2025年(立教188年)2月月次祭神殿講話 ~しっかりと教えを学ぼう~
今日は2月、今年に入りあっという間にひと月経ってしまいました。先月1月26日は大祭で、日帝分教会として団参をさせていただこうとしていましたが、思わぬ不幸がございまして中止になりましたけれども、いよいよ年祭へ向かった三年千日の三年目、最後の年に入りました。
1.誤った教理の理解に注意
実は本部の先生からも言われたんですが、今回の140年祭の三年千日については特に本部から何をしようということが出されていないので、皆が、それぞれがしっかりと考えないとあっという間に過ぎてしまう、という話をお聞きしました。そんな中で私たちは諭達にもあるように、「教祖お一人から始まったこの道を、先人はひながたを心の頼りとして懸命に通り、私たちへとつないで下さった。その信仰を受け継ぎ、親から子、子から孫へと引き継いでいく一歩一歩の積み重ねが、末代へと続く道となるのである」。全くそのとおりで、この道は自然発生に何万人もの人が言い出したことではない、教祖中山みき様お一人に神様が入り込まれて、初めてこの世の中の真実をお説きくだされたわけです。
教えを各人各様、一人ひとりが悟るのは結構です。けれど大元の教えを間違えていたのでは信仰にならない。
先ほど見せていただいたある支部のパンフレットで、とんでもない二重三重の間違えがありました。「神殿には男の神様がいて、教祖殿には女の神様がいる」なんて馬鹿なことを言っています。そんなことはない。
神殿には天理王命様がおられる。そして「ぢば」と「親神様(天理王命)」と「教祖」、その理は一つである、と。一つなんですよ。教祖イコールおぢばであり、教祖イコール天理王命であり、おぢばイコール教祖なんです。そういうことをしっかりと理解していれば、あっちには男の神様、こっちには女の神様なんて馬鹿なことを言うはずがない。しかし支部の巻頭言に書いてあるくらいですから、全員がそういう風に思っているらしい。それはとんでもない間違いです。
人間が五分から生まれて五分五分と成人して、九十九年たって三寸になったら全部出直した。それからまた五分から生まれて九十九年たって三寸五分になった。また出直した。そして四寸になってから八千八度の生まれ変わりを繰り返してその間に虫、鳥、畜類という形を全部通ってきた。だから人間は虫も動物も鳥とも全部つながっている。ということの中で最後に「めざる」が一匹残った。その「めざる」から人間がはじめて産まれたという。これも間違いです。
人間は生まれた五分のこんな小さい時から人間なんです。「めざる」一匹から人間が生まれたわけではありません。それは男5人、女5人の10人ずつの人間が生まれただけです。五分五分から生まれた最初から人間なんです。というその大事なことを間違えて書かれています。ところがこれがまかり通っている。
また「女は台や」と言って男はその上に立つんだと馬鹿なことを言っています。「道の台」というのは、男でも女でもない、道のために尽くした人が「道の台」と言います。皆の基礎になって女であろうと男であろうと皆に見えないところでしっかりと支えてきた人、それを「道の台」と言いまして、これは別に女に限らない。
2.親としての心の持ち方
そういうことをしっかりと教えがわからないで次に伝わっていくとどんどん教えが曲がります。そんなことに対してのおさしづがあります。
「台が分からねば、先先皆分からん。親が分からにゃ、子が皆分からん。」(明治二十七年三月十五日)
つまり教祖は、台が分からなかったらその先は何も分からない。台の親が分からないから、子が分からないんだ、と言うんですね。台というのは親なんです。子どもたちを支える親が台。その台が分からないから子が分からないんだ、とおっしゃっているわけです。あるいは子どものことに関して、
「どうこうなったら子供はほんに可愛いなあ、可愛いなあ、親々親は子は可愛いなあ、治まったら世界の子可愛いなあと、この心定めてくれ。」(明治三十三年十二月四日)
子どもというのはどんなことがあってもかわいいなあ、かわいいなあ、親は子がかわいいなあと思う。親が治まったら世界の子可愛いなあと、この心定めてくれ。自分の子がかわいいと思うように、心が治まったらば、親として自分の子がかわいいと思ったらば、それは世界の子がかわいいなあと思ってくれ、と。この心を定めてくれとおっしゃってるんですね。
台というのは基礎です。基礎というのは親です。親が教えを分かっていないと子どもに伝わらない。
「うちの子どもはちゃんとまじめに信仰しない」。それは当たり前です。親がちゃんと信仰していないから。また「うちの子どもは言うこと聞かないし、勉強もしないなあ」。それは親が言うことを聞かないし、勉強をしないからなんです。全部「台が分からねば、先先皆分からん。親が分からにゃ、子が皆分からん」。
ということで、私たちは幸い親から色々な教育を授けてもらいました。あるいはしつけや礼儀も授けてもらいました。だからこそ今、外へ出てもまあともかくは恥ずかしくない振舞いができる。ところがお葬式であろうと結婚式であろうと、そういうしつけ礼儀、あるいは大人との口の利き方も含めて、そういう礼儀を親がちゃんとできていなければ子どもができないのは当たり前なんです。子どもの姿を見て、この子がおかしいんじゃなくてその子どもは親が映っている。これがこの教えの源なんです。
教祖は、見えるものは「世界は鏡や」とおっしゃる。世界で嫌なものを見たら実は自分が嫌な心を使っている。「あの人素敵な人だな、あんな素晴らしい人がいるんだな」というのは、その人を素晴らしいと感じる自分の心が素晴らしいんです。そういう風に「世界は鏡」と教祖はおっしゃっている。だとしたら、この教えを間違いなくしっかり理解しましょう。
中途半端に理解して女の子が生まれて「女は台だから男を立てろ」なんて言わないでください。そもそも神様はそんなことをおっしゃってない。
私も間違えていましたが、「男女の隔てはない」というのも実は間違いで、そんな教祖の言葉はありません。「めまつをまつわゆハんでな」という言葉があるだけ。「男だ女だなどとは言わない」ということを言っているだけ。つまり、男だ女だなどということは関係ないということをおっしゃっている。
いつの間にか私が間違えたように「雄松雌松の隔てはない」なんていう言葉に変わってきてしまっている。そんな隔ての話ではなく、そもそももっとその上、教祖は「めまつをまつわゆハんでな」とおっしゃる。男、女は言わない。人間として、神様の子どもとしてどうするかということだけをおっしゃっている。
3.しっかりと教えを学ぶ
そういう風に、ついつい私たちは間違った自分の解釈を人に言っているかもしれない。そんなことのないようにしっかりとこの教えを学んで、人にお伝えしていただきたいと思います。
その中でもよく知られているのが、今日諭達で読んだ「水を飲めば水の味がする」、これご承知ですね。神様はなんでこんなことをおっしゃったかというと、「お母さんお米がありません」と、教祖がすべてを施してしまった時にこかん様が教祖に言った時に言われた教祖のお言葉です。
「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。」
つまり貧のどん底の中でも、「水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」。ということで貧のどん底の中でも水の味を感じて喜ぶ心、他人と比較して喜ぶのではなく、そのこと自体を喜ばせてもらう、これがこの意味なんです。
また、ふしから芽が出るというのは、皆さん当たり前のように思っていますけれど、「ふし」でない何もない、竹なんかのつるっとした所からは枝は出てこない。ところが「ふし」という所から、そこから竹の枝が出てくる。つまり「ふし」というのはつらいこと、悲しいこと、本当に嫌なことがあっても「ふし」だと思った時に教祖はその「ふし」があったからこそ本当の芽が出てくるんだよ、「ふし」があればこそ幸せになるんだよ、と教えてくださった。これもやはり苦労の中から喜びを探すということです。
そして最後に、「神様どうしたら私は助かるんでしょうか、助けてください、お供えは何でもしますから」、とか「私は神様のおかげで助かりました、そのお礼はどうさせてもらいましょうか」と言った時に、教祖は「人を助けなされや」とおっしゃった。それが「人を助けたら我が身助かる」。助かりたければ人を助けなさい、これが天理教の神髄なんです。
人間に上下はありません。一列兄弟。くせがあろうとくせがなかろうとこれはもう全部神様が作ったそれぞれの徳分です。決してこの性格が良い、この性格が悪いなんていうものはない。色々な人が寄り添ってこの社会ができてきた。寄り合って、違う意見がぶつかり合ってこの社会ができてきた。
そうしたらやはり皆さん、違う意見の人、自分の思い通りにならない人、そういう人とも仲良くやっていく。これが一列兄弟ということであろうかと思います。
そんなことで「女は台だ、だから男を上に立てなさい」なんてこんな馬鹿な解釈を信じてはいけません。そんなもの天理教の教えではありませんから、そういうことをくれぐれも間違えずに、この教えをしっかりと理解をして、自分自身で分からない所はお互いに、神様が「談じ合い、ねり合いが一番」とおっしゃっているんです。
分からなかったら会長さんに聞きに行く、というのではなく、「会長さん、こう書いてあるけど私はこう思うんですが」ということで「談じ合い、ねり合いが一番」とおっしゃっている。だから教会でもそれぞれの人がそれぞれの立場でそれぞれの考え方を出し合う、そして「ああ、そういう考えを持っているんだ」ということを聞きながらさらに自分の心を広くしていく。これがこの教えを信ずる元です。
だから、誰かがこう言っているからこのとおりやればいいんだ、なんて考えないこと。自分がどうしたらいいのかを自分でしっかり教理を学んで、そして先輩方に「こう思うんですけどどうでしょうか」とたずねれば、その先輩方からは「私はこう思うけれどあなたはどう?」とかえってくる。これでこの道は進んで来たんです。談じ合い、ねり合いというので来た。「誰かが言っているからこれが一番正しい」、あるいは上に立って「こうしろ」なんていうことは、絶対にこの教えにはありません。
この教えはやさしいけれども難しい。今日の鳴り物でも、皆さんぐちゃぐちゃになっていましたね。地方も私も含めてぐちゃぐちゃになっていました。これは教祖が教えてくれた歌い方であり、打ち方、鳴らし方なんです。それをしっかりと教祖の言うことを素直に受け入れて、自分の我を出さないように。しかしながら人間は十人が十人全部違う。十人が違うけれども、その十人が一所懸命心を合わせて打っていく、これが一手一つという意味なんです。
天理教は全部一つになるんじゃありません。一人ひとりが全部違う。違うけれども神様を中心に皆心をそろえていこう、これが一手一つ、一手一つの輪という大事な教えでもあります。
一人ひとりが自分の特性を殺すということでは決してありません。むしろ特性を生かして、その中でお互いが相手を尊重し合って陽気ぐらしの世界を作ろうという風に考えております。
本日は誠にありがとうございました。