2022年(立教185年)2月月次祭神殿講話 ~どんなことでも喜ぶ~

 ただ今は2月の月次祭を無事つとめさせていただきました。教会内の者だけでしたけれども、神殿に御供えさせていただいておつとめをさせていただき、一か月の御礼と、またこれから一か月を無事に過ごせるようにというお願いを申しあげる、この節目がやはり大事なことで、いわば私どもの生活のアクセントになっていると思います。そういう節目節目を自分でつけて生活をしていくことが、元気に感謝して過ごしていくためには必要なことであろうと思います。

1.心の自由(じゅうよう)
 今、冬のオリンピックが報道されていますけれど、その報道の陰には、メダルを予想されていた人がメダルを取れなくなる、あるいはコロナにかかって優勝候補がオリンピックに参加すること自体できなくなる、ということもあります。オリンピックに関係ないことでも、子供が虐待されて命を落とす、お医者さんまでもが亡くなった患者さんの弔問に行ってそこで息子に猟銃で撃たれて出直す、というような非常に辛い、悲しい残念なことがいっぱい起きています。また今、新型コロナでも新たな変異種が出てきた。まん延防止措置で不要不急な用事は見送って外にはあまり出ないでくれ、というようなことで行動も制限されています。このように行動が制限されたり、あるいは辛い、悲しい残念なことがあったり、普段思ってもみなかったようなことが起きてくる。これは不自由です。自分の思いどおりにならないということに尽きます。

 神様の話としては、大和言葉ですから、自由という字を「じゅうよう」と読みます。「自由(じゅうよう)の御守護」なんて言いますけれど、これは「心が自由になる」ということなんですね。つまり心が固まっていると、自分の持っている心と違うものが来た時にそれを喜べない。また自分が決めてしまった固い心を持っていると、その心に合わないものは全部不自由になってしまいます。そんなことから心のじゅうよう、心の自由が一番大事だと教えられています。

 これはあらためて考えてみると非常に先進的な考え方、教えでして、例えばある宗教では、すべての心は神様のためだけに使う。神様の言ったこと以外は一切しない。神様に背くことはしない。それも一つの生き方でそれを選ばれた方は結構だと思うんですけれども、私どものこの親神様の教えというのは、身体は神のかしものかりもの、心一つが自由ということで、心の使い方は人間一人ひとりの自由に任されています。これは神様が、私ども人間を信じてくれているからだと私は思います。

 天理教が立教する前、約200年前ですが、この頃の人間がまだ心の成人の段階が低い時は、神様はその神様の言うとおりにやらせる。これは人間も同じです。例えば1歳2歳の小さな子供に自由にさせたら、危なくて恐らく場合によっては命を落とすかもしれない。そうしたら成長できない。せっかくいろいろ考えることのできる脳みそをいただいているんだけれど、その脳みそをきちんと使うこともできなくなる。ですので、義務教育という言葉がありますけれど、義務教育の間は人間の親の責任できちんと子供を教え導くということと同じように、この教えのこの親神様は、その時代の人間の心の成長に従っていろいろな教えを説いてくださいました。天保9年までに出されたいろいろな教えは、全部親神様が出した教えだとおっしゃるんですね。

2.神の手引き
 ところが天保9年、1838年以降に私たちが教えていただいた親神様の教えというのも、いわば義務教育を終えた大人に対して、もうそろそろ分かるだろう、といって教えてくださった教えなんです。

 皆さん、天理教というと、何も知らない人は音をどんちゃん鳴らして踊っていて低級なと思うかもしれませんが、それはまったく違いまして、人間の心の自由というとても高度なことを教えているものなのです。心は自由に使ってよろしい、神は命令しないという風におっしゃる。ただし、その心の使い方を間違えた時には神がちょっとずつ手引きをするぞ、というこういう教えなんです。ですから心は自由に使ってよろしい、では自由というのはどういうものかというと、これは神様が人間をつくってくださった目的、つまり陽気ぐらしをするという目的を神様から言われているから、陽気ぐらしのための使い方をしないと神様から手引きをいただくことになります。それが分からないと、なにか手引きをいただいた際に、これは不自由だ、非常に辛い、という思いになってしまう。しかしいつも申しあげていますけれど、神様は人間に苦行を与えません。子供が変な道に行かないように、あるいはさらにひどい道に行かないように、と、ちょっと顔を向けさせる、横に向ける。そうすると人間の方からすれば、自分はこっちに行きたいのに神様がそっちはダメだと言っている。こっちに行けと言われていると心で思ってしまえば、なんだか嫌な感じにしかなりません。

 そんなことで自由というのは心の自由。心を自由に使うということは、非常に難しいです。おかきさげの中に「自由という理は何処にあるとは思うなよ。ただめん/\精神一つの理にある。」というものがあります。自由か自由でないか、つまり心が自由に使えているか使えていないかということは、人間の精神一つにかかっている、ということです。例えば「ああ、私にこんな不自由があるのは、神様が変な道に行かないように向けさせているんだな」と思うと、それはかえって喜びになって、つまり不自由ではなくなる。

3.心一つ
 そういうことで、精神一つの理というのは、この教えの根本なんです。そしてこの教えの一番大事なところは、この大教会から示された今年の目標(神殿に掛けられた垂れ幕を指し示す)にもありますとおり、「かしもの・かりものの教えを、そして陽気ぐらしを教会で伝えていこう。これを教会の仕事として世の中にお伝えさせていただこう」ということです。我々の身体は神様から借りている。そして神様はなぜ人間に身体を貸しているかというと、陽気ぐらしをするために貸してくださっている。その陽気ぐらしをするため、嬉しいな、楽しいなと思うことは何かというと、それは心一つだ、と。では心一つとは何か。いつも申しあげていますけれど、どんなことが起きても喜ぶ。その起きて喜ぶというのはただむやみになんでもかんでも喜ぶのではなくて、神様が私に何をしろとおっしゃっているのかということ、神様からのメッセージを分からせてもらったうえで喜ぶ。これが一番大事なこと、これが精神一つの理にある、ということなんです。

 そんなことでどうか皆さん、コロナで外出も不自由、他にもいろいろなことで世の中動かなくなっていて皆うっぷんがたまっている。電車に乗ってもちょっとしたことですぐに喧嘩になる。それはなぜかというと心に自由がもうなくなっているから。つまりどんなことが来ても喜べる心というのを持っていないから。ということで、心一つを自由にして陽気ぐらしをさせてもらう、ということを今月は是非心掛けていただきたいと思います。

4.何でも喜ぶ
 今、増えているオミクロン株というのは、感染力が強いけれども、それほど重症化しないで良くなるというようなことも言われています。80人に1人が罹っていると昨日のテレビで言っていました。その80人に1人になった人は、神様からのメッセージですので、メッセージをいただいたことを喜ぶ。そして80人に1人にならなかった人はそれもまた喜ぶ。なっても喜ぶ、ならなくても喜ぶ、これが心一つが自由ということの意味なんです。

 今、世の中では受験シーズンを迎えています。小中高大、いろいろなところで入学試験をやっています。試験に受かるのも結構、落ちるのも結構。神様が良いようにしてくださっている、ということをまずは心に置き、どんなことが起こっても決して泣いたり嘆いたり恨んだりしないで、その状況の中から、じゃあ神様は自分に何をしろとおっしゃっているのか、ということを一生懸命考え、理解し、得心する。これが心が自由になる一番の秘訣です。

 皆さん、目の前に起きたことは常に喜んでください。喜べない時は、こんな風にさせる神様の心はどこにあるんだろう、と考えてしっかりと突き詰めていく。それでも分からず迷った時にはぜひ教会にいらしてください。そういうことで心の自由というものをしっかり持っていただきたい。この教えは、心を自由に持ちなさいという教えなんだということをひとつ理解していただいて、今月おつとめいただきたいと思います。

 大変な中ですが、参拝に来ていただいた方も、YouTubeで見ていただいている方も、どうか神様に、教会に心をつないで一か月お過ごしいただきたいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2022年04月23日