2025年(立教188年)5月月次祭神殿講話 ~種をまく旬~
1.旬の意味
ただ今は5月の月次祭、人数が少ない中でしたけれど陽気につとめさせていただきました。皆さん鳴り物も一所懸命にやって、おてふりも一所懸命にやって、鳴り物をしている方は鳴り物がぴたっと合うと自分も心楽しいですが、何よりもてをどりしている人たちを勇ませるんです。
てをどりをしている人たちは、やはり鳴り物の音を頼りに勇ませてもらう。鳴り物がぐちゃぐちゃだと踊る方もなんとなく心が勇まない。つまり鳴り物は自分も勇むけれども、人様を喜ばせるという、まさに人を助けて我が身助かるという見本みたいなものです。
そして諭達にも「身上事情で悩む人々には、親身に寄り添い、おつとめで治まりを願い」と書いてあります。つまりおつとめをすることでそれぞれの悩んでいる方たちが治まっていくことができる。それぐらいおつとめというのは非常に大切な、自分も助かるけれども、何よりもおつとめをしっかりとやることで人様が助かるという、非常に大切なものです。
そんな中でもう耳にたこができているように思われるでしょうけれど、教祖140年祭、来年1月26日です。その140年祭に向けて三年千日を皆で一所懸命にやらせてもらいましょう。この三年千日というのは、年祭までの3年間、1000日間を一つでもいいから教祖のひな形を通らせてもらうということになっているわけです。そこでなぜ三年千日にやらなくてはいけないのか、ということについて、今日は「旬」ということについてお話をしたいと思います。
皆さん、旬の野菜はおいしいとか、今あの人は旬だね、とか色々「旬」という言葉を使います。「旬」というのはおそらく色々な意味があるでしょうけれど、一番ふさわしいとか、一番出来がいいとか、一番ぴったりした時期とか、こういうことだろうと思うんです。
私は夏休みは田舎でずっと過ごしていましたけれど、毎朝畑に行ってきゅうりとかなすとかいんげん豆をとってくるんです。そうすると毎日毎日食べているからだんだん飽きてきましたけれど、今考えてみるとあんなに生きのいいなすやきゅうりは食べたことがないです。それぐらい夏に食べるきゅうりはおいしい。ところが今は温室だから真冬でもきゅうりはあります。ところがやはり「旬」というのは、本当においしいものは夏の季節にあるもの。りんごだって真冬のりんごはおいしい。夏にもりんごは出ているけれど、それは冬にとったりんごを食べているわけで、旬のりんごというのは冬のものです。
そういう風に考えますと、「旬」というのは何事にも一番ふさわしい、一番適切な、ということになるんですけれど、この「助かる」、我々が神様から助けてもらういわば一番助けてもらう季節、旬というのが、実はこの年祭なんです。その年祭の三年千日をしっかりやらせてもらおうということで、これが旬を生かしていこうということなんです。
2.種をまく旬
これは聞いた話ですけれど、白菜というのは真冬がおいしいですね。12月、1月、2月の真冬の白菜というのは本当においしい。まさに白菜の旬というのは真冬なんですけれど、私は都会で育っていますから、物が出来あがったところを食べることを旬というのだと思っていた。ところが、その白菜には、種をまく旬もあるというんです。これは8月の15日、お盆の前後だそうです。このお盆に忙しいからと言って先にまいたりお盆の後にまいたりすると、実は冬のあんなに素晴らしい白菜ができないのだそうです。
つまり、旬というのは種をまく時にも旬があるということ。適切な時期というのがあるということ。これはまさに旬に種をまく、この三年千日で、教祖140年祭までの三年千日の旬と言うのはこういうことなんです。刈り取ることではなくて種をまく時なんです。その旬についてこういうおさしづがあります。
「寄り来る処、日々種を蒔く、一つ種を蒔く。旬々の理を見て蒔けば皆実がのる。旬を過ぎて蒔けばあちらへ流れ、遅れてどんならん/\、」(明治二十二年七月三十一日(陰暦七月四日))
「旬々が来る。旬と見たら運ばねばならんで。」(明治二十三年七月二十二日(陰暦六月六日))
という教祖のお言葉なんですが、「一つ種を蒔く。旬々の理を見て蒔けば皆実がのる」、実が成る。「旬を過ぎて蒔けばあちらへ流れ、遅れてどんならん/\」、肝心な時にあっちへ流れて実が成らなかったり、遅れて実が成ったり。どうもならん。つまり「旬々の理を見て蒔けば皆実がのる」、すると「旬々が来る。旬と見たら運ばねばならんで」。まさに三年千日。
この三年千日の間、運ぶというのはどんなことかと言いますと、親元へ運ぶということです。皆さんも親がおありでしょうけれど、親元に運ぶ、まあ私なんかでも親ですからやはり子どもが来てくれるというのは本当に嬉しいものです。孫まで来たらもっと嬉しい。そのように人間ですら子どもが来るのが嬉しいんですから、人間の元の親である神様が、子どもたちが来たらどれだけお喜びになるか。神様が喜んでくれたならばどれだけご守護をくれるか、ということなんです。
だから皆さん、この旬の三年千日の間にせめて親元、おぢばへ帰らせてもらう。これが「旬と見たら運ばねばならんで。」という意味なんです。そして旬に種をまく、旬に運ぶとどういうことが起きるかというと、ご守護がいただける。
3.守護というもの
ご守護というのは大変なんです。実は昨日私の友人から電話がありました。「いよいよ透析をすることになっちゃった」と。透析ってどれくらいやるんだ?と聞きました。私は週に一度くらいかと思っていたら月水金とやるんだそうです。一日おきにやる。そうするとその数時間の間なにもしないで、要するにもう透析が主で機械に血液をきれいにしてもらう。血液が汚れたら生きていけませんから。そうすると私たちは自然の透析を神様がしていてくださっている。
友人は病院に行って月水金、さらにこう言われたそうです。透析をやると大体寿命は4~5年ですと言われたそうです。それでかなり落ち込んでいました。考えてみれば私たちの年齢で4~5年というと82~3歳。もはや82~3歳まで生かしてくれるという保証をもらったようなものじゃないかとは言いましたが、先日申しあげましたけれど、明日死ぬかもしれないけれど誰も死ぬとは思っていない。ところが透析をやる人は、この透析というのは機械でやるので4~5年が寿命なんだよと医者に言われたそうです。
私どもは機械ではない、自然の神様のご守護で透析を身体の中でやってもらっている。そうするとそのやってもらっていること、これがまさにご守護なんです。そのご守護が切れた時には人間が作った機械を使わなければいけない。今は何とか彼がたすかるように神様のお話をさせてもらっています。
うちの前会長がよく言いました、「耳も眼も歯も、人工のものは高いよ」と言いました。私の母は網膜剥離で片眼を摘出しまして義眼を入れた。義眼になって年を取ってだんだん肉が落ちてくると眼も小さくしないといけない、義眼も入れ替えなくてはいけない。耳は耳で補聴器を入れなくてはいけない。あと歯は歯で入れ歯を入れていました。全部自分の物だから高いよ、と言っていました。
しかし我々は眼は神様から借りている。耳も神様から借りている。歯も神様から借りている。全部借りもの。借りものにお金を一円も払っていないじゃないですか。これがご守護と言うんです。そうするとそのご守護をもらうためには、旬に運べとおっしゃっている。そしてそのご守護についてこういうおさしづがあります。
「皆どんな事も守護ありて成るもの/\。」(明治三十三年六月三日)
どんなこと、今話したことですね、友人が透析をやるけれど私はやらない、こんなことも「守護ありて成るもの」。色々な病気がある、あるいは家の中で心配がある。それも何もそれなりに動いている、それは全部守護があるから。ではその守護をもらうためにはどうしたらいいかというと、
「人間心立てゝ神の理薄なる。神の理薄なりて何の守護有るか無いか、よう聞き分け。」(明治三十一年一月十九日(陰暦十二月二十七日))
人間心を立ててしまうと神様からいただくご守護が薄くなる。神の理が薄くなったならば何の守護があるかないかよく聞き分けろ、と。つまり神様の理が薄くなる、神様のご守護が薄くなるということは、神様の所へ運ばないということです。神様に感謝をしないということです。
神様のもとに運び、神様に感謝をして日々御礼を申しあげる。そして何があってもこの月次祭は神様のもとに行かせてもらおう、そしておつとめを手伝わせてもらおう。でも今日は忙しいから行けないなあという、これは人間心です。
人間心を立てると神の理が薄くなる。神の理が薄くなったらば何の守護があるかないかよく聞き分けろ。つまり神様は常々旬の時には旬の種をまく。そうすればご守護によってどんなことでも成ってくる。そして人間心よりも神様の方の理を立てる。たったこれだけのことで健康で病院にもかからず、毎日食べたいものを食べ、ゆっくり眠くなって休ませてもらって、朝ぱっと目が覚める。
全部神様のご守護だということを、「皆どんな事も守護ありて成るもの/\」。ぜひこういう思いで、何が起きてもありがたいな、何か人から見たらつらいことであっても「ああこんなことで良かったなあ」という風に喜ぶ。それがご守護をさらにいただけることであろうかと思います。
4.悩む人に寄り添う
いつもながら思うんですけれども、当たり前と思っていたことが、今回改めて友人から聞かされて、そうか、神様のご守護がなくなると血液をきれいにするために週に3回も一日おきに自分の時間がなくなって、しかも生きるためにそれをやらないと生きていけない。それでもお医者さんからすると寿命は4~5年ですよと言われてしまった。そんなことを考えたら、私たちどれだけありがたいご守護をいただいているかと思います。
一方でそういう方たちに対して言葉を掛ける。身近に寄り添ってお助けに行かせてもらう。これが大事なことです。病んだ人を見て「私は良かったなあ」だったらこれは並みの人。病んだ人を見て自分のことを神様に感謝をするけれども、どれだけつらいだろうかと思ってその人に寄り添う。これが人を助けて我が身助かるという意味です。
どうかつらい人を見た時には、つらい人に何ができるだろうかということを一つ考えて、言葉でも良いんです、言葉だけでも良いから「おつらいですね」「何か私にできることはありませんか」ということを声を掛けるだけでも神様の気持ちに沿った生き方になろうかと思います。
さて、今月は団参を予定しております。一人でも多くの方とご一緒におぢばがえりをしたいと思いますので、どうかよろしくお願いします。
常に神様に心をつなぐ、教会に心をつなぐ。常に頭の中で神様、神様とつないでおく。これだけで神様は常に皆さんの、私たちの身の周りにいてくださいます。神様を忘れたって、神様は親だから見守ってくれています。皆さんの親と同じ。それ以上に我々を作ってくださった神様ですから、我々につらい思いをさせないように色々心を配ってくださいます。せめて「神様、神様」という気持ちだけはつないでいきたいと思います。
これからまた暑くなったり寒くなったり、梅雨も始まるでしょうけれども、どうか体調を崩さずに感謝の心を持って、この一か月お過ごしいただきたいと思います。
本日は誠にありがとうございました。