2022年(立教185年)6月月次祭神殿講話 ~心が変われば全部変わる~

 ただ今は6月の月次祭を賑やかにおつとめいただきました。ありがとうございました。どうぞしばらくの間お付き合いいただきたいと思います。

1.どこでも勉強はできる
 本日の月次祭では、久しぶりに、太鼓をやらせてもらいました。教会ではまずやることはないです。大教会では時々おつとめの役に当たるんですが、やってみて本当に何年振りかで叩いてみてはっと気が付いたんです。最初のうちに「音がなんかおかしいな、なんかおかしいな」と思っていたら、太鼓の叩き方を忘れていた。皆さん、太鼓というのは叩けば音が出ますけれど、いい音を出さなきゃだめなんですね。いい音を出すというのは、叩く所は表面だけれども、いい音を出すには裏の皮を鳴らすようにするんです。だからポンポンと打っているだけでは裏は揺れないので、しっかりと手首を使ってドンと打つ、強くなくていいんです、ドンと打つと後ろがビリビリっとなる。これがいい音というんです。
 鳴り物は全部そうです。拍子木も打てば簡単に出ると思うけれど、やっぱり拍子木全部を共鳴させて鳴らす。決して強くという意味ではないですよ。ちゃんぽんもそう。本当にきれいに当たった瞬間にちょっと離す。ということで鳴り物というのは、簡単そうに見えれば見えるほど実は難しいということが分かるんですね。ですからどんな所でも勉強ができるということだろうと思います。

2.裏で勇ませる
 皆さんそれぞれ仕事でも、「あの人はものすごい難しい仕事をしている、でも、私はこんな簡単な仕事をしている」ということを思わずに、簡単に思える仕事であっても、誰にも真似できないくらい完璧にさせてもらうにはどうしたらよいかということを真剣に考えて取り組むと、 太鼓一つでも鳴らし方で全然違ってくる。それを自分の役割を果たそうとする人が 叩くと、それを聞いている周りの人が勇んでくる。家庭でも社会 でもみんなそうです。どんな目立たないように見えたとしても、必ず相手を勇ませる。
 いつも申しあげておりますが、ちゃんぽんてありますよね。ちゃんぽんというのは実は裏拍子って言うんですね。拍子木は前で叩く、つまり「(えー)あ(しきを)」で拍子木を打つけれども、ちゃんぽんは「(あし)き(をはろう)て」と裏拍子で入ってくる。 すりがねはちゃんと裏と表とチャンチャンと入ってくる。つまり裏がしっかり入っていると、皆が勇むんです。なんでもそうだけれど家庭でも社会でも、旗振って頑張っていこうという人ばっかりだったら実は勇まない。陰で裏に回ってくれて、鳴り物でも裏のちゃんぽんがあるから勇んでくる。すりがねがきちんと入ってくると、裏拍子があると本当に勇んできますね。あとうちは人数の都合で普段は鳴りませんけれど、鼓がそうです。鼓は太鼓の間に全部裏拍子で入ってくる。聞いているだけで本当に気持ちがいいです。

3.一手一つ
 つまり、神様のおつとめというのは世の中のことを教えてくださっているわけで、必ず表と裏、陽と陰という、これは「ふたつひとつ」というんですね。陽ばっかりだったならば、これは一見賑やかに見えるけれども、実は真の陽気がでてこない。裏ばっかりだったらやっぱり真の陽気にならない。ちゃんと裏と表がしっかりと、家庭の中でもそうです。表に出る人、裏で支える人、これ両方あってこそ。また裏があるから表が目立つ、また表があるから裏も目立つという、こういう役割があるんだ、ということ。これを神様は「一手一つ」という言葉で教えてくれているんです。一手一つとはなにかといったら、それぞれは全部違うけれども、全部の手が違うけれども、それが一つの心になって、一つの目標に向かっていくということなんです。表も裏も、大きい音も小さい音も、あと皮の音も木の拍子木の音も、金属の音も、三曲の糸の音も全部ばらばらだけれども、それが一つの心で心を一つにしていくと、一手一つということでみんなが陽気になるんですね。これが実はおつとめの極意なんです。
 みんな必ず一緒に揃ってやらなきゃいけないのはおてふりだけ。おてふりはきちんと両脇見ながら自分は出っ張らない、引っ込まない、ちゃんと横に合わせながら手の拍子も真ん中の人に合わせながら手を振っていく。自分はいくら早くやりたくたって、やっぱり全員揃える。これが大事なこと。

4.SDGs
 だからといって個性がないわけではないんですよ。みんなそれぞれ背の高い人低い人もいる。太っている人痩せている人がいる。手ぶりも違う、身体の幅も違う人がいるけれども、その中でみんなと合わせてやっていこうという、これがおてふりの極意。鳴り物は全部が違う特徴を持っているけれども、それが一つの心になって合わせていく。これが今の時代の言葉で言うとSDGsと言うんですよ。日本語では「持続可能な開発目標」といいます。
 みんなSDGsって聞いたことあるでしょう。あれは縁のないことだと思うかもしれません。しかし、SDGsの基本は、一人ひとりは皆ちがうけれど、それをお互いに認めて、尊重してゆこうということです。色々な人がいる、元気な人もいる元気じゃない人もいる。障害のある人もいる障害のない人もいる。男もいる女もいる。あるいは男でも女でもない人もいる。そういう人たちが全部一つの目標に向かってみんな仲良くやっていきましょう、ということなんです。だから今天理教を信じている我々からすると、何で今頃SDGsなんだと思うわけです。神様はそれを一手一つという言葉で教えてくれています。家庭の中にじいさんもいるばあさんもいる。父親もいる母親もいる。孫もいる。全部違う。考え方も世代も格好も食べ方も全部違う。全部違うけれども、みんながお互いのことを思いやって、それぞれの個性を出し合って一つの雰囲気を作っていく。これを一手一つという言葉で教えていただいています。
 そんなことでおつとめをしながら、私はたまたま会長という職を預かっているので教会で拍子木しかやっていませんけれど、色々な鳴り物をやらせてもらうことでこういうことを気が付かせてもらったなと思って、改めておつとめのありがたさというのを再発見しました。

5.松尾真理子先生からのメール
 それといつも喜びましょうと申しあげていますよね。足が痛い腰が痛い、痛くてもそれを喜びましょうということで、自分は普段言っているくせに実は、椎間板がだいぶこう潰れてきて、右足が立っているとものすごく痛くなりました。それで診断を受けに行ったらですね、脊柱がこう潰れて神経を圧迫していると。先生、病名はなんと言うんですか、と言ったらこれは脊柱管狭窄症というんだと言われました。それで薬を飲んだりちょっとした治療をしてもらって、日常生活不自由なくなったんです。
 ところで8月20日に中根大教会に加古大教会の前奥さんの松尾真理子先生、非常に明るくて悟り方が本当に素晴らしい先生に来ていただくことにしました。私がたまたま知り合いなので私がお願いをするということで先月26日におぢばでごあいさつをするはずだったんですが、そういうわけで私が歩けなくなってしまいまして、おぢばに行けなくなったので申し訳ありませんと彼女にメールを打ちました。そのメールの中で、約束を守れず本当に申し訳ない、普段の心がけが悪いからということでちょっと反省をしておりますとメールを送ったんです。すると松尾真理子先生からすぐメールが返ってきた。「反省ならサルでもできる」と書いてある。
 「反省ならサルでもできる、何で喜ばないんだ」と言われました。私が言っていることがそっくり返ってきました。以前は自分がまだまだ健康だったから、皆さん辛い思いをしている方に喜べ喜べと。考えたらあれも私は何も知らない無責任に言っていたことになるわけです。自分がいざそうなってみたらそれどころじゃなくて、歩けないししんどいし痛いし辛いなあと思っているだけだった。そうしたら松尾真理子先生から、喜べと言われた。なるほど、病院に行きましたら私、毎年人間ドックをやっていますから、医師が、もう10年前からの写真を出してくれた。もう10年前から椎間が結構へこんでいるよね 、去年と今年変わっていないよと言われたんです。ということはずっと本来いつ出てもよかったんですけど、去年まで出てこなかったということですよね。ところが何でもない時に感謝をしないで、痛くなって写真見て数年前と変わってないよと。ということは数年前から痛くてもよかったはず。そこで初めて、ああそうかこれが喜ぶということなんだと感じました。つまり、今までいつ出てもよかったようなものを、神様がこの数年間そういう痛みを出さずになんの不自由もなく生活をさせていただいていたということについての感謝をしないといけない、喜ばないといけない。それでさっそく喜ばせてもらいました。

6.痛みに感謝する
 本当に今まで何不自由なく暮らさせてもらって、それに対する感謝がないから、神様がお前ちょっと恩を忘れていないか、とちょっと痛めてくれたんだと思うんです。そうするとこの痛みをいただいたことについてやっぱり喜べる。感謝ができる。これを普段から、実は何でもない時から喜ぶというのが自分自身ができませんでした。人様の辛い人にはこんなことを言っているくせに、自分が辛くなかったからあんなこと言えたんで、自分がいざ辛くなってみたらば、初めて、しかも他の人から言われてみて反省ならサルでもできる、喜べと言われて、なるほどこういうことなんだということで、喜ばせてもらったらば、痛みも軽くなりまして、今日こうやって皆さんとお話ができるところまで戻ってきました。
 そんなことでも神様は「そうか気が付いたか」と御守護くださるんですね。自分のことは本当に自分は見えない。よく言うように、この目というのは何でも見えているようだけれど、この目が唯一見えないのが自分の顔なんです。私は生まれてから自分の生の顔を見たことがない。目というのは外を見るためにあって、自分を見るためじゃないんですね。だからこそ見せられたものについて喜ばなければ損しちゃう。自分の目の前にあるもの、目で見えたものについて喜ばないで、目に見えないものに不足していたら、これもったいないですね。そんな風に考えて、わが身に起こってきたこと、神様はそうやって色々な身体の道具を貸してくださっていて、その身体について感謝がない、喜びがないと、ちょっとお前喜びが足りないんじゃないかといって教えてくださる。それがありがたい、嬉しいといって喜ぶと、わかったかと言ってすぐ、そんな痛み、辛さをまたすぐとってくださる。これが御守護だと思うんです。
 つまり、心が変われば全部変わってくるということを、自分の身をもって今回は感じさせてもらいました。皆さんには喜べ喜べと口で言っていたくせに、自分がそうなったらすっかり吹っ飛んでしまいまして、人に言われないとわからないという愚かしさが初めてわかったわけです。これからどんなことでも、私自身は喜んでこれから通らせてもらおうと思っています。

 今月はどうもありがとうございました。

2022年07月16日