2024年(立教187年)12月月次祭講話 ~「思い込み」は神様のおかげ~
1.思い込みとは
ただ今は12月の納めの月次祭を賑やかに陽気におつとめいただきました。誠にありがとうございました。
そしてまた今年一年、日帝分教会の上に何かとお心添え、お力添えいただきまして、無事に日帝分教会も大教会、本部へのつとめができました。高い所からですが皆さんに御礼申しあげます。
教祖140年祭が再来年1月26日に執り行われます。教祖がこの3年しっかり通れば50年分に受け取ってやるということで、天理教では三年千日というスローガンのもとに皆さんがんばっていただいております。年を越せばいよいよ最後の一年ということになります。
ちなみに、最後の一年がんばれば再来年1月26日の年祭が迎えられる、ということを我々は思い込んでいる。今日はその「思い込み」ということについてお話をしたいと思います。
韓国では、大統領が自分の身が危ないと思い込んで戒厳令などを出して、罪に問われてもしかしたら監獄へ行くかもしれない。あるいはロシアという大国は、隣のウクライナが自分の所へ攻めてくるんじゃないかという思い込みのもとに戦争が始まってしまいました。思い込みというのは本当に怖いことにもなります。
10月の大祭で真柱様は「再来年の1月26日におぢばに帰って来られない人も、心が陽気にその日を迎えられるようにしてもらいたい」というお話をされました。おぢばに帰れる人はもちろんですが、帰れない人でもその日は心が陽気に明るく、三年千日つとめさせてもらったという思いで迎えてください、とおっしゃられました。しかしそれについても、あと一年間元気でいられるという思い込みがあります。
「思い込み」というのは実は大変に難しいものですけれど、その最たるものは何かと考えてみましょう。
暮れになりまして、私の所に喪中のハガキが届きます。90歳・100歳の親が出直した、とある。人の命にもうこれでいいというのはありませんけれど、それを読ませていただく私どもからすると、90過ぎての出直しは結構でしたなあという気がする。
ところが60だとか70そこそこで出直している方がいます。しかも私よりも年下の方たち。そうなるとこれは御本人もきっとまさか60代で出直すと思っていない。私自身もまさか来月出直すとは思っていない。つまり来月も生きていけると思い込んでいる。再来年の1月26日もおぢばに帰れると思い込んでいる。
2.思い込みは神様のご守護で実現できる
そうすると実は、思い込みというのは肝心なことが一つ抜けているんです。何かというと神様の御守護です。
身体で考えたら、この身体は神様からお借りしているんだということを忘れてしまうと、来年も再来年も150年祭も参拝できるなんてことを思い込んでしまう。つまり一番大事な、この身体は神様からお借りしているんだ、ということを忘れてしまうと人間は勝手な思い込みをすることになるんです。
たとえば、私の所に来年5月28日に講演をしてくれという旭川の医師会からの依頼がありました。28日の夕方なので、午前中の飛行機で行って夕方講演をして、夜に懇親会に参加してホテルに泊まって翌29日に帰ってくればいいという風にパッと決めました。そうしたらつい昨日ですか、神奈川県の医師会から講演をしてもらいたい、5月29日の夕方にしてくれ、と。旭川の講演が28日ですから、帰ってきて29日だから行けるとこれも軽くお受けしますと言ったんです。
ところがよくよく考えてみました。そうするとまず、5月28日の旭川に行ける日までちゃんと私は元気でいられるかどうか、元気であっても講演ができる身体であるかどうか、そしてその日飛行機が飛ぶかどうか、そして飛行機が無事に着くかどうか。そして旭川で講演が終わっても翌日飛行機でちゃんと帰って来られるかどうか。ちゃんと帰ってきても夕方の神奈川県の講演に行かれるかどうか。そして講演が無事に済むかどうか。
考えてみたら全部思い込みです。飛行機は飛ぶ、健康だ、28日まで生きている、29日も生きている、講演もできる。何の支障もない、ということを思い込んでいる。ところが一つ狂ったら、つまり旭川に行く飛行機が飛ばなければ旭川まで行けない。下手したら帰っても来られない。あるいは体調が悪かったら両方ができない。
つまり、いくつもの「もしも」というのが全部積み重なって、それが全部うまくいって初めて2つの講演ができるんです。そうすると全部うまくいくというのは私の思い込みに過ぎないというこうとにハッと気が付いた。神様が「お前そんなこと言っているなら一つ狂わせるぞ」といった瞬間に全部できなくなる、と考えてみると、私たちが明日も元気で生きられる、明日もごはんが食べられるというのは全部思い込みなんです。
そうであるなら、その思い込みが実現して明日も生きていられた、明日もご飯が食べられた、明日も人と話ができた、明日も楽しいことができたとなったらその日の夜、今日無事に私が思い込んでいたことを全部通していただいて神様ありがとうございました、ということが言えるはずです。
明日生きていて、明日ご飯を食べて、明後日誰かさんと遊びに行こう、これ全部今言ったように思い込みの世界。それを実現していただくのが神様から健康な身体をお借りしていない限りできない。
だったらせめて、一日が終わって今日一日長生きができた、今日一日ご飯が食べられた、今日一日友達と遊べた、という日の寝る時に「神様、私の思い込みをその通り実現していただきましてありがとうございました」という感謝をすれば、また神様は「そうかそうか分かったか」と言ってまた明日、また来月の思い込みを許してくれるのではないかな、と思うんです。
それを「俺の力で」「私の力で」今日一日頑張ったんだ、私は誰の世話にもなっていない、とよく言う人がいますね。誰にも迷惑をかけたくない、誰の世話にもなっていない。しかし人間に世話になっていないけど、神様に世話になって、神様に御迷惑かけている可能性が高い。そしたらやっぱり一日終わる時には今日一日ありがとうございました、という感謝の思いを出していく。
3.神様へ感謝しよう
つまりこの思い込みというのは、人間が思っているだけで、思い込みを実現してくれるのは神様しかいないんだということを改めて思いました。そんなことで来年の5月28・29日と北海道行ったり神奈川行ったり、しかも飛行機を乗り継いでいくというこんな話で、私は「はいよ」とカレンダーだけ見て受けたんですけど、そもそも飛行機以前にその日まで元気かどうか、生きていられるかどうかも分からない。
そうであるなら、神様どうか私の思い込みを、一所懸命神様のことをやらせていただきますから実現をさせていただきたいという風に拝むのが自然でしょう、という風に自分で思いまして、まずさっそく「神様自分が勝手に思い込んで約束を受けてしまって申し訳ありませんでした」とお詫びをしました。
そんなことで皆さん、今年一年過ごせたということは、去年皆さん誰も今年出直しすると思っていない。まあ来年は生きているだろうなあ、再来年も生きてるだろうなあという中で今日を迎えられたならば、やっぱり今年一年、今日一日、過ごせたことについてしっかりお礼をさせてもらう。こういうことで神様につながる。神様がそうかそうか分かった、もっと貸してやろうという思いで神様にこちらを向いていただく。そういう思いを改めて感じたわけでございます。
そんなことで年の暮れにいつもの同じ話ですけれど、身体は神様からお借りしているもの。このお借りしている身体を長く使わせてもらうために、神様の思いは「人様を喜ばせてくれよ」ということです。
身体が動かなくても、言葉で褒めるだけでも人様を喜ばせたら、神様から必要な人間だと思われることになるでしょう。そんなことでそれぞれのお立場、あるいはそれぞれの身体の状況の中で人様に喜んでもらえるようなことを一日一つは考えて、一日が終わる時には感謝をして休ませてもらう。こういう日常をお過ごしいただきたいと思います。
本当にこの一年間、この日帝分教会の上にお尽くしいただきまして改めて御礼申しあげます。
また来年、三年千日最後の一年ですが、今申しあげたように神様に身体を貸してもらうための、生かしてもらうためにも、どうやったら人様が喜んでくれるかということを、どうか常に心に念じて暮らしていただきたいと思います。
本日は誠にありがとうございました。