2025年(立教188年)7月中元祭神殿講話 ~順序一つの理~
1.あと7か月ある
今月は中元祭ということで、中元の月次祭をやらせていいただきました。御中元というのは元日から大晦日までのちょうど真ん中、これを中元というので、要するに半分過ぎましたよ、ということです。一年で考えてみると本当にあっという間と感じますけれど、一年が始まって年賀状の整理をしなきゃいけないなんて1月の下旬に思っていたのが、もう来年の年賀状の準備をしなきゃいけなくなってくるということになります。一日一日ぼーっとしてますと本当に一年ぼーっと過ぎてしまいます。
皆さんは毎日しっかりと充実した日を過ごしておられると思いますけれど、明日は必ず来る、来年は必ず来ると思っているとそんなことはない。いつ明日が来なくなるかもしれない。神様からお借りしている身体は、神様がお前に貸してやろう、まだお前は必要だから貸してやろうということで貸してくださるわけで、神様に使ってもらえる、神様に信じてもらえるような心遣いをする、人助けをするということが大事だと分かります。
それであと半分、あと半分ということは先程の祭文でも読ませていただきましたけれど、来年の1月26日が教祖140年祭となります。実際に言うと約7か月くらいで140年祭の三年千日が終わってしまう。三年千日が始まった時、今の諭達を読み始めてから36回読むわけです。ところが29回も読んでしまったからあと7回しか読めない。こういう風に月日というのは経つのが早いものです。3年の間に一所懸命人のためを考え、人のために身体を動かした人が神様に受けとってもらった3年間分の蓄積は大きいものです。ところが何もしなかった人はじゃあだめかというと、まだ7か月ある。
よく言われることですが、成功する人はこのコップを見て、まだ八分目ある、というように考えるんだそうです。ところが出世しない人は、ああもう八分目になっちゃった、と言うそうです。つまりコップが半分になってももう半分ある、まだ半分あると言って常に喜びの声に変える人と、あと半分しかなくなっちゃったと悲観する人とでは、同じものを一つ見ても心の向きが違う。まだ半分あるという人は、まだ半分何かができるということです。人を助けることができるということです。
ということで、中元という真ん中、暑い盛りですけれど、私はこれまでの半分で人様の役に立つこと、人様ににこやかに接していられただろうか。もしいられなかったならばでは残りの半分でやらせてもらおう、ということを考える機会だと思います。そしてまた140年祭でおぢばから三年千日の働き方として出された諭達にありますように、「人救けたら我が身救かる」、また、教祖のひな形をたどろう。これらをもしやってこなかった人は、この7か月だけでも人を救けて我が身救かるという実践をすればいい。いつも申しあげてますけれども、「人救ける」ということは、自分以外の人の誰でもいい、女房でも子どもでも、隣の人でも孫でも、誰でも良いからその人たちに優しい声をかける。そして何かの役に立つようなことをさせてもらう。これがこの諭達の三年千日の間、私たちが通ろうという道の考え方です。
2.順序一つ
今日は「順序一つ」というお話をさせていただきたいと思います。
教祖はよく順序一つの理とおっしゃいます。順序一つの理というのは、何事も順序を踏んでいかなければ自分の目的は達成できないよ、という意味なんです。例えば、皆様がこの神様のお話を聞く。これはおそらく信者さんから聞くことになります。あるいは私のような会長という役目を担っている人間から聞く。少なくとも天理教を信じている人から話を聞く。最初はそこから始まる。しかしそれでいきなり信仰ということにはならない。その話を聞いたなら、今度は教会に運ぶ。教会に運んで教会でお話を聞く。そして教会でお話を聞いたら、今度はおぢばに帰らせてもらっておぢばでお話を聞く。これは別席の話です。あるいはおぢばの教祖の所へ行って、教祖におぢばに帰らせていただきましたと言ってご挨拶をする。この順番で初めて神様に近付くことができます。
そういう順番をまったく抜きにして、初めての人がおぢばに行っておぢばに額づいていきなり拝んで「神様助けてください」とそこら辺の神社へ行くようにいったところで、それは神様は受け取ってくださらない。これが「順序の理」ということ。まずは神様に近付く順序というのはそういうことです。話を聞く、それからおつとめをする、それから人ににをいがけをする、人を助ける、ということをやっていって初めて神様の思召しにどんどん近付いてくる。
例えばこの鳴り物ですけれど、皆さんこれに順序があるということはあまりご存知ないかと思います。
鳴り物の順序は、一番中心は拍子木です。その次がちゃんぽんです。その次が太鼓です。その次が、笛です。そしてその次がすりがねです。それから今度は小鼓があります。ということで全部順番があります。ですので、例えばざっと並んだ時に、まずようぼくの方がいたらようぼくの人から順番にそれに入っていく。ようぼくも何も全部同じだったら年齢の順で入っていく。あるいは信仰の長さの順で入っていく。これは別に上下じゃないんです。単なる順番。
あと同じようにこのおつとめも左側、男が偉いわけじゃありません。左側に男性が入りますけれども、左側にいるこの人が中心になってこの人の次が右側の、大体女性が入ります。それからまたそれぞれ二番目、三番目。ということで、自分がどんなにおてふりが上手だからといって、先輩を押しのけて真ん中に来るということはやはり順序が違う。これが「順序の理」というんです。
その順序というのは神様への近付き方の順序。あと、鳴り物で覚えていくのも順序。おてふりを覚えておてふりを並ぶのも順序。それは決して上下とか偉い偉くないということではなくて、理の上での順序です。ですから、大教会では私も役員なんですが、私より年下ですけれど私よりも先に役員に任命された方がいらっしゃる。そうするとその方と地方に上がると私は地方の二番目に必ず入る。それが順序というものなんです。
これは序列でもなんでもない。本部でもそうです。本部でも本部員さんがずっと並んで来られるのは、あれは本部員に任命された順番です。一番前にいる方が偉いわけではなくて、任命された古い方が前。これが実は非常に並びのいい順序。あと秩序にもなってきます。
3.好き嫌い
ということで、信仰もこういう「順序一つの理」と教祖が言うんです。教祖も細かいことはおっしゃいませんけれども、教祖の言う「順序一つの理」というのは、信仰するにあたってのその順序というのを非常に大事にしなさいとおっしゃいます。ですから、徐々に徐々に、一つずつ信仰を高めていかなければいけないのに、それを飛び越えて、信仰の高みを求めていくというのではなくて、まず信仰を聞いたばかりの所であったならば、聞かせていただいた方の言われることをしっかりと守っていく。この人だと物足りないから、ともっと上に行って聞いてくる、とこれは順序が違うということになるんです。
そうはいっても皆さんやはり好き嫌いがあります。私も色々好き嫌いが強い。ところが、教祖はその好き嫌いというのも厳しく、しないようにと言われています。教祖のおさしづの中にも、「好きが嫌いに、嫌いが好きに」という言葉がある。好きだ好きだと言っていると、それがいつか嫌いになることもある。しかしあれが嫌いだ嫌いだと思っていたものがある時好きになることもある。鳴り物もそうです。最初はこの鳴り物が好きだと思っていたものが、まあ嫌いになることは無いでしょうが、もっと他の鳴り物が好きになってくるということもある。そういうことで、好きだとか嫌いだとかを優先していると、実は目の前に来たことが喜べなくなるんです。
以前私がある方から聞いた話ですけれども、糖尿病という病気があります。私も人間ドックへ行くといつも数値が限界だと言われて、それから糖質を控えるようにし、数値が良くなってもういいよと言われるとそこからまたどんどんご飯や酒を飲むと、また翌年の人間ドックで注意されるという、こういうばかなことの繰り返しをしています。そして糖尿病というのは、食べ物の好き嫌いのある人がなるんだということがよく言われています。甘いものの好きな人、お酒の好きな人、食べて飲んで運動なんかしない人、ということがよく言われています。
そういう話をたまたま本部のある先生にお話しました。そうしたらこう言われました。「羽成さん、食べ物の好き嫌いなんてたかがしれているんだよ。本当に神様が嫌う好き嫌いは人間の好き嫌いだ。」と言われました。私はそれを聞いてから、人間の好き嫌いというのをしないように努力した。しかし嫌いな人間を好きになるなんてことはできない。そこで私は最低限の考えとして、嫌いな人間は好きでもないどうでもいい人間にするということ、何でもない人にするということに一所懸命努力をしました。そうするとやはり人間ドックで注意されたことが治まってくるんです。
4.病み損
これは皆さんご承知のとおり、身体は神様からの借りもので、この身体に何か不調が出るということは、これは神様からのメッセージ。神様があなたの心を直しなさいと言って手紙をくださる。だから身体のどこかが痛くなった時には、この神様は何を私におっしゃっているんだろうかと考えて心を一つ直す。こういうことが「身体は借りもの」という意味です。
これも何度も申しあげていますけれど、私が風邪を引いて薬を服んで医者へ行って治った治ったと喜んでいたら、前会長から「お前は病み損だ。」と言われまして。「病み損とはなんだ。」と言ったら「病気にならない人もいる、風邪薬なんか服まない人もいる。それに対してお前は服んでいるじゃないか、お金がかかっているじゃないか。そうしたらその人と比べたら損じゃないか。」と言うので「病み得というのがあるのか。」と聞いたら「病んだことで神様が何をおっしゃっているかと考えて心を一つ直す。」つまり今で言うと人間のグレードを上げる。人格のグレードを一つ上げる。病気をいただいたことで。それをすることによって得したことになる。つまりどんなことでも損なんて世の中にはない。そういう風に思って自分のところに色々辛いことが来た時には、神様は私を心から助けようと思ってこういうおしるしを下さるんだ、というように考える。
教えの世界では、不満なこと、満足しないことを「不足をする」と言います。不足の心とよく言いますけれど、その不足の心がなくなるんです。ああそうか、こういう風に神様は私に期待しておるんだと思うと、不足の心はなくなる。教えの先輩方は、病気が来ると「神様がまだ私に期待をしてくださっている」と喜んでいらっしゃいます。
今日もこの教会の大先輩方が上段に上がるのも大変だけれど、上段に上がっておつとめをされた。その思いだけでも神様は受け取ってくださる。そうすると私たちもあの人たちが一所懸命におつとめをしているんだから、身体が痛いのどうのこうの言っていられないなと思う。ということは、その方たちは苦労しておつとめに上段に上がるだけでも実は周りの人を助けているのと同じなんです。ということで、どうか神様の役に立つ人間として神様に喜んでもらえる人間としてこれからも生活をしていきたいと思います。
5.繋いでゆく
色々と喜べない時もあるでしょう。日帝分教会というのは、初代さんが高宮のぶ先生で、高宮のぶ先生が出直して会長がいなくなってしまってから教会を引き受けたのが二代の亀田儀八先生。そして亀田儀八が出直してまた会長がいなくなって、引き受けたのが三人目の私の母、羽成芳枝先生。そして初めて三代が生きている時に私が教会長を代わることになりました。
お運びで真柱様のお許しをいただく時に、真柱様の前へ二人で行きました。それまで日帝分教会は初代も二代も三代も一緒に行ったことがないんです。ところが三代と四代が初めて真柱様の前にお目通りをさせていただきました。その時真柱様から前会長がお言葉をいただいたんです。忘れもしません、「35年もの間、言うに言われんご苦労もあったことでしょう。その間本当によく頑張ってくださいました、本当にお礼申しあげます。」と真柱様が言われました。私はそれを聞いた時に本当に親孝行をしたなと思いました。
それまで、大学に受かったとか司法試験に受かったとかを親孝行と思っていましたけれど、ちゃんと次の代に会長を譲って、それまでの道中を慰労されるお言葉を真柱様からいただきました。そのことがあって、老会長さんがいらっしゃる教会の若い人に、こういうわけで真の親孝行とはあの時だと私は思う、という話をしました。それはある世田谷の教会ですけれど、息子さんは東大を出て一流商社マン。その方にそういう話をしたら、なんとその方、「じゃあ教会長を継ぎます」と商社を辞めてしまって、教会を継いでその後しばらく経ってうちに来られました。お許しをいただく時にやはり同じように真柱様から自分の父親、前会長が慰労の言葉を受けた、本当に親孝行をしたと思いました、とおっしゃっていました。
そんなことで、繋いでいく。先ほど申しあげた順序の理というのは、初代があって二代です。二代があって三代。三代があって四代。前がなければ私は初代になってしまいます。つまり四代というのは順序でこう来た。それは皆さん方が今でも支えて下さっているからこその四代なんですが、そういう風に順序というのは長年時間が経ってみるとその順序の意味が分かってきます。皆さんにも親もいらっしゃるでしょうし、子どもさんもいらっしゃるだろう。きちんとそこへ信仰を繋いでいく。そしてその子どもたちに対して感謝をしていく。親に対して感謝をしていく。これが順序ということで、これが教祖がいつもおっしゃっている「順序の理」。
「親がありて子や。子は何ぼ賢うても親を立てるは一つの理や。」(明治二十二年十月十四日(陰暦九月二十日)刻限御話)
というのは、そういう所から出てきているんです。無条件で従えというのではなくて、こちら側が立てる。これが「順序一つの理」という言葉ですので、今月はどうかその「順序一つ」というのを自分から、自分に来た順序を、これから自分が伝えていかなくてはいけない順序、これを大事に繋いでお伝えいただきたいと思います。
昨日今日はなんとか涼しいですけれど、また暑い日が来るようです。暑い日も暑くて結構と喜びながら、またこの一か月お過ごしいただきたいと思います。
本日はどうもありがとうございました。