2025年(立教188年)1月春季大祭神殿講話 ~教祖140年祭まであと1年~

1.春季大祭の意味
 皆さん明けましておめでとうございます。昨年中は日帝分教会の上に本当にご尽力いただきましてありがとうございました。

 今月は春の大祭で、おぢばでは1月26日に執行されます。当教会からも10人ほどの方が団参で行っていただくことになりました。
 皆さんもう耳にたこができるほど聞いてお分かりかと思いますが、「明治二十年陰暦正月二十六日、子供の成人を急き込まれ、定命を縮めて現身をかくされた」。
 教祖は115歳定命とおっしゃっておられましたけれど、90歳で25年の定命を縮められて、身を隠されたあと本席様を通じて教祖のお話を伺ったところ、「何処へも行てはせんで」「今迄とこれから先と、どう違うて来るか確り見て居よ」。
 存命のままお前たちを助ける、なぜかというと、教祖は(現身をかくされた)明治20年の1年前の明治19年1月にも監獄に入れられてしまいました。この極寒の寒い中、吹きさらしの、道路に面した格子のある所です。そこへ数え90歳の老人を、女性を監獄へ入れた。なんでかというと、人間は平等である、人間は神の子である、天皇であろうと将軍であろうとそんな差はない、人間は全部平等、親神の一列かわいい子どもである、そういうことを教えられたことから、これは国の方針に合わないということで、教祖はなんと18回も投獄をされています。
 悪いことをした訳ではなく、子どもを助けたい、皆人間は平等なのだということをお話しされたために、18回も牢獄に入られた。最後は89歳。明治19年1月にまた牢獄に入れられてしまいました。
 そんなことで皆教祖のことを心配して、にをいがけに出ない。おつとめをやらない。おつとめをするとすぐに捕まり、教祖が監獄に入れられる。ということから教祖は子どもを助けるために25年の寿命を縮めて、じゃあ姿をなくそう、そして存命のまま助ける、ということで現身を、見える姿を隠されても助けてくださるということで教祖は存命でいらっしゃる。
 教会でも今日は大祭ですから、親神様と御霊様の御扉を開いてますけれど、教祖殿は一年中開きっぱなしです。「扉開いて」ということでね。一年中御扉は開いて常に私たちの身近にいてくださる。

2.ふしから芽が出る
 その教祖が身を隠されて今年で139年目になります。来年がちょうど140年目。ということで十年ごとに行われる年祭、来年が140年祭。教祖が50年ものひながたの道を通ってくださいました。
 諭達の中の「水を飲めば水の味がする」というのも実はみんな施してしまって家の中で食べるお米もない、米びつが空っぽになった時に娘のこかん様が「お母さん、もう、お米はありません。」と言った時に教祖が、「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」。
 つまり、食べる物がなにもなくても水がのどを通るじゃないか、そして水を飲めば水の味がするじゃないか、と皆をはげまされた。それも貧乏じゃないんです、教祖にお礼に持って来た物を貧しい人に全部施されて教祖は食べる物がない。そんな施し尽くされた中でも水を飲めば水の味がする、そしてこんなどん底で皆つらい思いをしている時にでも教祖は子どもさんたちに「ふしから芽が出る」。
 竹でもなんでもそうですが、人間は何でもない時は成長しません。ところが病気になった、あるいは色々な事情ができて苦しんでいる。それを「ふし」と言いますけれど、そういう「ふし」になった所から実は芽が出てくるんだ、成長するんだと。竹はまっすぐな所から芽は生えてこない。ふしからしか出てこない。それがふしから芽が出るということで、苦しい中こそ喜んで通ろうということを教えてくださいました。

3.神様の教え
 そして、人を助けたら我が身助かると教えて下さった。拝んだら我が身助かる。物をあげたら我が身助かるじゃありません。人を助けたら我が身助かる。人を助けなさい。これが教祖が教えてくださった道です。その教祖が身を隠されてから、来年は140年祭。もう何が何でも帰らせていただきましょう。
 それで教祖がなんで25年もの自分の御寿命を縮めて現身を隠されたかというと、神様の教えを伝えようと思うと捕まる。それで姿を見せていてはだめだからということでなんとかこの教えを伝えようということで身を隠されたんです。教祖がそこまで私たち子どものためを思って身を隠されたのはなぜかというと、「教えを伝えなさい」と言うためなんです。「おつとめをしなさい」と言うためなんです。皆さん神様の教えを分かっているでしょうか?こういうおさしづがあります。

「今までに教えたるは腹の立たぬよう、何も心に掛けぬよう、心澄み切る教やで。」(明治二十年三月二十二日)

 難しいことは何もおっしゃらない。「今までに教えたるは腹の立たぬよう、何も心に掛けぬよう、心澄み切る教やで」。腹の立たない、心に掛けない、心が澄み切る教えだ、それでそういうことで神様は教えてくださった。そしてまたこういうおさしづもあります。

「皆んなこれ教という理がある。教に従うて通らんから、綺麗な道がむさくろしいなる。」(明治三十年十一月十三日)

 教祖の簡単な教えです。腹の立たぬよう、何も心に掛けぬよう、心澄み切るよう。そして人を助けなさい、というこんな簡単な教えなのに、この教えに従って通らんから、きれいな道がむさくるしくなるんですね。教祖の教えさえ信じて通っていればきれいな道を歩けるのに、その教えに従わないからむさくるしい面倒な道になってしまうということをおっしゃっておられます。
 ただ神様はやさしくやさしくおっしゃってくださっていますけれど、例えば今日のみかぐらうた、十二下りで掛ける10ですから120の教えがあるわけですけれど、その120の教え、一つ一つとってみても全部意味がある。簡単な言葉なんですけれど、どんな一つ一つの言葉にも意味がある。
 例えば、十下りですか、「九ッ このたびまでハいちれつに やまひのもとハしれなんだ 十ド このたびあらはれた やまひのもとハこゝろから」。そうすると知らない人は「ああ病は気からか」と言うんですけれど、気と心は違います。
 皆さん知っているように、この身体は神様から借りている。だから神様の思いに沿った、人を助けなさい、人を喜ばせなさいと言う使い方。また先ほど言ったように腹を立てない、何も心に掛けない、心を澄み切れという教えに反した行動をしていると、神様がお前ちょっと違うぞ、と言って注意される。その注意を神様は身体に知らせてくれるんです。
 病いというのはさらになしと教祖は教えてくださっています。病気というのは無い、この世の中に病気は無い、全部これは違う心の遣い方をするから神様からメッセージをくださる。そのメッセージをくださったならば「なんで私はこういう病気になっちゃったんだろうか」と考えて心を直す。
 以前も申しあげたことがありますけれど、私が風邪を引いて病院に行ったり薬局へ行って薬を買ってきて服んで朝昼晩何服んでるんだ、と前会長に言われました。風邪薬を服んで治って喜んでいると、「お前それじゃあ病み損だぞ」と言われました。
 病んで損も得もないと思いますけれど、病んだというのは神様が皆さんに期待して、私に期待して心を直せよと言ってくれているのに、薬で治しちゃったらば心は直りませんよね。そうすると病気にならない人もいる。薬を服まない人もいる。病院に行かない人もいる。それを考えたらば明らかに損じゃないですか、病気でお金をかけるというのは。
 だとしたらせっかく病気になったなら、神様はなんで私にこういうメッセージをくれたんだろうかと思って心を一つ直す。そうすると人間のグレードが一つ上がります。これが私が親から教えてもらった、薬で病いを治したら病み損だぞ、という意味だろうと思います。
 神様は私に期待してこういう病いをくださったんだと喜んで心を一つ直す。せっかく病気をしたならば、病気で得をしなければいけない。これが神様からの手引きというもので、どうやってしっかりと受け止めるかということだと思うんです。
 このみかぐらうたには、こういう小さな一つひとつの教えがいっぱい詰まっているんです。皆さんに私の書いた「みかぐらうたと元の理」という本を差しあげましたけれど、あれを「これはどういう意味だろう」ということで読んでもらうと分かります。ああそうか、病いは気からとは違うんだ、心遣いが違うから心を直しなさい、ということで気のせいだなんていうことではありません。
 そして大きな病いほど神様が期待している証拠なんです。だから神様に大きな病気をいただいた方は、ちゃんとしっかりと神様と向かい合って自分の心づかいを考えてみましょう。
 「なにゝてもやまいいたみハさらになし 神のせきこみてびきなるそや」というおふでさきがあります。病いというのはそんなものはない、全部神の手引きなんだ。決して病いが来ても、あ、神様は私に何を期待しているんだろう、と心勇んでそれを受け止める。そういうことがこの教えの神髄にあります。

.借りものに感謝
 どうか皆さん、この年の初めにこの教えの中で一つでもいいですから、理解してほしいんですが、その中で特にこれというものを挙げるとすれば、身体は神からの借りものだということ。
 私、今ひざが痛くて正座がしんどいんですけれど、自分のものだったら正座なんかできるはず。どんなことでも、自分の身体だったら自由に使えて治せるはず。しかし自由になりません。病いをいただく。それはなぜかというと、これは借りものだからです。だとしたら、この借りている身体を大事に使わせていただくことで毎日神様に感謝をする。神様に対する御礼は自分の周囲の人を喜ばせること。これが神様が喜んでくださる道ですから。
 どうか皆さん、せっかくこの道に引き寄せられた以上は一つでも二つでも自分の心を直す。いつも陽気で楽しい生活ができるように神様に感謝をし、お願いをする。こういうことをこの一年努めていただいて、来年1月26日には心楽しく教祖140年祭を迎えられるようにしてください。
 昨年10月に真柱様がこういう風におっしゃられました。「140年祭は来年の1月26日に来るけれども、おぢばに帰れる人も帰れない人もその日を心楽しく迎えられるように考えてください」とおっしゃられました。おぢばに帰れないから迎えられないわけではない。その日を心楽しく迎えられるように、この三年千日の残り1年をしっかり頑張ってください。
 どうか皆さん、自分のそばにいるひとを喜ばせる、楽しませる、助ける、そういうことを今年一年努めていただきたいと思います。

 本日は誠にありがとうございました。

2025年04月08日