2025年(立教188年)11月月次祭神殿講話 ~天理教は最先端の教え~

1.自分の身体は自由にならない
 ただ今は11月の月次祭を人数の少ない中、本当に賑やかにおつとめいただきました。
会長が身上でまだ十分でないのが申し訳ありませんが、皆様のお陰で無事つとめさせていただきまして、本当に御礼申しあげます。
 先月の25・26日はおぢばで秋の大祭がありました。そして当日帝分教会からもおぢばがえり団参をさせていただきました。ちょうどその日に合わせて大教会でも家族そろっておぢばがえりという催しをしていただきまして、私は残念ながら行けませんでしたけれど、日帝分教会からは6人の方がおぢばがえりに参加していただき、またその中から2人が別席を運んでいただきました。本当にありがとうございました。
 私自身のことをちょっと申しあげますと、脊椎狭窄症で9月いっぱい入院をしておりまして、退院したらすぐに歩けるものと思いましたら、人間というのは20日も歩かないと本当に足の筋肉がなくなって、杖が無いと歩けないという状態でした。それから10月はリハビリをさせていただきまして、なんとか歩けるようになって、また11月1日はようぼく一斉活動日でむさしの支部にお呼びいただきまして、1時間ほどですが立ったまま講演ができて本当にご守護だったなと思います。そこに当教会の信者さんも4人お越しいただきまして、本当にありがとうございました。
 そんなことで自分が普段身上貸しもの借りもの大事だと言っているにも関わらず、心の底からそれを納得はしていなかったんだと思いますが、今は本当に心の底から、歩くのも神様のご守護、立っているのも神様のご守護、座るのもご守護、また、横になってまっすぐ背が伸びるのもご守護、本当に自分ではどうにもならないということが本当によく分かりました。
 そして先週は、元々の予定があったので人間ドックに入ってまいりました。以前も申しあげたことがありますけれど、人間ドックで自分のお腹の中、腸の中を全部見せてもらう、胃の中を見せてもらう。自分の身体でありながら見たこともない。あとその時につくづく思うのが、まったく自分では自由にならないということです。
 自分の胃であり自分の腸でもあるけれど、これがまったく自由にならない。食べたものを自分で消化して、出すのも自分でやっているつもりだけれども、そんなこと自分でできていない。そして身体中をお医者さんに見てもらいまして、ありがたいことに何事もないということでした。その年齢でなにもないのはすごいですねと褒められたくらいですが、それも実は自分がきれいにしたわけではなくて、神様からそういう身体をお借りしているんだということをつくづくと感じているわけであります。
 「かりものの理自由分からねば何もならん。」という、いつも申しあげますけれども、身の内貸しもの借りものということが分からなければ、何も分からない。人生の目的が分からない。生きている理由が分からない。これは神様から身体をお借りしているんだということを分かって初めて自分が生きている意味、この身体は自分のためではなく人様のために使わせてもらおうという、そういう意味が分かるということでございます。

2.口だけでも、言葉だけでも喜ばす
 そんなことで今更ながら自分の身体が神様から借りているということを本当に感じているわけでございます。そしてその翌週ですけれど、司法研修所の卒業50周年というパーティーがありました。つまり弁護士になって50年、裁判官になった者はもう定年ですけれど、検察官になった者も全部集まりました。そうしたらあの当時500人ほどの合格者だったんですけれど、なんと名簿上で生きているのが300人。200人もいなくなってしまいました。自分がそっち側に入っていてもおかしくないんですけれど、お陰様で生きている側に置いていただいて、パーティーをさせていただきました。
 そして次は55周年だということで、大阪でやるから、皆さん元気で来てくださいというのではなくて、大阪の代表が「皆さん生きていてください」という話をされました。もう私くらいの年齢でもあと5年というのは生きていてくださいというくらいのことです。当教会で見れば90歳を頭に皆お元気な方ばかりですね。これは本当に皆さんの日常の徳を積んでおられることから、神様がご褒美で貸してくださっているんだと思いますけれど、身体が動かなくても言葉だけでも感謝の言葉をする。言葉を出す。相手を喜ばせる言葉を出す。それだけでもお助けになるといつも申しあげています。
 身体が動かなくても、口だけで、言葉だけで相手を喜ばせる、相手を勇ませる。これが神様からのお借りしている身体の使い方です。
 私もいつも友人に言って笑われるんですが、整形外科にかかる病気というのは、首から上は元気なんだよ、と。首から下が不自由だから動けないんだけど、首から上は元気なんだ。だから電話で話したり、パソコン使ってリモート通話なんかしているとまったく元気ですから、どこが悪いか分からない。
 というわけで、逆に言えば、首から上さえ元気なら、人を喜ばせることができるということです。人を助けることすらできる。そう考えると、腰が痛いだの足が痛いだの、私も歩き方がどうのと言ってますけれど、そんなことはもったいない。動けるところだけ使わせてもらう。手が動くなら手を使って誰かのためになることをする。口から上しか動かなかったら口から上で誰かを喜ばせる、楽しませる。これが神様からお借りしている身体の意味ということで、ぜひこの機会にまた改めて貸しもの借りもののありがたさを感じていただきたいと思います。

3.男女の隔てはない
 さて、日本では初めて女性の総理大臣というのが出てきました。昭和になってからも100年、戦争が終わってからも80年になるし、明治時代からももう200年にもなる時に初めて女性の総理大臣が出てきた。ここで男と女ということに関して、こういうおさしづがあります。

「男女の隔て無く、一時に心澄み切りて通れば、男女の区別は無い。何名何人、こらどうもならん。道具に譬(たと)えて話する。粗い事するものもあれば、細かい事するものもある。又中程するものもある。この道理わからねばどうもならん。」(明治三十一年三月二十六日)

 つまり心澄み切って通れば男女の隔てはない。これが分からんから困る。男女の隔てはない、これはどういうことかというと、道具に例えて話をする。男であろうと女であろうと、粗い事するものもあれば、細かい事するものもある。またその中程するものもある。男と女という意味じゃない、人間によっては粗い事をする人もいるし、細かい事をする人もあるし、中程の事をする人もある。そういうことなので男と女の隔てはないのだ、というおさしづ。それをこの道に例えてお話しくださいました。

4.天理教は最先端の教え
「この道どういう事から成った。男女隔て無い。一つの台にして始め掛けた。この理がとんと分かり難ない。この道の始めた教祖一代の処は女、後席は男。男女の隔て有るか無いか。この順序の理、日々取り次ぎ、男女の隔て無い。」(明治三十一年十月二十六日)

 この道が一体どういう風に成ったかお前たち分かっているか。この道を始めた初代の教祖は女である。その後の本席、後席は男である。男女の隔てが有るか無いか。この順序の理で、日々取り次いでいる。男女の隔ては無い。
 これを教祖がもう明治、江戸時代の末期にこういう男と女の隔てはないぞということをおっしゃっているんです。いかにこの教えが近代的で平等で男との差別、人間の差別もしない、粗い事する人間もいれば細かい事をするものもいる、中程のものもいる。それぞれの徳分に合った仕事をすればいいのだ、ということで天保9年、今からまさに188年も前の頃から男と女の隔てはないぞ、と。この道は女から始まった。そして後は男である。男と女の隔てがあるか。こういう素晴らしいおさしづが残っています。
 それを今、初めて女性の総理大臣が出たからどうのこうのと言っているのをはるかに飛び越えて、教祖はこういうことからおっしゃっているということをしっかりと、私たちの教えはこういう素晴らしい教えなんだということを改めてこの機会に理解していただきたいと思います。
 なんだか初めての女性の総理大臣だなんだと皆ちやほやしているけれど、日本がいかにも先進国に入ったようなことを言ってますけれど、教祖からするともう200年も遅いぞ、とこういうことなんです。さらに女性の総理大臣と言っている限りはだめ、女か男かそんなことは関係ないんだとおっしゃっているんです。ですから男と女の隔てなく、また、身体が不自由な人も不自由でない人も隔てなく、全部が平等で一列兄弟というこういう教えを教祖はお話されているということで、しっかりと心を広く持ってこの教えの素晴らしさを改めて感じていただきたいと思います。

 本日はどうもありがとうございました。寒いのでどうか風邪などひかないように心勇んでお暮しいただきたいと思います

2025年12月06日