ただいま8月の月次祭をにぎやかにおつとめいただきました。誠にありがとうございました。8月、ちょうど今は夏休み最中、私も今夏休みで教会に居ります。
1.災害救援ひのきしん隊のこと
この暑い盛りに、夏休みとのんきなことを言ってますけども、熊本の大地震では、皆さん大変にご苦労されていまして、当然のように、教会本部からも天理教の災害救援ひのきしん隊、災救隊と言いますけど、いち早く救援に入っております。
皆さん災救隊はご存知かと思いますけども、日本中に隊員がおりまして、熊本で災害が起きるとすぐに九州中から、またおぢば、あるいは日本中から駆けつけてお助けをする。ユンボをはじめとする様々な重機を全部自前で持っています。そしてトイレカーも持ってます。そして炊事カーも持ってます。毎日毎日何十人でその期間中何百人という方が災救隊として行かれるんですけれども、何一つ地元の世話にはならない。
今、ボランティアに行かれる方は本当に偉い方だなと思うんですけども、中には被災地に手ぶらで行って、私はどこ行くんですかって、それはいいんだけど、終わった後の私の昼飯はどうするんですか、私の寝る所はどうなるんですかというようなことを聞く方もいるとか。そうなると、結局そのボランティアを取り扱うための係員が必要になるということで、それはそれで大変なことらしいです。
天理教の災救隊はもう一切被災地の世話にはならないで、全部自前で持っていって自前で済ませて自前で帰ってくる。非常に感謝をされて終わってから、いつもその市長さん町長さん県知事なんかおぢばにお礼に来られていることがあります。
その災救隊の動き一つ見ても、私たちは天理教ですと言って、この機会に売名行為をしてこようとか決してない。黙って行って、自分たちだけの、先ほどのように一切世話にならないで困っている人の救援をして、それでさっさと帰ってくる。これが陰で徳を積むという意味なんですね。
表で、見えてるところでお手伝いするのもいいけれども、誰も感謝されない褒められない。いつも申しあげますように、ひのきしんというのは私たちが健康な身体をお借りしていることに対して、神様へのお礼ですから、目に見える形で困ってる人にお手伝いするけども、その人たちからお礼を言われるなんてことは考えていない。
その災救隊の活動の原資となる救援の募金は、実は教内でやってるんです。被災者に対する支援金というのもあるんですけども、私は災救隊に寄付をしています。災救隊の人たちへの寄付は、結果的に私があの被災者をお助けすることにつながるかなと思ってやってますが、そんなことが天理教の災救隊の仕事でございます。
あの青いヘルメットをかぶって、全く天理教の「て」の字も書かずにテレビに映りますけど、あれは全部災救隊です。そういうふうに日本中の教会や青年さんや会長さんが頑張ってやってくれています。ぜひ皆さんもこの機会に、災救隊のことを心に留めていただけるとよろしいかと思います。
2.神様へのお願い
さて、夏の甲子園ですが、天理高校がとりあえず第1回戦、2回戦と勝ち進みました。
こういう時思うんですが、例えば和歌山の智弁、あれは辯天宗という新興宗教ですが、その学校。あるいは聖隷クリストファーというのも、キリスト教系の学校。いろんな学校ありますね。そんな中で天理高校も出てきて勝っていますけども、じゃあその天理高校だとか智弁だとかというところは、神様にお願いしたから勝てるのかということなんです。そんなことはない。
あと我が家の小さな話になりますけども、孫たちが、まあ息子もそうですけども、会長は試験に落ちたことがないから、教会へ行って試験に受かる極意を聞いた方がいいと言われるらしくて来るんですね。試験に受かりたいからどうしたらいいかということで来るんですけど、それと野球に関しても同じですね。神様に頼むだけで、野球が勝てるわけがない。神様に頼むだけで試験が受かるわけはない。
なので、私がどうやって試験に臨んでいるのか、精神の集中の仕方を教えますけども、そうしたテクニック以前に、まず大切なことは、神様に合格させてくれと願ってはいけない、ということです。自分が勉強して培ってきた今までの実力を全部出させてもらいたい、というふうにお願いしなさいと伝えております。
例えば、100の能力を持ってる子でも、試験本番に緊張しちゃって60しか出せなかったら落ちてしまう。ところが、70の能力しかない子が70全部出したら合格する。試験とはそういうものです。つまり、自分がしっかりと勉強したものを出せるように、それをお願いするというのが、まあ合格する極意になるわけですけども、野球、スポーツもそうです。
天理高校の生徒は毎朝神殿の参拝から始まります。それで参拝してから学校へ行って、学校で授業が行われる。野球部員は学校が終わってから野球部の寮に行って、そこで野球の練習をする。その時に毎日最初に神様に三殿礼拝して、野球の練習をさせてもらう。そういうチームが甲子園に出てくるわけです。
しっかりと勉強、しっかりと練習したチーム、これは最低限のこと。しっかりと勉強した、しっかりと練習したチームだけが地方予選を勝ち抜いて甲子園に出てくる。じゃあそういうチームがみんな勝てるかというと、勝負ですからみんな勝てるわけじゃない。一人ひとりがその能力を十分に発揮できなきゃ勝てない。
しかし、その前を考えてほしいんです。練習するというのは、身体を使うこと。必死に練習をし、ボールを投げ、打って走る。これができるのも丈夫な身体あってこそ。故障したら練習できません。そうすると練習の最初にお願いするのは、神様、どうか今日一日、私に健康な身体をお貸しください。身体を壊さないで練習ができるようにどうかよろしくお願いします。という、こういうお願いをすべきなんです。
どうにか上手くしてください、というのは神様にするお願いじゃない。上手くなるのは練習によって上手くなるわけであり、神様にお願いする筋合いのものではない。つまり、練習がきちんとできる身体をお借りすることができるようお願いする。これが貸し物借り物という意味です。
しっかりとした練習をするためには、しっかりとした身体がなければいけない。そしてそのしっかりした身体をお借りして、練習をして、そして地方予選で実力を発揮して勝って甲子園に来た。じゃあ甲子園に来た時のお願いはどうなるかというと、これも勝たせてください、ではない。今まで練習してきた、練習をさせていただいたありがたい成果をそのまま全部甲子園で出させていただきたい。
そのためには、やはり甲子園でも身体が自由に動かなければいけない。ピッチャーは肩壊したらダメだし、バッターも膝だとか手を故障したら打てない。そんなこと考えると、大元にあるのは、この借り物の身体がそのまま機能が十分に発揮できるか、身体を十分に鍛えることができるか。それができた人が初めて野球選手として試合ができる。そして試合の時に成果を一所懸命出させていただいて、そこで成果が出た時にはもうその勝ち負けはどうでもよくなる。成果が出た時に、身体を存分に使わせていただいたことに対して、初めて心から感謝ができることになる。
3.陰徳を積む
ということで、野球でも試験でもそうですけども、良い結果だけお願いすることは、神様も受け付けてくれません。そうだったら日本中の神様、イエス様を信じている学校はみんな試験に受かってしまう。そんなことはない。
今言ったように、一番大事なのは自分の大事な借りている身体でしっかりと練習をして能力を発揮できるかどうか。その結果はもうどうでもいい。そのためには、徳を積まなければいけない。陰徳を積む。二人の野球選手がいて、この二人はまったく同じ練習してきた、まったく同じように感謝をしてるとした場合、じゃあどっちを勝たせるかって神様が決めるときは、徳を積んでる方を神様は選んでくださるんですね。
徳を積むというのは、陰で人様に役に立つことをする。見えるところでスリッパを直すのではなくて、誰もいないところですっと直してあげる。誰にも感謝されずに。これが陰で徳を積むということなんです。
そんな中で一つ、私最近なるほどなと思ったのが、大リーグの大谷選手です。大谷選手は非常にもともとエチケット、マナーのいい選手ですけれども、大リーグでグラウンドに落ちていたゴミを拾ったそうです。それが大変な記事になった。
大谷選手にすれば、自分がそのスポーツ、運動をする、野球をするグラウンドのゴミを拾うのは当たり前なんだけれども、外国の人から見ると、ゴミが落ちているのを拾うのはキーパーの役目。グラウンドキーパーの役目で、自分の役目ではない。だからゴミがあったって、あるいはゴミを捨てても、拾う役の人がいるんだから、全然その捨てること拾うことなんて考えていない。
ところが、大谷選手はゴミを拾ったというので、アメリカから大変に評価されていました。そういうことは、ただ彼が人見てないところでやったんだけど、たまたまカメラに映っちゃった。人のいないところで、一ついいことをする。みんなが集団でお酒を飲んで、どんちゃん騒ぎをやっている時に、裏に回ってちょっとゴミを片付けコップを洗う。こういうことが陰徳を積むってことなんです。
4.結構と思って行う
スポーツでも受験でもそうですけども、最低限自分がやった力しか出せませんから、努力をさせていただく健全な頭脳だとか、健康な身体をお借りしていることを神様に感謝をする。ということが大事だと思うんです。
それとあと一つ。今、陰徳を積むというのを申しあげましたけども、陰徳を積むにしても、まあスリッパ揃えるぐらいならいつでもできるでしょうけども、やっぱり人生だから生活だから、陰徳積む気にもなれないような辛いことも起きてくる。そんな時に、こういう教祖のお話があります。
「どんな辛い事や嫌な事でも、結構と思うてすれば、天に届く理、神様受け取り下さる理は、結構に変えて下さる。なれども、えらい仕事、しんどい仕事を何んぼしても、ああ辛いなあ、ああ嫌やなあ、と、不足々々でしては、天に届く理は不足になるのやで。」(逸話篇144「天に届く理」)
とおっしゃった。どんな辛いことや嫌なことでも結構結構と思ってすれば、それは天に届く。だから神様が受け取って結構に変えてくださるって言うんです。
ところが、一所懸命大変な仕事やってる、えらい仕事、しんどい仕事をなんぼしても、ああ辛いなあ、嫌やなあ、と不足しながらしては天に届く理は不足になるんやで。つまり神様には不足しか届かない。神様は不足は受け取りません。
ということで、どんな辛いことでも嫌なことでも、結構だなあ、ありがたいなあ、こういうことができるなあということで、心から喜んで受け取る。これが天に届く理。天に届くから神様が結構に変えてくださるとおっしゃる。その人のいいように、その人にとっての素晴らしい結構になるように、神様が変えてくださるということなので、まずは簡単なことで陰の徳を積んでいく。そして、仮に嫌なことや辛いことであっても、そういう仕事を頼まれたりしても、これを嫌だなと思わないで、結構だな、ありがたいなと思って進んでやらせていただく。そうすると、それは神様がその人の結構な理に変えてくださると言うんです。これが、この信仰をしているという意味であろうと思います。
たまたま今、いろんな宗教系の学校が高校野球に出てるけども、特に天理高校に関して言えば、丈夫な身体で練習ができた。そして丈夫な身体で技術が上がった。その技術を全部100パーセントを出せるようにどうかご守護をお願いいたします。これが天理高校のモットーなんです。
それと心を合わせる。一つ心になる。監督が、選手と応援団の心が一つになったんで、おかげさまで勝たせてもらいましたということを言っていました。みんな立場は違うけれども、一人ひとりは違う人間だけれども、それを一つに合わせていくことが大事。
おつとめの鳴物もそう。一人ひとりは全部違う。同じ人なんかいない。違うんだから、違う人間をそれぞれ尊重しながらも、しかしいろんな人間の出す音に合わせていく。これが、一手一つという意味です。そういうことで、今回野球を見ながらでもそんな感じがしましたのでご紹介させていただきました。
これからさらに暑いです。身体に充分気をつけて。暑くても汗が出るのも結構。喉が乾くのも結構。常に結構結構と喜んで日々通っていただきたいと思います。
本日は誠にありがとうございました。