2026年(立教189年)3月月次祭神殿講話 ~感謝の言葉を口に出そう~
ただいま 3月の月次祭、少ないながらも賑やかにおつとめいただきました。しばらく神殿講話にお付き合いいただきたいと思います。
1.陽気ぐらしは人間の義務
天理教教典の第3章、元の理に、「この世の元初りはどろ海であった。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を作り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。」という最初の出だしがあるんです。
この世の中は泥海であったけれども、その月日親神様はこれでは味気ないということで、人間を作って陽気ぐらしをして共に楽しみたいという思いで、それからは東西南北から色々道具を集めて人間を造ってくださったという始まりなんですが、結局一番のその始まり、人間を作った目的は、陽気ぐらし、つまり人間を作って陽気ぐらしをして共に楽しみたいと思し召されたということから、人間は陽気ぐらしをするために作られたということなんです。つまり、陽気ぐらしをすることができるのではなくて、人間の目的は陽気ぐらしをするために作られたのだから、人間は陽気ぐらしをしなければいけない。
私は法律家でもありますから、あえて言うと陽気ぐらしをするのは人間の義務だということになります。陽気ぐらしを神様の目的として、人間と一緒に陽気ぐらしをしようということです。
2.陽気ぐらしと極楽
本部の月次祭の後に本部員の先生方とか天理教の教学に詳しい大学の先生方を含めて毎月勉強会をしているんですが、そこで「陽気ぐらし」っていうのはどこにあるのかということを、実は皆分かってるようで分かってないんじゃないかという話になったんです。
我々は一所懸命にひのきしんをし、おたすけをして、神様の心に沿った使い方をしていくと、陽気ぐらしの世界がこの世の中にできあがるのだ、そうするとそれがあの世ではなくてこの世に陽気ぐらしができるんだということは、普通の人はおっしゃるんです。
けれども、今はこの世界中どこを見ても戦争ばっかりしてます。ああいうのを見て、陽気ぐらしって果たしてできるんだろうかと。世界中が陽気ぐらしになるのはできるんだろうかとふと思ってしまうことがあるんですが、それはちょっと違うんではないかという話になったんです。
それは、例えば仏様を信じている人は極楽に行きます。キリスト教やイスラム教を信じている人は死んだら天国に行きます。そこが一番幸せなところ。この世は苦の娑婆である、苦しい世界だということですから。ところが天理教は、「ここはこの世の極楽や」という言葉にあるように、この世が極楽なんです。
じゃあ陽気ぐらしというのはどういう風になるのかということで、色々考えてみました。今お話しした極楽の世の中と陽気ぐらしの世の中というのはどう違うんだという話になったんです。
極楽というのは、何の苦しみもない悩みもない幸せな世界ですから、極楽の世界になってしまうと人間は助け合うことを必要としなくなる。つまり困っていないんだから、誰もが。
ところが陽気ぐらしというのはどういうことかというと、陽気ぐらしというのは、これは助け合った中で、互いが助け合っていく中で陽気な世界ができるというのが、この陽気ぐらしの世界。そうなると極楽では助け合いということはないから、極楽は陽気暮らしの世の中じゃないねということになったんです。
そうすると、この世の中で苦しんでいる人が極楽に行っても極楽は苦も何にもないから、苦しむも何にもないから、お互いが助け合いなんかしないということになってしまう。これは、教祖がおっしゃられている互い助け合いで人間が立て合いながら助け合いながら、幸せの世界を作ってくれという言葉とはちょっと違うことになってしまう。だとすると、やはり天理教は極楽を目指しているのではなくて、陽気暮らしの世の中を目指す。
3.小さな陽気ぐらしの世界
そうであれば、陽気ぐらしというのは彼方にあるんではなくて、今、身の回りの人たちとお互いが助け合っていったならば、ここは小さな陽気ぐらしの世界になるんじゃないのということです。そうすると、毎日毎日陽気ぐらしをしながら、そして人類が全部それができるようになった時には、本当の世界中の陽気ぐらしができる。互いに助け合う世界ができる。
では、今は陽気ぐらしができないのかというとそうではなくて、今日、今からでも近くにいる人たちが互いに助け合って陽気ぐらしをして助け合っていく世界、これは陽気ぐらし。そう考えると、小さな陽気ぐらしの世界というのがもうそこではできてるんじゃなかろうかということを言われて、私もなるほどなと思ったんです。
陽気ぐらしというのは私の頭の中では人類がみんな人助けをして、戦争をやるような人もいなくなって、人を攻撃する人もいなくなって、貧しい人もいなくなって、全部が幸せになるのが陽気ぐらしと思っていました。そうやって考えるとなかなか陽気ぐらしの世界というのは遠いなと思ってたんです。
ところが今のように、それは人類の最後の目的がそこの陽気ぐらしの世界だけれども、そこへ行くためにみんなが小さな陽気ぐらしの世界を作っていくことが大事なんじゃなかろうかということを聞いて、これなるほどなと思いました。
例えば私たちは、人様がちょっと辛いことがあった時にお助けをする手助けをする。そうするとすごい喜んでくれる。それだけで気持ちが良くなります。エレベーターで最後に出てボタンを押して皆さん出るまでどうぞっていうだけでも、ありがとうって言われて気分が良くなる。
つまり、それをみんながやった時に、それは小さな陽気ぐらしの世界。それだったら家庭でもできる。職場でもできる。町内会でもできるはず。そういうことの小さな陽気ぐらしをみんながやっていくと、いずれ本当の、真の陽気ぐらしが世界中はできるのかなという風に思うわけです。
4.感謝の手紙
そんなことを考えてお話をしてなるほどなと思っていたら、先日私が入院していた聖路加病院から手紙が来ました。治療費の未払いの請求書かなと一瞬思ったんですけれども、開けてみたら看護部長さんからの手紙でした。
実は私は脊柱管狭窄症の手術で脊椎を削ったものですから、手術後はその脊椎に重力をかけちゃいけないというので、立っていてもいけない、座っていてもいけない、横になってなきゃいけないというのを20日間やりました。
しかしトイレには行かなきゃならないですから、その部屋にトイレあるんですけどベッドから降りて2、3歩歩いてトイレの支柱に掴まってやっとこさっとこトイレに入るのが大変でした。それを看護師さんにお話したんです。そうしたらああそうですかって言って看護師さんがなんとベッドをトイレの前にズッと持って行ってくれたんです。あ、ベッド動かしていいんだと思って。そうしたら起きたらすぐトイレになったわけです。
それが嬉しくて退院の時、病院への手紙に、実はこういうことやってくださったので本当にありがたくて嬉しかった、患者の気持ちになってくれて本当に嬉しかったということを手紙に書いて送ったんです。それの看護部長さんからのお礼の手紙で、「あの手紙で本当にその看護師が喜びました、そして他の看護師の励みになりました。病院のお客さんの患者さんが通るところに手紙を掲示してよろしいでしょうか」ということでして、もちろん結構ですと返事をしました。
あと一つ同じような話で、自転車の空気入れの小さなバルブが古くなったもんですから、スーパーの中の自転車屋さんへ行ってそれをくださいと言ったら「1本ですか?」と聞かれ、1本ですと言ったらそれを無料でくれたんです。
それが本当に嬉しくて、ハガキでありがとうございましたって手紙を出した。そうしたらその自転車屋さんからまた連絡があって、その数日後にスーパーの全職員の朝礼があるんだそうです。その朝礼の時に自転車屋さんがお客さんから感謝の手紙をもらったということで、みんなの前で褒められて表彰されたんですって。
私はハガキ1枚書いただけで。その時に、そのスーパーに聞いたんです。たったこれぐらいでなんで?と。するとスーパーの担当者が「実は来る手紙やご意見箱といのは全部苦情です。苦情とクレームです。あいつはこういうことやってた、あの店員はこうだった、けしからんということばっかり。その中に1枚お客さんが嬉しかったと書いてくれたので、本当にほっとした。」と言うんです。
おそらく先ほど申しあげた病院のあの看護師さんに対しても、看護師さんはみんな親切だからそうでもないのかもしれないけれど、ともかくたったそれだけのことで患者から感謝の手紙をもらった。
4.感謝を口に出す
これよく考えてみますと、この世の中はしてもらうこと、親切にしてもらうこと、ましてやお店で金を払ってんだから店員が私に親切に丁寧にやることは当たり前なんだと思ってる人が多いんじゃないでしょうか。ですからちょっと気に食わないことがあると、態度が悪いとすぐ苦情箱に書く。お店の側はそればっかりだから、たまにありがたいなんて書いてある手紙が来ると本当に信じられないときっと思ったんでしょう。これは悲しいことです。
例えば家の中でも、子どもがお母さんのことを手伝ってくれたら、お父さんのことを手伝ってくれたら、それに親がありがとうと言うのは当たり前だと思うんですが、子どもがやるのは当たり前で、悪いことしたら親が叱るというこういう家庭もあるわけです。そうすると家の中では常に叱る言葉ばかりが蔓延するわけです。何々ちゃんありがとう、嬉しかったという言葉がすべて消えちゃう。そんな家庭にまともな人間関係が育つと私は思わないんです。
たまたま私が2つの手紙を出したことに対してそれほどの、わざわざ感謝をされるようなことがおこる。私が感謝していることに。それを見てもこの世の中がいかに今感謝の言葉が足りないかということなんです。
そうすると、私たちは神様からのことを考えると、この健康な身体を貸していただいている。そして朝昼晩食事が美味しくいただける。そしてお友達とも仲良く話ができる。美味しいものもお菓子も食べられる。その身体を借りているのは神様からですから、そうしたら神様ありがとうございましたと朝晩言うのは実は当たり前のことですよね、感謝することで。
それと同じで私共は朝晩、教会は朝晩のおつとめでちゃんと感謝を申し上げています。ですから人に対する感謝をするというのは割と自然に口に出るようにはなっています。これはまさに教会のおかげだと思います。
そうするとお店にしても社会にしても、そういうやってもらったことを当たり前に思っていて感謝しないで、それ以外のことで不満のことばっかり不足ばっかり探して目についたことを指摘する。これではやっぱり世の中は暗くなって、これは陽気ぐらしじゃない。
不足が湧いたらば、その人ができないのなら、こっちがやってあげればいいだけの話。そして向こうに感謝されたら、それが陽気ぐらしになるじゃないですか。ということを考えると、私の自分の体験で、たったわずかの礼状でもこんなに向こうが喜んでくれるんだというように思ったら嬉しくなりました。
それを考えてみると、やはり皆さんお店に行ってもお金を払ってるんだから品をもらうのは当たり前だけども、もらう時にありがとうの一言をもし言ったら、向こうの店員さんもきっと気持ちが良くなるはずです。お金を払ってるんだから、お前が俺に対してちゃんときちんと丁寧にするのは当たり前だろう、これは実は間違い。
昔、三波春夫さんという歌手が、「お客様は神様です」と言った。それをどういうわけか皆が間違えて客は偉いんだと思った。三波春夫さんが言ったのは、私が歌が上手いか私の歌を喜んでくれる人が来るか来ないかを考えると、これはみんな神様のように思いますと。あの方たちが私の歌を評価してくれるんです、とこういう意味で神様と言ったんで、私より偉いなんてことは言っていない。いつの間にか言葉を間違えて、お客様は神様だからお前より偉いんだということで色々なところでもうクレームばかりつけてますね。
あれをもしもありがとうと、同じお金を100円出して100円の物をもらった時でもありがとう。あとレストランに行ってお金を出して払って食べるんだけどボーイさんが持ってきてくれたらありがとう。ウェイトレスさんが持ってきてくれたらありがとうと。たったこれだけを言うだけで世界が変わるんだなということを、私はその2つの手紙から実感しました。
そんなことで、私たちはなによりもまず神様にありがとうと申しあげるけれども、これを人間にもありがとうということを言うような生活にしましょう。そうすると自分の身の回りが小さな陽気ぐらしの世界ができあがる。この世界をみんなが作れば、本当の陽気ぐらしになる。その小さなところすら陽気ぐらしができなかったら、やはり大きな陽気ぐらしは来ないと思うんです。
そんなことを考えてみんな一人一人がぜひ陽気暮らしをするためにせめて感謝の言葉だけは素直に出す。そして神様には常に朝晩感謝を申しあげる。こういうことでこの1ヶ月間生活をしていただきたいと思います。
来月4月12日は教祖の誕生祭をやらせていただきますが、ちょうど日曜日ですので、皆さんお揃いでぜひおいでいただきたいと思います。バースデーケーキもお供えしますのでお下がりがいただけます。ぜひお待ちしております。
今月はどうもありがとうございました。