2024年(立教187年)10月秋季大祭神殿講話 ~自由自在の心~

1.天保9年10月26日のこと
 ただ今は10月の大祭をおつとめいただきました。
 皆さんご承知のとおり、1838年、天保9年10月26日にこの道が始まりました。
 この道が始まったというのは、おぢばで、中山家で秀司様の足、教祖中山みき様の腰、善兵衛様の目の痛みがあって、寄せ加持をしようということでいつもの寄せ加持の方をお願いしたところが、「加持台」という御幣を持って神様が降りてくる役をする女性がいなかったために、中山家の御新造さんになってもらった。近所の神主がお願いをしてくれたところ、10月23日、「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい」と突然神様が降りて、加持台となっていた中山みき様がおっしゃった。
 それでもう皆さんびっくりして、「まだまだ子どももいるし、みきは、大きな庄屋の中心ですからそんな神様は困るから、どうぞお上がりください」と言って三日三晩、お断りを続けました。親族中が集まって神様に上がっていただくようお願いをしました。
 しかし神は頑として退かん。みき様はどんどんどんどん御幣を持ちながら身体が弱ってくる。もう三日三晩寝ないし、飲まず食わずです。それでついに26日の朝8時、中山家の一同が「みきを神の社に差し上げます。」ということで神様が中山みき様の身体に入られて、それから我々は中山みき様のことを教祖(おやさま)と呼ぶようになったわけです。
 当時は神様と呼んでおられましたけれど、その教祖が神の社、形は中山みきという人間だけれども神様が中に入っている。そこから50年にわたるひながたの道を通られました。

2.三年千日
 先月申しあげましたけれど、50年という言うに言われぬ道を通ってきた。しかしその50年をお前たちに通れというのではない、50年の内のたった3年間だけを教祖の道を教祖の心で通ってくれという、そういうお話をされました。
 その三年千日というのが一昨年の1月26日に発布されまして、あと1年半後の再来年の1月26日がちょうど教祖が身を隠されてから140年目になります。今年は立教して187年。立教189年に教祖140年祭が来ることになります。
 我々はいつもいつも神様に御守護いただいてますけれど、その御守護に対してのお返しをしなきゃいけない。そのお返しというのはお供えしろとか何をしろではない。「人を助けなさい。」と教祖はおっしゃられました。ということでこの三年千日の間に何とか自分の身の周りの人、困っている人に声を掛けて助かってもらうようにしてください。
 自分以外は全部他人、世界ですから、女房であろうと子どもであろうと孫であろうと、それが真に助かってもらうように皆さんが願って手助けをする。これがこの三年千日の意味ですけれど、この三年千日も1年10か月ほど経ってしまいました。そんなことでぼやっとしていると3年はあっという間に経ちます。しかし一所懸命にやらせてもらおうと思ってもたった3年がんばればよろしい、と。これが教祖が教えられた道です。

3.一日生涯について
 今日は、よくお道で言われる「一日生涯」ということについてお話をしたいと思います。
 生涯というのは人間の一生のことです。これが、一日が生涯だという言葉が「一日生涯」。単純に言えば、皆さん今日元気だけれども、明日の朝、目が覚めて生きているかどうか分からない。命は神様の領分ですから。同じように自分の身の周りの方も今日は元気だけれど、明日息を引き取るかどうか分からない。
 そうしてみると、昨日もっとこういうことをやっておけばよかった、あるいは去年もっとこういうことをやっておけばよかったなあという後悔がきっと出てくると思います。それを神様は「その一日を一日生涯の気持ちで通れ」とおっしゃった。
 これはどういうことかと。「一日生涯」とは、一日で、今日という日で生涯が終わるとかそういう意味ではないんです。神様がおっしゃっているのは、今日で一日が終わってしまうんだというように考えて、心残りなく精一杯動くことによって、身体が自由自在、やまとの言葉では「じゅうようじざい」になるということです。こういうおさしづがあります。

「運べどもたゞ一つの理により、自由自在の理、自由自在、一日生涯しっかり一つの心治め。」
 (明治二十一年七月二十五日)

 神様の所へいくら運んできても、自由自在の御守護がいただけるには一つの理が必要だ。自由自在の御守護というのは「一日生涯」の心からだ。今日で一日が終わってしまうかもしれない。その今日一日を神様に感謝して、今日一日でできることは精一杯やらせてもらう。その思いで通ることで身体が自由自在に使えるようになるんだとおっしゃるんですね。
 今、世界で色々な戦争が起きています。疫病が起きています。本当に心配ですね。昨日ノーベル賞が発表になりました。ノーベル賞の選考委員会としても、今、世界中でまた核爆弾が使われそうだ、核は非常に危険なんだ、使ってはいけないんだという危機感がありまして、核廃絶運動をし続けてきた日本の被団協、被爆者の団体協議会というところがノーベル賞をもらいました。これを戦争で使ったらもうおしまいになってしまうということを被害者が世界に知らしめた、ということでノーベル賞をもらったんですけれど、そういうことにも通じるおさしづがあります。

「世界何かの処案じる。心をどんと据えてくれ。(中略)一つの道、どうでもこうでも成るよう通る。一日の日生涯という。(中略)一日の日生涯という心を持ってくれ。」
(明治二十二年九月十日)

「世界何かの処案じる。」
世界中の人が色々なことを案じているだろう。
「心をどんと据えてくれ。」
どういう心かというと、一つの道、どうでもこうでも成るよう通ってくるんだ。
「一日の日生涯という。(中略)一日の日生涯という心を持ってくれ。」
一日、今日の一日が私の人生のすべてなんだという心を持って行動してくれれば、世界中の争いもおさまる、おさめてくれよう。

と、神様はおっしゃっています。まだ明日がある、まだ明後日があると言って今日やることをやらない、というような心ではだめだと。
 さきほどのおさしづのように、「運べどもたゞ一つの理により、自由自在の理、自由自在、一日生涯しっかり一つの心治め。」ということで、一日生涯ということを端的に言えば、もう今日で生涯終わってもいいという、今日一日を喜んで満足して自分のやり残したことがないように神様の心に沿ってやらせてもらう。この心さえ持ってくれれば、もう自由自在、そして世界の案じる心も全部神様がおさめてくれると言っています。つまりそれだけ真剣にこの一日、時間を通ろうという意味だろうと思います。

4.教えを学ぼう
 立教の187年前の今日のことをちょっと皆さんずっとさかのぼっていくと、教祖が御幣を持ってそして「みきを神の社にもらいうけたい」「差し上げます」。差し上げられたみき様が一体それから何をしたか。50年間庄屋の中山家の財産を全部施して、そして人を助けるだけの道を50年間通られた。監獄にも18回入られた。その教祖から教えられたこの道がちょうど187年前の今月の立教の元一日、10月26日に始まったんです。それが世界中にこれだけ広がってきた。
 今日読んだの諭達にもありましたけれど、たった一人の、「教祖お一人から始まったこの道を、先人はひながたを心の頼りとして懸命に通り、私たちへとつないで下さった。」私が今こうやって天理教を信仰するようになったのは私の母のおかげです。皆さんもきっと誰かの関係で来ている。仕方なく付き合っているというのもあるでしょうけれど、その中でつなげてくださったことを一つ、せっかくつながったんですからこの教えがどんなものかということをしっかりと学んでいただく。私も本当にそういう意味でこの教えを徹底的に勉強させてもらいまして、この教えがどれだけ素晴らしい、すごいものかということが自分なりにわかりました。
 せっかく何かの縁で、あるいは義理でつながったかもしれません、それも神様が引き寄せた、という意味なんですね。引き寄せられた以上はやっぱり何を、何のために引き寄せられたのかを考えないと損です。ぜひまた今日申しあげた「一日生涯」の心を持って、明日は無いんだというつもりで一日をしっかりと生かさせてもらう。そして一日の終わった時には神様に今日、身体を自由に使わせてもらったことを感謝する。翌日朝起きたら、また目が覚めたことを感謝をさせてもらう。そういう風にあらゆるところから心の喜びを探していくことが、この信仰をしている人と他の人との違いだと思います。
 教祖一人から始まったこの道がここまで広がってきた。でもまだたった187年。それでもこれだけ広がった。さらにキリスト教は2000年を超えている。我々も生まれ変わりで2000年後にはもっと良い世界に、またさらに皆さんに喜んでもらえるような世界になるように、今生きている時、しかも今日一日をしっかりと通させていただきたいと思います。

 今月はどうもありがとうございました。

2025年02月12日