2020年(立教183年)11月月次祭神殿講話 ~心を添える~

 ただ今は、11月の月次祭を賑やかにおつとめいただきました。
 ご夫婦で鳴り物をつとめていただきましたが、表拍子、裏拍子しっかりと息が合っていて、それだけのことを見ても、ご夫婦が上手くいっているんだろうなという感じがいたしました。
 前会長が言っていましたが、鳴り物の中でも、すりがねやちゃんぽんという裏拍子、この裏拍子がちゃんと入るということは、家庭でいえば表と裏のバランスがしっかり取れていることにつながるのだと。人と合わせることが難しく、人間関係が上手くいかないなと思う人は、この裏拍子をしっかり覚えるとよい、ということでした。
 たしかに、裏拍子というのは間に入ると皆を勇ませてくれる。表ばっかりで賑やかになるのではなく、裏の拍子が入ることによって、真に賑やかになって、皆の心が勇むということを、おつとめからも学ぶことができます。人間は、色々な役割で人様を勇ませることができる、ということがお分かりになるかと思います。
 今月は、この一ヵ月の間に起きたいくつかのことを考えたうえで、「心を添える」ということについてお話したいと思います。

1.真心の御供
 教祖の逸話篇に、ある大金持ちの家から立派な重箱に入ったお餅が届いた。「ぜひ教祖におあげください」といって届けられて、取次のこかん様が教祖にお渡ししたら、教祖は「ああそうかえ」と素っ気なく言っただけで、それ以上は何もおっしゃらなかった。それから2~3日経って、今度は非常に貧しい家からお餅がお供えされました。その家では、暮らしが大変な中でも、年末になってようやくお餅をつくことができた。そのお初を「これを教祖に差し上げてほしい」ということで持ってきた。ほんのささやかな量を、竹の皮に包んで粗末な風呂敷包みにしたお餅です。これを取次のこかん様が教祖にお渡ししたら、今度は教祖が非常に喜んで、すぐに親神様にお供えしてくれ、ということをおっしゃったというんですね。
 後で分かったことですが、最初の立派な重箱に入ったお餅というのは、豊かな家がお餅をいっぱいついて余ってしまったので、これは余ったものだからお屋敷に届けよう、ということで持ってこられた。一方、その2~3日後の粗末な風呂敷包みで持ってこられた貧しい家の方というのは、暮らし向きも大変な中ではありましたが、ようやく年末にお餅がつけたことを本当に喜んで、わずかな量だけれど、これは親神様のお蔭なのだから、そのお初はぜひ親神様に、という気持ちでお屋敷にお届けした。これは逸話篇の7番にある「真心の御供」というお話です。
 重箱に入った立派なお餅と、竹の皮に包まれたお餅、二つ並べてみれば重箱の立派な方が御供としては素晴らしいものだと人間は思う。けれど、教祖はそうではなくて、心をお供えするんだと。真心のお供えということを大切にされていた、というお話です。

2.心を添える
 我々も同じように、何か人様にお祝いする時、あるいはお葬式でお香典を持っていく時、「これは義理だから」「仕方がないから」、場合によっては「以前うちは先祖でそれをもらったことがあるから、これをとにかく返しておこう」ということで、本来のお祝いの気持ちとか、お悔やみの気持ちというのはそこに入ってこないことがよくあります。かくいう私も反省することがありますが、そんな時にこの教祖の逸話篇を読ませていただきますと、何をするにも、物をあげるということ以外にも身体で何かをしてさしあげるということも含めて、心がちゃんとそこについているだろうか?ということを考えますと、実は義理とか人情とか世の中のしきたりといったことで、ついついおろそかにやってしまっていた、ということがあると思うのです。そんなことを考えますと、心を一緒につけてお渡しする、ということがとても大切だということがわかります。
 そしてそれは、受け取った側も実はそうなんです。「良いものもらったなあ」というのと、「こんな粗末なもの、大したことない、そっちにおいておけ」ということ。後者は、くださった方の心をちゃんと受け取っていないということになります。つまり、受け取る側もいただいたことに対して、贈る側と同じように心を添えて感謝をする。ちょっとしたことなのですが、お礼の言葉を添えて贈る。そのお礼の言葉に対して受け取った側も心を添えたお礼の言葉でお返しをする。そういうことがとても大切なことだと神様からは教えてもらっています。その上で、心が備わった人が神様にお願いした時、神様がちゃんと受け取ってくださるということになります。

3.心の澄んだ人
 同じように176番に「心の澄んだ人」という逸話篇があります。「心の澄んだ人の言う事は、聞こゆれども、心の澄まぬ人の言う事は、聞こえぬ。」というお話です。心の澄んだ人の言う事は神様に聞こえるけれども、心の澄まない人の声は神様には聞こえないと、そこまでおっしゃる。
 我々もついつい心を澄ますことなく、形だけで神様にお願いすることがあります。あと、お願いする時だけでなく、何よりも普段の心遣いが澄んでいない人。日常の心遣いが澄んでいないのに、神様にお願いする時だけ言っても、「心の澄まぬ人の言う事は、聞こえぬ」ということになる。
 ですから、神様に話を聞いていただく、お願い事を叶えていただくためには、何が大切かというと、心を澄ませなければいけない。心を澄ませるというのはどういうことかと言うと、欲を捨てるということです。皆さんいつも聞いている「八つのほこり」、をしい、ほしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、欲に高慢、この八つのほこりを捨てること。その中には「欲」というのがありますね。「欲」というのは、すべてのものが欲しい、すべてことが叶って欲しい、これが「欲」です。人に対して自分の思うとおりにやってもらいたい、というのも「欲」。その「欲」というものを捨てる。これが「澄み切る」ということです。
 みかぐらうたにも「すみきりましたがありがたい」という言葉があります。いつも申しあげていますが、神様を信仰することでありがたいことは何かというと、自分の家にお金がたくさん入って豊かになった、自分の田んぼが豊作になった、あるいは健康になった、こういうことがありがたいのではなくて、「すみきりましたがありがたい」なのです。欲がなくなり、何が出てきても喜べるという心。これが澄み切った心ということで、神様はその心が澄み切った人の言う事は聞こえるとおっしゃる。だから普段から欲を捨てる、心を澄み切る、そして人様のために何ができるかということを常に考える。そういうことをやっているから、本当に困った時に「神様どうかこうしていただきたい」とお願いした時には、それはちゃんと神様は聞こえるとおっしゃる。ところが普段から欲のことばかりかき集めて、人を押しのけて自分中心で心の澄んでいない人が、本当に困った時だけ「神様どうかお願いします」と来ても、神様にはそういう人の声は聞こえぬとおっしゃるんですね。
 そういうことで、どんなときにも真心を常につけていく。どんな行動をするときにも。人様に物を差し上げるときにも。それが、神様のおっしゃっている「真心の御供」という意味だと思います。我々は日常で人様と接することがある、言葉をやり取りすることもある、物のやり取りをすることもある、場合によってはお金をやり取りすることもある。そんな時でも、必ずそこに自分の真心をつけてしなさいよ、そういうことを常にやっていることによって、最後は神様がお話を聞いてくださる、ということになります。
 ぜひ皆さん今月また一ヵ月、心を添えるという考え方でお暮しいただきたいと思います。その心を添えるというのは、いつも申しあげているけれども、自分以外は全て世界です。自分の子供であっても夫であっても妻であっても兄弟であっても、全て自分以外は世界。世界に対して自分の真心をつけて何かをさせていただく。こういうことが今月の一つの目標としてお暮しいただきたいと思います。

4.人を助ける心
 いよいよもう年も押し迫ってまいりまして、今年の正月にいただいた年賀状の整理もしないうちに、今年の年賀状を買ってしまうという、本当にあっという間に一年過ぎるようですけれど、ここへきて、また新型コロナウイルスの感染が拡大してきました。
 いつも申しあげておりますように、これは神様のご守護です。以前の月次祭神殿講話でもお話をさせてもらいましたが、神様は、人を助ける心が無いので情けない、という思いから、この新型コロナを出されました。おふでさきに「新型コロナ」とは書いていませんが、こういう厄介な疫病を出すということは書いてあります。どうか皆さん、人を助ける心をしっかりと持っていただきたい。これは我々一人ひとりの問題です。我々一人ひとりが人を助ける心をしっかりと持っていれば、神様はこの人間にコロナを与える必要はないな、と思って下さるわけです。ですから、人を助ける心をしっかりと持って、ほこりは避けて通る。嫌な所、変な所へは行かない。そういう生活をまたしていただいて、元気にこの年末・年始を過ごしたいと思います。
 なかなか全員揃ってのおつとめはできませんが、今日はこれだけの人数でも、鳴り物を入れておてふりをさせていただくことができ、本当に心が勇みます。お宅にいる皆さんは、それぞれまた自分の所でおつとめをしていただき、心勇むようにしていただきたいと思います。今月はどうもありがとうございました。

2020年11月25日