2025年(立教188年)3月月次祭神殿講話 ~陽気ぐらしの心~

1.神様の立腹
 今月は色々身上のある方、事情のある方が多く、参拝される人数が少なかったですが、お子さん二人に賑やかにしていただきました。お陰で皆おつとめが心楽しくできました。
 この、人を楽しませる、喜ばせるということも大変に神様が喜んでくださることです。きっと二人のお子さんには神様が素晴らしいご褒美をくれると思います。
 一方で、2月26日から大船渡で大変な山火事がありました。私は山火事とは山で起きているもので、まさか人家が燃えるなんて思ってもいませんでしたけれど、人家が何軒も燃えてしまいました。
 特に三陸の方たちは、14年前の3.11の大津波からようやく立ち直ったところにまたこんな山火事が起きてきた。本当にお気の毒です。ただ、単にお気の毒になあとだけ思ってしまっては、実はこのお道を信仰している人たちの考え方とはいえないんです。諭達にもありましたけれど、「親神様は、人間の心得違いを知らせようと、身上や事情にしるしを見せられる。頻発する自然災害や疫病の世界的流行も、すべては私たちに心の入れ替えを促される子供可愛い親心の現れであり、てびきである。」ということです。
 こういうおふでさきがあります。

 「このせかい山ぐゑなそもかみなりも ぢしんをふかぜ月日りいふく」(6-91)

 この世界の「山ぐゑ」、山崩れです。山崩れや雷だとか、地震や大風、台風のこと、これは、「月日りいふく」、神様が立腹されてるんだ。

「かみなりもぢしんをふかぜ水つきも これわ月日のざねんりいふく」(8-58)

 雷も、地震も台風も大きな洪水も、これは月日の残念立腹であるというおふでさきです。じゃあ地震だとか雷だとか、その山火事を受けた人たちに対して神様が怒ってるのか、という風に考えてしまうと、これは間違いです。

「心一つというは優しい心もあれば、恐ろしい心もある。知らず/\の心もある。どんな事見せても、人の事のように思てはその日限り、あれはあれだけと思えば、それまでのもの」(明治25年1月13日)

というおさしづがあるんです。みんな信仰している以上、心一つ神様の御心を自分の心として、心一つで暮らしていこう。実は心一つというのは本当にありがたい自由で

「どんな暗がりの中でも、心一つで通れる。どんな明るい中でも、心が無けりゃ通れようまい。」(明治24年5月29日)

 どんな暗がり、どんな辛い中でも、神様を頼っている心一つがあれば通れるだろう。しかしどんな明るい中でも、その神様を信じる心がなかったらば、「通れようまい」、通れないだろう、というおさしづがあるんですけど、まさに、心一つというのは、神様の御心を自分の心とするということです。

2.心一つ
 そこで先ほどのおさしづをもう一回言います。「心一つというは」、神様の心を自分の心とするというは、「優しい心もあれば、恐ろしい心もある。知らず/\の心もある」、知らず知らず勝手な心遣いをしている心もある。そしてその後、神様はこんなことをおっしゃるんですね。「どんな事見せても、人の事のように思てはその日限り、あれはあれだけと思えば、それまでのもの」。いいですか、三陸の津波、あるいは今回の大船渡の山火事。「どんな事見せても、人の事のように思てはその日限り」、あれは大船渡の人たちだけの火事なんだ、三陸の地震も、三陸の人だけの地震なんだ。「どんな事見せても、人の事のように思てはその日限り、あれはあれだけと思えば、それまでのもの」、あれは三陸のことだ。あれは大船渡のことだと思えば、それだけのこと。
 つまり、神様が、ああいう一番辛いことを見せても頑張ってくれるような人たちのところに、神様は私たちのために見せてくれてるんです。あの人たちが悪いわけじゃない。私たちの心が神様の心に沿ってないから、神様がその中でもなんとか頑張れそうな人たちを見て、辛い思いをさせてくる。
 だから私たちは、特に天理教の災害救援ひのきしん隊なんてすぐに飛んでいってひのきしんさせていただいています。助けてあげてんじゃない、お手伝いさせてもらっている。ひのきしん隊に参加している方の思いは、困っている人を救けるのではなく、自分たちの普段の心遣いが神様の思召にかなわなかったことに対する手引きと捉え、そのお詫びと反省としてお手伝いさせてもらっているのです。
 そのように、「どんな事見せても、人の事のように思てはその日限り」だ。あれはあれだけと思えば、それまでのもの」。あれは人のこと、どんなこと見せたって、あれは他人のことだと思っている限りでは、神様はそういう思いだ、と。お前たちに伝えてるんだぞということをおっしゃってるんですから、大船渡の皆さんの辛い思いは、私達自身のものとして同じ辛さを感じましょう。なぜならば、神様は私たちに見せて、お前たちの心が悪いから、こういう人たちが辛い目見てるんだ。お前たちの心遣いが間違っているからだぞということを教えてくれてるわけですから。これがね、心一つの意味なんです。

3.陽気ぐらしの心
「見るもいんねん、聞くもいんねん。」(明治23年9月27日)

という言葉がある。他人に起きた事件を見た時に、それも自分にある因縁だ、自分がそういう事件に巻き込まれるかもしれない。あるいは、そういう事件を自分が起こすかもしれないということを神様が知らせてくださっている。
 「聞くもいんねん」、誰かの話を聞くだけでも、自分もそういうことになるかもしれない因縁があるんだぞ。つまり、人のことを聞いても、どんなことを見ても、全部これは神様が私たちに見せてくれてるんだ。気をつけなさいよ。心を人様のために使いなさいよ。人を助けなさいよということを神様が見せてくれてるんだということを思わないと、「どんな事見せても、人の事のように思てはその日限り」。
 みなさんの周囲にも苦しんでいる人、悩んでいる人がいるでしょうけど、それはその人の悩みじゃない。それを見せられている私たちに対し、神様が、そういう心使いをするなよ、とおっしゃっている。お前がそんな心を使っているから、この人はこんな辛い思いしてるんだぞ、ということを見せる。だから、兄弟なんだから、困ってる人についてはお助けをしましょう。手助けをしましょう。これが互い助け合いという陽気ぐらしの心なんです。
 陽気ぐらしとは、何ぞやということの中で、「人救けたら我が身救かる」とあります。先程の諭達です。「『人救けたら我が身救かる』と、ひたすらたすけ一条に歩む中に、いつしか心は澄み、明るく陽気に救われていく」。これが陽気ぐらしなんです。自分が飲んで食べているだけでは陽気ぐらしじゃない。自分だけが楽しんで面々(周囲の人)苦しますようでは、真の陽気とは言えんというお言葉もあります。陽気ぐらしというのは、ひたすら人を助ける。それをしていけば、自分の心が澄んできて明るく陽気に自分が救われていくよ、ということです。
 私たちは、せっかくこの教えに導かれたんですから、世の中で困っている人、あんな大変な災難にあってる人に対しても、あれはあの人の災難じゃなくて、私たちに神様が見せてくれているという、そして私たちが人を助ける心が足りないからだというふうにおっしゃっているということを考えて、大船渡の人を助けに行くのも大切です。しかし、そこに行く前に、自分の身の回りで苦しんでいる人、悩んでいる人がいるでしょうから、その人たちに一声声をかけるだけでもお助けをさせていただきましょう。
 冒頭の話に戻りますけど、鳴り物を鳴らすだけでも踊ってる人たちがこんなに喜ばせてもらえる。これは立派なお助けです。そうであるなら、自分のそばで苦しんでいる人に何とか元気になってもらおうと思ってその人に寄り添っていくというこういうことを、今月1ヶ月、ぜひ心がけていただきたいと思います。

 1ヶ月間、またどうぞよろしくお願いいたします。

※2025年4月教祖誕生祭の会長神殿講話は無し(星山分教会長巡教のため)

2025年08月27日