、新型コロナウイルスで苦しんでいる人がいる。あるいは医療体制すらなくて、満足な治療も受けられずただ苦しみ続けている人がいる。「ステイホーム」と言われても、その家庭の中の人間関係で悩み苦しんでいる人がいる。あるいは家族がいなくて孤独で苦しんでいる人がいる。このように、様々な悩み・苦しみを抱えた人がいっぱいいます。私たちの身の回りにはおたすけする対象がいっぱいいるということです。

 私共も、自粛のストレスがどうのこうの言っていますけれども、ストレスどころか、この状況では生活が成り立たない、明日生きていくための糧もないという人たちが、この日本にでもたくさんいるのです。世界にはそれ以上です。そういう人々のために、何とか一日でも早くこの世界でのコロナ禍が収まるように祈ること。

 以前、皆さんにも手紙で申し上げましたが、神様は人を助ける心さえ持ってくれれば、いつでもおさめてやると、こういう風に仰っていただいております。これを信じ、この機会に改めて、自分の身の回りで苦しんでいる人はいないか、困っている人はいないか、寂しく思っている人はいないかをふりかえり、そういう人がいれば声をかける、心をつないでいくということを実行していっていただきたい。

 このコロナ禍がなんとか5月いっぱいで収束し、6月の月次祭には皆さんに教会でお会いできるよう、どうか共々心を作りながら神様にお願いをしていきたいと思います。この一ヶ月間、どうかそういう思いでお暮しいただきたいと思います。


 今月は誠にどうもありがとうございました。

2020年05月31日