2022年(立教185年)5月月次祭神殿講話 ~親の声を素直に聞く~

 ただ今は5月の月次祭を賑やかにおつとめいただきました。

 今月からは皆さんに月次祭に来ていただけるかなと思っておりましたけれども、連休のせいでまたコロナの感染者が増えてきています。本部でもまだ今月26日は制限参拝で、1大教会あたり何人ということで、一般の信者さんは神殿に上がれないというようなことです。

 今日は教会でも無理をされないように、ということで、参拝できる方だけにおいでいただきました。少人数ですけれど、非常に賑やかに明るく陽気におつとめをさせていただきました。本当にありがとうございました。

1.ある布教師のはなし
 先月は、2人の布教師さんのにをいがけのお話をさせてもらいました。今日もにをいがけということについて、1人の布教師さんのお話をさせていただきたいと思います。場所は、今の韓国のソウルですけれど、まだ韓国、朝鮮を日本が併合して日本の領土としていた時です。ソウルに布教師がいっぱい行きまして、そこで京城大教会という大教会もできたわけであります。そこの布教師の一人、上本しの先生という方がいらっしゃいました。この先生は女性一人で単独布教に出られた方です。たまたまソウルで大変に羽振りの良い材木の問屋さんが、跡取り、男の子が生まれるんだけれども、次から次へと亡くなってしまう、出直してしまう。

 ということで天理教の布教師の上本しの先生がその家に行った時にですね、また生まれたばかりの子供がいるんだれどやっぱり具合が悪い。そこの御主人から助けてくれるかと聞かれ、助けると言って、にをいがけにかかったそうです。その当時は天理教の布教師というのは身なりも汚いし、片方は大金持ち、それでも次から次へと子供が死んじゃう、まさに藁にも縋る思いで助けてくれれば誰でもいいからといって、まあ天理教の汚いばあさんと言っていたそうですけれど、そのばあさんにともかく助けてくれればなんでもするよということで、上本しの先生は、おさづけをさせてもらうということで数日間通ったそうです。数日間通ったんだけれど一向に良くならない。相変わらず熱が出て、いつ息を引き取るかわからないというような状態で、良くならない。そこの御主人が「ばあさんこれ一つも良くならないじゃないか。助かるというのは嘘か」と言ったらば、その時上本しの先生は「でも死にませんね」と言ったそうです。

 普通ならもうとっくに死んでもいいはずなのに、死にませんね、と。それが神様の御守護だということを伝えたのだと思います。そこの御主人もそういうことをピンと感じて、どうしたらいいんだという話をしたそうです。その時にその上本しの先生は、「あんたこの子供が病気が治って元気になったとしてもね、朝鮮にいるわけだからきっと日本の大学にやるんだろう」と。それはそうだと言ったら、この子供が死んじゃったらそれは役に立たなくなっちゃう。ということでその大きくなって日本の大学にやるだけの費用を今お供えしろと言ったそうです。そうしたらその御主人は、今にすると2,000万円位だそうですけれど、そんなお金をばばあに騙されて持っていかれちゃたまらないし、しかし一方でそれをやってやらなかったことで、もし死んでしまったら、というのもあって思い切って、「じゃあやることにする」と。騙されてもいいということで自分が後悔しないようにお供えをしたそうです。そのお供えをしまして、上本先生は相変わらず通って行っておたすけをさせていただいたら、ついにすっかり御守護をいただいて、そしてその御主人は天理教ってすごい、俺も天理教をやると言って、なかなか切り替えのすごい方で、だからそんな一代で大きな材木問屋にまでなったんでしょうけれど、それでその材木問屋をすっぱりやめてですね、天理教の布教師になったそうです。これがあの柏木庫治先生です。その子供で死にかかっていた子供というのが柏木大安先生。私もお会いしたことがありますけれど、大安先生はその後、東京大学へ行かれました。

 その後柏木先生は東中央大教会という大教会を作られた。原宿に大きな立派な教会がありますけれど、その大元というのは上本しの先生に助けてもらうために決断をして、自分の子供にかけるようなものを全部お供えするということで、思い切ってお供えしたことによって神様がその人の(神様はお金で助けるわけじゃありませんから)心根をもって助けてくださったんだと思います。そしてそれを感じた柏木先生はすっぱりと仕事をやめてですね、天理教の布教師になって一代で50か所の教会を作って大教会長になられた。さらにその後、一代で本部員にまでなられたという、本当に素晴らしい方ですけれど、その方の元一日はその一布教師さんのおっしゃったことを疑いながらも、後悔するのは嫌だとそれを尽くしたということ、これが神様の目にかなったんだと思います。

2.にをいがけ
 そんなことでここには二つ我々が考えなければいけないことがあるんじゃないかと思うんです。一つは、私たちは「にをいがけしろ、にをいがけしろ」と言われています。ところがにをいがけはそんな簡単にできるものじゃない。ところが上本しの先生は、生涯色々な信者さんを作ったはずなんですけれど、伝わってくるのは柏木先生一人を助けたという話だけ。私はその話しか聞いていないんです。そうするとその布教師さんは柏木先生一人を助けたことによって、柏木先生が大教会を作るほど何千人何万人という人を結果的に助けたことになる。ということでにをいがけというのはいっぺんに何十人何百人におたすけするというんじゃなくて、この人を、という人に対してしっかりとおたすけをさせてもらう。今目の前にいる困っている方に対して、その人に対して誠心誠意神様に祈ってお願いをして助かってもらうということ、これがおそらくこのお話の中から悟れる一つだろうと私は思います。にをいがけは広く浅くやるよりも、この人だけを何が何でも助ける、その人によって広がっていくということがあるんだろう、ということが一つ。

3.親の声を聞く
 あと一つは、助けられた柏木先生の考えなんですね。ここでやらなければ後悔する、もしかしたら騙されるかもしれない。そんな何千万円もお供えしたのに子供にぽっくり死なれてしまった日には、損をする。これは世俗の考え方。しかしおそらく信仰をしていれば、それだけお供えしていても、そのお供えによって出直されたとしても、きっとその後に何か神様から御守護をいただけるはず、これが御守護なんだと感じることがきっとできる人だと思うんですけれど、その後の話は別にして、やっぱり信仰の上で神様からこういう風にしなさい、あるいはこういう風にしようということ、これがつまり本部からの打ち出しということになります。本部からこうしよう、あるいは我々の日帝分教会は、上級というのが直接中根大教会、大教会からこうしようと言われた時に、素直にそれを受けていく。それが結局親の声を聞いて素直にやる。疑いはあったとしても、しかしやろう。後でやらなかったことによって後悔するのは嫌だからといって、柏木先生は、もし子供が死んでもこれやらないで死んだら自分が後悔するから、という思いであったにしてもですね、今普通の人の頭の考えでは、こんな大金をこんな助かるか助からないか分からないばあさんに託すことはできないという風に思うでしょう。しかし自分の立場に立った時に、これをやらないことによる後悔というのをしたくないからと言って、やった。

 これはつまり助ける側にしたら、何が何でもこの人に助かってもらいたいという思い。助かる側からしたら、どうせやるならば後で後悔しないようにやろうという思い。この二つが見事に上本しの先生と柏木庫治先生とでぴたっと合ったことによって、これだけ大きな道の上での花が咲いたんだと思うんです。

4.三年千日のお打ち出し
 そうすると我々は今、本部からはなかなかコロナのこともあってお打ち出しはまだありません。ただ10月には、真柱様から140年祭の三年千日のお打ち出しがあるはずです。それで今140年祭のお打ち出しを受けるための心構えを作ろうというお話をしていますけれど、実際、私はちょうど80年祭の時に大学1年になっておぢば帰りをさせていただきました。それからもう50年、60年になろうとしているんですね。その間に年祭が5回あったわけですけれど、その年祭のたびに、その年祭の3年前、三年千日、一所懸命につとめさせてもらおう、教祖の年祭を喜びの心で迎えさせてもらおう、といつも三年千日でお打ち出しがあります。そしてまたその諭達というのも三年千日を期して出されることになっています。

 そんなことから本部からこういう風に年祭を迎えさせてもらおうというお打ち出しがあった時に、それを信仰する者としては一人ひとりがそれを素直に受けとめていく。今、中根大教会からは新大教会長さんになって、ここに書いてある(神殿前の垂れ幕を指す)「かしもの・かりものの教えを、報恩感謝の陽気ぐらしを伝えさせて頂こう」という、これが中根大教会からのお打ち出し、声です。そうしたら私たちはこの声を素直に聞いて、かしもの・かりものということを喜んで人に伝えさせてもらう。これは別に知らない人にじゃなくていいんです。自分の子供でも孫でも奥さんでも、誰でもいい。

 そしてその上で陽気ぐらしを、陽気ぐらしというのは

めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。(【おさしづ】明治30年12月11日)

 めんめんの陽気ぐらしは真の陽気ぐらしではない、皆を楽しませてこそ真の陽気と言う、という教祖のお言葉です。皆さんはきっと、一生懸命に信仰されて心ができているから、明るくて嬉しくて楽しい毎日を過ごせているでしょう。しかしそれだけでは独りよがりで、真の陽気とは言えん、と神様はおっしゃる。皆を喜ばせ、楽しませてこそ、真の陽気と言うというお言葉があります。つまり陽気ぐらしをするということは、自分だけではなくて、皆に喜んでもらうことをするという、これが陽気ぐらし。そういうことを一つ親から、我々の親は大教会であり、ご本部であるわけですから、その親からの教えを素直に聞いて、一つでもやらせてもらう。そこにその柏木先生のような親の言ったことを素直に聞く、疑ってもやらせてもらう。このやらせてもらうという行為そのもので神様は御守護をくださる。できれば喜んでやったらもっと良いんですけれど、神様は不足を持ちながらでもやったらやった分だけの御守護はくださるとおっしゃっています。ぜひそういうことで素直に親の声、親というのは我々には大教会、あるいは本部、そこから打ち出された声には素直に一人ひとりが受けとめてやっていくようにしていきたいと思います。

 にをいがけするにも、多数の人にやるのではなくて、自分の身近な、この人にはどうしても助かってもらいたいという人にしっかりとにをいがけ、おたすけをさせてもらう。そして自分たちは親からの声を素直に一つでも受けとめてそれを実践していく。こういうことを今月の一つの目標にしてこの一か月は、なんだか梅雨が始まってきたようなことで、大変な天気になりそうですけれど、決して心倒さず、常に明るく楽しくお暮しいただきたいと思います。

5.平和を祈ろう
 そしてあと一つ、実は「すきっと」が間もなく出ます。2か月前が原稿締め切りで、「すきっと」に送ったんです。そして今回は、ウクライナの戦争のことを書きました。そうしましたら編集部から、「なるほど原稿としては素晴らしい原稿なんだけれど、2か月もたたない内に戦争が終わっちゃうんじゃないでしょうか。」と。それで終わったら文章をちょっと変えさせていただきたいという申し入れがありました。私は、それはもちろん終わってしまえば結構だけれども、ただ戦争はそんな簡単に終わらないと思いますよ、とだけ答えておったんです。そうしたら先日電話がありまして、「先生のおっしゃる通り戦争が終わりませんので、このままの原稿で出させてもらいます」と。

 これは決して良いことではなくて、ウクライナの人は2か月も3か月もの間、あのひどい状況の中で命の危険を感じているわけです。だとしたら我々いちれつきょうだい、攻めてる方もきょうだいだし、攻められている方もきょうだい。だとしたら、やっぱりきょうだいが仲良くということを我々はもう祈るしかない。そしてまた祈ることが強いということも以前申しあげたと思いますけれど、ぜひ、ウクライナ以外でもこの世界中で苦しんでいる人に対して、「世界が平和でありますように」という言葉を、朝晩の神様にお願いを、お礼を申しあげる時に、その言葉を一つ付け加えて世界の平和をお互い祈っていきたいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2022年05月21日