2026年(立教189年)2月月次祭神殿講話 ~神様とお話しする~

 ただいまは2月の月次祭を無事に陽気におつとめいただきました。一言お話をさせていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします

1.教祖140年祭
 先月1月26日、教祖が身を隠されてから140年目ということで、140年祭がつとめられました。2~3日前から日本中でものすごい雪で、来られない人も多いんじゃないかなと心配をしておりました。案の定、中根大教会でも福島の教会の方が間に合わなくて、前日にお着きになれなかった。
 そして当日、神殿へ行きました。そうしたら周りは確かに人がすごいんですけれど、神殿の方にはあまり人が見えない。開催は11時からでしたので、少し早めに、ということで10時半に行って礼拝場に入ろうとしました。そしたら係の人が、礼拝場に入るところの障子を全部閉めて「もう中には入れません」と言うんです。
 そんなばかな、と開けてみたら本当にぎりぎりまで人が礼拝場にいっぱいでまったく入れない。しかしせっかく年祭に参拝して、礼拝場に入れないのではしょうがないということで、障碍者の席があるんですが、その障碍者の席の脇に歩く方々のための通路がある。その通路から行ってすたすた歩いていって、なんとか座れる隙間がないか、隙間がないかと見たんですけれど、まったく隙間がない。しかしあきらめずに最前列まで行ったところで、そこにちょっと隙間があったので思い切って入りました。
 なんとか座り込んで、結果的に神殿に一番近い所に入れたんですけれど、のちに天理時報などを見ましたら南礼拝場や中庭に人がわんさか。せっかくの140年祭だから教祖のいらっしゃる教祖殿に少しでも近く、というみなさんの思いもあったんでしょうけれど、中庭も人でほぼいっぱい。本当にすごい数の人たちでした。
 それで厳かにおつとめがつとめられまして、おつとめ後に真柱様の神殿講話がありました。非常に力強く熱心に長くお話をいただきました。これは天理時報にも出ていますし、また来月に出てくるみちのともにも詳しく載ると思うんですが、教祖が身を隠された時の大変なご苦労のことをお話しいただきました。そしてその後、祭典終了後に全員、真柱様や大亮様はじめ、本部員さんが教祖殿に参られまして、教祖殿で改めて教祖にご挨拶を申しあげる祭文を読んで、140年祭が無事勤められました。
 そして帰ろうと本通りに入ったんですが、まったく歩けないくらいの大変な雑踏で、普段なら人があまり入っていないようなお店にまでわんさか人が入っていて、本当ににぎやかでした。あれが10年にいっぺんではなくて、あるいは大祭だけではなくて、毎月ああいうにぎやかなお祭りになったら良いなあと思った次第です。
 そんなわけで日帝分教会の代表として神様にご挨拶をし、教会の皆さんのことをお願いをしてまいりました。本当にその日は寒い日だったのですが、礼拝場の中は人が多くて障子を閉めてますから寒さは感じず、ありがたい140年祭でありました。
 その中で真柱様は、140年祭というのは、決してこれで終わりではなくて、一つの新しい塚、140年目の塚であって、またその先の一里を10年間で歩いて、皆で御守護いただこう、というお話をされました。
 この年祭までの10年の間に皆さんいろいろな出来事がありましたでしょうけれど、これからまた10年経った時に、ああ10年前はこうだったなあということが喜んで通れるような、今の苦労が先の楽しみとも言いますから、そういう今の苦労はしっかりと苦労させていただいて、10年経ったところでまた御守護をいただけるような、懐かしく思い出せるようなことにしたいと思います。
 「話の種になるほどに」というみかぐらうたにもありましたけれど、どんなことでも一つ一つ、あの時ああいうことがあったなあという話の種になってくるんだ、ということでしっかりと苦労は苦労として受け止めてやらせていただく。
 そしてその後、本部員の飯降政彦先生からお手紙をいただきました。今年は年祭として何か本部から具体的な何をしよう、という打ち出しがなかったので、各支部ごとに行事をしました。今後の年祭もこういう形になるのではないか、と飯降先生はおっしゃっています。
 葛飾支部では「天理教とは」というところから始まって、私が3回講師をやらせていただきまして、その後、それをもとにしたみんなでのねりあいというのをやって、非常に充実して楽しかったという声も聞いております。そんな中で私は武蔵野支部にも講演に行きまして、喜ばれ、少しは年祭の行事のお役に立ったかな、と思っております。
 自分のことで申しあげますと、私が初めておぢばがえりをしたのが80年祭の年でした。大学に入った年です。そこから90年祭になって、弁護士になって、100年祭になってこの教会の付属屋を建てて、110年祭ちょっと前に教会長にならせていただいた。という感じで、年祭ごとにそれぞれの節目が自分にとってみるとあります。皆さんもこの年祭ごとの節目を一つ一つ自覚をして、それが後になってみてあれは全部神様の御守護だったんだなあと思っていただけるような、しっかりとおつとめをしていただきたいと思います。

2.自分は正しいか
 今日は、神様が働いてくださるというのはどういうことか、どんな時に働いてくださるのかということについてお話をしたいと思います。
 実は私、昨日眼科を退院してきました。白内障の手術をし終わったところです。前回右目の白内障手術をやって気づいたのですが、右目で見た景色の色が全然違う。本当にきれいに白いものは白く見えるんですけれど、手術していない左目で見ると、白いものでも夕方のように黄色く見えるんです。これはだめだと思って、それで左目も治していただいたんですけれど、本当にきれいに見えるんです。
 去年の暮れに車を替えたんですが、前の車も新しい車も白。でも、手術前の私の目で見た車の色は、ずいぶんと落ち着いた白だなぁと思っていたんです。ところが、手術をした両目で見たらなんとあざやかな真っ白ではないですか。手術前、私にはちょっと薄いもやがかかったような落ち着いた白に見えた。ところが今見たらあざやかな真っ白で全然違う。
 その時にふと思ったんです。私が見ていることは、全部私が見ているんだから私の見え方が正しい。私はちゃんと見てきたんだから正しい。自分が考えたんだから自分が正しいんだ、ということを私なんかは特に強く思う方ですから、そう思い込んでいました。
 ところが、この目というものを通して神様が「お前が見ているものは違うぞ」と教えてくれた。私は私の目で、自分の目で見ているんだから、これが真実だろうと思い込んでいたら、実は真実ではないもの、かすみがかかったものを見ていたということに初めて気がついた。
 人間というのは、自分の目ですら、自分が見たものが正しいと思っているけれど、実はそれは正しくないかもしれない。ということで思い出すのは、前会長が網膜剝離の手術をして白内障の手術もして、病院から帰ってきました。ちょうど5月でした。そうしたら帰ってくる車の中で最初に言ったのがこういう言葉なんです。「へえ、つつじってこんなにきれいだったんだね」と。
 目が悪い時はつつじは、おそらくくすんだ紫色に見えたんでしょう。それがそのくすみが取れてしまったら、ものすごいきれいな紫に見えた。ということは、どんな人間も自分が見ているものが真実だ、正しいと思う。あるいは自分が考えたことは、自分が考えたんだから自分が正しいと思う。しかし、実は自分のことは信用できないんです。
 「これ真っ白じゃないよね」と人に聞いて「いや真っ白だよ」と言われたら、「そんなことないよ、あなた目がおかしいんじゃないの」と、目の悪い方が目の良い人に対して目がおかしいんじゃないのと言うくらい、自分の方が正しいと思う。同じように、物事だとか色々な考え方だとか迷った時に、自分はこのようにして行こうという時に、少し立ち止まってどなたか他の人の意見を聞くことができれば、自分の考えがもしかしたら間違っているのかもしれない、ということが分かる。
 そこでさらに考えてみれば、人間同士でやっていると、その人も間違っているかもしれないわけです。そんな時に目標(めどう)というか中心になるものは、やはり神様なんです。神様を中心に置けば、神様の言っていることに対して自分が正しいかどうか分かる。
 そういう風に、この歳になりまして、自分は自分が見たものが正しいと思っていたけれど実は正しくなかった。そして他の人が白いと言ったのに私は白いと思っていなかった。そうするとやはり人の言うことも聞かなければいけない。そして何よりもその人も間違っているかもしれないから、考え方については神様の考え方を中心にして考えなければならない。という神様を中心とした考え方をしている時に、初めて「神が働く」ということになるんですね。

3.神が働く
 こういうおさしづがあります。

「この道は俺が/\と言うたて皆んな神の道、神が働けばこそ日々の道である。」(明治28年10月7日)

 この道は俺が通ってきたんだ、俺が通ってきたんだから間違いはない、と言っても全部これは神の道であって、神が働けばこそ日々お前たちは無事に通ってきたんだぞ、というお話なんです。では、神様はどうやって働いてくれるかというと、

「心さえしっかりすれば、神が自由自在に心に乗りて働く程に。」(明治31年10月2日)

 神一条、神様のことならなんでも言うことを聞きます、という心さえしっかり持てば、神が自由自在にその心に乗りて働く程に、とおっしゃってくださっている。だとしたら神様に働いてもらうには、やはり神様の心にならなければいけない。神様の心になれば、もう自由自在に働いていただける。
 例えば私の目の手術。左目の手術はベテランの先生がやってくれた。だから本当に痛くも痒くもなくてすんなりとできた。そうしたらその先生が病院を辞めるというので、先生、誰かいい人を紹介してくださいと言ったら、後輩を紹介してくれた。
 これはどうも新米だったらしい。話を聞いてもその後に、もう一人のベテランの先生に話を聞いてもらいます、と必ず二人の先生が来る。手術も二人でやりますから心配いりませんと言う。こっちは二人の方がよっぽど心配なんだけれど(笑)、二人でやるから心配ありませんとおっしゃる。それで手術をされました。そうしたらやはり前の先生よりもなんとなくごりごりするし痛いし、時間がかかる。早くうまくすんなりやってくれないといやだなと思っていました。そして手術は無事に終わりました。
 後日別の先生も検査した結果、非常にうまくレンズも入っていますし、ちゃんときっちり縫ってあるから大丈夫ですよ、成功ですよと言われた。そうですか、と。つまり、やってくれた先生よりも、他の先生が大丈夫ですよと言ってくれて初めてほっとするくらいでした。
 そういう風に、人間というのは疑いの心が出てしまったらその人のことを信じられなくなるんです。そうすると神様の働きに対しても疑いが出てくる。
 この目というのは「くにとこたちのみこと」様の御守護の理なんです。「くにとこたちのみこと」様の御守護の理というのは水の心で、つまりどんな人にも合わせる。あと水は高きから低きへ流れる。絶対に偉ぶらない。
 そうすると私は手術をしてもらっている最中に大丈夫かなと思った時に、こちらは「高い」心ですね、この人は危ないんじゃないかと思うだけでこちらが高い。そして水の心、自然にまかせて成ってくる理を喜ぶという、その理を喜べばいいのだという、ああそうだと思って思い直したんですけれど、その時にありがたかったのは、神様の話を聞いていたということ。
 だからそういう大きな手術の中でも、不安や心配や怒ることがなくなってくる。成ってくる理を喜ぶ。そして水は低きに流れるからすべての人の心に合わせる。そして神様にもたれる。
 特に「くにとこたちのみこと」様というのは順番でいうと十柱の神様の中で一番目に出てくる神様。一番の神様の働きに対していただいた「身上」(天理教では病気を指し、神様からのメッセージと受け取る)を手術いただくというとても大事なことをやってくださる時に不足(不満)なんて申しあげたら、これは御守護をいただけないな、と思い直して喜ぶことにしました。手術の時間はほんの20~30分でしたけれど、そんなわずかな時間でも色々な心を思い返すことができました。
 私は、天理教の教会長という立場をお預かりしまして、教理もしっかり学んでいます。そしておてふりなんかも全部覚えてやる。しかしそれが形ばかりになっているのではないか。いざ自分が目の手術になって心配な時になってこの医者大丈夫か、なんて思ったら、これはもう神様の話からはずれています。
 神様がそういう人を私に授けてくださった。その人が私の目を手術することによって腕が上がって、また他の患者さんが助かることになる。そういう風に考えたらば喜ぶことばかりなんです。けれど、ついつい自分のことだとこれ大丈夫なのか?と思ってしまう。そういうところで常に神様から教えていただくことばかりです。
 ここで反省を込めて皆さんに申しあげたいのは、私は色々な教えは頭の中に入っている。けれど、心にまでは入り込んでいないのかもしれない。でも、少なくとも頭の中には神様のことが入っているから、いざというとき、とりあえず不満は出てしまうけれども、すぐに「そうだ、教えだったらどうだろうか、神様だったらどうだろうか」と考えることができる。それによって結果的に自分が落ち着くんです。

4.信仰して分かった
 このお道を知っていて、このお道を信仰していて良かったなあというのがあります。皆さんもせっかく教会につながっている、教会のおつとめもわざわざ仕事をお休みになっておいでになる。そこまでおやりになっているならばなにか一つ、神様のお話を一つでも修めていく。そうするといざという時に修めたものがぱっと出てくるんです。そうなればつらい、困ったことでも「ありがたい」と思えるようになる。これが信仰をしている一つの意味だろうと思います。
 私のような教会を預かっている者でもついつい不足が出てくる。不足が出るのは私が未熟なんですけれど、教会長をやっていながらでもそんなことが出てくる。勉強していながらでも出てくる。でもそれを神様はしっかりと教えてくださる。そういうことで一つ一つ、人間が成人していくんです。
 ですから皆さん、どんなに身体が歳を取ったって、心の成人はいつでも誰でもできます。歳を取ったから私は偉い、なんでも知っているなんて思わない。歳を取れば取るほど、「自分は分からない」ということが分かってくる。
 今、NHKで面白い番組をやっています。「テミスの不確かな法廷」というんですが、発達障害の方が裁判官になって裁判をするんです。彼は常に「分からないことを分かっていないと、分からないことが分かりません」と言うんです。
 これはテレビでも流行っていますけれど、何が分からないかということを分からないと、本当に分からないことが分からなくなってしまいますよ、と。皆ごまかして通っている、分からないことをまあいいいやとごまかして通っていると、本当のことが分からなくなってしまいますよ、という意味なんです。だから、自分は何が分からないのか、ということをしっかりと分かれば、必ず分るようになります。これは勉強でもそうです。勉強のできない人というのは、分からないことが分からない。勉強のできる人というのは、分からないことが、ここが分からないんだということが分かる。だからそこだけ直せば覚える。
 神様はこうおっしゃるけど、何を言ってるんだかよく分からないな、といって流してしまわないこと。そういうときは必ず、私でも他のどなたでもいいから、こういう神様のおっしゃることなんだけど、これどうやって考えたらいいんでしょうかと相談する。このような行動を取るだけでも、心は助かっていきます。
 どうかこのひと月、そういう思いでどんなことが起きたとしても、神様だったらどうおっしゃるだろうか、という思いでしっかり考えていただきたい。神様としっかりお話していただきたい。
 そうすると神様が「心さえしっかりすれば、神が自由自在に心に乗りて働く程に。」と。心さえ、神様助けてください、これは何でしょうかと神様にすがること。神様とお話をすること。これが心をしっかりするということです。心をしっかりすれば、神様は働いてくださる、ということですので、今月は何が起きても常に神様に「どういうことなんでしょうか」と神様とお話しすることに努めていただきたいと思います。

 まだまだ寒い日が続きますが、どうか体調に気を付けて。
 昔前会長に言われました、風邪を引くというのは心にすきま風が通っているからだと。風邪を引くのは不足があったり不満があったり冷たい心を使うと風邪を引きます。風邪を引いたら、そうだ私は心が冷たいんだ、と思い、一人でも多くの周りの人に温かい、明るい心を持って接していただけるようにどうかよろしくお願いします。

 今月はどうもありがとうございました。

2026年03月26日