2023年(立教186年)7月中元祭神殿講話 ~男女のへだてはない~

 今日は7月の中元祭をつとめさせていただきました。少人数ではありましたけれども、非常に陽気に、そして勇んでおつとめをさせていただくことができました。誠にありがとうございました。

1.はじめに
 中元というのは元日から始まって最後の大晦日の間までの半分が中元の日ということです。祭文にも書かせていただきましたけれども、三年千日が今年の1月から始まりました。1月から諭達も読ませてもらっていて、何度も読んだなあという気がしますがまだわずか6回。6か月ですから6回しか読んでいない。そしてこの諭達も三年千日、36回読ませていただくことになるわけですけど、この内のもう6回が、半年が過ぎてしまったということですね。三年千日と言いながら、実はあと2年と半分しかない。時の流れというのは本当に早いです。一日ぼーっとしても一日、一所懸命神様のことを考えながら、人様のことを考えながら暮らすのも一日。であれば、心を豊かにさせてもらうために、一日一日を喜んで、そして今苦しんでいる方たちのために祈りを捧げるという、こういう一日になっていただきたいなと思います。
 山陰地方は大変な大雨で、雨がやんでも土砂崩れが始まっているというような中、関東地方は猛烈な猛暑。命を落とされる方もいらっしゃいますけれど、せっかく神様がこの色々な節を見せていただいている中で、暑い中は暑い中で結構、喜ばしてもらう。河原町大教会の初代である深谷源次郎先生は、何でもどんな時も結構、結構とおっしゃるもんだから、京都で毎日雨が降っている時に、誰かが「会長さん、こんなに毎日雨が降っていても結構ですか?」と聞いたら、「いや結構だ。これがいっぺんに降ったら大変なことや」ということで、毎日雨に降られても結構と喜んでおられる。そうなると今、土砂降りの雨の中でどうやって喜ぶか、私は分かりませんけれども、そんな中でも喜びを探していくということ、それが私たちが信仰をしているという意味だろうと思います。


2.性同一性障害者に対する裁判
 最近非常に面白い裁判例がありましたので、今日はそれを元に教祖だったらどうされるかということを考えてみましょう。事件というのは性同一性障害の問題です。
 自分の身体的特徴は男なんだけれども、心は女性という方がいます。この人は好きでそうなっているわけではなくて、心が女性なのになんで男の道具(男性器)が付いているんだろうか、ということに本当に苦しんで、女性として生活をしていくことになった。そして着るものも全部女性の形をして、つとめ先の国の役所にも届けて女性として扱ってもらうということで暮らしていました。ところが、その役所が女性のトイレを使ってはならない、男性のトイレに行けという。本人がそれはとても無理だと言ったら、フロアが2つも違う所の一番端っこのトイレを使いなさい、普通の女性用トイレを使ってはならないと役所が命じました。それに対して、女性用トイレを使わせないのは不当だ、という裁判を起こしました。
 一審の東京地方裁判所は国が悪い、もうこの人は完全に女性の格好をして女性になっているんだから、女性トイレを使わせなさい、という判決を出したんですが、それを国が控訴しました。控訴審の東京高等裁判所は、一審とは逆に、国の処置は正しい、遠い所のトイレへ行かせることは悪いことではないという判決を出しました。その方が最高裁判所に上告をして、昨日判決がでました。最高裁判所は、小法廷5人の裁判官全員一致で、女性トイレを使わせないのは違法である、女性トイレを使わせなさい、ということで国が負けたんです。
 性同一性障害と言いますけれど、身体が男で女の心を持っている人、あるいは身体が女で男の心を持っている人。これも実は全部親神様が創られたんです。その人その人の徳分として与えられたものなんです。その立場にある人が世の中に今9%いるということです。約1割いるというんですね。そういう方々が1割いるということは今日この場に10人いらして、その中のおひとりが性同一性障害でもおかしくないということです。
 それに対して、世の中で社会的に女とみられるんだったら女として生きろ、男だったら男として生きろ、ということを強いられ、自分の本当の心を殺しながら生きていかざるを得ないということに対して、裁判所もそれはおかしいと認めてくれた。だとしたらそういう身体で、そういう心で生ませてくれた親神様に想いをいたせば、その方たちでなければできないことがあるはずなんだ、ということなんです。そういう方たちが裁判を起こしてくれたお陰で、これまで不当に扱われていた1割の人たちが、自分の本当の心のままに普通に生きていける、ということになるわけです。ですから、そういう方たちは神様がそれをお与えくださっているんだから、その徳分の中でどうか世の中を堂々と生きていっていただきたい。そして私たちはそういう方たちと一緒に暮らしていく。
 男だからといって粗いことばかりするわけじゃない、男だって細かいことをする人はいます。女だからと言って細かいことばかりじゃなく、粗いことをする人もいます。それは男だから、女だから、ということではなくて、その人がやりたいことをやったらいいんだよ、ということがこの教えです。そういう風に考えていただいて、親神様がそういう身体の方を創った。それは決して苦しむことではなくて、親神様がお与えくださったのだから、その身体の中で、その心の持ち方の中で世の中を生きていく。世の中には色々な人がいるということを認めさせるための大きな役割を担っていると思います。

 日本は日本人だけで構成されていると思っている人がいます。日本は単一民族だ、なんてばかなことを言っている無知な政治家もいます。日本は単一民族ではありません。縄文人から分かれたアイヌの方もいるし琉球の方もいるし、南方から本土に入った本土日本人いるし、そういう人が全部集まって、今の日本があります。そこに将来、さらに外国から来て、肌の色の黒い人も黄色い人も白い人も全部日本に集まってきて、その人たちが日本人として暮らす時に、あの人たちは外人だと言って分ける必要はまったくないです。日本人だって今、あの人は茨城県人だから、栃木県人だからと差を付けないでしょう。それと同じことを教祖は一列兄弟でやりなさいと言っているんですね。
 ですから人間として生まれた以上、その人達がどんな特質を持っていても、「男女の隔て無」いとおさしづで教祖ははっきりおっしゃっています。男だとか女だとかの隔てがないから、ましてや性同一性障害の隔てもないんです。それがこのおさしづの意味であろうと私は思いますので、そういう特質を持った方は一つも恥じることなく、そしてまたその人達を私達は決して差別・区別することなく、もっと言えば男が女を差別することなく、あるいは自分の女房を低く見ることなく、奥さんも自分の亭主のことを全く平等として兄弟として暮らしてもらいたい。親子の関係もそう。親は子を自分のものだと思っていたら大間違いです。親も子も徳分の中で生まれているわけで、人間関係においては親子でも、人間としての価値は全く平等です。


3.見えない世界の話
 ただし、親子でも全く平等なんですが、そこは実は教祖のおさしづの中に、

 「親というものはどれだけ鈍な者でも、親がありて子や。子は何ぼ賢うても親を立てるは一つの理や。」
(明治二十二年十月十四日(陰暦九月二十日)刻限御話)

というお言葉がある。これは簡単な話で、親と子というのは全く別なんだけれども、そして親があほだという風に子どもが親のことをちゃんと見抜きなさいよ、と。そして鈍なあほな親であってもその上でやっぱり親を立てる。これが一つの理。これが信仰なんだとおっしゃるんですよ。無条件に親に従えとおっしゃってない。そういうことでみんな知った上で、それでも平等ということ。あるいは知った上で親を立てる。これが信仰だと言うんですね。
 信仰というのは見えない世界の話。私達の言っている平等というのは見える世界の話。平等という話を理解していながらも、そんな中でも私は自分の意志で親を立てます。これが信仰ということなんです。皆さんの親が出直していたとしても、神様がいるしご先祖様がいるでしょう。うちの先祖はあほだったなあ、うちの親はばかだったなあとしても、その親のお陰で今の私がある。今のこの幸せがある。それを理解してご先祖・親を立てるということ。これこそがこの信仰の神髄なんです。親だから無条件に従いなさい、女だから男の言うことを聞きなさいなんてことを神様はおっしゃってません。そのことをしっかりと理解したうえで、実は亭主を立てている、女房を立てている。これが信仰なんです。お互い平等で相手を尊重しながら立てていくということ。信仰している以上、このことをぜひご理解いただきたいと思います。

 差別の話でもう一つ。日本では女性差別が深刻ですが、女性が男性から差別されるとどういうことが起きるかということを、国際的なチームで研究しているそうです。日本からは京都大学が参加しているそうですが、つい最近そのチームが大変なことを発見した。男女格差が激しい、強い所、つまり男が女は引っ込んでいろと言うような所では、女性の大脳の発達が弱いそうです。脳に障害が起きるそうです。つまり女性にとって不平等な環境は、女性の脳に悪影響を及ぼしている可能性が高いということがわかりました。女は引っ込んでいろ、控えめにしておれというようなことをしている国は、その女性の大脳の発達が遅いというんですね。そしてまた情けないことに、日本はどれくらい男女が平等かというと、世界中146か国ある中でなんと日本は125位だそうです。やはり日本ではそれだけ男と女の差別が激しい。神様がせっかく人間を創って下さったのに、その人間が環境の中で大脳が発達しないなんていうのはこれはとんでもないこと。これは男の責任でもあるわけですけれども、そういうことを男と女の差別なく、隔てなく、区別なく、皆一列兄弟、子どもとして人間としてこのおたすけの道を進めていかなくてはいけない。


4.男女の隔てなく
 そういったニュースを見て、教祖ならどうおっしゃるかなと。きっと「女性は控えめに」とか「しとやかに」といったことを教祖がおっしゃっているんじゃないかなと皆さん思われるんじゃないかなと思いますが、実はさきほどの話にも出た、すごいおさしづがあります。

「男女の隔て無く、一時に心澄み切りて通れば、男女の区別は無い。何名何人、こらどうもならん。道具に譬(たと)えて話する。粗い事するものもあれば、細かい事するものもある。又中程するものもある。この道理わからねばどうもならん。」
(明治31年3月26日 前日増野いとのおさしづより云々願)

 意味はですね、男女の隔てなんかは心を澄み切ればまったくないんだ、と。男女の区別はない。男が何名、女が何名なんて言っていることではどうもならん、それを道具に例えて話する。女は細かいこと、男は大きいことをするなんて言っているけれど、そうではなくて男でも女でも粗いこと、大きなことをする者もあれば、細かいことする者もある。また中間のことをするものもある。これは男女の性別ではないのだ、と。人間によって細かいことをする人もあれば粗いことをする人もある。男女は関係ないんだと。この道理わからねばどうもならん、とおっしゃるんですね。江戸時代、明治時代の男女差別が厳しい時に、我々の教祖は、こういう風に男女の差別はないと明確におっしゃっておられるんです。このお道においては、男と女というのはそれぞれ、神様が与えてくれた徳分だと言うんです。男にはない女の徳分、男はそれを尊重する。また女にはない男の徳分、これは女が尊重する。細かいことする男もあれば、粗いことする女だっている。その中間のものもいる。つまりこれは男とか女とか関係ないんだよ、ということをおっしゃってくださっているんです。
 私たちは今でこそ、男女差別は悪という価値観が主流である世の中で生きています。何より、私たちは教祖が女性であるということを特別視していません。教祖が男性だったらよかったのにな、とか、そうは思いませんよね。しかし教祖は、女性としての身体と心をお持ちであるところ、我々は教祖を人間の親として感じている。このように、皆さんにはそれぞれの徳分があるんだから、その徳分は尊重するけれども、それを差別にしてはならない。男女の隔てはならん、ということを教祖はおっしゃっている。さらにびっくりしたのは、心を澄み切っていれば男女の区別はないとまでおっしゃるんです。
 差別する人たちはよく、差別はしないけれど区別はします、なんて言います。いかにももったいぶって。教祖はその区別もいかんとおっしゃっている。私たちはこういう教えを信じているんですから、しっかりと教えを学びながら、この世の中でおかしいことはきちんと神様のおっしゃっていることを元にして、これを基準にして正していく。おかしいところはおかしいと言っていく。これが私たち信仰者の姿だろうと思います。


5.先進的な教え
 教祖140年祭の大教会の活動目標で考えるなら、「かしものかりものの教えを、報恩感謝の陽気ぐらしを」というのが私たちの教えなんです。誰かに我慢をさせたり辛い思いをさせたりすることなんかなにもない。どんなことでも喜んでいける陽気ぐらしというのを伝えていきましょうという、これがこの教えの神髄ですので、どうかどんなことがあっても男女の差別はもちろん、人間の差別も、年齢の差別ももちろん、要するに差別・区別は一切しない。年寄りも子どもも皆平等に。これが本当の一列兄弟という意味だろうと私は思います。改めてわかっておきたいことが、男だの女だの、教祖はなにもおっしゃってないということ。人間として皆の徳分を活かしてお互いを尊重しながら暮らしていきたいと思います。
 この国はまだまだ遅れています。教祖が身を隠されてから140年、立教してから186年も前からの教えを今頃この国ではようやく裁判所が認めるということになっています。これだけこの教えがいかに進んでいる、先進的な教えなのかということを改めて皆さん学んだ上で、しっかりとこの教えを身に着けるようにしていただきたいと思います。


6.100周年記念祭
 今月の祭文にも書かせてもらいましたけれども、今年の11月12日に百周年記念祭を日帝分教会としてやらせていただきたいと思います。まずこれは私の希望ですけれども、百周年の時にはやはりきちんと全員がおつとめ着でお道具全てが鳴るような数の御守護をいただきたいと思いますので、これから一人ひとり皆さんにお声を掛けさせていただきますけれども、どうか百周年の当日はお道具は全部鳴るようにしたいと思っておりますので、そういう努力をぜひ皆さんしていただきたいと思います。そしてまた細かいことについては皆さんでお決めいただくようにしたいと思います。
 これは日帝分教会からすれば実は感謝、私は教会の代表からすると100年間も続いてこられたのは皆さんの、信者さんのお陰で今日がある。また一方信者さんの立場からするとやはり日帝分教会があるからこそこういう皆で集まって楽しいお話ができるという場にもなっているという喜びと考えますと、この100年を一つの機会に、また改めてこれから先末代の道が続いていくような一日にしたいと思っておりますので、どうかよろしくお願いいたします。


 今月はどうもありがとうございました。暑い中本当に気をつけてください。

2023年09月18日