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「社会人としての信仰」YouTube配信(2024/11/3@深川大教会)

 昨年11月3日深川大教会で開催のようぼく一斉活動日(葛飾支部)にて、会長がプレゼンターとして「社会人としての信仰」というテーマでお話をさせていただきました。
 その模様をYouTubeにて配信していますので、ぜひご覧ください

https://youtu.be/M6O7Qs5eSpQ

!YouTube視聴上の注意!
 スマホなどで動画視聴をする際は、Wi-Fiを使っての視聴を強くお勧めします。
 通常の通信環境(4GLTEや5G)ですと、多くのデータ通信量が必要となり、契約形態によっては料金が高額となるおそれがありますので、くれぐれもご注意ください。

2025年04月08日

2025年(立教188年)2月月次祭神殿講話 ~しっかりと教えを学ぼう~

 今日は2月、今年に入りあっという間にひと月経ってしまいました。先月1月26日は大祭で、日帝分教会として団参をさせていただこうとしていましたが、思わぬ不幸がございまして中止になりましたけれども、いよいよ年祭へ向かった三年千日の三年目、最後の年に入りました。

1.誤った教理の理解に注意
 実は本部の先生からも言われたんですが、今回の140年祭の三年千日については特に本部から何をしようということが出されていないので、皆が、それぞれがしっかりと考えないとあっという間に過ぎてしまう、という話をお聞きしました。そんな中で私たちは諭達にもあるように、「教祖お一人から始まったこの道を、先人はひながたを心の頼りとして懸命に通り、私たちへとつないで下さった。その信仰を受け継ぎ、親から子、子から孫へと引き継いでいく一歩一歩の積み重ねが、末代へと続く道となるのである」。全くそのとおりで、この道は自然発生に何万人もの人が言い出したことではない、教祖中山みき様お一人に神様が入り込まれて、初めてこの世の中の真実をお説きくだされたわけです。
 教えを各人各様、一人ひとりが悟るのは結構です。けれど大元の教えを間違えていたのでは信仰にならない。
 先ほど見せていただいたある支部のパンフレットで、とんでもない二重三重の間違えがありました。「神殿には男の神様がいて、教祖殿には女の神様がいる」なんて馬鹿なことを言っています。そんなことはない。
 神殿には天理王命様がおられる。そして「ぢば」と「親神様(天理王命)」と「教祖」、その理は一つである、と。一つなんですよ。教祖イコールおぢばであり、教祖イコール天理王命であり、おぢばイコール教祖なんです。そういうことをしっかりと理解していれば、あっちには男の神様、こっちには女の神様なんて馬鹿なことを言うはずがない。しかし支部の巻頭言に書いてあるくらいですから、全員がそういう風に思っているらしい。それはとんでもない間違いです。
 人間が五分から生まれて五分五分と成人して、九十九年たって三寸になったら全部出直した。それからまた五分から生まれて九十九年たって三寸五分になった。また出直した。そして四寸になってから八千八度の生まれ変わりを繰り返してその間に虫、鳥、畜類という形を全部通ってきた。だから人間は虫も動物も鳥とも全部つながっている。ということの中で最後に「めざる」が一匹残った。その「めざる」から人間がはじめて産まれたという。これも間違いです。
 人間は生まれた五分のこんな小さい時から人間なんです。「めざる」一匹から人間が生まれたわけではありません。それは男5人、女5人の10人ずつの人間が生まれただけです。五分五分から生まれた最初から人間なんです。というその大事なことを間違えて書かれています。ところがこれがまかり通っている。
 また「女は台や」と言って男はその上に立つんだと馬鹿なことを言っています。「道の台」というのは、男でも女でもない、道のために尽くした人が「道の台」と言います。皆の基礎になって女であろうと男であろうと皆に見えないところでしっかりと支えてきた人、それを「道の台」と言いまして、これは別に女に限らない。

2.親としての心の持ち方
 そういうことをしっかりと教えがわからないで次に伝わっていくとどんどん教えが曲がります。そんなことに対してのおさしづがあります。

「台が分からねば、先先皆分からん。親が分からにゃ、子が皆分からん。」(明治二十七年三月十五日)

 つまり教祖は、台が分からなかったらその先は何も分からない。台の親が分からないから、子が分からないんだ、と言うんですね。台というのは親なんです。子どもたちを支える親が台。その台が分からないから子が分からないんだ、とおっしゃっているわけです。あるいは子どものことに関して、

「どうこうなったら子供はほんに可愛いなあ、可愛いなあ、親々親は子は可愛いなあ、治まったら世界の子可愛いなあと、この心定めてくれ。」(明治三十三年十二月四日)

 子どもというのはどんなことがあってもかわいいなあ、かわいいなあ、親は子がかわいいなあと思う。親が治まったら世界の子可愛いなあと、この心定めてくれ。自分の子がかわいいと思うように、心が治まったらば、親として自分の子がかわいいと思ったらば、それは世界の子がかわいいなあと思ってくれ、と。この心を定めてくれとおっしゃってるんですね。
 台というのは基礎です。基礎というのは親です。親が教えを分かっていないと子どもに伝わらない。
 「うちの子どもはちゃんとまじめに信仰しない」。それは当たり前です。親がちゃんと信仰していないから。また「うちの子どもは言うこと聞かないし、勉強もしないなあ」。それは親が言うことを聞かないし、勉強をしないからなんです。全部「台が分からねば、先先皆分からん。親が分からにゃ、子が皆分からん」。
 ということで、私たちは幸い親から色々な教育を授けてもらいました。あるいはしつけや礼儀も授けてもらいました。だからこそ今、外へ出てもまあともかくは恥ずかしくない振舞いができる。ところがお葬式であろうと結婚式であろうと、そういうしつけ礼儀、あるいは大人との口の利き方も含めて、そういう礼儀を親がちゃんとできていなければ子どもができないのは当たり前なんです。子どもの姿を見て、この子がおかしいんじゃなくてその子どもは親が映っている。これがこの教えの源なんです。
 教祖は、見えるものは「世界は鏡や」とおっしゃる。世界で嫌なものを見たら実は自分が嫌な心を使っている。「あの人素敵な人だな、あんな素晴らしい人がいるんだな」というのは、その人を素晴らしいと感じる自分の心が素晴らしいんです。そういう風に「世界は鏡」と教祖はおっしゃっている。だとしたら、この教えを間違いなくしっかり理解しましょう。
 中途半端に理解して女の子が生まれて「女は台だから男を立てろ」なんて言わないでください。そもそも神様はそんなことをおっしゃってない。
 私も間違えていましたが、「男女の隔てはない」というのも実は間違いで、そんな教祖の言葉はありません。「めまつをまつわゆハんでな」という言葉があるだけ。「男だ女だなどとは言わない」ということを言っているだけ。つまり、男だ女だなどということは関係ないということをおっしゃっている。
 いつの間にか私が間違えたように「雄松雌松の隔てはない」なんていう言葉に変わってきてしまっている。そんな隔ての話ではなく、そもそももっとその上、教祖は「めまつをまつわゆハんでな」とおっしゃる。男、女は言わない。人間として、神様の子どもとしてどうするかということだけをおっしゃっている。

.しっかりと教えを学ぶ
 そういう風に、ついつい私たちは間違った自分の解釈を人に言っているかもしれない。そんなことのないようにしっかりとこの教えを学んで、人にお伝えしていただきたいと思います。
 その中でもよく知られているのが、今日諭達で読んだ「水を飲めば水の味がする」、これご承知ですね。神様はなんでこんなことをおっしゃったかというと、「お母さんお米がありません」と、教祖がすべてを施してしまった時にこかん様が教祖に言った時に言われた教祖のお言葉です。
 「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。」
 つまり貧のどん底の中でも、「水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」。ということで貧のどん底の中でも水の味を感じて喜ぶ心、他人と比較して喜ぶのではなく、そのこと自体を喜ばせてもらう、これがこの意味なんです。
 また、ふしから芽が出るというのは、皆さん当たり前のように思っていますけれど、「ふし」でない何もない、竹なんかのつるっとした所からは枝は出てこない。ところが「ふし」という所から、そこから竹の枝が出てくる。つまり「ふし」というのはつらいこと、悲しいこと、本当に嫌なことがあっても「ふし」だと思った時に教祖はその「ふし」があったからこそ本当の芽が出てくるんだよ、「ふし」があればこそ幸せになるんだよ、と教えてくださった。これもやはり苦労の中から喜びを探すということです。
 そして最後に、「神様どうしたら私は助かるんでしょうか、助けてください、お供えは何でもしますから」、とか「私は神様のおかげで助かりました、そのお礼はどうさせてもらいましょうか」と言った時に、教祖は「人を助けなされや」とおっしゃった。それが「人を助けたら我が身助かる」。助かりたければ人を助けなさい、これが天理教の神髄なんです。
 人間に上下はありません。一列兄弟。くせがあろうとくせがなかろうとこれはもう全部神様が作ったそれぞれの徳分です。決してこの性格が良い、この性格が悪いなんていうものはない。色々な人が寄り添ってこの社会ができてきた。寄り合って、違う意見がぶつかり合ってこの社会ができてきた。
 そうしたらやはり皆さん、違う意見の人、自分の思い通りにならない人、そういう人とも仲良くやっていく。これが一列兄弟ということであろうかと思います。
 そんなことで「女は台だ、だから男を上に立てなさい」なんてこんな馬鹿な解釈を信じてはいけません。そんなもの天理教の教えではありませんから、そういうことをくれぐれも間違えずに、この教えをしっかりと理解をして、自分自身で分からない所はお互いに、神様が「談じ合い、ねり合いが一番」とおっしゃっているんです。
 分からなかったら会長さんに聞きに行く、というのではなく、「会長さん、こう書いてあるけど私はこう思うんですが」ということで「談じ合い、ねり合いが一番」とおっしゃっている。だから教会でもそれぞれの人がそれぞれの立場でそれぞれの考え方を出し合う、そして「ああ、そういう考えを持っているんだ」ということを聞きながらさらに自分の心を広くしていく。これがこの教えを信ずる元です。
 だから、誰かがこう言っているからこのとおりやればいいんだ、なんて考えないこと。自分がどうしたらいいのかを自分でしっかり教理を学んで、そして先輩方に「こう思うんですけどどうでしょうか」とたずねれば、その先輩方からは「私はこう思うけれどあなたはどう?」とかえってくる。これでこの道は進んで来たんです。談じ合い、ねり合いというので来た。「誰かが言っているからこれが一番正しい」、あるいは上に立って「こうしろ」なんていうことは、絶対にこの教えにはありません。
 この教えはやさしいけれども難しい。今日の鳴り物でも、皆さんぐちゃぐちゃになっていましたね。地方も私も含めてぐちゃぐちゃになっていました。これは教祖が教えてくれた歌い方であり、打ち方、鳴らし方なんです。それをしっかりと教祖の言うことを素直に受け入れて、自分の我を出さないように。しかしながら人間は十人が十人全部違う。十人が違うけれども、その十人が一所懸命心を合わせて打っていく、これが一手一つという意味なんです。
 天理教は全部一つになるんじゃありません。一人ひとりが全部違う。違うけれども神様を中心に皆心をそろえていこう、これが一手一つ、一手一つの輪という大事な教えでもあります。
 一人ひとりが自分の特性を殺すということでは決してありません。むしろ特性を生かして、その中でお互いが相手を尊重し合って陽気ぐらしの世界を作ろうという風に考えております。

 本日は誠にありがとうございました。

2025年04月08日

2025年(立教188年)1月春季大祭神殿講話 ~教祖140年祭まであと1年~

1.春季大祭の意味
 皆さん明けましておめでとうございます。昨年中は日帝分教会の上に本当にご尽力いただきましてありがとうございました。

 今月は春の大祭で、おぢばでは1月26日に執行されます。当教会からも10人ほどの方が団参で行っていただくことになりました。
 皆さんもう耳にたこができるほど聞いてお分かりかと思いますが、「明治二十年陰暦正月二十六日、子供の成人を急き込まれ、定命を縮めて現身をかくされた」。
 教祖は115歳定命とおっしゃっておられましたけれど、90歳で25年の定命を縮められて、身を隠されたあと本席様を通じて教祖のお話を伺ったところ、「何処へも行てはせんで」「今迄とこれから先と、どう違うて来るか確り見て居よ」。
 存命のままお前たちを助ける、なぜかというと、教祖は(現身をかくされた)明治20年の1年前の明治19年1月にも監獄に入れられてしまいました。この極寒の寒い中、吹きさらしの、道路に面した格子のある所です。そこへ数え90歳の老人を、女性を監獄へ入れた。なんでかというと、人間は平等である、人間は神の子である、天皇であろうと将軍であろうとそんな差はない、人間は全部平等、親神の一列かわいい子どもである、そういうことを教えられたことから、これは国の方針に合わないということで、教祖はなんと18回も投獄をされています。
 悪いことをした訳ではなく、子どもを助けたい、皆人間は平等なのだということをお話しされたために、18回も牢獄に入られた。最後は89歳。明治19年1月にまた牢獄に入れられてしまいました。
 そんなことで皆教祖のことを心配して、にをいがけに出ない。おつとめをやらない。おつとめをするとすぐに捕まり、教祖が監獄に入れられる。ということから教祖は子どもを助けるために25年の寿命を縮めて、じゃあ姿をなくそう、そして存命のまま助ける、ということで現身を、見える姿を隠されても助けてくださるということで教祖は存命でいらっしゃる。
 教会でも今日は大祭ですから、親神様と御霊様の御扉を開いてますけれど、教祖殿は一年中開きっぱなしです。「扉開いて」ということでね。一年中御扉は開いて常に私たちの身近にいてくださる。

2.ふしから芽が出る
 その教祖が身を隠されて今年で139年目になります。来年がちょうど140年目。ということで十年ごとに行われる年祭、来年が140年祭。教祖が50年ものひながたの道を通ってくださいました。
 諭達の中の「水を飲めば水の味がする」というのも実はみんな施してしまって家の中で食べるお米もない、米びつが空っぽになった時に娘のこかん様が「お母さん、もう、お米はありません。」と言った時に教祖が、「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」。
 つまり、食べる物がなにもなくても水がのどを通るじゃないか、そして水を飲めば水の味がするじゃないか、と皆をはげまされた。それも貧乏じゃないんです、教祖にお礼に持って来た物を貧しい人に全部施されて教祖は食べる物がない。そんな施し尽くされた中でも水を飲めば水の味がする、そしてこんなどん底で皆つらい思いをしている時にでも教祖は子どもさんたちに「ふしから芽が出る」。
 竹でもなんでもそうですが、人間は何でもない時は成長しません。ところが病気になった、あるいは色々な事情ができて苦しんでいる。それを「ふし」と言いますけれど、そういう「ふし」になった所から実は芽が出てくるんだ、成長するんだと。竹はまっすぐな所から芽は生えてこない。ふしからしか出てこない。それがふしから芽が出るということで、苦しい中こそ喜んで通ろうということを教えてくださいました。

3.神様の教え
 そして、人を助けたら我が身助かると教えて下さった。拝んだら我が身助かる。物をあげたら我が身助かるじゃありません。人を助けたら我が身助かる。人を助けなさい。これが教祖が教えてくださった道です。その教祖が身を隠されてから、来年は140年祭。もう何が何でも帰らせていただきましょう。
 それで教祖がなんで25年もの自分の御寿命を縮めて現身を隠されたかというと、神様の教えを伝えようと思うと捕まる。それで姿を見せていてはだめだからということでなんとかこの教えを伝えようということで身を隠されたんです。教祖がそこまで私たち子どものためを思って身を隠されたのはなぜかというと、「教えを伝えなさい」と言うためなんです。「おつとめをしなさい」と言うためなんです。皆さん神様の教えを分かっているでしょうか?こういうおさしづがあります。

「今までに教えたるは腹の立たぬよう、何も心に掛けぬよう、心澄み切る教やで。」(明治二十年三月二十二日)

 難しいことは何もおっしゃらない。「今までに教えたるは腹の立たぬよう、何も心に掛けぬよう、心澄み切る教やで」。腹の立たない、心に掛けない、心が澄み切る教えだ、それでそういうことで神様は教えてくださった。そしてまたこういうおさしづもあります。

「皆んなこれ教という理がある。教に従うて通らんから、綺麗な道がむさくろしいなる。」(明治三十年十一月十三日)

 教祖の簡単な教えです。腹の立たぬよう、何も心に掛けぬよう、心澄み切るよう。そして人を助けなさい、というこんな簡単な教えなのに、この教えに従って通らんから、きれいな道がむさくるしくなるんですね。教祖の教えさえ信じて通っていればきれいな道を歩けるのに、その教えに従わないからむさくるしい面倒な道になってしまうということをおっしゃっておられます。
 ただ神様はやさしくやさしくおっしゃってくださっていますけれど、例えば今日のみかぐらうた、十二下りで掛ける10ですから120の教えがあるわけですけれど、その120の教え、一つ一つとってみても全部意味がある。簡単な言葉なんですけれど、どんな一つ一つの言葉にも意味がある。
 例えば、十下りですか、「九ッ このたびまでハいちれつに やまひのもとハしれなんだ 十ド このたびあらはれた やまひのもとハこゝろから」。そうすると知らない人は「ああ病は気からか」と言うんですけれど、気と心は違います。
 皆さん知っているように、この身体は神様から借りている。だから神様の思いに沿った、人を助けなさい、人を喜ばせなさいと言う使い方。また先ほど言ったように腹を立てない、何も心に掛けない、心を澄み切れという教えに反した行動をしていると、神様がお前ちょっと違うぞ、と言って注意される。その注意を神様は身体に知らせてくれるんです。
 病いというのはさらになしと教祖は教えてくださっています。病気というのは無い、この世の中に病気は無い、全部これは違う心の遣い方をするから神様からメッセージをくださる。そのメッセージをくださったならば「なんで私はこういう病気になっちゃったんだろうか」と考えて心を直す。
 以前も申しあげたことがありますけれど、私が風邪を引いて病院に行ったり薬局へ行って薬を買ってきて服んで朝昼晩何服んでるんだ、と前会長に言われました。風邪薬を服んで治って喜んでいると、「お前それじゃあ病み損だぞ」と言われました。
 病んで損も得もないと思いますけれど、病んだというのは神様が皆さんに期待して、私に期待して心を直せよと言ってくれているのに、薬で治しちゃったらば心は直りませんよね。そうすると病気にならない人もいる。薬を服まない人もいる。病院に行かない人もいる。それを考えたらば明らかに損じゃないですか、病気でお金をかけるというのは。
 だとしたらせっかく病気になったなら、神様はなんで私にこういうメッセージをくれたんだろうかと思って心を一つ直す。そうすると人間のグレードが一つ上がります。これが私が親から教えてもらった、薬で病いを治したら病み損だぞ、という意味だろうと思います。
 神様は私に期待してこういう病いをくださったんだと喜んで心を一つ直す。せっかく病気をしたならば、病気で得をしなければいけない。これが神様からの手引きというもので、どうやってしっかりと受け止めるかということだと思うんです。
 このみかぐらうたには、こういう小さな一つひとつの教えがいっぱい詰まっているんです。皆さんに私の書いた「みかぐらうたと元の理」という本を差しあげましたけれど、あれを「これはどういう意味だろう」ということで読んでもらうと分かります。ああそうか、病いは気からとは違うんだ、心遣いが違うから心を直しなさい、ということで気のせいだなんていうことではありません。
 そして大きな病いほど神様が期待している証拠なんです。だから神様に大きな病気をいただいた方は、ちゃんとしっかりと神様と向かい合って自分の心づかいを考えてみましょう。
 「なにゝてもやまいいたみハさらになし 神のせきこみてびきなるそや」というおふでさきがあります。病いというのはそんなものはない、全部神の手引きなんだ。決して病いが来ても、あ、神様は私に何を期待しているんだろう、と心勇んでそれを受け止める。そういうことがこの教えの神髄にあります。

.借りものに感謝
 どうか皆さん、この年の初めにこの教えの中で一つでもいいですから、理解してほしいんですが、その中で特にこれというものを挙げるとすれば、身体は神からの借りものだということ。
 私、今ひざが痛くて正座がしんどいんですけれど、自分のものだったら正座なんかできるはず。どんなことでも、自分の身体だったら自由に使えて治せるはず。しかし自由になりません。病いをいただく。それはなぜかというと、これは借りものだからです。だとしたら、この借りている身体を大事に使わせていただくことで毎日神様に感謝をする。神様に対する御礼は自分の周囲の人を喜ばせること。これが神様が喜んでくださる道ですから。
 どうか皆さん、せっかくこの道に引き寄せられた以上は一つでも二つでも自分の心を直す。いつも陽気で楽しい生活ができるように神様に感謝をし、お願いをする。こういうことをこの一年努めていただいて、来年1月26日には心楽しく教祖140年祭を迎えられるようにしてください。
 昨年10月に真柱様がこういう風におっしゃられました。「140年祭は来年の1月26日に来るけれども、おぢばに帰れる人も帰れない人もその日を心楽しく迎えられるように考えてください」とおっしゃられました。おぢばに帰れないから迎えられないわけではない。その日を心楽しく迎えられるように、この三年千日の残り1年をしっかり頑張ってください。
 どうか皆さん、自分のそばにいるひとを喜ばせる、楽しませる、助ける、そういうことを今年一年努めていただきたいと思います。

 本日は誠にありがとうございました。

2025年04月08日

2024年(立教187年)12月月次祭講話 ~「思い込み」は神様のおかげ~

1.思い込みとは
 ただ今は12月の納めの月次祭を賑やかに陽気におつとめいただきました。誠にありがとうございました。
 そしてまた今年一年、日帝分教会の上に何かとお心添え、お力添えいただきまして、無事に日帝分教会も大教会、本部へのつとめができました。高い所からですが皆さんに御礼申しあげます。

 教祖140年祭が再来年1月26日に執り行われます。教祖がこの3年しっかり通れば50年分に受け取ってやるということで、天理教では三年千日というスローガンのもとに皆さんがんばっていただいております。年を越せばいよいよ最後の一年ということになります。
 ちなみに、最後の一年がんばれば再来年1月26日の年祭が迎えられる、ということを我々は思い込んでいる。今日はその「思い込み」ということについてお話をしたいと思います。
 韓国では、大統領が自分の身が危ないと思い込んで戒厳令などを出して、罪に問われてもしかしたら監獄へ行くかもしれない。あるいはロシアという大国は、隣のウクライナが自分の所へ攻めてくるんじゃないかという思い込みのもとに戦争が始まってしまいました。思い込みというのは本当に怖いことにもなります。
 10月の大祭で真柱様は「再来年の1月26日におぢばに帰って来られない人も、心が陽気にその日を迎えられるようにしてもらいたい」というお話をされました。おぢばに帰れる人はもちろんですが、帰れない人でもその日は心が陽気に明るく、三年千日つとめさせてもらったという思いで迎えてください、とおっしゃられました。しかしそれについても、あと一年間元気でいられるという思い込みがあります。
 「思い込み」というのは実は大変に難しいものですけれど、その最たるものは何かと考えてみましょう。
 暮れになりまして、私の所に喪中のハガキが届きます。90歳・100歳の親が出直した、とある。人の命にもうこれでいいというのはありませんけれど、それを読ませていただく私どもからすると、90過ぎての出直しは結構でしたなあという気がする。
 ところが60だとか70そこそこで出直している方がいます。しかも私よりも年下の方たち。そうなるとこれは御本人もきっとまさか60代で出直すと思っていない。私自身もまさか来月出直すとは思っていない。つまり来月も生きていけると思い込んでいる。再来年の1月26日もおぢばに帰れると思い込んでいる。

2.思い込みは神様のご守護で実現できる
 そうすると実は、思い込みというのは肝心なことが一つ抜けているんです。何かというと神様の御守護です。
 身体で考えたら、この身体は神様からお借りしているんだということを忘れてしまうと、来年も再来年も150年祭も参拝できるなんてことを思い込んでしまう。つまり一番大事な、この身体は神様からお借りしているんだ、ということを忘れてしまうと人間は勝手な思い込みをすることになるんです。
 たとえば、私の所に来年5月28日に講演をしてくれという旭川の医師会からの依頼がありました。28日の夕方なので、午前中の飛行機で行って夕方講演をして、夜に懇親会に参加してホテルに泊まって翌29日に帰ってくればいいという風にパッと決めました。そうしたらつい昨日ですか、神奈川県の医師会から講演をしてもらいたい、5月29日の夕方にしてくれ、と。旭川の講演が28日ですから、帰ってきて29日だから行けるとこれも軽くお受けしますと言ったんです。
 ところがよくよく考えてみました。そうするとまず、5月28日の旭川に行ける日までちゃんと私は元気でいられるかどうか、元気であっても講演ができる身体であるかどうか、そしてその日飛行機が飛ぶかどうか、そして飛行機が無事に着くかどうか。そして旭川で講演が終わっても翌日飛行機でちゃんと帰って来られるかどうか。ちゃんと帰ってきても夕方の神奈川県の講演に行かれるかどうか。そして講演が無事に済むかどうか。
 考えてみたら全部思い込みです。飛行機は飛ぶ、健康だ、28日まで生きている、29日も生きている、講演もできる。何の支障もない、ということを思い込んでいる。ところが一つ狂ったら、つまり旭川に行く飛行機が飛ばなければ旭川まで行けない。下手したら帰っても来られない。あるいは体調が悪かったら両方ができない。
 つまり、いくつもの「もしも」というのが全部積み重なって、それが全部うまくいって初めて2つの講演ができるんです。そうすると全部うまくいくというのは私の思い込みに過ぎないというこうとにハッと気が付いた。神様が「お前そんなこと言っているなら一つ狂わせるぞ」といった瞬間に全部できなくなる、と考えてみると、私たちが明日も元気で生きられる、明日もごはんが食べられるというのは全部思い込みなんです。
 そうであるなら、その思い込みが実現して明日も生きていられた、明日もご飯が食べられた、明日も人と話ができた、明日も楽しいことができたとなったらその日の夜、今日無事に私が思い込んでいたことを全部通していただいて神様ありがとうございました、ということが言えるはずです。
 明日生きていて、明日ご飯を食べて、明後日誰かさんと遊びに行こう、これ全部今言ったように思い込みの世界。それを実現していただくのが神様から健康な身体をお借りしていない限りできない。
だったらせめて、一日が終わって今日一日長生きができた、今日一日ご飯が食べられた、今日一日友達と遊べた、という日の寝る時に「神様、私の思い込みをその通り実現していただきましてありがとうございました」という感謝をすれば、また神様は「そうかそうか分かったか」と言ってまた明日、また来月の思い込みを許してくれるのではないかな、と思うんです。
 それを「俺の力で」「私の力で」今日一日頑張ったんだ、私は誰の世話にもなっていない、とよく言う人がいますね。誰にも迷惑をかけたくない、誰の世話にもなっていない。しかし人間に世話になっていないけど、神様に世話になって、神様に御迷惑かけている可能性が高い。そしたらやっぱり一日終わる時には今日一日ありがとうございました、という感謝の思いを出していく。

.神様へ感謝しよう
 つまりこの思い込みというのは、人間が思っているだけで、思い込みを実現してくれるのは神様しかいないんだということを改めて思いました。そんなことで来年の5月28・29日と北海道行ったり神奈川行ったり、しかも飛行機を乗り継いでいくというこんな話で、私は「はいよ」とカレンダーだけ見て受けたんですけど、そもそも飛行機以前にその日まで元気かどうか、生きていられるかどうかも分からない。
 そうであるなら、神様どうか私の思い込みを、一所懸命神様のことをやらせていただきますから実現をさせていただきたいという風に拝むのが自然でしょう、という風に自分で思いまして、まずさっそく「神様自分が勝手に思い込んで約束を受けてしまって申し訳ありませんでした」とお詫びをしました。
 そんなことで皆さん、今年一年過ごせたということは、去年皆さん誰も今年出直しすると思っていない。まあ来年は生きているだろうなあ、再来年も生きてるだろうなあという中で今日を迎えられたならば、やっぱり今年一年、今日一日、過ごせたことについてしっかりお礼をさせてもらう。こういうことで神様につながる。神様がそうかそうか分かった、もっと貸してやろうという思いで神様にこちらを向いていただく。そういう思いを改めて感じたわけでございます。
 そんなことで年の暮れにいつもの同じ話ですけれど、身体は神様からお借りしているもの。このお借りしている身体を長く使わせてもらうために、神様の思いは「人様を喜ばせてくれよ」ということです。
 身体が動かなくても、言葉で褒めるだけでも人様を喜ばせたら、神様から必要な人間だと思われることになるでしょう。そんなことでそれぞれのお立場、あるいはそれぞれの身体の状況の中で人様に喜んでもらえるようなことを一日一つは考えて、一日が終わる時には感謝をして休ませてもらう。こういう日常をお過ごしいただきたいと思います。

 本当にこの一年間、この日帝分教会の上にお尽くしいただきまして改めて御礼申しあげます。
 また来年、三年千日最後の一年ですが、今申しあげたように神様に身体を貸してもらうための、生かしてもらうためにも、どうやったら人様が喜んでくれるかということを、どうか常に心に念じて暮らしていただきたいと思います。

 本日は誠にありがとうございました。

2025年04月07日

2024年(立教187年)10月秋季大祭神殿講話 ~自由自在の心~

1.天保9年10月26日のこと
 ただ今は10月の大祭をおつとめいただきました。
 皆さんご承知のとおり、1838年、天保9年10月26日にこの道が始まりました。
 この道が始まったというのは、おぢばで、中山家で秀司様の足、教祖中山みき様の腰、善兵衛様の目の痛みがあって、寄せ加持をしようということでいつもの寄せ加持の方をお願いしたところが、「加持台」という御幣を持って神様が降りてくる役をする女性がいなかったために、中山家の御新造さんになってもらった。近所の神主がお願いをしてくれたところ、10月23日、「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい」と突然神様が降りて、加持台となっていた中山みき様がおっしゃった。
 それでもう皆さんびっくりして、「まだまだ子どももいるし、みきは、大きな庄屋の中心ですからそんな神様は困るから、どうぞお上がりください」と言って三日三晩、お断りを続けました。親族中が集まって神様に上がっていただくようお願いをしました。
 しかし神は頑として退かん。みき様はどんどんどんどん御幣を持ちながら身体が弱ってくる。もう三日三晩寝ないし、飲まず食わずです。それでついに26日の朝8時、中山家の一同が「みきを神の社に差し上げます。」ということで神様が中山みき様の身体に入られて、それから我々は中山みき様のことを教祖(おやさま)と呼ぶようになったわけです。
 当時は神様と呼んでおられましたけれど、その教祖が神の社、形は中山みきという人間だけれども神様が中に入っている。そこから50年にわたるひながたの道を通られました。

2.三年千日
 先月申しあげましたけれど、50年という言うに言われぬ道を通ってきた。しかしその50年をお前たちに通れというのではない、50年の内のたった3年間だけを教祖の道を教祖の心で通ってくれという、そういうお話をされました。
 その三年千日というのが一昨年の1月26日に発布されまして、あと1年半後の再来年の1月26日がちょうど教祖が身を隠されてから140年目になります。今年は立教して187年。立教189年に教祖140年祭が来ることになります。
 我々はいつもいつも神様に御守護いただいてますけれど、その御守護に対してのお返しをしなきゃいけない。そのお返しというのはお供えしろとか何をしろではない。「人を助けなさい。」と教祖はおっしゃられました。ということでこの三年千日の間に何とか自分の身の周りの人、困っている人に声を掛けて助かってもらうようにしてください。
 自分以外は全部他人、世界ですから、女房であろうと子どもであろうと孫であろうと、それが真に助かってもらうように皆さんが願って手助けをする。これがこの三年千日の意味ですけれど、この三年千日も1年10か月ほど経ってしまいました。そんなことでぼやっとしていると3年はあっという間に経ちます。しかし一所懸命にやらせてもらおうと思ってもたった3年がんばればよろしい、と。これが教祖が教えられた道です。

3.一日生涯について
 今日は、よくお道で言われる「一日生涯」ということについてお話をしたいと思います。
 生涯というのは人間の一生のことです。これが、一日が生涯だという言葉が「一日生涯」。単純に言えば、皆さん今日元気だけれども、明日の朝、目が覚めて生きているかどうか分からない。命は神様の領分ですから。同じように自分の身の周りの方も今日は元気だけれど、明日息を引き取るかどうか分からない。
 そうしてみると、昨日もっとこういうことをやっておけばよかった、あるいは去年もっとこういうことをやっておけばよかったなあという後悔がきっと出てくると思います。それを神様は「その一日を一日生涯の気持ちで通れ」とおっしゃった。
 これはどういうことかと。「一日生涯」とは、一日で、今日という日で生涯が終わるとかそういう意味ではないんです。神様がおっしゃっているのは、今日で一日が終わってしまうんだというように考えて、心残りなく精一杯動くことによって、身体が自由自在、やまとの言葉では「じゅうようじざい」になるということです。こういうおさしづがあります。

「運べどもたゞ一つの理により、自由自在の理、自由自在、一日生涯しっかり一つの心治め。」
 (明治二十一年七月二十五日)

 神様の所へいくら運んできても、自由自在の御守護がいただけるには一つの理が必要だ。自由自在の御守護というのは「一日生涯」の心からだ。今日で一日が終わってしまうかもしれない。その今日一日を神様に感謝して、今日一日でできることは精一杯やらせてもらう。その思いで通ることで身体が自由自在に使えるようになるんだとおっしゃるんですね。
 今、世界で色々な戦争が起きています。疫病が起きています。本当に心配ですね。昨日ノーベル賞が発表になりました。ノーベル賞の選考委員会としても、今、世界中でまた核爆弾が使われそうだ、核は非常に危険なんだ、使ってはいけないんだという危機感がありまして、核廃絶運動をし続けてきた日本の被団協、被爆者の団体協議会というところがノーベル賞をもらいました。これを戦争で使ったらもうおしまいになってしまうということを被害者が世界に知らしめた、ということでノーベル賞をもらったんですけれど、そういうことにも通じるおさしづがあります。

「世界何かの処案じる。心をどんと据えてくれ。(中略)一つの道、どうでもこうでも成るよう通る。一日の日生涯という。(中略)一日の日生涯という心を持ってくれ。」
(明治二十二年九月十日)

「世界何かの処案じる。」
世界中の人が色々なことを案じているだろう。
「心をどんと据えてくれ。」
どういう心かというと、一つの道、どうでもこうでも成るよう通ってくるんだ。
「一日の日生涯という。(中略)一日の日生涯という心を持ってくれ。」
一日、今日の一日が私の人生のすべてなんだという心を持って行動してくれれば、世界中の争いもおさまる、おさめてくれよう。

と、神様はおっしゃっています。まだ明日がある、まだ明後日があると言って今日やることをやらない、というような心ではだめだと。
 さきほどのおさしづのように、「運べどもたゞ一つの理により、自由自在の理、自由自在、一日生涯しっかり一つの心治め。」ということで、一日生涯ということを端的に言えば、もう今日で生涯終わってもいいという、今日一日を喜んで満足して自分のやり残したことがないように神様の心に沿ってやらせてもらう。この心さえ持ってくれれば、もう自由自在、そして世界の案じる心も全部神様がおさめてくれると言っています。つまりそれだけ真剣にこの一日、時間を通ろうという意味だろうと思います。

4.教えを学ぼう
 立教の187年前の今日のことをちょっと皆さんずっとさかのぼっていくと、教祖が御幣を持ってそして「みきを神の社にもらいうけたい」「差し上げます」。差し上げられたみき様が一体それから何をしたか。50年間庄屋の中山家の財産を全部施して、そして人を助けるだけの道を50年間通られた。監獄にも18回入られた。その教祖から教えられたこの道がちょうど187年前の今月の立教の元一日、10月26日に始まったんです。それが世界中にこれだけ広がってきた。
 今日読んだの諭達にもありましたけれど、たった一人の、「教祖お一人から始まったこの道を、先人はひながたを心の頼りとして懸命に通り、私たちへとつないで下さった。」私が今こうやって天理教を信仰するようになったのは私の母のおかげです。皆さんもきっと誰かの関係で来ている。仕方なく付き合っているというのもあるでしょうけれど、その中でつなげてくださったことを一つ、せっかくつながったんですからこの教えがどんなものかということをしっかりと学んでいただく。私も本当にそういう意味でこの教えを徹底的に勉強させてもらいまして、この教えがどれだけ素晴らしい、すごいものかということが自分なりにわかりました。
 せっかく何かの縁で、あるいは義理でつながったかもしれません、それも神様が引き寄せた、という意味なんですね。引き寄せられた以上はやっぱり何を、何のために引き寄せられたのかを考えないと損です。ぜひまた今日申しあげた「一日生涯」の心を持って、明日は無いんだというつもりで一日をしっかりと生かさせてもらう。そして一日の終わった時には神様に今日、身体を自由に使わせてもらったことを感謝する。翌日朝起きたら、また目が覚めたことを感謝をさせてもらう。そういう風にあらゆるところから心の喜びを探していくことが、この信仰をしている人と他の人との違いだと思います。
 教祖一人から始まったこの道がここまで広がってきた。でもまだたった187年。それでもこれだけ広がった。さらにキリスト教は2000年を超えている。我々も生まれ変わりで2000年後にはもっと良い世界に、またさらに皆さんに喜んでもらえるような世界になるように、今生きている時、しかも今日一日をしっかりと通させていただきたいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2025年02月12日
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