2021年(立教184年)6月月次祭神殿講話 ~損と得~

 ただいまは6月の月次祭、真夏のような暑さの中でしたけれども、無事おつとめいただきました。ありがとうございました。しばらくお話をさせていただきますので、お聴き取りよろしくお願いします。

1.病み損
 コロナコロナでまた一年終わりそうです。一応緊急事態宣言というのが今月中には収まるということですけれども、別に国が決めたから感染が収まるわけではなくて、感染するしないというのは一人ひとりの心次第、そしてまたそれを他人に感染させるかどうかというのも神様の思し召しということで、私たちはコロナから何を学ぶか。以前も申しあげましたけれど、仮にコロナに罹って、入院したり薬を飲んだりして治ったのでありがたい、で終わらせてしまっては、これは単なる病み損です。病気に罹らない人もいるのに、罹ってしまって苦しんで、というだけでは損、ということを日帝分教会の前会長から私も仕込まれたことがあります。病んだ時、辛い時というのは、神様が何を自分に求めているんだろうか、ということを考える。そうして人間を、人格を一つ上げていかないと損しちゃうぞ、と、それを「病み損」と教えていただきました。
 そんなことから考えると、世の中には色々な損になるようなことがいっぱいあります。ここでちょっと今日は損か得かということを、私の体験したことから考えてみたいと思います。
 昔、三億円だかを拾ったという人がいました。拾った時はものすごく「得をした」と思っていたんですけれど、今度はその人の悪口があちこちで書かれるようになった。それはどうも皆の気持ちの上で「あの人だけ得をして」という思いがあったらしい。同じように、宝くじで一等賞が当たったとしてもですね、買わなかった人が「私も買っておけばよかった、買わなくて損した」ということもあります。人が当たったからといって、別に自分が損しているわけではないのだけれども、なんとなく人が得をすると、自分が損をしたような気持になる。
 まあこれは人間だから仕方がないことだと思います。ただ損とか得とかいうのは人間の心の中での計算で考えていきますと、中々これは納得できないことが多いと思います。
 教祖の言葉の中に、「月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。」(明治25年1月13日)という言葉があります。
 神様の目から見て「お前は一所懸命にやってむしろ払い過ぎだ」という時は神様は返してやる。しかし、出しているつもりで全然足らない時には足らなきゃもらう、と神様が出すようにさせてくれる。差引損得勘定は神様がしてくれるんだと、いうそういうお言葉がある。だから、人間心で儲かった儲かったと思っていても、それで結果的に損をしてしまうということはいっぱいあります。最近でもニュースになりましたが、億万長者と言われていた人が誰かに薬を飲まされて亡くなってしまった。あの人にもしお金がなければ、そのような形で命を失うことはなかったと思います。そうすると、お金をいっぱい持って得したと思っていたけれども、それによって命という最も大事な物を失うようなきっかけになってしまった。こう考えると、お金を持っていたことが実は損だった、ということがよくわかります。

2.自分に関係のない損
 一つ面白い話。ある方の親が亡くなって、子供であるその人に相続財産が入ってきた。きょうだいは二人しかいない。その上の方がお姉さんで、下の方が弟さん。お姉さんと弟さんはみんな平等に分けるということで非常に仲の良い兄弟。それが相談に来られて、半分ずつにしたいと言うので「結構ですね」と。「半分ずつにするのに弁護士に相談に来る必要もないんだけれど、なんで?」という話を聞きましたらば、実は弟にはものすごい強欲な嫁さんがいる。その嫁さんが、弟がその昔、生活が中々大変な時に、嫁さんがお金を出したことがあって、それを将来「私が出したんだからその分だけ親のお金が入ったんなら返せ」という風に言うかもしれない。また弟がいっぱいお金を持っていると「あんたお金があるんだからあれ出してちょうだい、これ出してちょうだい」と言って全部お嫁さんに指図されて取られてしまうかもしれない。じゃあどうしたいの?とお姉さんに聞いたら、だからなるべく弟にあげたくない、とこういうことを言うんですね。それはあなた違うよ、弟さんと半分ずつで分けたらば、弟さんがどう使おうとそれはあなたに関係の無いことだ、とそう言いました。どうもお姉さんの本心としては、弟に半分分けてあげたとしても、そのお金がお嫁さんの方に行ってしまうのと自分が損をしているように思える。そんな嫁さんに親の財産が行くぐらいなら、最初から私が多くもらった方がいいんじゃないか、というもののようでした。
 この話を一つ考えてみても、人にあげたお金、いやあげたんじゃない、親の財産を分けただけ。そのもらったお金をその弟がどう使おうと、逆に弟がどう騙されようとそれはもうこちらにとってはなんの関係も無い。弟が損をしたとしてもそれは自分が損をしているわけじゃない。ところが姉の立場からすると、やっぱりそこでも弟に損をさせたくないという気持ちからか、なんとなくしっくりしないということだったんです。それに対して、私は一つの答えを出してあげました。
 「一つは、一旦弟さんにあげたら弟さんのお金なんだから、あとはもう何も考えない、ということで自分の頭を切り替える。しかし、それはあなたには難しいことらしい。そうであれば、もう一つの考えがある。あなたがもらう財産を弟さんに全部やっちゃったら?あなたは別に遺産が欲しくない。親からもらった遺産が欲しくないと言っているくらいだから、じゃああなたの遺産を全部あげちゃったらどう?そうしたらあなたは自分は何もないんだから、もうイライラもしないでしょう?」
と話したら、私の言っている意味がまったく分からず、きょとんとしている。
 「つまり、あなた方きょうだいは、このお金があることによって、しかも二つに分けた弟さんのお金が、弟さんの嫁さんに使われてしまう。それによって今度は弟さんとあなたのきょうだい仲が悪くなっちゃうじゃない。つまり、親が亡くなったらちゃんと平等に分けようというくらい仲の良いきょうだいだったのが、親のお金をそれぞれが持った時にどういう使い方をするのか、どういう使い方をされるかによってイライラして喧嘩になりそうだ」と。
 これも考えてみれば、弟が別に損をしたって、そのお姉さんの損ではないんです。そういうことを考えたら「あなたの遺産も全部もらわないで弟さんにあげちゃたら?そうしたらあなたイライラしないよ。どう使おうと向こうの勝手なんだから」と言ました。そうしましたら、お姉さんとしては、そんなことは問題外だという顔をして帰られました。
 ここで私が申しあげたいのは、その遺産さえなければ、きょうだいは仲が良いはずだった、ということ。だってそうでしょう?遺産なんか入ったために、今度はきょうだいと嫁さんの仲まで悪くなりそう。自分には何の関係も無い、自分は損しないことですら自分の思うようにしたいという心。これが実は人間の心の奥に潜んでいる「欲」というものなんですね。

3.「欲」
 「欲」というのは、「物が欲しい」というだけではありません。八つのほこり「をしい、ほしい、かわいい、にくい、うらみ、はらだち、よくにこうまん」ですが、全てのほこりの大本が「よく(欲)」だと。 さらに、私はそんな「よく」をもった人間ではありませんよ、なんていうのは「こうまん(高慢)」だと神様は教えてくださる。そうすると、他人をどうこうしたい、というのも実は「よく」なんです。親が子供をこうしたい、夫が妻に言うこと聞かせたい。逆に子供が親をこういう風にしたがえたい、妻が夫にこういう思いを聞かせたい。実はこういったこともすべて「よく」なんです。人に対してこうあってほしい、という自分の思いを通してもらいたい、という「よく」なんです。神様は、この「よく」を捨てなさいとおっしゃっている。
 ある大先輩から教えてもらいました。お金のあるなしとか、あれが欲しいこれが欲しいとか、あれが好きだこれが嫌いだなんていう、まだそんなのは神様許してくれるんだ。ところが、神様が一番お許しにならないのは、人間の好き嫌いなんだ、と。他人にこうしてもらいたい、こうしてくれる人は好き、こうしてくれない人は嫌い。神様は、自分の欲を人に求めていって、その欲のとおりにやってくれない人を嫌いになるという、これが一番の「よく」なんだということを教えてもらいました。全くそのとおりです。つまり、物の欲しい・惜しいなんていうのは、まあ大したことでは無い。しかし、人間に対して、あの人にこうして欲しい、あの人をこうしたい、というのは、これはやはり大変な「よく」であって、神様はお望みにならない。神様がお望みになるのは、人に対してああだこうだ求めず、ただひたすらにその人の幸せを喜ぶ、祈るということだと思います。

4.人の幸せを喜ぶ
 これも前会長のお話ですが、うちの前会長の夫、つまり私の父親は天理教を最後まで信仰しなかった人です。その信仰しなかった父親が、信仰をしている母親を見て言ったことがあります。うちの母親は誰々が幸せになった、誰々さんの家が建った、良い家が建った、息子さんが良い学校に入った、良い就職ができた、と言うと、「本当にあの家は結構になって良かったね良かったね」と本当に人様が幸せになるのを喜んでいたそうです。その人が幸せになったのを喜んでいる姿を見て、うちの不信心な父親は「お前は三河万歳と同じだ。人が幸せになったことをめでたい、結構だと喜んでいる」と言って笑ったそうです。
 三河万歳というのは、お正月に玄関口に立って「あらめでたいな!」と鼓を叩きながらうたって、お布施のようにお金をもらう芸人のことです。
 それを聞いて前会長は非常に嬉しかったと言うんです。私は、人様が幸せになって結構になっていくことを心から喜んでいるんだ、と。このことを、信仰するようになってから初めて、本当に初めて他の人から、まあ自分の夫からですけれど、よりによって不信心な自分の夫から言われたそうです。結局、そこには「よく」はないですよね。人様が幸せになった、人様が結構になった、それを素直に喜ぶ。
 ところが、先程からお話してきたのは、人が結構になったら、自分が損したかのように思っちゃう人。人の幸せを妬む。これはやっぱり信仰者としては間違い。前会長のそんなお話を聞いてですね、改めて自分自身、人が幸せになった時に妬んでいないか、人がお金持ちになった時に自分が損した気になっていないか。ましてや誰か知り合いが宝くじに当たった時に、自分は宝くじが当たっていなくて損をしたと思っていないか。ということを考えました。当たって良かったね、本当に良かったね、めでたいね、結構になったね、と人が幸せになったことを素直に喜べる。「他の子供があんなに良い学校に入ったのに、うちの子供はそんなところには入れない!悔しい!」ではやっぱりダメですね。逆に、自分の子供は試験に落ちて学校に入れなかった。しかし他の子が入ったならば、学校に入れて良かったですね、希望の学校に入れて本当に良かったね、と。人の結構になった所を本心から喜ぶ。 これが信仰の入口だろうと思います。
 人がお金持ちになって結構になって良かった、自分には別に、神様が十分自分に合ったものを与えてくださっている。「足らなきゃ返す」とまでおっしゃってくださっている。一所懸命に神様に徳を積んでいて、神様がこいつはちょっと足らなそうだなと思ったら必ずご守護をくれるとおっしゃっている。であれば、人様がどうなろうとそんなことは自分には関係ないので、人様の幸せは素直に喜んで褒めて、結構ですねということを言ってあげる。こういう心遣いを持つことが、結局神様の目にかなったご守護だと思います。


 今、話題はコロナ一色です。コロナに罹ってしまった方は本当にお気の毒ですが、罹っていないとしても、私さえかからなければ他の人は罹ろうが罹るまいが知ってことではない、なんていうのは信仰とは程遠い姿です。他の人がコロナに罹らないよう、神様に守っていただけるよう互いに祈る。そういう心構えでこの一か月をまたお過ごしいただきたいと思います。
 来月は緊急事態宣言も解除されそうですし、オリンピックもやるということです。それはそれとして、感染拡大というのは国がコントロールできるものではなくて、我々一人ひとりの行動と心構えでもってコントロールできるものです。いつも申しあげていますが、この教えの根本は、我々一人ひとりが神様から身体をお借りしているということ。このお借りしている身体に傷をつけないように、ウイルスがつかないよう、人間としてできる努力をきっちりと果たしたうえで、神様からご守護いただけるような心を作る毎日を過ごしていきたいと思います。

 この一か月また暑くなりますけども、どうぞお身体に十分気を付けて、神様にもたれてお互いに暮らして行きたいと思います。今月は誠にありがとうございました。

2021年07月31日