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2025年(立教188年)5月月次祭神殿講話 ~種をまく旬~

1.旬の意味
 ただ今は5月の月次祭、人数が少ない中でしたけれど陽気につとめさせていただきました。皆さん鳴り物も一所懸命にやって、おてふりも一所懸命にやって、鳴り物をしている方は鳴り物がぴたっと合うと自分も心楽しいですが、何よりもてをどりしている人たちを勇ませるんです。
 てをどりをしている人たちは、やはり鳴り物の音を頼りに勇ませてもらう。鳴り物がぐちゃぐちゃだと踊る方もなんとなく心が勇まない。つまり鳴り物は自分も勇むけれども、人様を喜ばせるという、まさに人を助けて我が身助かるという見本みたいなものです。
 そして諭達にも「身上事情で悩む人々には、親身に寄り添い、おつとめで治まりを願い」と書いてあります。つまりおつとめをすることでそれぞれの悩んでいる方たちが治まっていくことができる。それぐらいおつとめというのは非常に大切な、自分も助かるけれども、何よりもおつとめをしっかりとやることで人様が助かるという、非常に大切なものです。
 そんな中でもう耳にたこができているように思われるでしょうけれど、教祖140年祭、来年1月26日です。その140年祭に向けて三年千日を皆で一所懸命にやらせてもらいましょう。この三年千日というのは、年祭までの3年間、1000日間を一つでもいいから教祖のひな形を通らせてもらうということになっているわけです。そこでなぜ三年千日にやらなくてはいけないのか、ということについて、今日は「旬」ということについてお話をしたいと思います。
 皆さん、旬の野菜はおいしいとか、今あの人は旬だね、とか色々「旬」という言葉を使います。「旬」というのはおそらく色々な意味があるでしょうけれど、一番ふさわしいとか、一番出来がいいとか、一番ぴったりした時期とか、こういうことだろうと思うんです。
 私は夏休みは田舎でずっと過ごしていましたけれど、毎朝畑に行ってきゅうりとかなすとかいんげん豆をとってくるんです。そうすると毎日毎日食べているからだんだん飽きてきましたけれど、今考えてみるとあんなに生きのいいなすやきゅうりは食べたことがないです。それぐらい夏に食べるきゅうりはおいしい。ところが今は温室だから真冬でもきゅうりはあります。ところがやはり「旬」というのは、本当においしいものは夏の季節にあるもの。りんごだって真冬のりんごはおいしい。夏にもりんごは出ているけれど、それは冬にとったりんごを食べているわけで、旬のりんごというのは冬のものです。
 そういう風に考えますと、「旬」というのは何事にも一番ふさわしい、一番適切な、ということになるんですけれど、この「助かる」、我々が神様から助けてもらういわば一番助けてもらう季節、旬というのが、実はこの年祭なんです。その年祭の三年千日をしっかりやらせてもらおうということで、これが旬を生かしていこうということなんです。

2.種をまく旬
 これは聞いた話ですけれど、白菜というのは真冬がおいしいですね。12月、1月、2月の真冬の白菜というのは本当においしい。まさに白菜の旬というのは真冬なんですけれど、私は都会で育っていますから、物が出来あがったところを食べることを旬というのだと思っていた。ところが、その白菜には、種をまく旬もあるというんです。これは8月の15日、お盆の前後だそうです。このお盆に忙しいからと言って先にまいたりお盆の後にまいたりすると、実は冬のあんなに素晴らしい白菜ができないのだそうです。
 つまり、旬というのは種をまく時にも旬があるということ。適切な時期というのがあるということ。これはまさに旬に種をまく、この三年千日で、教祖140年祭までの三年千日の旬と言うのはこういうことなんです。刈り取ることではなくて種をまく時なんです。その旬についてこういうおさしづがあります。

「寄り来る処、日々種を蒔く、一つ種を蒔く。旬々の理を見て蒔けば皆実がのる。旬を過ぎて蒔けばあちらへ流れ、遅れてどんならん/\、」(明治二十二年七月三十一日(陰暦七月四日))

「旬々が来る。旬と見たら運ばねばならんで。」(明治二十三年七月二十二日(陰暦六月六日))

という教祖のお言葉なんですが、「一つ種を蒔く。旬々の理を見て蒔けば皆実がのる」、実が成る。「旬を過ぎて蒔けばあちらへ流れ、遅れてどんならん/\」、肝心な時にあっちへ流れて実が成らなかったり、遅れて実が成ったり。どうもならん。つまり「旬々の理を見て蒔けば皆実がのる」、すると「旬々が来る。旬と見たら運ばねばならんで」。まさに三年千日。
 この三年千日の間、運ぶというのはどんなことかと言いますと、親元へ運ぶということです。皆さんも親がおありでしょうけれど、親元に運ぶ、まあ私なんかでも親ですからやはり子どもが来てくれるというのは本当に嬉しいものです。孫まで来たらもっと嬉しい。そのように人間ですら子どもが来るのが嬉しいんですから、人間の元の親である神様が、子どもたちが来たらどれだけお喜びになるか。神様が喜んでくれたならばどれだけご守護をくれるか、ということなんです。
 だから皆さん、この旬の三年千日の間にせめて親元、おぢばへ帰らせてもらう。これが「旬と見たら運ばねばならんで。」という意味なんです。そして旬に種をまく、旬に運ぶとどういうことが起きるかというと、ご守護がいただける。

3.守護というもの
 ご守護というのは大変なんです。実は昨日私の友人から電話がありました。「いよいよ透析をすることになっちゃった」と。透析ってどれくらいやるんだ?と聞きました。私は週に一度くらいかと思っていたら月水金とやるんだそうです。一日おきにやる。そうするとその数時間の間なにもしないで、要するにもう透析が主で機械に血液をきれいにしてもらう。血液が汚れたら生きていけませんから。そうすると私たちは自然の透析を神様がしていてくださっている。
 友人は病院に行って月水金、さらにこう言われたそうです。透析をやると大体寿命は4~5年ですと言われたそうです。それでかなり落ち込んでいました。考えてみれば私たちの年齢で4~5年というと82~3歳。もはや82~3歳まで生かしてくれるという保証をもらったようなものじゃないかとは言いましたが、先日申しあげましたけれど、明日死ぬかもしれないけれど誰も死ぬとは思っていない。ところが透析をやる人は、この透析というのは機械でやるので4~5年が寿命なんだよと医者に言われたそうです。
 私どもは機械ではない、自然の神様のご守護で透析を身体の中でやってもらっている。そうするとそのやってもらっていること、これがまさにご守護なんです。そのご守護が切れた時には人間が作った機械を使わなければいけない。今は何とか彼がたすかるように神様のお話をさせてもらっています。
 うちの前会長がよく言いました、「耳も眼も歯も、人工のものは高いよ」と言いました。私の母は網膜剥離で片眼を摘出しまして義眼を入れた。義眼になって年を取ってだんだん肉が落ちてくると眼も小さくしないといけない、義眼も入れ替えなくてはいけない。耳は耳で補聴器を入れなくてはいけない。あと歯は歯で入れ歯を入れていました。全部自分の物だから高いよ、と言っていました。
 しかし我々は眼は神様から借りている。耳も神様から借りている。歯も神様から借りている。全部借りもの。借りものにお金を一円も払っていないじゃないですか。これがご守護と言うんです。そうするとそのご守護をもらうためには、旬に運べとおっしゃっている。そしてそのご守護についてこういうおさしづがあります。

「皆どんな事も守護ありて成るもの/\。」(明治三十三年六月三日)

 どんなこと、今話したことですね、友人が透析をやるけれど私はやらない、こんなことも「守護ありて成るもの」。色々な病気がある、あるいは家の中で心配がある。それも何もそれなりに動いている、それは全部守護があるから。ではその守護をもらうためにはどうしたらいいかというと、

「人間心立てゝ神の理薄なる。神の理薄なりて何の守護有るか無いか、よう聞き分け。」(明治三十一年一月十九日(陰暦十二月二十七日))

 人間心を立ててしまうと神様からいただくご守護が薄くなる。神の理が薄くなったならば何の守護があるかないかよく聞き分けろ、と。つまり神様の理が薄くなる、神様のご守護が薄くなるということは、神様の所へ運ばないということです。神様に感謝をしないということです。
 神様のもとに運び、神様に感謝をして日々御礼を申しあげる。そして何があってもこの月次祭は神様のもとに行かせてもらおう、そしておつとめを手伝わせてもらおう。でも今日は忙しいから行けないなあという、これは人間心です。
 人間心を立てると神の理が薄くなる。神の理が薄くなったらば何の守護があるかないかよく聞き分けろ。つまり神様は常々旬の時には旬の種をまく。そうすればご守護によってどんなことでも成ってくる。そして人間心よりも神様の方の理を立てる。たったこれだけのことで健康で病院にもかからず、毎日食べたいものを食べ、ゆっくり眠くなって休ませてもらって、朝ぱっと目が覚める。
 全部神様のご守護だということを、「皆どんな事も守護ありて成るもの/\」。ぜひこういう思いで、何が起きてもありがたいな、何か人から見たらつらいことであっても「ああこんなことで良かったなあ」という風に喜ぶ。それがご守護をさらにいただけることであろうかと思います。

4.悩む人に寄り添う
 いつもながら思うんですけれども、当たり前と思っていたことが、今回改めて友人から聞かされて、そうか、神様のご守護がなくなると血液をきれいにするために週に3回も一日おきに自分の時間がなくなって、しかも生きるためにそれをやらないと生きていけない。それでもお医者さんからすると寿命は4~5年ですよと言われてしまった。そんなことを考えたら、私たちどれだけありがたいご守護をいただいているかと思います。
 一方でそういう方たちに対して言葉を掛ける。身近に寄り添ってお助けに行かせてもらう。これが大事なことです。病んだ人を見て「私は良かったなあ」だったらこれは並みの人。病んだ人を見て自分のことを神様に感謝をするけれども、どれだけつらいだろうかと思ってその人に寄り添う。これが人を助けて我が身助かるという意味です。
 どうかつらい人を見た時には、つらい人に何ができるだろうかということを一つ考えて、言葉でも良いんです、言葉だけでも良いから「おつらいですね」「何か私にできることはありませんか」ということを声を掛けるだけでも神様の気持ちに沿った生き方になろうかと思います。

 さて、今月は団参を予定しております。一人でも多くの方とご一緒におぢばがえりをしたいと思いますので、どうかよろしくお願いします。
 常に神様に心をつなぐ、教会に心をつなぐ。常に頭の中で神様、神様とつないでおく。これだけで神様は常に皆さんの、私たちの身の周りにいてくださいます。神様を忘れたって、神様は親だから見守ってくれています。皆さんの親と同じ。それ以上に我々を作ってくださった神様ですから、我々につらい思いをさせないように色々心を配ってくださいます。せめて「神様、神様」という気持ちだけはつないでいきたいと思います。
 これからまた暑くなったり寒くなったり、梅雨も始まるでしょうけれども、どうか体調を崩さずに感謝の心を持って、この一か月お過ごしいただきたいと思います。

 本日は誠にありがとうございました。

2025年08月27日

2025年(立教188年)3月月次祭神殿講話 ~陽気ぐらしの心~

1.神様の立腹
 今月は色々身上のある方、事情のある方が多く、参拝される人数が少なかったですが、お子さん二人に賑やかにしていただきました。お陰で皆おつとめが心楽しくできました。
 この、人を楽しませる、喜ばせるということも大変に神様が喜んでくださることです。きっと二人のお子さんには神様が素晴らしいご褒美をくれると思います。
 一方で、2月26日から大船渡で大変な山火事がありました。私は山火事とは山で起きているもので、まさか人家が燃えるなんて思ってもいませんでしたけれど、人家が何軒も燃えてしまいました。
 特に三陸の方たちは、14年前の3.11の大津波からようやく立ち直ったところにまたこんな山火事が起きてきた。本当にお気の毒です。ただ、単にお気の毒になあとだけ思ってしまっては、実はこのお道を信仰している人たちの考え方とはいえないんです。諭達にもありましたけれど、「親神様は、人間の心得違いを知らせようと、身上や事情にしるしを見せられる。頻発する自然災害や疫病の世界的流行も、すべては私たちに心の入れ替えを促される子供可愛い親心の現れであり、てびきである。」ということです。
 こういうおふでさきがあります。

 「このせかい山ぐゑなそもかみなりも ぢしんをふかぜ月日りいふく」(6-91)

 この世界の「山ぐゑ」、山崩れです。山崩れや雷だとか、地震や大風、台風のこと、これは、「月日りいふく」、神様が立腹されてるんだ。

「かみなりもぢしんをふかぜ水つきも これわ月日のざねんりいふく」(8-58)

 雷も、地震も台風も大きな洪水も、これは月日の残念立腹であるというおふでさきです。じゃあ地震だとか雷だとか、その山火事を受けた人たちに対して神様が怒ってるのか、という風に考えてしまうと、これは間違いです。

「心一つというは優しい心もあれば、恐ろしい心もある。知らず/\の心もある。どんな事見せても、人の事のように思てはその日限り、あれはあれだけと思えば、それまでのもの」(明治25年1月13日)

というおさしづがあるんです。みんな信仰している以上、心一つ神様の御心を自分の心として、心一つで暮らしていこう。実は心一つというのは本当にありがたい自由で

「どんな暗がりの中でも、心一つで通れる。どんな明るい中でも、心が無けりゃ通れようまい。」(明治24年5月29日)

 どんな暗がり、どんな辛い中でも、神様を頼っている心一つがあれば通れるだろう。しかしどんな明るい中でも、その神様を信じる心がなかったらば、「通れようまい」、通れないだろう、というおさしづがあるんですけど、まさに、心一つというのは、神様の御心を自分の心とするということです。

2.心一つ
 そこで先ほどのおさしづをもう一回言います。「心一つというは」、神様の心を自分の心とするというは、「優しい心もあれば、恐ろしい心もある。知らず/\の心もある」、知らず知らず勝手な心遣いをしている心もある。そしてその後、神様はこんなことをおっしゃるんですね。「どんな事見せても、人の事のように思てはその日限り、あれはあれだけと思えば、それまでのもの」。いいですか、三陸の津波、あるいは今回の大船渡の山火事。「どんな事見せても、人の事のように思てはその日限り」、あれは大船渡の人たちだけの火事なんだ、三陸の地震も、三陸の人だけの地震なんだ。「どんな事見せても、人の事のように思てはその日限り、あれはあれだけと思えば、それまでのもの」、あれは三陸のことだ。あれは大船渡のことだと思えば、それだけのこと。
 つまり、神様が、ああいう一番辛いことを見せても頑張ってくれるような人たちのところに、神様は私たちのために見せてくれてるんです。あの人たちが悪いわけじゃない。私たちの心が神様の心に沿ってないから、神様がその中でもなんとか頑張れそうな人たちを見て、辛い思いをさせてくる。
 だから私たちは、特に天理教の災害救援ひのきしん隊なんてすぐに飛んでいってひのきしんさせていただいています。助けてあげてんじゃない、お手伝いさせてもらっている。ひのきしん隊に参加している方の思いは、困っている人を救けるのではなく、自分たちの普段の心遣いが神様の思召にかなわなかったことに対する手引きと捉え、そのお詫びと反省としてお手伝いさせてもらっているのです。
 そのように、「どんな事見せても、人の事のように思てはその日限り」だ。あれはあれだけと思えば、それまでのもの」。あれは人のこと、どんなこと見せたって、あれは他人のことだと思っている限りでは、神様はそういう思いだ、と。お前たちに伝えてるんだぞということをおっしゃってるんですから、大船渡の皆さんの辛い思いは、私達自身のものとして同じ辛さを感じましょう。なぜならば、神様は私たちに見せて、お前たちの心が悪いから、こういう人たちが辛い目見てるんだ。お前たちの心遣いが間違っているからだぞということを教えてくれてるわけですから。これがね、心一つの意味なんです。

3.陽気ぐらしの心
「見るもいんねん、聞くもいんねん。」(明治23年9月27日)

という言葉がある。他人に起きた事件を見た時に、それも自分にある因縁だ、自分がそういう事件に巻き込まれるかもしれない。あるいは、そういう事件を自分が起こすかもしれないということを神様が知らせてくださっている。
 「聞くもいんねん」、誰かの話を聞くだけでも、自分もそういうことになるかもしれない因縁があるんだぞ。つまり、人のことを聞いても、どんなことを見ても、全部これは神様が私たちに見せてくれてるんだ。気をつけなさいよ。心を人様のために使いなさいよ。人を助けなさいよということを神様が見せてくれてるんだということを思わないと、「どんな事見せても、人の事のように思てはその日限り」。
 みなさんの周囲にも苦しんでいる人、悩んでいる人がいるでしょうけど、それはその人の悩みじゃない。それを見せられている私たちに対し、神様が、そういう心使いをするなよ、とおっしゃっている。お前がそんな心を使っているから、この人はこんな辛い思いしてるんだぞ、ということを見せる。だから、兄弟なんだから、困ってる人についてはお助けをしましょう。手助けをしましょう。これが互い助け合いという陽気ぐらしの心なんです。
 陽気ぐらしとは、何ぞやということの中で、「人救けたら我が身救かる」とあります。先程の諭達です。「『人救けたら我が身救かる』と、ひたすらたすけ一条に歩む中に、いつしか心は澄み、明るく陽気に救われていく」。これが陽気ぐらしなんです。自分が飲んで食べているだけでは陽気ぐらしじゃない。自分だけが楽しんで面々(周囲の人)苦しますようでは、真の陽気とは言えんというお言葉もあります。陽気ぐらしというのは、ひたすら人を助ける。それをしていけば、自分の心が澄んできて明るく陽気に自分が救われていくよ、ということです。
 私たちは、せっかくこの教えに導かれたんですから、世の中で困っている人、あんな大変な災難にあってる人に対しても、あれはあの人の災難じゃなくて、私たちに神様が見せてくれているという、そして私たちが人を助ける心が足りないからだというふうにおっしゃっているということを考えて、大船渡の人を助けに行くのも大切です。しかし、そこに行く前に、自分の身の回りで苦しんでいる人、悩んでいる人がいるでしょうから、その人たちに一声声をかけるだけでもお助けをさせていただきましょう。
 冒頭の話に戻りますけど、鳴り物を鳴らすだけでも踊ってる人たちがこんなに喜ばせてもらえる。これは立派なお助けです。そうであるなら、自分のそばで苦しんでいる人に何とか元気になってもらおうと思ってその人に寄り添っていくというこういうことを、今月1ヶ月、ぜひ心がけていただきたいと思います。

 1ヶ月間、またどうぞよろしくお願いいたします。

※2025年4月教祖誕生祭の会長神殿講話は無し(星山分教会長巡教のため)

2025年08月27日

「社会人としての信仰」YouTube配信(2024/11/3@深川大教会)

 昨年11月3日深川大教会で開催のようぼく一斉活動日(葛飾支部)にて、会長がプレゼンターとして「社会人としての信仰」というテーマでお話をさせていただきました。
 その模様をYouTubeにて配信していますので、ぜひご覧ください

https://youtu.be/M6O7Qs5eSpQ

!YouTube視聴上の注意!
 スマホなどで動画視聴をする際は、WiFiを使っての視聴を強くお勧めします。
 通常の通信環境(4GLTEや5G)ですと、多くのデータ通信量が必要となり、契約形態によっては料金が高額となるおそれがありますので、くれぐれもご注意ください。

2025年04月08日

2025年(立教188年)2月月次祭神殿講話 ~しっかりと教えを学ぼう~

 今日は2月、今年に入りあっという間にひと月経ってしまいました。先月1月26日は大祭で、日帝分教会として団参をさせていただこうとしていましたが、思わぬ不幸がございまして中止になりましたけれども、いよいよ年祭へ向かった三年千日の三年目、最後の年に入りました。

1.誤った教理の理解に注意
 実は本部の先生からも言われたんですが、今回の140年祭の三年千日については特に本部から何をしようということが出されていないので、皆が、それぞれがしっかりと考えないとあっという間に過ぎてしまう、という話をお聞きしました。そんな中で私たちは諭達にもあるように、「教祖お一人から始まったこの道を、先人はひながたを心の頼りとして懸命に通り、私たちへとつないで下さった。その信仰を受け継ぎ、親から子、子から孫へと引き継いでいく一歩一歩の積み重ねが、末代へと続く道となるのである」。全くそのとおりで、この道は自然発生に何万人もの人が言い出したことではない、教祖中山みき様お一人に神様が入り込まれて、初めてこの世の中の真実をお説きくだされたわけです。
 教えを各人各様、一人ひとりが悟るのは結構です。けれど大元の教えを間違えていたのでは信仰にならない。
 先ほど見せていただいたある支部のパンフレットで、とんでもない二重三重の間違えがありました。「神殿には男の神様がいて、教祖殿には女の神様がいる」なんて馬鹿なことを言っています。そんなことはない。
 神殿には天理王命様がおられる。そして「ぢば」と「親神様(天理王命)」と「教祖」、その理は一つである、と。一つなんですよ。教祖イコールおぢばであり、教祖イコール天理王命であり、おぢばイコール教祖なんです。そういうことをしっかりと理解していれば、あっちには男の神様、こっちには女の神様なんて馬鹿なことを言うはずがない。しかし支部の巻頭言に書いてあるくらいですから、全員がそういう風に思っているらしい。それはとんでもない間違いです。
 人間が五分から生まれて五分五分と成人して、九十九年たって三寸になったら全部出直した。それからまた五分から生まれて九十九年たって三寸五分になった。また出直した。そして四寸になってから八千八度の生まれ変わりを繰り返してその間に虫、鳥、畜類という形を全部通ってきた。だから人間は虫も動物も鳥とも全部つながっている。ということの中で最後に「めざる」が一匹残った。その「めざる」から人間がはじめて産まれたという。これも間違いです。
 人間は生まれた五分のこんな小さい時から人間なんです。「めざる」一匹から人間が生まれたわけではありません。それは男5人、女5人の10人ずつの人間が生まれただけです。五分五分から生まれた最初から人間なんです。というその大事なことを間違えて書かれています。ところがこれがまかり通っている。
 また「女は台や」と言って男はその上に立つんだと馬鹿なことを言っています。「道の台」というのは、男でも女でもない、道のために尽くした人が「道の台」と言います。皆の基礎になって女であろうと男であろうと皆に見えないところでしっかりと支えてきた人、それを「道の台」と言いまして、これは別に女に限らない。

2.親としての心の持ち方
 そういうことをしっかりと教えがわからないで次に伝わっていくとどんどん教えが曲がります。そんなことに対してのおさしづがあります。

「台が分からねば、先先皆分からん。親が分からにゃ、子が皆分からん。」(明治二十七年三月十五日)

 つまり教祖は、台が分からなかったらその先は何も分からない。台の親が分からないから、子が分からないんだ、と言うんですね。台というのは親なんです。子どもたちを支える親が台。その台が分からないから子が分からないんだ、とおっしゃっているわけです。あるいは子どものことに関して、

「どうこうなったら子供はほんに可愛いなあ、可愛いなあ、親々親は子は可愛いなあ、治まったら世界の子可愛いなあと、この心定めてくれ。」(明治三十三年十二月四日)

 子どもというのはどんなことがあってもかわいいなあ、かわいいなあ、親は子がかわいいなあと思う。親が治まったら世界の子可愛いなあと、この心定めてくれ。自分の子がかわいいと思うように、心が治まったらば、親として自分の子がかわいいと思ったらば、それは世界の子がかわいいなあと思ってくれ、と。この心を定めてくれとおっしゃってるんですね。
 台というのは基礎です。基礎というのは親です。親が教えを分かっていないと子どもに伝わらない。
 「うちの子どもはちゃんとまじめに信仰しない」。それは当たり前です。親がちゃんと信仰していないから。また「うちの子どもは言うこと聞かないし、勉強もしないなあ」。それは親が言うことを聞かないし、勉強をしないからなんです。全部「台が分からねば、先先皆分からん。親が分からにゃ、子が皆分からん」。
 ということで、私たちは幸い親から色々な教育を授けてもらいました。あるいはしつけや礼儀も授けてもらいました。だからこそ今、外へ出てもまあともかくは恥ずかしくない振舞いができる。ところがお葬式であろうと結婚式であろうと、そういうしつけ礼儀、あるいは大人との口の利き方も含めて、そういう礼儀を親がちゃんとできていなければ子どもができないのは当たり前なんです。子どもの姿を見て、この子がおかしいんじゃなくてその子どもは親が映っている。これがこの教えの源なんです。
 教祖は、見えるものは「世界は鏡や」とおっしゃる。世界で嫌なものを見たら実は自分が嫌な心を使っている。「あの人素敵な人だな、あんな素晴らしい人がいるんだな」というのは、その人を素晴らしいと感じる自分の心が素晴らしいんです。そういう風に「世界は鏡」と教祖はおっしゃっている。だとしたら、この教えを間違いなくしっかり理解しましょう。
 中途半端に理解して女の子が生まれて「女は台だから男を立てろ」なんて言わないでください。そもそも神様はそんなことをおっしゃってない。
 私も間違えていましたが、「男女の隔てはない」というのも実は間違いで、そんな教祖の言葉はありません。「めまつをまつわゆハんでな」という言葉があるだけ。「男だ女だなどとは言わない」ということを言っているだけ。つまり、男だ女だなどということは関係ないということをおっしゃっている。
 いつの間にか私が間違えたように「雄松雌松の隔てはない」なんていう言葉に変わってきてしまっている。そんな隔ての話ではなく、そもそももっとその上、教祖は「めまつをまつわゆハんでな」とおっしゃる。男、女は言わない。人間として、神様の子どもとしてどうするかということだけをおっしゃっている。

.しっかりと教えを学ぶ
 そういう風に、ついつい私たちは間違った自分の解釈を人に言っているかもしれない。そんなことのないようにしっかりとこの教えを学んで、人にお伝えしていただきたいと思います。
 その中でもよく知られているのが、今日諭達で読んだ「水を飲めば水の味がする」、これご承知ですね。神様はなんでこんなことをおっしゃったかというと、「お母さんお米がありません」と、教祖がすべてを施してしまった時にこかん様が教祖に言った時に言われた教祖のお言葉です。
 「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。」
 つまり貧のどん底の中でも、「水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」。ということで貧のどん底の中でも水の味を感じて喜ぶ心、他人と比較して喜ぶのではなく、そのこと自体を喜ばせてもらう、これがこの意味なんです。
 また、ふしから芽が出るというのは、皆さん当たり前のように思っていますけれど、「ふし」でない何もない、竹なんかのつるっとした所からは枝は出てこない。ところが「ふし」という所から、そこから竹の枝が出てくる。つまり「ふし」というのはつらいこと、悲しいこと、本当に嫌なことがあっても「ふし」だと思った時に教祖はその「ふし」があったからこそ本当の芽が出てくるんだよ、「ふし」があればこそ幸せになるんだよ、と教えてくださった。これもやはり苦労の中から喜びを探すということです。
 そして最後に、「神様どうしたら私は助かるんでしょうか、助けてください、お供えは何でもしますから」、とか「私は神様のおかげで助かりました、そのお礼はどうさせてもらいましょうか」と言った時に、教祖は「人を助けなされや」とおっしゃった。それが「人を助けたら我が身助かる」。助かりたければ人を助けなさい、これが天理教の神髄なんです。
 人間に上下はありません。一列兄弟。くせがあろうとくせがなかろうとこれはもう全部神様が作ったそれぞれの徳分です。決してこの性格が良い、この性格が悪いなんていうものはない。色々な人が寄り添ってこの社会ができてきた。寄り合って、違う意見がぶつかり合ってこの社会ができてきた。
 そうしたらやはり皆さん、違う意見の人、自分の思い通りにならない人、そういう人とも仲良くやっていく。これが一列兄弟ということであろうかと思います。
 そんなことで「女は台だ、だから男を上に立てなさい」なんてこんな馬鹿な解釈を信じてはいけません。そんなもの天理教の教えではありませんから、そういうことをくれぐれも間違えずに、この教えをしっかりと理解をして、自分自身で分からない所はお互いに、神様が「談じ合い、ねり合いが一番」とおっしゃっているんです。
 分からなかったら会長さんに聞きに行く、というのではなく、「会長さん、こう書いてあるけど私はこう思うんですが」ということで「談じ合い、ねり合いが一番」とおっしゃっている。だから教会でもそれぞれの人がそれぞれの立場でそれぞれの考え方を出し合う、そして「ああ、そういう考えを持っているんだ」ということを聞きながらさらに自分の心を広くしていく。これがこの教えを信ずる元です。
 だから、誰かがこう言っているからこのとおりやればいいんだ、なんて考えないこと。自分がどうしたらいいのかを自分でしっかり教理を学んで、そして先輩方に「こう思うんですけどどうでしょうか」とたずねれば、その先輩方からは「私はこう思うけれどあなたはどう?」とかえってくる。これでこの道は進んで来たんです。談じ合い、ねり合いというので来た。「誰かが言っているからこれが一番正しい」、あるいは上に立って「こうしろ」なんていうことは、絶対にこの教えにはありません。
 この教えはやさしいけれども難しい。今日の鳴り物でも、皆さんぐちゃぐちゃになっていましたね。地方も私も含めてぐちゃぐちゃになっていました。これは教祖が教えてくれた歌い方であり、打ち方、鳴らし方なんです。それをしっかりと教祖の言うことを素直に受け入れて、自分の我を出さないように。しかしながら人間は十人が十人全部違う。十人が違うけれども、その十人が一所懸命心を合わせて打っていく、これが一手一つという意味なんです。
 天理教は全部一つになるんじゃありません。一人ひとりが全部違う。違うけれども神様を中心に皆心をそろえていこう、これが一手一つ、一手一つの輪という大事な教えでもあります。
 一人ひとりが自分の特性を殺すということでは決してありません。むしろ特性を生かして、その中でお互いが相手を尊重し合って陽気ぐらしの世界を作ろうという風に考えております。

 本日は誠にありがとうございました。

2025年04月08日

2025年(立教188年)1月春季大祭神殿講話 ~教祖140年祭まであと1年~

1.春季大祭の意味
 皆さん明けましておめでとうございます。昨年中は日帝分教会の上に本当にご尽力いただきましてありがとうございました。

 今月は春の大祭で、おぢばでは1月26日に執行されます。当教会からも10人ほどの方が団参で行っていただくことになりました。
 皆さんもう耳にたこができるほど聞いてお分かりかと思いますが、「明治二十年陰暦正月二十六日、子供の成人を急き込まれ、定命を縮めて現身をかくされた」。
 教祖は115歳定命とおっしゃっておられましたけれど、90歳で25年の定命を縮められて、身を隠されたあと本席様を通じて教祖のお話を伺ったところ、「何処へも行てはせんで」「今迄とこれから先と、どう違うて来るか確り見て居よ」。
 存命のままお前たちを助ける、なぜかというと、教祖は(現身をかくされた)明治20年の1年前の明治19年1月にも監獄に入れられてしまいました。この極寒の寒い中、吹きさらしの、道路に面した格子のある所です。そこへ数え90歳の老人を、女性を監獄へ入れた。なんでかというと、人間は平等である、人間は神の子である、天皇であろうと将軍であろうとそんな差はない、人間は全部平等、親神の一列かわいい子どもである、そういうことを教えられたことから、これは国の方針に合わないということで、教祖はなんと18回も投獄をされています。
 悪いことをした訳ではなく、子どもを助けたい、皆人間は平等なのだということをお話しされたために、18回も牢獄に入られた。最後は89歳。明治19年1月にまた牢獄に入れられてしまいました。
 そんなことで皆教祖のことを心配して、にをいがけに出ない。おつとめをやらない。おつとめをするとすぐに捕まり、教祖が監獄に入れられる。ということから教祖は子どもを助けるために25年の寿命を縮めて、じゃあ姿をなくそう、そして存命のまま助ける、ということで現身を、見える姿を隠されても助けてくださるということで教祖は存命でいらっしゃる。
 教会でも今日は大祭ですから、親神様と御霊様の御扉を開いてますけれど、教祖殿は一年中開きっぱなしです。「扉開いて」ということでね。一年中御扉は開いて常に私たちの身近にいてくださる。

2.ふしから芽が出る
 その教祖が身を隠されて今年で139年目になります。来年がちょうど140年目。ということで十年ごとに行われる年祭、来年が140年祭。教祖が50年ものひながたの道を通ってくださいました。
 諭達の中の「水を飲めば水の味がする」というのも実はみんな施してしまって家の中で食べるお米もない、米びつが空っぽになった時に娘のこかん様が「お母さん、もう、お米はありません。」と言った時に教祖が、「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」。
 つまり、食べる物がなにもなくても水がのどを通るじゃないか、そして水を飲めば水の味がするじゃないか、と皆をはげまされた。それも貧乏じゃないんです、教祖にお礼に持って来た物を貧しい人に全部施されて教祖は食べる物がない。そんな施し尽くされた中でも水を飲めば水の味がする、そしてこんなどん底で皆つらい思いをしている時にでも教祖は子どもさんたちに「ふしから芽が出る」。
 竹でもなんでもそうですが、人間は何でもない時は成長しません。ところが病気になった、あるいは色々な事情ができて苦しんでいる。それを「ふし」と言いますけれど、そういう「ふし」になった所から実は芽が出てくるんだ、成長するんだと。竹はまっすぐな所から芽は生えてこない。ふしからしか出てこない。それがふしから芽が出るということで、苦しい中こそ喜んで通ろうということを教えてくださいました。

3.神様の教え
 そして、人を助けたら我が身助かると教えて下さった。拝んだら我が身助かる。物をあげたら我が身助かるじゃありません。人を助けたら我が身助かる。人を助けなさい。これが教祖が教えてくださった道です。その教祖が身を隠されてから、来年は140年祭。もう何が何でも帰らせていただきましょう。
 それで教祖がなんで25年もの自分の御寿命を縮めて現身を隠されたかというと、神様の教えを伝えようと思うと捕まる。それで姿を見せていてはだめだからということでなんとかこの教えを伝えようということで身を隠されたんです。教祖がそこまで私たち子どものためを思って身を隠されたのはなぜかというと、「教えを伝えなさい」と言うためなんです。「おつとめをしなさい」と言うためなんです。皆さん神様の教えを分かっているでしょうか?こういうおさしづがあります。

「今までに教えたるは腹の立たぬよう、何も心に掛けぬよう、心澄み切る教やで。」(明治二十年三月二十二日)

 難しいことは何もおっしゃらない。「今までに教えたるは腹の立たぬよう、何も心に掛けぬよう、心澄み切る教やで」。腹の立たない、心に掛けない、心が澄み切る教えだ、それでそういうことで神様は教えてくださった。そしてまたこういうおさしづもあります。

「皆んなこれ教という理がある。教に従うて通らんから、綺麗な道がむさくろしいなる。」(明治三十年十一月十三日)

 教祖の簡単な教えです。腹の立たぬよう、何も心に掛けぬよう、心澄み切るよう。そして人を助けなさい、というこんな簡単な教えなのに、この教えに従って通らんから、きれいな道がむさくるしくなるんですね。教祖の教えさえ信じて通っていればきれいな道を歩けるのに、その教えに従わないからむさくるしい面倒な道になってしまうということをおっしゃっておられます。
 ただ神様はやさしくやさしくおっしゃってくださっていますけれど、例えば今日のみかぐらうた、十二下りで掛ける10ですから120の教えがあるわけですけれど、その120の教え、一つ一つとってみても全部意味がある。簡単な言葉なんですけれど、どんな一つ一つの言葉にも意味がある。
 例えば、十下りですか、「九ッ このたびまでハいちれつに やまひのもとハしれなんだ 十ド このたびあらはれた やまひのもとハこゝろから」。そうすると知らない人は「ああ病は気からか」と言うんですけれど、気と心は違います。
 皆さん知っているように、この身体は神様から借りている。だから神様の思いに沿った、人を助けなさい、人を喜ばせなさいと言う使い方。また先ほど言ったように腹を立てない、何も心に掛けない、心を澄み切れという教えに反した行動をしていると、神様がお前ちょっと違うぞ、と言って注意される。その注意を神様は身体に知らせてくれるんです。
 病いというのはさらになしと教祖は教えてくださっています。病気というのは無い、この世の中に病気は無い、全部これは違う心の遣い方をするから神様からメッセージをくださる。そのメッセージをくださったならば「なんで私はこういう病気になっちゃったんだろうか」と考えて心を直す。
 以前も申しあげたことがありますけれど、私が風邪を引いて病院に行ったり薬局へ行って薬を買ってきて服んで朝昼晩何服んでるんだ、と前会長に言われました。風邪薬を服んで治って喜んでいると、「お前それじゃあ病み損だぞ」と言われました。
 病んで損も得もないと思いますけれど、病んだというのは神様が皆さんに期待して、私に期待して心を直せよと言ってくれているのに、薬で治しちゃったらば心は直りませんよね。そうすると病気にならない人もいる。薬を服まない人もいる。病院に行かない人もいる。それを考えたらば明らかに損じゃないですか、病気でお金をかけるというのは。
 だとしたらせっかく病気になったなら、神様はなんで私にこういうメッセージをくれたんだろうかと思って心を一つ直す。そうすると人間のグレードが一つ上がります。これが私が親から教えてもらった、薬で病いを治したら病み損だぞ、という意味だろうと思います。
 神様は私に期待してこういう病いをくださったんだと喜んで心を一つ直す。せっかく病気をしたならば、病気で得をしなければいけない。これが神様からの手引きというもので、どうやってしっかりと受け止めるかということだと思うんです。
 このみかぐらうたには、こういう小さな一つひとつの教えがいっぱい詰まっているんです。皆さんに私の書いた「みかぐらうたと元の理」という本を差しあげましたけれど、あれを「これはどういう意味だろう」ということで読んでもらうと分かります。ああそうか、病いは気からとは違うんだ、心遣いが違うから心を直しなさい、ということで気のせいだなんていうことではありません。
 そして大きな病いほど神様が期待している証拠なんです。だから神様に大きな病気をいただいた方は、ちゃんとしっかりと神様と向かい合って自分の心づかいを考えてみましょう。
 「なにゝてもやまいいたみハさらになし 神のせきこみてびきなるそや」というおふでさきがあります。病いというのはそんなものはない、全部神の手引きなんだ。決して病いが来ても、あ、神様は私に何を期待しているんだろう、と心勇んでそれを受け止める。そういうことがこの教えの神髄にあります。

.借りものに感謝
 どうか皆さん、この年の初めにこの教えの中で一つでもいいですから、理解してほしいんですが、その中で特にこれというものを挙げるとすれば、身体は神からの借りものだということ。
 私、今ひざが痛くて正座がしんどいんですけれど、自分のものだったら正座なんかできるはず。どんなことでも、自分の身体だったら自由に使えて治せるはず。しかし自由になりません。病いをいただく。それはなぜかというと、これは借りものだからです。だとしたら、この借りている身体を大事に使わせていただくことで毎日神様に感謝をする。神様に対する御礼は自分の周囲の人を喜ばせること。これが神様が喜んでくださる道ですから。
 どうか皆さん、せっかくこの道に引き寄せられた以上は一つでも二つでも自分の心を直す。いつも陽気で楽しい生活ができるように神様に感謝をし、お願いをする。こういうことをこの一年努めていただいて、来年1月26日には心楽しく教祖140年祭を迎えられるようにしてください。
 昨年10月に真柱様がこういう風におっしゃられました。「140年祭は来年の1月26日に来るけれども、おぢばに帰れる人も帰れない人もその日を心楽しく迎えられるように考えてください」とおっしゃられました。おぢばに帰れないから迎えられないわけではない。その日を心楽しく迎えられるように、この三年千日の残り1年をしっかり頑張ってください。
 どうか皆さん、自分のそばにいるひとを喜ばせる、楽しませる、助ける、そういうことを今年一年努めていただきたいと思います。

 本日は誠にありがとうございました。

2025年04月08日
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